「ハッチ ハッチェル/旅のアルバム(2009)0bbq 0014」初秋
早速、心底一途に思っている、割れてしまった高麗彫三島の盃を、厳重に梱包して金継ぎ屋さんに送ることに。盃を収容するのに最低限必要な箱の容積の100倍近い容積の段ボール箱に、婦人画報の大半のページを破って丸めた簡易梱包材を詰め込み、盃を安置。宅急便をお願いした近所のコンビニのバイト店員が、多角化の一途を辿るコンビニ業務にまだついてゆけぬ新人だったらしく、自信なさげにあたふたと不手際をさらしたのだった…。他のものはどうでもよい、兎に角この盃だけはきっちり送ってほしい!何をどうすればよいか全くわからないらしく、何故か小生が色々と、箱に貼る紙を出すよう指示したりする始末…箱の隅々にワレモノ注意と極太マジックで書きまくっているにも関わらず、ぞんざいに扱う店員に業を煮やした小生は自分でも思いがけず叱責の怒声を上げざるを得ず…必要事項書くように出されたボールペンはインクが出ない…書けるものを改めて持ってこさせるとそれはシャープペンシル…一応下の転写紙に文字がうつるからいいものの一抹どころではない不安があった…受け取ったら連絡するよう金継ぎ屋さんにお願いしてたが、到着指定日時を過ぎても連絡が来ず…イライラとやきもきが鬱屈し、あの店員の不手際が頭をちらちらする…何かをしくじり、盃を行方不明にしてしまったのではなかろうか、という強い疑心暗鬼が吉里吉里と心に差し込まれる…
「美味しんぼ」の海原雄山所持の骨董品を中坊くらいの山岡士郎が誤って割ってしまった時の雄山激怒のセリフ「お前の命なんかより何百倍も価値があるものを割りやがって!」がよく分かる…そして後年、雄山との決別を決意した山岡が今度は故意に、雄山の目に適った古陶磁を大量にギタギタに破壊した後の、あの親子の徹底した不仲ぶり…作品中では母親がらみの不仲説が通説であったが、本当は、愛玩していた古陶磁を故意に山岡が大量に破壊したことが主要因ではなかろうかと思う…あのコンビニへ怒鳴り込みに行ってやろうか、控えの荷物番号で宅急便に荷物を探してもらっても見つからない最悪な事態になった場合は、この店員をどうしてくれよう…自分でも最早抑えが利かないかもしれない…とまで自分を追いつめたギリギリの矢先、まずは先方が受け取ったかどうか、短めの、しかし怒気込めた確認メールを送る…すると、数時間後、受け取ったとの返信が。がっくり膝が折れたと同時に、自分が、どこかおかしくなっていたことに今更ながら気づく…しかし、数寄に余裕など、あってはならないのだ…これが数寄(=安土桃山)と風流(=江戸の文人趣味)との違いだ…
憂さ晴らしにまた激マズ寿司で自己研鑽してみるかと行ってみれば、広島駅内の激マズ寿司屋「仙台 平禄寿司」が長年のご愛顧ありがとうございました…閉店。もし平禄の客が多くて入る気しなかった場合は隣の、いつも客が少ないうどん屋で腹を満たすか、と計画していたが、このうどん屋も同時に店じまいと相成っていた。一抹の寂しさありあり。平禄はしょうがない。周りの似たような店は異常なほど客が多いのにこのうどん屋に限って何故か客が少ないが、味は、周りの店と変わらないレベルなのだ…何か不当な差別を受けているのではないかと勘繰り、よく利用していた事情があっただけに、店に限らないが自分が良くも悪くもひいきしてきたものに限って衰退している気がしてならない…
致し方なく、閉店間際の別の激マズ寿司に直行。無言で在庫処理に励む小生であるが、やっぱり須らく不味かった!無理して最近流行りの炙りものに挑戦したはいいがお手軽ガスボンベバーナーで炙るものだから炭化水素ガスから分解された二酸化炭素と水の中の水のせいなのか炭火と違ってジュチャッとしているし(美味しんぼの説)、そうしたネタの上に乱れかけられたマヨネーズは、長時間回り続けた結果、なんか透明度を増しているし…。マヨが透明度を増すくらいだからネタはカピカピに乾燥済みOK!
