ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
「the junglers/live at yonago one make(2010)」 2010年8月7日 廣島長崎忌
下線部追記
「見てくれた人に感動を与えられるようなプレーができるよう頑張ります」
たわけが…、と怒りが勃発。予め承認された規則の中であれこれすることしか能が無い奴隷的スポーツ人間どもの愚かな言動を真似て、昨今では学徒出陣保存会の呈をしめしている高校球児までもが、かようなコメントをテレヴィに晒す始末である。もういっそのこと、選手入場は甲子園ではなく、雨の日の明治神宮でやったらどうか。宮崎の球児があのように言っていたのだった。感動というのは受け手が自ら産出するものであって他人から与えられるものではないことをわきまえておれば、仮に芸能者や競技者が、受け手に感動してもらいたいと思っていても口に出来るものではない。どこまで恥知らず、どこまでおこがましいんだ…愚かな大人のスポーツ選手が必然的に恥を知らぬから、子供まで真似る無恥の継承。しかもその、キャプテンらしき球児は、自分らのプレーで、口蹄疫で苦しむ畜産農家の方々が元気になってくれれば、などと言っていた。風が吹けば桶屋が儲かるじゃあるまいし、全力で白球を投げて打って捕るのを見ておれば、全頭殺処分され、一時的であって欲しいがともかく財産の殆ど、生産手段のほとんどを失われた畜産農家が救われるとでも言うのだろうか。承認された枠組み内で健気に頑張る自分らの奴隷根性を見せ付ければ、畜産農家が助かるとでも?こうした甚だしい勘違い、思い上がりがまかり通るのが、承認というものである。
甲子園の選手宣誓は数年前から選手自らが文言を考えるらしい。恐らく、また、かような、おこがましい事を絶叫するに違いないと底意地悪く期待して、賓客の長い挨拶に冷房の中で耐えながら見ていると、結局、何を叫んでいるのかさっぱり分からず、興醒めではあった。自分らのことを球児、と呼んでいる薄気味悪さが気になった。人々からそう呼ばれているから、自分でも自分のことをそう呼ぶようになったのだろうが、根本的に馬鹿にされているのが分からないのか。自分らが、球児という、観賞用の枠組み奴隷として扱われていることが…。観客を何一つとして危うくさせない安全なペットとして扱われていることが…。平日の真昼間から、開店前のなじみの居酒屋に入り浸ってビールをあおるおっさんらが酒の肴に見るのが、高校野球なのだ…。高校野球のこういった側面は、意外にも、タッチの作者が描くマンネリ野球漫画でわりとよく描かれていた。ここまでくれば球児という言葉は汚名に等しいが、これを本名にしているプロ野球選手も居た…。不遜を承知で申せば、かように理不尽に直面したキツめの生活を送る者の、まことに以って頼り無い、希望の無い救いになりうるのが、スポーツなどではなく、先鋭的な思想や音楽や文芸、絵画といった諸芸能ではなかったか。枠組みを批判的に見据えつつそれを芸道の糧にする思想や芸ではなかったか。
連日の猛暑、いかがお過ごしでしょうか。炎天下の畑で、老人が亡くなられた。自転車の籠に花を一杯に残して…。その心中推して知るべくもないが、熱中症の事例として済ますには惜しい、幸せな死であったと勝手に偲びます。真夏の死。
そして夏フェス…胸糞悪い…。大江健三郎も引用していたから孫引きになるが、彼の、あの言葉を思い出す…。
直射日光もきついが、インダストリアルな暑熱というのもキツめである。250℃の熱風が吹き洩れる真夏の工場内は風も避けるのか、熱気のみがぐんぐん圧密されるようで、気がつけば小生の作業着の肩から背中にかけて、白い結晶が波紋の痕のように固着していた…汗だ…汗が噴き出ては水分が蒸発、噴き出ては水分が蒸発を繰り返した結果、汗の中の塩分が波紋のように残留したのだ…インダストリアル恐るべし。
室内で生温く愛玩されているのだろう、狆(チン)が、国道脇の草の上で小指ほどの脱糞。飼い主の、森茉莉のような人が、こしゃまくれた狆の尻の穴をかいがいしく拭き上げるのを目撃、泣きたくなるような愚かしい滑稽に襲われ、思わず般若顔。
