ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
「jurgen brendel etc/moves(1996)scd022」 2010年6月13日 就任
お好み焼き屋で本宮氏のヤクザ漫画、男樹四代目なぞ読んでいると、敵の組の弱みを握った組長が手下に指示する台詞「それ、マスコミにチンコロ入れたれや」。
あまりにキツメの世界に耐えられず、横山光輝が画を担当した、捨て童子 松平忠輝なぞに移る。家康の六男にして蘭方医学に精通したクリスチャンの松平忠輝が、キリスト教禁令の世において、時の将軍、秀忠に何かと狙われるという話。光輝の絵が、心に滲みます。蒼天航路もいいが、光輝の三国志が滲みるのは加齢のせいなのか、先頃、齢32の誕生日を迎えて気弱に思う。いままではひたすらビールだったのが、最近になって、ビールの炭酸が胸につかえるようになって何だか苦しく、日本酒や焼酎に傾き始めたという体調の変化も否めず、年ということが不吉のようによぎる。
件の組長は期せずしてマスコミの垂れ流す情報のチンコロ性について唾棄したわけだが、昨今の政治報道の劣悪ぶり、これまで黙っていたが、もう我慢ならぬところまで来た。来週、多いに鬱憤を晴らす所存。たけしのアウトレイジが見たい。ガレージやサイケを通して荒みということを考えてきたわけだが、アウトレイジ見た後、たけしの荒みとさんまの荒みについて、比較する予定。
王道なきロック史低迷編。これまで、どちらかというと公認の流通レコードを引き合いに出してきたが、音楽は、当然のことながら、かようにせせこましい商品流通圏には留まらないし、何となれば少なくとも健聴者にとってこの世は音に満ちている。難聴者あるいは聾唖者にとっての音楽という批判もいずれ必要だろう。それは兎も角、どこで手に入れたのやら今となっては謎であるが恐らく、とある情報筋の通販でお助けしたと思う。ドイツはフランクフルトの、物音系にして1996年。
西洋古典音楽の文脈からつかず離れずのようにしてストラヴィンスキーやドビュッシーから現代音楽の流れにもジョン・ケージという人は居た。一方で彼は、ロシア革命やドイツ革命前夜のダダや表現主義における詩や絵画でのラディカルな試みの派生あるいは相互侵入、すなわち絵画による音楽批判やその逆といった馴れ初めの隔世遺伝のようにして、つまり自発的に発生する地雷の不連続性ということで王道なきロック史とも、通ずるという意味ではなく自然するわけだがようするに60年代サイケの従兄弟のようなフルクサス運動と現代音楽の合流点をなしてもいた。そしてその後、この両者はこのように一度きりの合流した後、各々の流れを作るに至ったのは幸か不幸か分からない。現代音楽のその後の動きは別稿に譲るとして、フルクサス運動は名を変え場所を変え、小生の知る限りでは90年代終りまでは息づいていた。中でもフィールドレコーディングや物音派は、例えば日本の絵画史の80年代のいわゆる物派とも疎通しかねないが、まずは、確かにあった、そしてこれからもあり続けるだろうことを、勝手ながらここに宣言したい。その物音派の人々が何をしたのかは、音を聴けば瞭然である。ずばり、物音である。
写真の通りである。珈琲カップや椅子、バケツやスプーンなどに、直接、複数の市販のモーターの軸をあてがう。そして、任意のタイミングで各々のモーターに電流を流して、その物の生の音を愚直なまでに発生させる単純極まりない、仕掛けのむき出しがそのままである。最早音楽や歌といった人間やロマンティシズムを否定し去ったものである。ノリや癒しを根本から破竹する物音の野卑の発見は、ダダ以来、継承されず、その都度発見されるしかなかった。音の実存性といってもいいし、音の鳴き声がぬっとでてくる様が、凄みを捨て去って、あっさり簡素である。(音を発見する、という矛盾はについてはいずれ詳論するが、ロマン主義音楽において音楽は時の芸術として称揚されてきたが、これの批判として20世紀、ケージらに代表される図形楽譜のように、空間による、音楽の時間性権威への侵略という仕方の批判がなされたことを指摘しておく)