備前の徳利に入れて一週間冷蔵庫で保温することで、いい具合に角が取れた気がする日本酒に怒りのローアングルでほろ酔いのさ中、NHKで「ソングライターズ」視聴。おクラシックとおジャズを好むスピッツみたいな中性的男子が、何故か、ほどほどの問題と個性を抱えたナチュラル女子に「あなたって変わってるのね」などと個性持ち上げられ言い寄られる村上春樹の自慰ファンタジー小説が好きそうな、物わかりのよさげな若者とミュージシャンとの間の、不穏さが皆無の、ぬる過ぎるワークショップ…先週のNHK「会社の星」の醜悪ぶりは凄まじかった…莫迦が莫迦な本を何千冊も読むことでより莫迦が補強される絶対の円環には唖然である…自分を研ぎ澄ますために仕方なく見ているが、もう、いい加減、その、砥石としての効用すら鈍化してきたようだ。いつかいつかといいながら、そろそろ、この会社の星を徹底批判する総括をしなければならないが、気が滅入る。
それにしても東陽片岡の「レッツゴー!!おスナック」(青林工藝社)の、びっしりGペンで書きこまれた、濃く汚い、おスナックのママ絵がシミジミ心に沁みて何度も熟読してしまうではないか…報告だが、遂に「はだしのゲン」全巻購入。たとえこの世からゲンが無くなっても、小生が守護するつもりだ。
マクドナルドとファミリーレストランでもいろいろあったのでいずれその行状記をまとめたいが、昼時のファミレスに集う子連れママ友らの会合は、傍から見てても殺伐としてくる…決してお互い心を許してはいないが何故か行動を共にしなければならないゆえの気遣い感、そしてやっぱり互いを信用していない感が、子育ての具体例に限定された話題の中でひしひしと感じるので、脇で大声を上げて暴れまくり料理をこぼして憚らぬ子らの所業もあいまって、こっちも疲れる。基本的にはこういったことに小生はどうってこともないが、清少納言や太宰の女生徒から1990年代の女子高生(村上龍のラブ&ポップ)に受け継がれた先鋭的とされた感覚にしてみれば、ファミレスのママ友ランチは、醜悪の一言で手厳しく切って捨てられるのだろうな、と勝手に思う…そして、かつて先鋭的だった女子高生らが、全てではなかろうが、今、そうしたママ友という関係性に居るのだろう…。当然ながら、先鋭的な女子高生というのも幻想であったと思う。
ハッチハッチェルの旅のアルバム。日本。簡素にして正しい、これ以外に無いアルバム名…氏のこれまでの経歴…ロック史上不世出のバンド、デキシード・ザ・エモンズのドラマーとしての破天荒な活躍を思えば、ロック数寄ならずとも多少とも音楽が数寄であればバンド解消後のその去就が気になるだろう…ここでデキシード・ザ・エモンズの栄光の軌跡とその限界を批評する余裕はないので、不世出とか栄光とかといった空虚な修飾辞でお許しいただきたい…特にアルバム「S,P&Y」で到達してしまった途方も無いロック音楽の高み(プラトー)は、ザ・フーやレッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリクス エクスペリエンスといった基本の峰々を、登山家が6大陸最高峰の登頂を目指すことで登山家と承認されるように、真面目に踏破する王道を歩んだ上での全く新しい、西洋のフォンやスパイスのコクとは異なる、日本の一番だしのような音楽であった…こんなことは王道なきロック史においてはありえなかったにも関わらず、成し遂げたがゆえに逆説的王道というロック裏街道がまたまた表街道でもある…
そして、かようなワダカマリ薀蓄や、ロックというある種の枠組みからもするりと抜けるようにして、素晴らし系の音楽をぬけぬけと奏でだしたのであった。最早ロックの諸形式にも硬くこだわる事無く、本作は、カントリーやジャグバンドの道統に続くノベルティソングであった。ノベルティソングというのは、カントリーミュージックによくあるが、一つながりの、滑稽な物語性を持った歌である。音程を素っ頓狂に外す苦み走った愉快。