小生はノリが悪い。人々の集団的、あるいは個人的熱狂を斜に構えて否定するつもりもなく、ノリのよい音楽に乗って踊ったりするのも、多いに結構だと思う…。この程度のことをファシズム的熱狂などといって大上段に批判するつもりは無い。ノリについて考えないといけないと思うが、今日は深入りしない。しないが、しかし、ライブ会場で、聴衆が、繰り出される音にノっている様子を見るにつけ、居心地が悪くなるのは確かだ…以前、この自分の居心地の悪さを正当化しようとしてどうでもよくなって止めた事があるが、いまだに馴染めない…。多くの聴衆がノリノリな中、夫婦二人、椅子に座って固く縮こまる様子を演者に見咎められ、名指しで怒られて排除されでもしたらどうしよう…気弱な自分はそうならないよう、取り繕うかのように申し訳程度に体を小刻みに動かしたりしたが、今となっては恥ずかしい…球児を批判する権利など自分には無いのだ…仮に排除されようとしたらむしろ上等じゃないか、理論的にきっちり反駁すればよかったのだ…みじめだ…。演奏者と直に対峙しながら音を聴くことも大事だろう、作品という物に収まるレコード媒体のみ相手にしていては、いけない。作品として物化されぬ、何しでかすか分からぬ人間としての演奏者との対峙が何となく重要に思いもしつつ、一方で、演者と聴衆という図式に反吐を催している小生が居る。ならば聴衆である自分も、演者の演奏に割り込んで何かやらかせばいいのであるが、何だか悪いような気がして…。一方でこの居心地の悪さの要因は自分でも分かっている。自分が、身体を承認していないからだ…。世界を、意識、身体、自然の入り乱れとして捉え、そのそれぞれをさらに意識と自然の階層で捉えるフッサール的な小器用あるいは明晰がままならない小生だから、意識の優位から脱却しえず、性懲りも無く、身体を否定している本音がある…。
それはさておき、そうはいうものの、レコード媒体には収まらず、この他ならぬライブにて、小生が聴くべき音楽が生み出されているとしたら、たとえ居心地が悪かろうが、脚を運ばなければならなかった。
ジャングラーズ。兵庫県。米子でのライブを聴いた。最高だった。素性が悪そうな四人の男たちが凶暴を晒す、演奏の上でのそれぞれ感が、よかった。四人がそれぞれ、横並びで己を丸出しながら、轟音をやりたい放題やっている感じ。小生が以前掲げたサイケデリア項目の一つ、「男たちの顔が、みな異なる」に匹敵した。とはいうものの、彼らは皆、頭部を黒革でびっちり覆っており、目と鼻と口の最小限のみをチャックから除かせ、とりわけ口元に不敵な笑みを浮かばせる。この、それぞれ感を、ベンヤミンはこう云っている。「すべて本質的なものは、完全に自立して、互いに触れ合う事無く実在している。諸現象からも自立しているのみならず、とりわけ、互いからも自立して。」無論、この自立は無価値、非価値であり、小生が言うところの、点在性の一側面である。遊び心とやらにも、余裕という欺瞞を見出している。この覚悟は、繰り出される音だけでなく、競馬馬のように視野を狭くした先述の装いにも現れている。研ぎ澄まされた、切実に追い詰められた生活苦が、キツめの暴音ににじみ出る。
煎じ詰めれば、ハードロックとは何か、という、小生の抜き差しならぬ長年の課題を、忘れかけていた課題を、再び思い起こさせるに至った。キャプテン・ビヨンドなどの後期ハードロックやメタルが至った様式をきっちり批判的に忌みながら、密室ゆえにかくも圧密された爆音を轟音のまま明け透けながらよく練られたノリで繰り出してくる…こんなことができるのか、と思った。荒んでいるとはいえ、マッスル(筋肉)仕事のようでもあった。マッスルは直ぐに、様式に回収されるのが常道、しかしジャングラーズの場合、マッスルがマッスルのまま、安住様式に至らず、積極的に忌避しながら、荒みを獲得しようとは…。繰り返すが、こんなことができるとは、思っていなかった。こんな荒みが可能なのは、あくまでも、がさがさに乾ききったシシャモの巨大な頭がしゃしゃりでるような、後先考えぬガレージの尖った凶暴、もう、パンクと区別せぬが、そういった骨の凶暴が捨て身で、自信なさげに手探りで、盲人の手引きのように(ブリューゲル)力を暴発させるのを冗長させる胆力を厭わぬハードロック、というのを夢想していたのだが…。しいていえば、ジャングラーズは、マッスル頼みでないにしても、そのマッスルが如何せん禍してか、上手かった。自らの音楽性に安心しながら音を出すものだから聴く方も安心して聴ける類の安住とまではいかなかったが、やはり、ぎりぎりのところで、安心して聴けたのが、残念であった。音の重心がどっしりと低いからか…リズムの取り方が確実だからか。そうであってみれば、やはり、いまだ聴こえざる、あらゆる方法に安住する事無く、そして方法に頼る以前に捨て鉢なガレージの凶暴に軸足置きつつ浮き足立った、リズムも破れかぶれに、ブレにブレたハードロック、というのに賭けるしかない、と考える。