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「ymo/浮気な僕ら(1983)alca-5222」 2010年6月7日 辞任
今、スコラを楽しく視聴しながら書いている。だからこそいささか書きにくいが指摘しないわけにはいかぬ先々週のフリージャズ編、その体たらくである。音楽に素養があるゆえに番組に招聘された学生どもに、坂本氏と山下洋輔、そして准教授らしき男性が、自由に、思うがままに、音を、出来るだけ速く出すように言ったのだった。それに応える学生の演奏は、結局、いずれも、手にしている既成楽器を色々やらかしたりして、要するに所持している、得意としている楽器の許容範囲のことをやっているだけだったのである。酒が存分に入っているため着火しやすくなっている小生の怒りの焔が、ボッと四散したのである。小生が望んだ場面ないしは音を以下に列挙。
床を噛む音を出せ。
鍵盤を舐める音を出せ。
准教授からサックスを奪ってピアノの脚を叩きまくる音を出せ。
ピアノの鍵盤に豆腐を挟む音を出せ。
ピアノの弦に自ら挟まる音を出せ。
坂本龍一の白髪をバリカンで剃る音を出せ。反撃されて自分も剃られる音を出せ。
山下洋輔の顔をビンタする音を出せ。反撃されて自分も殴られる音を出せ。
サイが分娩する音を出せ。
あえてバッハを演奏せよ。
…その他、幾らでも。
幾らでもやりようはあるだろう。せめて、床を噛むぐらいのことはすべきであったのだ、それ以下のことは確かに何かとリスクを伴うゆえ。山下氏は、「自由にやっていい、しかし、責任も伴うがな」といった大人的内容のことも言っていたが、負うべき責任など音楽においてどこにも無い。義務も無い。音楽において守るべきものなど何もない。音楽を自己規定して縮こまる必要性もなく、空気の無い宇宙も含めて音楽という名においてどこまでもあけすけに体当たりを広げればよいだろう。反撃される覚悟があるなら、器物破損その他法的犯罪も音楽活動に含んでもよい。それがフリーである。
しかし飼い馴らされた公認音楽学生に何を求めても無駄であった。ならば先達として坂本氏と山下氏がすべきであったのを、なんという事だろう。ひとしきり学生どものフリー演奏で白々しく盛り上がった後、番組のラスト、坂本氏と山下氏は、まるで先ほどのフリー演奏が社会社制度に咎められるのを率先して恐れ、取り繕うかのように、臭い物に蓋するように、甘ったるくたるんだ映画音楽を合奏したのだった。それを聴いた小生は、情けない、と思った。あそこでは、二人が、真のフリー音楽をぶちまけるべきであったのだ。いや、しかし、あえてあの場面でバッハを、と提案した手前、あの映画音楽も、フリーの、説き明かされるのを拒む側面であったのか、といううがった聞き方もできる。だとしたらなかなかの老獪ぶり。それ、甲。
YMO。日本。プログレ的な味付けとは異なった、シンセサイザー音による既成楽器音の模倣や逸脱の主体的な使用という意味でテクノ(今はあまり聞かれない範疇かもしれない)の、クラフトワークと匹敵しうる先鋒の一つであるため、モダン・ポップという脈絡で捉えるのは端から無理にしてもその分家筋的なテクノポップとも捕らえがたい音楽ではあった。モダンあるいはテクノポップはパンクの残響ないしは批判が含まれるため前のめりな尖りが錆び付いていようとも分かりやすい血を滴らせるが、YMOには、一聴して説得させるという尖りの功罪は無かった。その詳細をほぐすのはまたの機会にしたいが、いずれにせよYMOは、否、YMO史は、ジャズ/ロック/ポップス/古典~現代音楽史を請け負うがごとくに語らなければならないだろう。