「S,P&Y」でも存在した、社会社の生産管理統制から無頓着に逸脱しながら陽気に、その辺の街角に巣くって楽しく暮らしているらしい、厭世家でも深山方丈での隠遁者でも世捨て人でもない、逃げも隠れもせぬ市井の仙人(「ご一緒させていただきたい」!)が、人生の苦味をジックリ味わった上でそれを酒の肴にしながらの気ままな珍道中に出た音楽。この若い仙人、ビールと酒を好む習性らしく、行く先々で駆けつけ3杯、同じ酒飲みとして共感この上なし…儀式と宴会、祭りと宴会、そして儀式無き宴会を夢想する小生にしてみれば、かような、人生=旅=宴という音楽に心惹かれぬはずはない。自分らしく生きろと強制してくるもっともらしい自己啓発の制度化には反吐を催すが(檻の有無が問題なのに、檻を少し広くしただけ)、この旅のアルバムは、そうした、周到なる気味悪さとは無縁だ…ともすれば功利的になりがちな励ましとも無縁な、デキソコナイへの単なる視線こそが、語弊を恐れず云えば、愛情に近いものなのだろう…人を救わない愛…
全然関係ないかもしれないが、ハッチハッチェルバンドが、シベリヤ抑留されている日本兵の収容所に慰問に訪れるのを夢想した。宴会讃歌を歌い上げるべく世界中をどさ廻り中の彼ら、シベリヤ超特急に乗ってユーラシア大陸横断の途中、シベリヤで強制労働させられている日本人のことを聞き、たいした野心も無く訪れたいと思う。彼らのことだから、ソヴィエトの冷徹な共産官僚をウォッカ一本で上手いこと懐柔、その辺に衣類剥がされた丸太のような日本兵の凍った死体が晒されている広場に集合させられた日本人の前で演奏することが許される…いわゆる極限状況が物事の本質を炙り出すと考えているわけではないが、一体、どうなるのだろうか。生きているだけで楽しいという他愛無い、簡素な人生讃歌がむしろ心に響くのだろうし、そうした簡素が簡素であればあるほど帯びてくるインチキ臭さが、ホッとしたような、泣きたくなるような笑いを、過酷過ぎる状況の抑留者に誘うかもしれないが、実際のところ、よく分からない。ハッチハッチェルのこの音楽が、表面的には多少の私語をしようが根本的に決定的に黙る抑留者の心を鷲掴みにするのかどうか、ちょっと分からぬし、不可能なようにも思える。インチキ臭さというのは、例えば、おムード歌謡歌手が場末のおスナックへの営業廻りを30年ぐらい続けて初めて箔になる類の、本物の謂いであるかもしれない。ハッチハッチェルが本物のインチキ臭さかどうか分からぬが、まだまだ続ける事が大事であろうと他人事ながら思うし、あっさりとまた別種の音楽性へと見切り発車するにしても、やはり今後も耳が離せない。
「penderecki/utrenja, the entombment of christ(1971)bvcc-38303」新世界忌
割れてしまった高麗彫三島の盃。思えばこうなることは分かっていた。弘法市で井戸茶碗の紛い物をお助けしたおり、店主の因業婆さんからおまけで貰ったこの三島、お助け当初から 存在した、高台脇の釉薬剥がれも気にならず、柿色の土焼けを見せる、月食形に削り上げた非対称高台もさることながら、割り切れぬ生活苦の懊悩が染みるヘドロ色の緑青が時折異常な赤みを帯びつつ透明に流れたような釉の 回転を否応なく加速させる白泥の菊花日輪紋は草臥れ果ててその古格たるや飽くまでも堂々…
重用に重用を重ね、時に八丁味噌や酒盗、烏賊の塩辛やコノワタなぞの肴を載せるかと思え ば、当然ながら澄み酒を満々湛えることもあり、小生を泥沼の、怒りの深酔いへ誘う、かけがえのない心の友であった…そして割れた。予感はしていたのだ、たとえば細君が、不安定に積み重ねられたお椀の上にこの三島盃を載せているのを見た時、危険よの…と思っていた。