唐突な印象を受けるかもしれないが、分かっていただけると思うから、書く。ライブは、人間の尊厳が問われる場、であった。
なんとなれば、夏フェス。長くなったので詳細を論ずる気にはなれぬが、趣味的奴隷段階のマスコミ公認音楽を、野外で際限なく資本主義のように広げることできちんと音の暴力を損なわせる、慢心祭り。こんなニュースやこんな音楽は聴かなければいい、テレヴィやファストフードやファミレスやコンビニと縁を切ればいいのだが、小蝿のように、意識してしまう…。暗く狭い、防音がしっかりしているため、空間的のみならず皮肉にも世間的にも音が広がらないかもしれないライブハウスの中で、至高の、問題意識の高い切羽詰った音楽が生み出されている現場を思えばこそ、なおさら、彼の言葉を切実に思い出す。
彼の言葉を、衷心より書き記す。
「わたしらは侮辱のなかに生きています。」
中野重治 作 「春さきの風」より
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「大暑ゆえ」 2010年7月24日 偶成
今宵は、書けぬ…。布団干したり布団カバーを洗濯して干したり掃除したりして久方ぶりに衛生を取り戻し、気持ちよい。体調も悪くない。音も聴いているが、重要なアルバムすぎてまだ書くわけにはいかない…。どうでもよい音源で誤魔化すのも飽いた。へうげものとテレプシコーラの新刊を連れて帰る。自分で本を読むのもいいが、たまには人の意見を聞くのもよかろうと思い、明日は初心に戻って、とある研究会に出席予定。心機一転できれば、と。
やはり、欲しいものは自分で作るしかないのか…神戸のデパートの暗い箱の中に居るのを身請けした鼈甲のループタイ「神々の黄昏」に相応しい、白い木綿のシャツはないものか、方々を探したが、中々無いものだ…。白い木綿で、日の本の植物や蜻蛉などが地紋で白く控え目に刺繍されているシャツを欲しているのだが、男物のシャツにはろくなものが無い。男用は、ちんたらとちゃらいシャツしか無いではないか。女性用の、細やかなフリルや刺繍などが施され形態の工夫を怠らないブラウスへの憧れが強まるばかりであった。ブラウス収集、ということを発心した。女性用は概して小さいので、ししおきのある小生では着ることはできないが、そんなことはどうでもよい。ブラウスの妙境に魅せられてしまったので、収集の口火は切られた。焼物や古物だけでなく、今年は盆灯篭も収集せねばならず、たいへんだ。
愚劣番組、会社の星をたらたら見ていると、あの者らも勉強会をテーマにしていた。たわけが、と怒りがアスファルトのように噴出した。
小生の自称肩書きを、自分のために整理してみた。
在野の文人
労農茶人
愛陶家
ロック数寄者
納豆評論家(納豆ラベル収集家)
盆灯篭収集家
書家(デュシャン体創始者)
日曜俳人
日曜歌人
自家用白菜ウォッチャー
ループタイ庵主
寿司油絵師
ブラウス収集家
やはり、欲しいものは自分で作るしかないのか…神戸のデパートの暗い箱の中に居るのを身請けした鼈甲のループタイ「神々の黄昏」に相応しい、白い木綿のシャツはないものか、方々を探したが、中々無いものだ…。白い木綿で、日の本の植物や蜻蛉などが地紋で白く控え目に刺繍されているシャツを欲しているのだが、男物のシャツにはろくなものが無い。男用は、ちんたらとちゃらいシャツしか無いではないか。女性用の、細やかなフリルや刺繍などが施され形態の工夫を怠らないブラウスへの憧れが強まるばかりであった。ブラウス収集、ということを発心した。女性用は概して小さいので、ししおきのある小生では着ることはできないが、そんなことはどうでもよい。ブラウスの妙境に魅せられてしまったので、収集の口火は切られた。焼物や古物だけでなく、今年は盆灯篭も収集せねばならず、たいへんだ。
愚劣番組、会社の星をたらたら見ていると、あの者らも勉強会をテーマにしていた。たわけが、と怒りがアスファルトのように噴出した。
小生の自称肩書きを、自分のために整理してみた。