そうしたYMOの端緒とするアルバムにはファーストあたりが順当に相応しかろうが、どっこい、結果的には、この浮気な僕らも乙ではある。YMOのアルバム群の中では意識的なまでに陽性に傾く皮肉ともとれるテクノ歌謡である。
電子の海の波打ち際で、時が崩れた。
思いの他、単位時間当たりの音数が多いわりにはすっきりして聞こえつつ、やはり凝ったアレンジが聴かせる君に、胸キュンは永遠の夏休みトロピカルであり、はっきりと、小生には、キュンキュン来る。思慮の足りなさそうなポップ明るさを持ち味であるかのように蓮っ葉な若作りを突貫させる高橋氏。いかにシティ派を装ってアスファルトを歩いていてもその下で暗くわだかまる、綯い交ぜに生き物とその屍骸が蓄熱する臭い立てる土を直に踏み歩くが如く、凶暴な内向性を露に、ぼそりと黙らせる気骨は時と場所を弁えぬ、人生への楔、それが細野氏。そして、終わりの日の夏の日を既に見据えて、たとえ軽やかな感性なり知性なりとして揶揄されようとも誰よりも失望しえた、とぼけたシニカルを漣のように愚痴る坂本氏。そうした三者三様の有様が楽曲ごとに明解に示されているのがこのアルバムゆえ、である。
細野晴臣
坂本龍一
高橋幸宏
「再び、ブルー・チアーと13フロアーエレヴェーターと」 2010年5月29日 罷免
カントに限らないかもしれないが幾何学の明証性を基礎にして認識や理性を保証しようとする論法や幾何学の明証性そのものを、どうにも疑わしく且つ我慢ならなく思っていた小生であるが、今読んでいるショーペンハウアーも、小生と同じ疑いと怒りをもっているようだった。証明は哲学の基礎足り得ない、とまで喝破したショーペンハウアーが主著「意志と表象としての世界」を書き上げたのが30歳かそこらだったことを思い、改めて自分を不甲斐無く思う。いや、30という数字は自分の妄想かもしれない、自分の記憶には一切自信が持てない…。
シモーニュ・ヴェイユは親鸞ほどラディカルではないしジョルジュ・バタイユは道元ほどクリティカルではないな…とぼんやり思うも、後者のバタイユに関しては、いつかクるだろうと思って座右していた内的体験が、昨晩、キた。内的体験が、己が滝壷にでもなったかのように吸収できてしまう夜。
年度始めに掲げたように、まだまだ王道なきロック史の名において書くべきことは目白押しなれど、逡巡する心、低迷する意志甚だしく、怠け心なのか、いかんともしがたい性向なのか、この一週間は、ブルー・チアーと13フロアエレヴェーターしか聴いていない。あるいはこうした荒みの音しか聴けないほど、いろいろと追い詰められている。所帯を持って大きく変わったことは、部屋で一人で音楽を聴き込む機会が失われたのか、家人がいるためか一人孤立を決め込むわけにも行かず、そうしようとする気持ちが削がれてしまい結果として音楽を、肉体を移動させずに聞くことが少なくなった事であったが、一方で、車を運転中に聴くことは今も続けられている。部屋でじっくり聞くのもいいが、疾走中に聞くと、ギンギン研ぎ澄まして聴くことができる。特に湿度の高い雨天ではスピーカーの調子がいいのか空気の問題なのか音が分厚く聞こえて乙ではある。
さておき、過去に本ブログでレヴュウした13フロア~とブルー・チアーを再び取り上げることになったとはいえ、特に新しい見解が加わったわけでもなく、先に書いたように、単なる逡巡であること容赦いただきたい。
13フロア~。竹ほどもある太くささくれ立った茎を持つ猛々しい草の疎らな群れが風を自ら巻き起こして鱗粉、苦沙弥三昧。一斉に逆立つ銭苔。