この低級のお椀どもが何かの拍子に崩れた時、真っ先に破壊されるのがこの三島ではないか…。しかしそのこと をきちんと細君に注意する確固たる目的意識が実行される前に、消えるように萎えて、言えなかった…こんなことが何度もあったのだ…ある日、胸騒ぎがして、これが最後かもし れないと思い、酒肴を楽しんだ後、いとおしむように丁寧に自分で洗った。そしていつもの、洗った食器を乾かす樹脂製の籠に入れておいた。少し元気がある時は、こういう場所は危険だから、抹茶碗と 同様に、他に設けてある小生の名物部屋(本陣)で速攻でお休みいただくのであるが、無意味に気が抜けて、危険を承知しつつ、その、食器の雑居房に放置してしまったのだ。
翌朝、が しゃああん、と、食器が崩れる音が聞こえた…半分眠りの中、ああ、終わった、と気づいた。引き気味の態度で細君が、言いにくそうに小声で、三島が割れたことを尻すぼみに伝えて来 た。案の定、不安定に高々と積み上げられたお椀の上に三島を置いた時、崩れ、三島が真っ逆さまに床に叩き付けられた結果、割れたというのだ。すべて、予感していたことであった。結果を承知しつつ、心の虚ろにびょうびょうたる風が吹き抜ける感は拭えぬ…。
しかし、転んでも只では起きぬ小生。早くも数寄心がむくむくと赤熱して鎌首をもたげるではないか…。「継ぐ」ということ、である。金継ぎや溜め継ぎなど、茶道具や古陶磁において、割れ た部分の継ぎ目を漆で接着して金銀を蒔くことで継ぎ目を繕いつつ鑑賞したり、あるいは釉薬と同じ色に漆を調色して繕う共直しなど、常道である。これを楽しまぬ法はないということで、早速 金継ぎ屋を探し、さしたる情報もないまま目に叶った職人さんと連絡を取る。小生から、素人の夢想無鉄砲のままに第一案から第五案まで提出、見積もり額や技術的なことについてメール で根気強く交渉を重ねた結果、以下の案で進めることで決着した。
・器の内側の継ぎ目を、金継ぎ(消し金)で、稲妻のように、直線的に仕上げる。
・器の外側の継ぎ目を、錫(スズ)継ぎで、時雨のように、曲線的に丸みをもたせて、流れるように仕上げる。琳派を意識して。
※単純に継ぎ目を繕うのではなく上記のようなニュアンスを表現するために、継ぎ目に接した釉薬の一部を控えめに剥がして漆で下地をこしらえ、鋭い直線や丸みのある曲線が表現 できないか試す。銀継ぎの方法もあったが、釉薬の色味との調和を考え抜いた結果、あえて渋めに錫を用いることにした。
・高台脇の釉薬剥がれの部分には、螺鈿をほどこす。曲面なので螺鈿用の貝を細かく割って、隙間なく敷き詰める感じに仕上げる。雨後の水たまり、あるいは異次元への入り口のよう になれば。
※螺鈿と釉薬の境界には、貝の接着の必要性から、漆の縁取りをごくわずかに残すことになるが、この部分の仕上げは職人さんの感性に任せる…
陶器の直しで蒔絵をほどこすのは、たとえば織部の伊賀水差し「破れ袋」の写しとして、川喜田半泥子の伊賀水差し「欲袋」があるが、螺鈿という技法を使うのは、これが世界で初め てではなかろうか…と勝手に自負している。本日、三島を発送、三か月の納期が待ち遠しい…。
上述のことで頭が一杯なので、今宵はポーランドの現代音楽の作曲家ペンデレツキ。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」の、黒い雨を模したトーンクラスターが有名な前衛家。古スラブ語 で歌われ、東欧のキリスト正教の詩句が散りばめられたオラトリオ「ウトレンニャ~キリストの埋葬~」。静と動の格差が脅迫的に激しく、気がめいること間違いなし。新約や旧約以前 の原始キリスト教、原始ユダヤ教のむせるような神性が、獰猛なクラスター音の残響から臭い立つ、いけにえの肉っぽい音。
フィラデルフィア管弦楽団
ユージン・オーマンディ 指揮
「lauren weinger/silo(2002)rer」 2010年9月4日 大杉忌