在野の文人
労農茶人
愛陶家
ロック数寄者
納豆評論家(納豆ラベル収集家)
盆灯篭収集家
書家(デュシャン体創始者)
日曜俳人
日曜歌人
自家用白菜ウォッチャー
ループタイ庵主
寿司油絵師
ブラウス収集家
暑中見舞い
打ち続く疲労と憂鬱によるのか必然的な衰えによるものなのか分からぬが、それでも、最近は、王道なきロック史において、理論的なことが何一つ書けていないことを、少なからず悔やんでいる。頭の中では青写真ができているにも関わらず、出力する気力が後退している…悔やんでいるからといって、次回から何とかなるかというと、その保証は何も無い…。
それでも、熱烈に、超絶モダーン今焼を欲しているが、どこでどのようにお助けしたものか、その方法が分からない。陶芸雑誌の個展案内など見ても、見た時は、たいてい会期が終了しているし、そもそも鯉江良二だの西岡小十だの各務周海などの、既に作風が固まった連中ばかり掲載している…破れかぶれで無茶苦茶な、屑のような、イってしまっているようなモダーンで凶暴な焼物は今、最早、山田先生のへうげ十作の界隈にのみ集結しているのだろうか…そう思ってオフィシャルページを覗いても、覗いた時は、またもや展覧即売の会期が終了しており小生が眼福の栄に預かるのを拒否しているとしか思えない…可愛さ余って憎さ百倍の愚かさ承知しつつ、へうげ十作の、波を起している感じが疎ましくすら思えてくる…ただの逆恨みだ…一体、どの程度の品物なんだ!見たい、しかし、見るために必要な情報を得るのに必要な最低限の能力が、小生には、根本的に欠けているとしか思えない…
最近の「…」の多用は、福光しげゆき氏の漫画の影響であるが、こうした内向性が陥りがちな露悪趣味に陥ることもどうでもよくなっているから使っている。
それにしてもショーペンハウアーは小生の性に合っている。形而上も形而下も区別せぬ、乱れた生活圏を乱れたまま貫く思想である。小生が勘付いていながら悶々と言葉に出来なかったことを、かゆい所に手が届くとばかりに直言してくる…かといって、気の合うのばかり読むのが読書ではないとは思いつつ…。
それでも、熱烈に、超絶モダーン今焼を欲しているが、どこでどのようにお助けしたものか、その方法が分からない。陶芸雑誌の個展案内など見ても、見た時は、たいてい会期が終了しているし、そもそも鯉江良二だの西岡小十だの各務周海などの、既に作風が固まった連中ばかり掲載している…破れかぶれで無茶苦茶な、屑のような、イってしまっているようなモダーンで凶暴な焼物は今、最早、山田先生のへうげ十作の界隈にのみ集結しているのだろうか…そう思ってオフィシャルページを覗いても、覗いた時は、またもや展覧即売の会期が終了しており小生が眼福の栄に預かるのを拒否しているとしか思えない…可愛さ余って憎さ百倍の愚かさ承知しつつ、へうげ十作の、波を起している感じが疎ましくすら思えてくる…ただの逆恨みだ…一体、どの程度の品物なんだ!見たい、しかし、見るために必要な情報を得るのに必要な最低限の能力が、小生には、根本的に欠けているとしか思えない…
最近の「…」の多用は、福光しげゆき氏の漫画の影響であるが、こうした内向性が陥りがちな露悪趣味に陥ることもどうでもよくなっているから使っている。
それにしてもショーペンハウアーは小生の性に合っている。形而上も形而下も区別せぬ、乱れた生活圏を乱れたまま貫く思想である。小生が勘付いていながら悶々と言葉に出来なかったことを、かゆい所に手が届くとばかりに直言してくる…かといって、気の合うのばかり読むのが読書ではないとは思いつつ…。
「the gerogerigegege/mort douce live(1996)sound factory records」 2010年7月18日 微熱白書
体をだるく蝕む冷房から、スイカの臭いがする気持ち悪さ。
歌を一つ。
夏至越えて山は腹切る滴れや道に嵩張る碧葉の血潮
下の句が上の句にとって説明的になっていると大和歌はつまらないものだが、この歌もそのようになった感あり。うまい事、下の句で鮮やかな展開が見せられなかったと反省すべきだろう。