ブルー・チアー。三人ではない、三匹でもいいがむしろ三頭の男どもが、行き着く先は仄暗い地獄だと決まりきっている緩い緩い坂道を、延々と全速力で下り続ける、その目は、既に何かが見えているかのように確かな焦点を捉えていてぶれず、その実、何も考えていず、しかつめらしい不敵な面魂を粗くたぎらせるだろう。ノイズをノイズのまま楽曲の素材として鷲掴み浮彫にさせる、まるで、音というのは何もかも決定的にノイズなのだと云わんばかりだ。そしてあけすけなリフの怒涛。ノイズが秩序立つことでノイズから脱却したのが音楽や和音なのだという胸糞悪い修身ないしは世界創生神話をもっともらしくのたまう良民には、ブルー・チアーがやろうとしたことなど分かるまい…。分かる人には分かるし、分からない奴には決して分かるまい、という捨て鉢な怒りの気持ちにさせるのは、昨今以異常に多い、過去の売れ筋楽曲のカバーである。カバーが悪いのではないし、己のなすべきことを校正するのにカバーは有効だろう、無論、どの楽曲をカバーするかも、己が試されることになるのだが、コンビニテレビ音楽で垂れ流されるJ-アーティストどものカバー曲の露骨な売らんかな精神はピョンヤンの金日成像のように高々している…。
ここではたと気がついたが、ブルー・チアーは過去にまだ記事にしていなかった。最重要バンドの一つゆえ、気力が充実している時に再挑戦したい。
先週のスコラのフリージャズ編、多いに噛み付きたいことがあったが宿題ということで。今週も、ドラム&ベース編とあってみっちり釘付けである。
猫舌の小生は、茶、カレー、ラーメン、飯、その他あらゆる料理の「熱さ」というのがもう我慢ならなくなってきた。腹減っているから早く喰いたいにも関わらず、出来立ての料理というのは小生にとって尋常ならざるほど熱いから、食べられず、フーフーしたり、しばらく待ったりしなければならない惨めさ。自分が外食で、幾ら不味くとも回転寿司を選ぶ理由の一つは、熱くないからといっても過言ではない。そんな自分にとって、最近広島や呉でブイブイ言わせているつけ麺というのは、麺かツユのどちらかが冷たいので、麺を辛いツユにつけたらほどよい温度になっており食べやすい。大いに励ましたい、重宝する料理の一つである。カレーのように熱いとその辛さの折角の重層性が熱さによってまったく感知できないが、つけ麺のぬるい辛さはしっかり味わえるので香辛料やダシの組み立てが鮮やかに楽しめる。あらゆる料理よ、熱くなるな!
「八世 竹本綱大夫/傾城恋飛脚~新口村~人間国宝シリーズ②(?)cocf-13836」 2010年5月22日 荒川忌
今週、60年代~70年代コンセプチュアル・アートの旗手として名を成した荒川修作氏が逝去されたようだった。ご冥福お祈り申し上げます。かねがね、来るべき美濃攻略のついでに、荒川氏の代表作の一つ、岐阜にある養老天命反転地を訪れたいと思っていたところであり、今年中には何とか訪れたい。
モーニング誌掲載の「僕はビートルズ」、連載開始直後、本ブログで出鼻を挫くべく酷評し、回を重ねた今となってもその結論は変わらず、何を面白おかしく物語ろうとも結局はビートルズ史観を補強する、強制なき状況下での率先したおべっかに過ぎぬとは思っているにしても、毎回、なんだかんだでその動向が気になり、読んでいる。現代のビートルズコピーバンドが、ビートルズが蔓延る以前の日本にタイムトリップしたら、というもしもシリーズなのだが、当時の日本で想定しうるビートルズ音楽への無理解を律儀に描いていた。予め、自分の世界観とは関係ないと自分で仕切りしている外部(御上)から承認されたものでないと受け入れられない日本庶民の赤裸々である。だからといって、件の史観の補強にはならぬとは云えぬだろうが、今後も注視する必要ありあり。ただ、遣唐使廃止以降の平安あわれ、バサラ、侘び、そして萌えといった、自ら創出し無理解と偏見と戦い価値を高めていった国風文化もありはした。いや、しかし、先の三つは時の権力者公認の嗜好であるから、数を恃みに本当に価値を闘い取ったのは萌えくらいかもしれない。