くさくさ、むしゃくしゃして漫画やら何やらを連れてかえる。専ら小生の作文用として連れて帰ったパソコンもいつしか高度な仕事させられるようになって命が縮んだのか、何するでもてこでも動かぬ頑迷固陋ぶりに辟易、重い腰上げて新しくPC購入。膨大なデータやソフトの引越しという難儀な仕事は家人にまかせっきりなれど、難航している様子を傍で見るに付け、身勝手なやきもきが納まらぬ…だから嫌なんだ…と、繰り返すが自分が手を下しているわけでも無く自分ではどうにもならぬのに不安でいっぱいだ…ウインドウズXPで動いていたソフトが、何ゆえウインドウズ7になると動かないんだ…コンピュータが現代人に与える理不尽による人生の浪費にはもう耐えられない…たとえ自分の人生時間が浪費されているわけでもなく、自分は書見なんぞを満喫する時間が確保されいながら、家人の四苦八苦の傍らに居る結構な身分にも関わらず、見ているだけでこらえきれぬ苛立ちで集中出来ぬ…このままでは、ホームページ作るのに結局、激重の旧PCを使用せざるを得ず、何のために新PCを大枚はたいて買ったのか分からないではないか…
他人事の盛者必衰に岡目八目ほくそ笑む邪悪にも心底では飽いたと言いながらもニヤリとはなるのだが、この漫画が持ち上げていた大分高校の書の甲子園に纏わる不祥事(部員以外の書道巧者に作品書かせて作品数水増し、あるいは篆刻の印を使いまわしての尋常ならざる作品数水増し、そして発覚、謝罪、受賞辞退…)でも有名となった書道ラブコメ漫画「とめはねっ」の最新刊が出ているはずなので本屋行ったらなくて、変わりに下記を連れて帰る。
漫画
福満しげゆき「僕の小規模な生活」2巻と3巻
福満しげゆき「生活」完全版
佐々木倫子「チャンネルはそのまま!」1巻と2巻
高野文子「黄色い本」
ライトノベル
一柳凪「ラブコメ禁止ですの!」
雑誌
炎芸術 特集「半泥子の無茶」
季刊 銀花
福満氏の私小説漫画が滲みる…あくまでも低姿勢の卑屈かつ気弱な振る舞いから繰り出される唾のようにしたたかな、ぎりぎりの保身とその懊悩、些細な事で躓くことができる生活苦が自ずと研ぎ澄ます芸の、衆に恃まぬ栄光の独立…初のストーリー漫画「生活」もよい…街のコンビニや明るいところで屯する、男のくせに眉毛整えた目に余る若者どもを金槌で殴り倒し橋に吊るし上げる自警団の、いやな感じの興亡史。自警団といえば、9月1日関東大震災における自警団による朝鮮人や沖縄の人の虐殺を思い出す。日の本の私小説運動は、フランスのヌーボーロマンやアメリカのミニマリズムに先駆けたり時を同じくしたりしながら、共に、虚構(フィクション)あるいは物語というものへの鉄槌ともいうべき絶望と批判の実践であったことをもっと評価すべきだ。弱者の組織化による街の悪の排除=自警団=国家の原初=利権力による街の悪の再生産。
やはり、川喜田半泥子の茶陶は、よい…こと茶碗に関して言えば魯山人など話にならぬほどの破格の人にして本阿弥光悦の再来というのもさもあらん、である。今日、これから、携帯電話の機種変更した途端請求額が不当に高くなったように思えるので、携帯会社に文句言いに行く。気が重い。
またやる気が失せた。小生が温めてきた、さして中味が無いかも知れぬロック論説の開陳など、所詮かっこよさ自慢(村上龍がその小説や言説で支える中田英寿的生き方の推奨)に収束するみたいで、もう、出来ない…こういうときはとんちきフィールドレコーディング即物。アメリカ。ずばり、サイロである。トンネル掘削機ほどもあろうかと思わせる巨大コンプレッサーの非人道的なドォードォー作動音や、圧送空気で移送される穀物が配管内を高速で摩擦するシャーシャー音を丁寧にレコーディングする律儀かと思いきや、それだけでもなく、何故か夕暮れのマンボが労働者とその家族の集いのどよめきと共に陽気に挿入される椿事。備蓄され終わった穀物の、ほっこら芳しい豊穣なる静寂も閑々と録音する。
自分を攻撃的に研ぎ澄ますために、自分の中の怒りを絶やさぬために、今宵も愚民テレヴィ番組「会社の星」を睨み付けるように視聴。