心身の弱りが全的に衰弱しつつ収束にはならず延延続くのだから累積疲労は増すばかり、先日から摂氏27℃の微熱が始まり、体の節々が鈍重に痛む。弱りが、心身と、心中しようとでもしているようだ…弱りが無くなった時、自分も亡くなるだろう。もう、作文では井伏鱒二の、他愛無い、読後に何も残らぬ釣宿随筆、音楽ではレジデンツしか、体が受け付けなくなってしまった…摂生のため今宵は酒を止しているが、すると、意識が鮮明なためか日々の汚辱や屈辱、憎しみや嫉みといった汚穢の思いばかりが沸々する…否、酔っていようが同じことだった…。
王道なきロック史低迷編。ゲロゲリゲゲゲという名前。日本。録音は1987~1988。ギターやベースの音を激しく歪ませたり電子ノイズの嵐、フリー演奏、雄叫びなどを織り交ぜたからといって、音楽として、荒みに至るわけではない、ということが反面教師的によく分かるCDであった。だからといって、何が足りないのか、どうすれば荒みに至るのか、説明責任などありはしない。ただし、似非荒みと本物の荒みの峻別という保身にふんぞり返って胡坐かくつもりもない。似非と真の交替劇など、幾らでもありうるだろうが、そんな、鵜の目鷹の目流行跋渉も、どうでもよいだろう。
そういえば、2、3週間前の朝日新聞で、名前は忘れたが、あるバンドが、ステージで、演奏を挟みながら、コンビニ弁当を食べたりダンボールを積み上げたりする試み、というのを取り上げていた。その首謀者は、ライブに行って金払えば音楽が聴ける、と思われている前提を崩したかった、といった内容のことを言っていた。以前、小生も本ブログで似たような問題意識を述べたことがあったし、小生以前の先人においても、既に似たような発言ないしは試みはあっただろう。それを、今、実際に、なさっているようであった。それはそれで善行だと思われる。
小生は10数年前、リモコンでの、エアコンのオン、オフや風量、温度設定によって微妙に変化するだろう音やエアコン自体の持続音を披露するライブ、というのを思い立ったことがある。エアコンの、サーサーフォーフォーいう音は心地好いし、風量や湿度設定を変えることでかすかなニュアンスが生まれたら面白そうだ、と思った次第。とある公共施設の一室がイベント用にかりられるようになっていて、応募しようとおもったが、気持ちが折れて、電話して呼び出し音一回で自分から切ってしまった。今でも後悔している。気持ちが折れたのは、このライブの内容についてではなくて、電話相手と交渉しなければならないことについて、であった。
最近、ケージの本を読んでいると、半世紀前に、ケージは、「冷蔵庫の持続音は美しい」、と言っていた。インタビュアーは、「冷蔵庫が故障した時のガタピシ音が美しいのですか」、と確認を求めると、ケージは、「いや、冷蔵庫が正常に作動している時の持続音が美しい」、と言っていた…。既に先人が、自分と同じような感性を持ちえていた、ということだった…。
そういうわけで既にケージが発想していたことではあるが、いずれ、機会があればエアコンライブしたいものだ…歴史的意義もさほど無いにしても、義務として、やっておかなければならないこともあるだろう、いや、機会など、自分が作らなければ一生来ないだろう…。
juntaro yamanouchi: bass, voice, noise, all sound
toshinori fukuda: drums
hironao komaki: guitar
「daniel menche/screaming caress(1997)dfk23」 2010年7月11日 夏越祭
政見放送で自らの政策を語る党首と、その傍らにいる手話の人との遠近法が非情に気になる。正確には隣ではなく、党首の斜め後ろに手話の人が居て、目立たないように小さく写るようにしているのだろうが、古典的SFの手法みたいで、手話の人が正真正銘の小人(こびと)に見えるではないか…
クッソウ…何だかんだで…モーニング誌掲載の…「僕はビートルズ」の動向が気になるじゃないかァ…黙殺すべきだという意見は今でも変わらないが、それでもほぼ毎回読んでしまうので、これではれっきとした熱い読者ではないか…情けない…。