このところ毎週末、激マズ寿司屋に行っている。理由は自分でも分からない。自暴自棄というものなのだろうか。この先に何があるのか、必ず、何も無いのは分かってはいても、行ってしまう。そして必ず後悔→関係なくまた行く。何度通おうが不味いものは決定的に不味い。 それに加えて、閉店間際の激マズ回転寿司屋、という、危険を顧みぬ無謀に打って出たものだから、案の定、情けなくもひどい目にあった。一流の店は別として、多くの回転寿司屋の閉店時間間際というのは、もう引き際を考え始める姑息な時間であり、客も少ないとあって、ネタを多く流さなくなる。閉店時に、多くの、乾ききった寿司が廻っていたら、店員が食すのを除いて、廃棄処分即ち損害になるに違いないからだ。(幾らなんでも翌日に出すことはないだろうと信じる)
回転寿司屋では極力、店員に口頭で頼まず、廻っている皿を取る主義の小生にとっては、閉店間際の三流回転寿司屋というのは、歯噛みする思いの生き地獄である。一夜干しのようなハマチやかっぱ巻きなどの、時間をいっぱい使ってマズサを極めたごく数枚のネタが、疎らに廻っている…。それでもきっちり、回転皿のネタを食す小生は、店にとって、さながら、態のいい在庫処理係となっていた。
それくらいならまだいい。先週行ったところでは、入店早々、店員が開口一番、「お時間の都合で廻しませんので、どんどんご注文なさって下さいね!…」 オイッ!と内心激怒。俺は回転している寿司を食いに来たんだ、どこまで根が腐れば気が済むんだ!回転寿司屋が寿司を回転させないでどうする!席に座ると、確かに皿は廻っておらず、コンベアのみがからから廻っている。しょうがないから店員に注文するも、素早く出されたネタはまた確実に不味かった。小生以外に居る、作業服姿の客二人のみが、押しの強い獰猛なタイプらしく、やつぎばやに、馴れぬバイト職人に注文しまくるから、小生が注文できる隙はほとんどない。骨だらけのアナゴで歯茎を痛ませながら、早々に店を出る。
今週、また同じ激マズ店に、閉店間際に行くと、今度は店員が違うからなのだろうか、かような事は云われなかったが、問題なのは客が小生一人だったこと。乾ききった激マズネタがコンベアにびっしり廻っており、その在庫処理に忙しい小生の前で、手持ち無沙汰に、店員が小生からの注文をじっと待っている様子。他に何か仕事見つけてくれたらいいのに…。数分おきに「どんどん注文なさってくださいねー」と威勢よく云って来るのは有り難いが、決して注文しない無言の小生と店員との間に、変な緊張感が張り詰め、何だか疲れる。仕方が無いから注文し、食べると、確実に不味い。不毛である。
何も云いたくないので、今宵はしっとりと義太夫でも聴く。横綱白鵬、磐石なる優勝おめでとうございます。H2Aロケット打ち上げ成功おめでとうございます。宇宙ヨットの成功祈ります。
語り 八世 竹本綱大夫
三味線 竹沢弥七
「robert johnson/the complete recordings(1930~?)srcs9457-8」 2010年5月15日 ハーフ・バースディ
昨晩、芸術劇場のキツメの演劇をつらつら視聴。美の壷だけでなく再放送が多いNHKだが、芸術劇場だけは毎回新しいように思う。時折容赦なく挿入されるジェット機の爆音が、いわゆる演劇的発声のわざとらしい大声抑揚を拒否する台詞棒読み朗読の台詞まわしを掻き消すのが、荒んでてよかった。
このところ、毎晩11時頃になると、向かいの一軒家から、男が小一時間ほど痰を大声で全力で吐き続ける声が、夜の街いっぱいに響きまくる。不吉な夜の底の口腔を赤々と乾いてひりつかせるほどの嗚咽じみた、ウグアァアゲロォゴグェアアアバゲオゴォォゲェェェェッッペッ、という声とも音ともつかぬ呻きを、毎夜聞かされる周囲の住人の一人の小生。
気がかりではあったがうまく使いきれなかったモヤシが、袋の中で白濁汁出してねっとり腐っていたし、追い討ちというのだろうか、牛乳も酸っぱい異臭を放ち、流しに捨てると白い塊がどぼどろと出てくる始末で、何とも気落ちする。