「the lovin' spoonful/do you believe in magic(1965)bmg74465 99730 2」 2010年8月29日 小沢
もう、ここまでくれば、たとえば観世流あたりが、新作薪能「小沢」といった演目をやるべきだ…。その真意はまた後ほど。小沢氏の執念…。
選挙前なら頻繁であるが、朝の駅前で、時折、政治家の人が党旗一棹持って、勤め先に無表情で急ぐ群衆の流れの脇で延延と演説している様が見受けられる…ありふれた風景かもしれない…朝と言えど、既にうだるような猛暑の中、お疲れ様である…立ち止まって聞き入る人など一人もいないのに、演説している…ただその演説の内容、政策的な事は大衆には小難しいと慮っているのか、小沢氏がどうのといった政局的なことばかり喋るのはいかがなものか…全然国民が関心を持ちえぬことを…しかし、それでも、朝、暑い中寒い中、大衆を前に、己の主張を一人で言い続ける忍耐には、感銘を受ける…芸能や思想、哲学などに主張を持つ者も、この際、直接庶民に向かって毎朝街頭演説するくらいの攻撃的しゃしゃり出が必要なのかもしれない。自分も見習うべきなのだろうが、勇気が無い…
飯室トンネル前の交差点で、天理教の、中肉中背の熟年男性が、毎朝拍子木を叩きながら何か叫んでいる。車の中にいる小生には何を言っているのかは分からない。天理教の紺の法被着て、天理教の教えを染め抜いた幟を担いでいる(おかげさま、がどうのといった文言…)。毎朝だ。お勤めお疲れ様である。人通りが少なく、資材や機材や作業者を満載した現場系の車がびゅんびゅんするだけの山間部の荒んだ往来、皆窓締め切って運転中だから耳を傾ける人が居るはずもないのに、彼は、不毛ともいえる宗教上の勤めを止めようとしない。
鮨のねたでは何よりも貝類を好む小生。煮ハマグリ、とり貝、つぶ貝、そして帆立貝…。しかし、上等の鮨店なら兎も角、小生が足繁く巡礼するような三流店で、貝類が旨い店は皆無といってよい。激マズ系の店が扱っているネタで、最も不味いのは、決定的に貝類である。しかし、小生は貝類が好物なので、とことん干からびた貝類の鮨ばかり食すのであるが、不味いものは不味い。それでも貝類をつまむ小生は、もう、本当に貝類が好きだ…そんな自分であるから、近所の、頗る個性的な惣菜には目を見張るものがあるが魚介類の鮮度は著しく悪いスーパーで、何度も痛い目に遭っているのでここの刺身は不味いと分かってはいても、帆立の刺身を購入…そして、不味い…酒で飲み下しても後に残る、臭みの強いぬめ感…。
あっという間にやる気が沈滞した。また低迷に振り出し。氷の中でダブダブ響かすしゃかりき陰湿メランコリーポップスをかつて所持していたが当時はその新味が分からず手放してしまったがもう一度聴きたい、しかしバンド名忘れてしまった…(後で、それはゾンビーズであることを思い出した)兎も角そんなバンドかもしれないと思ってお助けしたのが何故かラヴィン・スプーンフルであった。全然ゾンビーズではなかった…後学のため、スカコアの代表的な、ケムリというバンドの音を聴こうと思って、ケムリのコーナーに置いてあったCDの内の一枚をよくよく確認した上でお助けしたら、ハッピイなレゲエだった…どうしていちいちしくじるのだろうか…今はちょっと気分的についていけないアメリカン・グットタイム・ポップロックであった。
john
zal
joe
steve
「peter ivers/terminal love(1974)wou2804」 2010年8月22日 一二三
まず激マズ寿司に直行。またしても不味かった。一体何時間廻っているのだろう、カツオの握りのネタが、乾燥してシャチホコのように、というと誇張だが兎も角反り返っている有様…。