テレヴィなぞをつらつら見るとも無く視聴していると、白シャツにループタイを装うナイス男性を見受けることがある…夏が来た…日本の夏、戦後の夏が…。映画「耳をすませば」を漫然と視聴、雫と天沢とのうれしはずかし裏声ジャムセッションに飛び入り参加した三人の老人のうちの一人、タンバリンやリコーダーなどのマルチプレーヤーの老人が、ちゃんと、ループタイを身につけているではないか…分かっておる、と合点しつつ、さらに見ると、翌日、西洋アンティーク系雑貨屋の老人の胸元に、またもやループタイが…。満足であるが、しかし、店内の、西洋アンティーク小物に対する精緻な書き込み陰影描写に比して、ループタイの描写がまったくおざなりであり、残念であった。ハヤオ・ミヤザキはループタイの何たるかが分かっていない証左である。ともあれ、耳をすませばは、原作の、柊あおい先生の漫画の方も結構面白い。雫の友達の赤毛のお下げの女の子は、男に恋したことで夢や幻想を失った、魅力なき赤毛のアンであり、将来の雫の隠喩であろうことは映画でも仄めかしていたが、原作では、天沢が雫に、幼い告白をするシーンで、天沢の顔が、告白にそぐわぬ、恐ろしくも蒼白にして壮絶な呈を示したのだった…これは、雫のファンタジーの死の宣告するものであった…このことを証明するかのように、雫は、その後、自分の物語に、ヒロインのお相手としての天沢らしき男を追加で登場させちゃったりして雫自身と思しき姫と一緒に冒険までさせる始末なのだ…最早、ファンタジー原石を磨く磨かないの問題ではない、ただの色恋沙汰に堕したのであった…。
王道なきロック史低迷編。なんて読むのだろう、ダニエル・メンケでいいのだろうか。1997年、ドイツの電子脅迫音響作品である。とにかく最悪である。このアルバムは、卒業する先輩からもらったもの。収集道というのは、当然ながら収集家が数寄な物を集めるのであるが、物がある程度集まりだすと、ある時点から、物が物を呼ぶような感あり。茶碗なども最近は縁あって人から譲ってもらったりすることもあるし、有り難いものである…しかしこの音源は、聞くと、本当に胸糞悪くなる。無論、ファンキーモンキーベイベーだのミスチルだのを聞かされる拷問における苦しさとは別種の、どちらかというとほくそ笑みたくなる種類の胸糞悪さだが、一度聞いたら二度と聞きたくない代物であることは確かだ…最高だ…。
まさに電子音の鬼畜である。まずしょっぱなから、地獄の門の容赦ない閉門に挟まれて二回目で断頭されるがごとく、物凄い音圧の閉門の電子音響が耳をつんざく…心の臓を容赦なく魂消らせる…そこからはもう、薄気味悪い静と動を過剰に織り交ぜながら、陰湿で脅迫的に、殺意や執念を増大加速させる、嫌がらせを目的にしているのだけがはっきりとした電子音像である。ここまで、ひたすらゴモゴモ、ドォーンドォーン、あるいは空襲爆撃の最中のようなヒュウヒュウドカンドカン電子音響で、人間の憎悪を剥きだした音響を、小生は知らない。荒み、キツめの芸能でないと、どうにも我慢ならない小生であっても、これは、限界に位置するかもしれない…、まだ灰野敬二や非常階段などの程度のノイズのほうが、受容しやすい。
それはそうと、既に所持しているファッグズのアルバムを、所持しているのを忘れて、また、買ってしまった…、家に帰ったら、棚の隅に、同じのがあるではないか…同じ物を買ってしまう性向を、どうにかしたい…。
「francisco lopez/untites #91(1999)」 2010年7月4日 監視
下線部追記。
連日の高湿度のためなのか慢性的な疾患なのか、そして風邪が減衰しつつ長引き、恐らくクーラーによる筋肉の冷えの影響も大きいと思われるが、兎も角、鉛のようにだるく、体調が悪い…。クーラーを26度にするとすこぶる寒く、しかし27度にするとすこぶる暑い三菱製クーラー、26.5度に設定したいが適わず、臍を噛む思いだ…。三菱のエアコンはタフだがうるさく強力すぎる、対して別室で使っているダイキンのエアコンはツボを押さえた繊細さがあり、よい…。そして、小生の車庫入れの時には、いつも、向かいの一軒家の熟年男性が、カーテンを開けてしつこく、小生が部屋に入るまでジッと監視してくる…心がおかしくなりそうだ…監視を察した時に、何度か、こちらからも熟年の方をジッと見続けてやったこともあったが、向こうから目をそらす事無く、執念深く小生を観察してくる…怒鳴り込むべきなんだろうか…。いずれにせよ理由も無く追い詰められている…無論、理由があって納得しているのならば追い詰められていることにはならぬのだが…。