引き続く憂鬱の毎日の中、祖父が体調不良との一報あり、本日、広島護国神社という、戊辰戦役からの英霊と被爆者を祀る鎮護国家的ところに行く。健康長寿の御守を購入し、病気平癒祈願の絵馬を渾身の筆法でしたためておいた。見舞いの手紙に添える御守。
護国神社を包括する旧大本営の広島城を初めて見物するも、思いの他、天守閣内の展示物が盛りだくさんで多いに楽しんだ。
自由が丘青春白書を視聴しながらの執筆だが、相変わらず突っ込みどころ多い。ドラッグ問題の常態化と義理と人情劇はさておき(なぜエイドリアナに絡む、ナオミは!)、そうこうしているうちにラモーンズの話題もあったりして気が抜けぬが、誕生日から半年経ったら経ったでハーフ・バースディと称して祝おうとする心意気は大切にしたい。何かにことつけて祝うべきだ…。
ロバート・ジョンソン。サン・ハウスを師と仰ぐミシシッピ・デルタ・ブルースの祖の一人にしてブルースのバッハ的存在である。バディ・ガイとかハウリン・ウルフとかBBキングほどモダンになるともう耐えられぬ、しかし一方で、ロックの行き着くところまで逝ってしまったといえる極北の、レッド・ツェッペリンのin my time of dying(「死にかけの時」フィジカル・グラフィティ所収)ばかり聴いているが今の自分では筆力で立ち向かえぬほど心が弱っているから久しぶりに聞いてみると、滲みる。キースかブライアンか忘れたが、ローリング・ストーンズの一人が、ロバート・ジョンソンをバッハのようだと評したという。慧眼である。バッハは孤立した音の連なりを崇高幾何の法則に乗せて羅列したため(平均律)、後世においてその音の連なりが和音として一挙にまとめられた時、音楽の父と称されることになるのだが、ロバートの簡素極まりないリフの辞書的披露を、後世のロック芸から聴けば、自ずとバッハ的仕事を聞き出すということになるのだろう。
芸と皮肉を忘れた道化の落つる涙のように透明でぽろぽろのギターはリズムとメロディが狡猾に分かたれる前の野であり、緊密な同行者である、曾良のような。そこへ、楷書のように雁塔聖教序のように黒々と確かに光りながらも闊達な、しかし泥沼のごとく生温かいロバートの声が風のように歌う。地味な表声の末尾に、陽気な裏声が素っ頓狂。記憶が混乱しているかもしれぬが義太夫の、たとえば杵屋六三郎などを来週聴き直す予定である。
それはそうとスコラ、招聘されている、音楽に素養のある学生どもの飼い馴らされぶりはどういうことだろう。なぜ、もっと、テーマに関係なく無茶しないのか。かつてNHKの番組で(セイ!ヤングかヤング・ユーだったかユー)YMO時代に、集まった人と音楽する企画で、人々に音が出るものを持参させておきつつ、自作楽器を持ってきた者はいないか尋ね、いないのをしって露骨な失望と侮蔑の表情を見せたり、細野晴臣氏からの勧めもあって、日本刀をスタジオに鎮座させて衰え行く己の荒みを維持しようとしたり、全共闘の頃、新宿駅で環になってフォークソング歌う主義者たちに対し、そんな下らない音楽で革命が出来るのかと心底怒りを覚えて殴りかかったりした坂本龍一氏が、こんな、おとなしく飼い犬の幸せを享受するガキどものそつない対応に満足しているようであれば、そして仮に満足していないにしてもそれを表沙汰にせぬ大人の対応しているのであれば、彼自身の音楽的衰えも否めないだろう。
青春リアル、議論の内容は兎も角、掲示板の書き込みの代読が、本人の地声とはかけ離れたナチュラル系アニメ声なのが情けない。
会社の星の劣悪具合についても言及したくなったが、自分でも嫌になるし長くなりそうなのでこの辺で。
そうこうしているうちにデジスタが始まった。また下らないのか、不安でもなんでもない。
劣悪 大←会社の星>青春リアル>デジスタ