あんなに楽しくも充溢したお盆休みが終り。今日まで休みなのに、明日から仕事、という現実が理解できない、途方もなく受け入れ難い吐き気のような気持ちであった。朝、目覚まし時計に起されてすごすご出勤するのと、同じく朝、特高の任意の呼び出しに応じて出頭するのと、どうちがうのだろうか…と思うが、よく考えると全く違う…。思えば休み期間中の弛緩した時間では、さしたる重要な読書は出来なかった気がする…昔からそうだ…学生の頃、試験前になると強烈に己のための読書をしたくなり、すると、熱烈な思想体験するのだった…こたびの休みの終わりには、日本プロレタリア文学集(全40巻)の第一回配本 初期プロレタリア文学集(新日本出版社)と、ドイツ神秘主義叢書 ゾイゼの生涯(創文社)が、夜明けまでの切羽詰った短時間で即効性を発揮してくれた…この即効性は、専ら小生の生活状況如何によるものと推測する。
甲子園、小生が思わずほくそ笑んだのは、鹿児島実業(鹿児島) 対 九州学院(熊本)であった。九州学院勝利の報に、思わず、西南の役の、越すに越されぬ田原坂(たばるざか)、という俗謡を思い出す…鹿児島は熊本には勝てないのだ…という根拠のない妄執…。
年端もいかぬ高校生の所業だからいちいち目くじら立てることでもないと思いつつ、怒りが勃発。所さんの笑ってこらえて、というテレヴィ番組で、高校の吹奏楽部が大会出場するレギュラーを廻って汗と涙頑張る、といった感じだった。(ダーツの旅はよい…)部員数が、大会に出場できる既定の人数より多いため、予め部内で、出場者(レギュラー)を決めるテストをするというのだ。顧問の教師が、誰が演奏しているか分からぬよう生徒に対する思い込みが評価に混じらぬよう壁を隔てて生徒に演奏させ、聴いて判断するという趣向。選ばれた者がレギュラー、選ばれなかった者が補欠、と規定され、選ばれなかった者が泣く、ということ。頑迷固陋な教師の、有体に言えば頭の悪い、ある許容範囲の美意識などこの際どうでもよい。問題なのは、既に吹奏楽部の者らが、こうした、自分の頭で再考されたことが多数決的に殆どないがために流通した、ある厳然たる収まり具合あるいは美意識に対して、既に、揃いも揃って盲従する惨めをさらしているということ…そのことは、レギュラーになれなかったからといって泣くトランペット担当の部員の愚が証明している…あの部員は文字通り図らずも、かような承認済みの、人間製の美意識(作品性)の増強に加担する役割を担ったのであった。
音楽に、レギュラーも補欠もあるか。なんとなれば、大会本番でなくとも練習でもよい、選別されたレギュラーどもが安心して、大衆にとって無害安全な楽曲を小奇麗に奏している最中、己のトランペットを、例えばブギャギュギュブワワブツツブギョギョインブグワアといった獰猛な音を吹きまくればよいではないか、しかしこれを実行するのは多少勇気がいるだろうが、せめて、これぐらいの反骨を思いつくことが出来れば、補欠の烙印押されたからといって泣くことはないだろう、泣いたという事は、従って、ブギャギュギュブワワブツツブギョギョインブグワアといった手に付けられぬ獰猛な音を、レギュラーたちの乙に澄まして統制された演奏をバックに無茶苦茶に吹き鳴らせば愉快な音楽になるに違いない、という芸の知が働かなかった証拠なのである、あの、補欠部員は…。この意味で、この補欠部員は、まさに音楽という芸道に照らせば真の意味で、補欠なのであった。あるいは、いずれ誠の音楽を本番する可能性があるという意味でも補欠であった。レギュラーどもは、教師に承認されたがゆえに音楽的に何の価値も無い奴隷である。
いまだ、悪趣味とは何か、系譜とは何かつまびらかにはせぬが、ともかく見切り発車で既成事実を飛び火させるべく悪趣味の系譜編。ピーター・アイバースという殿方。珍妙。アメリカ、1974年作。男声か女声かも判然せぬ、情けなくもおおっぴらに調子を外すのを厭わぬ声を気ままに、噎せるブルースをピンピン鋭利にエフェクトさせながらもアシッドフォークの、黒く静かな野獣の底なしの口腔に覗かれる、間が悪くだらだら間延びした暗闇。小動物が姑息にタガを外して工夫の効いた小さな音が控え目に逃げ出す苦み走り。ひよひよした自由。聴きながら車を運転していると、暑熱で少し頭がやられていたのもあるが、この愚駄愚駄リズムのアシッドミュージックのおかげで自律神経中枢がおかしくなったのか、2回も出会い頭で事故しそうになった、生き急ぎたくないけれども危うい音。