全く身に覚えの無い宴会に出席させられることになり、今更断るのも幹事の人に迷惑がかかるし何よりそういったちょっとした手続きでもひどく億劫なので、ずるずると参加。送迎バスに揺られ、ホテル的な大きい会場に拉致された…と思ったら、小生が祝言を挙げたところであった。7~8人程度が一組になって丸テーブルを囲む、そういった丸テーブルが幾つもあるパーティ形式。案の定、いつの間にか小生が居るテーブルに居た他の人々は立食パーティ的混雑のどさくさで権勢家や能力家に酒を注ぐ仕事をこなすためいなくなり、権勢も話題力も一切無い小生一人、丸テーブルに座って無言…飲食…不動…悪目立ち…。同じ会場にいる参加者に何の興味も無いのが露骨に態度に出てしまう小生が引き受けるべき、必然的な状況である…。
鬱屈していない時期は皆無の、低調極まる小生なれど、時として、ギュむっと心が鷲掴みされることもある…社屋の最上階に、とりあえず約束守りました的なつまらん茶室が新築されているが、茶室に至るまでの飛石脇に、夏目漱石の脳ほどの巨大なカサが笹原からぬきんでた、、真っ白のキノコがぬけぬけと生えていた。梅雨の雨をいっぱいに吸って!おおお、この巨大な白いキノコを、床の間にしつらえる茶花として用いたらどうだろう…、備前の鶴首、あるいは砧青磁の花入れにこのキノコをぶち込んだらさぞ面白かろう、少なくとも茶の湯でキノコを使ったことなど、聞いた事は無い…当代随一の花人、川瀬敏郎といえども、キノコは生けたことあるまい、ましてや金満池坊なぞ…。種々の想念がぐんぐん、夏雲のように盛り上がるではないか…。その日はお助けしそびれたが、もし翌日、まだそのキノコが生えておれば、早速お助けして、県内に住まう先輩に電報でも打って茶会に誘いたい、そして共にキノコを愛でたい、ケージでも聴きながら…そう思っていたが、翌日、件のキノコは排除されていた…茶会に使われたのなら本望だが、どうせ、下らない、会社のお稽古茶道(上田宗箇流!)なのだから、そんな才覚など期待できまい…。気持ち悪い、などといった幼稚な美意識によって、あの禍々しくも高貴な、白く大きいキノコは排除されたに違いない…。仕方が無い、自分で、山で、キノコを探しに行くしかない…。
王道なきロック史低迷編。フランシスコ・ロペス。アメリカ。1999。CDがCDケースに入っているだけ。ジャケットなど、無い。どうでもよいのだろう。通常、多くの人々が音楽を聴くような音量設定では、まず、このCDからは音は聞こえない。最大音量に設定して初めて、不安を殊更にあおる、ひたすらゴモゴモいう電子音がごくごくわずかに聴こえる。スピーカー自身が出す音とは異なる、明らかに故意の作曲になる、虚弱なる吃りの波濤。雲が何なのか知りたくて雲の中に入ったら、まさに五里霧中だったのだ。この音楽を聴く時の適切な音量というのはどうなのか、がいきなり問われる…。環境、聴取、沈黙…こういった音楽に対し、このような言葉を塗りたくって何事か説明することも可能だし、むしろこういった試みは、音楽の過剰な弱音と反比例して、コンセプチュアルな言説を高めがちであるが、最早、そんな必要もあるまい。いずれにせよ、1990年代になって初めて、電子音響は、既成楽器音という制度からの解放という役目を終えて、既成楽器音と同様に、人間の憎悪や不安をむき出す方法を見つけたのだった。次回、この辺についてさらに相応しい音響を紹介する。
「john hudak/brooklyn bridge(1998)coal002」 2010年6月27日 救済
下記の下線部、緊急加筆しました。
たとえ明文化されていようとも従う気など毛頭ないが暗に察するよう強要されている、いわゆる強制志願(特攻隊…)のような雰囲気に根差した根回しや儀礼に対する小生の生来の無頓着無神経に対して、予め出来るだけ反論を封じ込めようとする周到さで断固として己を守護しようとする折り目正しい怒りの正論が長大な書面で送り付けられたりした。また、早い夏ばてなのかこのところ体調が優れず、尚且つ、自分の荒んだ食生活から類推される将来の健康不安も重なり、更に更に、行く先々で事がうまく運ばない憔悴の日々。機種変更した携帯電話の受話音量を最大設定にしても、出力される実際の音量は異常に小さくて相手の話し声がほとんど聞き取れないという、我慢ならない椿事も小生を一層憔悴させた。