そして至上の番組、タモリ倶楽部という流れである。今宵は空耳アワード。
「the cyrkle/neon(1967)srcs9278」 2010年5月9日 初夏
桜散ったかと思うともう初夏の日差し。度重なる休日出勤やポテトチップスの暴食により腰痛や肌荒れ、痛い吹き出物に悩まされ、五月病とは関係ない慢性的な憂鬱もあって、相変わらず低調である。ポテトチップスは好物の一つなのだが、食べると、大抵二週間後に口内炎や皮膚の深層から肉を突き上げるようにして赤く疼く吹き出物に悩まされ、しかし、そうなると分かっていても、また食らうので直らない体調不良。
男の本業を惑わせるのは、酒でも博打でもなく、備前であった。男の横道、それは備前焼である。備州の地での焼物修行に励み、自分の創意の5割出せたかどうか。焼き上がりが楽しみではある。次の機会があれば、弁柄での絵付けや瀝青炭での黒化粧といった小生独自の創意の中で比較的簡便にできそうなのを試したいものである。いずれにせよ小生の心の登り窯に火ががついた。近所の陶芸教室を調べたりしたが、陶芸教室で卸されている市販の信楽白土などには我慢ならないので、やはり自ら山に行って土から採取、精製したいものである。釉薬もまたしかり。自分で作る!繰り返すが釉薬配合はもう頭の中で妄想で、出来ている。職場の資材のレアメタルをこっそり添加するつもりだ。思えば去年の、県北の国民休暇村でのオートキャンプは、作陶への呼び水であったのだ。今年決行するかもしれない山でのキャンプでは、陶土の採取と、灰釉作製のためという目的になろう。灰釉のための灰を作るための火で、バーベキューする楽しみを思う。
体調が悪いので今宵は手短に済ませたい。サークル。多分アメリカかイギリスだろう。1967年。ソフトサイケだと思われる。ソフト系はポップスへの親和が強いが、これがぎりぎりロックを聞かせる。ポップスとロックの違いや同じについては億劫なので割愛するが、過去の記事を改めて読んでいただければ分かるかもしれない。 シタールが多用されているが、一般にインド風味サイケの味付けという短絡的なのが多い中、サークルの場合はリズム楽器として自家薬籠中のものとしているだけに、ラーガサイケとば別種の音楽が出来ている、ことを指摘するだけでよいと思う。
tom dawes :guitar, sitar
marty fried :drums, tambourine, conga, cowbell, finger cymbal, triangle, gong
michael losekamp :keyboard
don dannemann :guitar
bobby gregg, buddy saltzman, ray barretto :percussion
john simon :keyboard
「junior wells/southside blues jam(1969)pcd-5278」 2010年4月25日 寒垢離
錯綜と混迷を極める情報と上を下へと変化する外部環境の嵐の中で破綻を回避すべく絶対命令をこなす瀬戸際でまろび出てしまう決定的な自分の失敗というのを人知れず知った時、辛うじて積み上げてきた瀬戸際の生き残り戦略を全て覆す破綻が予感され、組織が組織的に後戻りできる段階はとうに過ぎ去り突っ走るのみでもうどうしようもなくなり、ひたすらその取り返しのつかない破綻を恐れと共に待つばかりの抑鬱状態にいたたまれなくなる。特定のことを忘れたくて京都の天神市への出撃逃避行を試みるも、車のバッテリーの充電とかその他やるべき事も満載で結局いつも居る布団の中で日の光拒絶しつつウゴウゴした一日。今宵も酒浸りにて、自分好みの酒器をたくましう妄想。