景気づけに激マズ寿司でも食ってやるかと思っていったら、普段は金曜日の夕方であっても客席ガラガラなのに、その日に限って満席、「お名前書いていただいてしばらくお待ちいただけますでしょうか。」店の前に並ぶなど馬鹿馬鹿しいししかも激マズのくせに待ってられるかと怒りがこみ上げさっさと出る、どうしようもなくささくれ立った空しさ。本日、休日出勤で雨に濡れ、明らかに風邪を引いて喉が痛い。そういえば、風邪引いて熱っぽい、ということだけを深刻にだらだら書き上げたのが暗夜行路という珍妙小説だったと思う。
去年の年末あたり、専ら小生の心で、こらえ難くナチュラル系のファッションや暮らしが気になり、いずこの本屋の一角をも必ず占めているだろうナチュラル系雑誌を買いまくっていた。その詳細の論述からは、疲労ゆえにまた逃げさせていただくが、そうした縁でナチュラル系フリーマーケットにのこのこ押しかけたのが先週のこと、これも次回。冷房つけっぱなしで寝たら全身がだるい。のしかかる気ぶっせいに出口はないのか…。
追い詰められた人間であればこそ、他愛の無い、小さな、ほとんど希望とはいえないような些細な事で、救われてしまうのだろう、と思った。現実的権能など及ぼしようもない、およそ無意味無価値な諸芸能が、追い詰められた人間の琴線にこそ触れてしまう事が、必ずしも諸芸能をこうした枠組みに収める必然性は無いにしても、どうしようもなく在ってしまう。とことん追い詰められている人間は、その人の最悪状況を根本治癒してくれるような大きい幸福ないしは、その人の不幸を補うに余りある幸福が供されなければ救われないのではないかと人々は思われるかもしれない。しかし、実際には、追い詰められている人間であればあるほど、些細な事を独自に精密に感受し、現世において別次元を見出す。溺れる者は藁をも掴む…これは溺れる者の軽率な愚を笑う一方で、溺れる者の、他愛無い軽率にも縋らざるを得ない切羽詰った実態を表した格言なのだろう…希望の無い救いである。溺れる者は、あまりに危うく流れる藁でないと、救われない。むしろ、過剰な幸福でないと救われない、あるいは過剰な幸福でも救われないのが、追い詰められていない人間であろう。あるいは、自分を追い詰めることすら出来ぬ奴隷制度人間…。小生は、この、追い詰められていない人間を、恵まれた人、と書く気が起きない…。救い、という概念で救われたいとは思わない、と考えるのは簡単であるが、それは、まことには追い詰められてはいない人間の謂いである。小生は真宗ではないが、飢饉や疫病、火事に辻風、地震に戦乱、肉親も含めた裏切りといった日本中世における浄土真宗(南無阿弥陀仏題目、他力本願)の基本はここにあるのだろう…。シモーニュ・ヴェイユもしかり。中世の日本庶民ほど追い詰められていない小生であるが、小生が住まう賃貸アパートの大家さんがアパートのバルコニーで種々の野菜や花を育てており、共同掲示板に「きゅうりをどうぞ」。棘がピンピンに尖った大ぶりのキュウリを一本、もいだ、頂戴した。少しうれしくなり、早速、金山寺もろみ味噌を別途手配、酒肴の支度に余念なし。
何だかんだで学ぶことも多かったスコラが終わって始まったのがソングライターズ、今視聴しながら書いている。ソングライターズという題目が如実に示すように、いきなりロックから遠ざかった感あり。興醒めである。スコラは、YMOは、まだロックであった、少なくともミスチルや佐野元春なんぞよりは…。ビートルズよりはローリングストーンズ、ビートルズよりはザッパ、はっぴいえんどよりははちみつぱい、YMOよりはムーンライダーズ、ウッドストックよりはワイト島、ゴダールよりはトリュフォー、ピカソよりはブラック、モンドリアンよりはマレーヴィチ…そんなことを思うだけで原理的に説明するつもりも無いが、こういった対立を嫌忌したり壊したり建て増ししたりする以前の低レベルな問題領域にて、醜悪なワークショップが学生とミスチルとの間で繰り広げられている…。鈴木慶一が出る時は気になる…。
低迷編。ジョン・ハダックという人のフィールドレコーディングとスタジオ電子音とのフュージョン作品。1998、アメリカ。紙にCDが入っているだけで何の解説も無いのでどういった素性の人かは皆目分からない。もう、承認され流通する音楽的人脈とかと関係ないところで各自が勝手にやっていてもおかしくない実験音響の世界なのだろう。まさに梅雨の雨雲を這い進むような、もわもわ音やどうどう音、背骨が折られるような音が、分別や形を非力に拒絶している。ブルックリン橋のケーブルや橋桁といった構造体のきしみ音を律儀に増幅させつつ、控え目な電子音を絡ませる、トータル1時間ほどのキツめ音像。