小生が自らに禁じていた領域に否応無く踏み入れざるを得ぬのもやはりキツめの内外の嵐ゆえなのか、よせばいいのに釉薬調合の専門書を購入する始末。この道に踏み入ればもう抜け出せぬ、己の全人生が結集できる全知全能を注がせる、ある種悪魔的な世界ゆえ、他にもやる事がある小生は避けてきたのに、もう、小生の頭の中には、既存の陶芸界には無い、全く新しい釉薬配合が出来ている…もう、誰にも止められないだろう…誰か止めて欲しい!。
とりあえずビールで体と意識をダルくほぐした後、備前の徳利と盃で独酌三昧自棄耽溺、本格的に酔いを進めるのは冷酒に限る。肴に、焼き鳥を丹波焼の俎板皿、枝豆を温泉津焼の鉄絵小鉢に盛る夏先取りの堕落ぶりである。その最中、坂本教授のNHKのスコラをねめつけるようにして視聴し、バッハのことがよく分かった気がした。楽譜が書いてある音楽理論の本なども一応学ぼうとしたが右から左に抜け、元来音痴の自分には調性の区別もつかぬゆえ、投げていたが、基本的なことを簡潔に説明してくださり、有り難い。
対旋律というのは、良く知られた旋律を暗示させつつ、それとは異なる独立的な旋律を繰り出すということなのだが、俳句でいえば談林派の最盛期、蕉風でいえば其角なんかが得意とした「抜け」と呼ばれる手法である。これは相当高度な技である。対位法もよく分かった。楽譜とか長調とか短調とかが知的にも身体的にも全然分からずに音楽の事を書いてきた劣等感はかすかにあったが、結局、協和音と不協和音の区別は時代と共に変遷しており、協和音と不協和音を区別するのは音符ではなく、音楽を聴く人間自身であることを再認識したので、やはり今までのような文化文脈印象美的書き方でよいと確信した。小生は高校生の頃、調和とは独立である、と帰りのバスの中で恋愛相談してくる知人に箴言したことがあるが、同じ事を、今日、対位法の授業中で教授らが言っていたので懐かしかった。
デジスタに投稿してくる、美術系高校生らの映像作品は全部つまらない。豚の屠殺場を見学するか、島尾敏雄の日の移ろいを読むことからはじめるべきだ。タモリ倶楽部は、一体何回目なのか、また酒のつまみ企画である。しかし、新種野菜で肴に挑むようだ。いずれにせよ至宝の番組である。
ジュニア・ウェルズ。シカゴ・ブルースのやさぐれである。もっさり土がモロコシを伴奏にして歌うような他愛無い素朴朴訥歌謡だったブルースが、やはりバロックというべきかマニエリスムというべきか、歪みの美が聴き出される。特にこのジュニアは、奔騰する黒いアスファルトが強引にねじ切られるような熱い唸りを艶っぽく叫んだり、濃く臭い息を耳道に圧送してくる囁きを漏らしたりして、よくクロメられた黒漆の華やかさのようで実に鮮やかである。こうしたブルース歌謡の変遷は、先般ソウルについて述べたと同じように、専ら黒人内部の変化ではなく、殺伐きちがい白人がロックとしてやり出したキメラ音楽の誕生の併走にも要因があるだろう。ロックの荒みには至らぬとしても、同時多発的に、ブルースでも、荒みへの傾き(かぶき)が発芽するのだろう。手数が少なく捨て鉢な演奏がもたらす「間」が、黒々と猛々しい。
闇夜の底で繰り広げられるブルーズジャムセッションはどこまでも色をも拒絶する黒であり、生温かく憩う盲目の獣(ブラインド アニマル)である。まるごと聴くべし。(注:ジュニア・ウェルズは盲目ではありません)
ブルースの人には、ブラインド何某と名乗る人が多く、これは邦楽の検校や津軽三味線の人と同様に盲目の人に強いられた生業という理由が大きいだろうが、いつか、ブルースとブラインド性(盲目性)を、音楽と盲目性という一般論から離れて論じたい。
雑歌一謡
目蓋閉じれど目玉は闇を凝視する夜空に溢れる春の湯に入れ
junior wells:harmonica, vocals
buddy guy:guitar
louis myers:guitar
otis spann:piano
earnest johnson:bass
fred below:drums