peter ivers :vocals & harmonica
buell neidlinger :bass & string bass
paul lenart :guitar
alice de buhr :drums
marty krystall :saxophone
kathy appleby :violin
sherlie matthews, marti mccall, lisa roberts, andra willis, jackie ward, dean rod :background vocals
「yes/tormato(1978)atlantic #19202」 2010年8月14日 敗戦忌
連日の第二次世界大戦特集NHKスペシャル。この時期での集中的放映のみならず、シーズンでない時でも断続的にこの手の特集をきっちり組むNHKにはこうべを垂れる思いで、毎回釘付けです。話には聞いていたがシベリア抑留者どうしの、文字通り命がけの吊るし上げやソ連思想教育の実態や、大本営の玉砕発表の影で、玉砕から生き残った人々が少なからず存在した事実、そして彼らが憲兵から受けた扱いや彼らの思い…わらわし隊のミスワカナ、大事なことを伝えてくれてありがとう。ただ、多くの場合、筆舌に尽くし難い戦争の悲惨さをぼそり、ぼそりと、生き残った軍属や非戦闘員の人々が自分の言葉で述べるのであるが、そうした悲惨な大状況に、自分ではどうにもならぬ力によって巻き込まれてしまった、という受け身の、非当事者的感覚でしかあの戦時体験が語られず、後の世代にもそのようにしか継承されないならば、今後何度でも、ファシズム的状況が発生するだろう。民主主義とは有権者一人一人が歴史の当事者であり、政治の失政の結果を蒙りながら、且つ、その失政の責任があるのは有権者自身であるからだ…国民すべてに責任があることは即ち責任の所在が不明であるという、戦後民主主義と戦時天皇性が共通する、大いなる無責任の体系…歴史に通底する民主主義…この辺について語れば長くなるし小生の思想の根っこに当たるので、今宵は出し渋ります。NHKの集金の熟年女性がピンポン鳴らして来る度に、息を潜めて居留守使う我が家庭ではありますが、毎月郵送される振込用紙は捨てずに取ってある…そろそろ払うべきか…。
最近書いていないからといって、あの、バカボンのパパ風のファッションをした、向かいの家の熟年男性による、小生の車庫入れに対する監視が終わったわけじゃない。今も、車を車庫に入れるたびに、陰険そうな監視を受けている…何か言いたいことがあるならはっきり言ってほしい…
最近、小生がプロデュースし、細君にデザインしてもらった手作りTシャツは、ナチュラル系フリーマーケットでも売れた実績のある品物である。まだまだ作らなければならないデザインがあるが、ここで、小生にとってのTシャツとは何かを考えた。Tシャツとは、着る掛軸である。茶の湯における掛軸はその茶会のテーマを示す物であるが、Tシャツもかくあるべし、と思う。その日その時のレジャーや遊びの主題を明確に示しうるようなTシャツ。
地元の特産品、熊野筆の、目に適った品をお助けした。硯で擦って使う墨も、購入。早速、以前骨董市でお助けした、海の周りに雲竜が浮き彫りされた硯で墨をすり(似非古伊万里の、こいつめ!と弾きたくなるような野暮ったくも可愛い水滴も使用)、書道の練習がてら、小生が10年以上かけて育てた結果ようやく古格を帯びてきた紙に、知人への書状を書く毛筆の楽しさを堪能。墨には青墨と茶墨があるのだが、小生好みの茶墨を選択。文人気取りか!
細君に隠れて、趣味の盆灯篭収集も実行に移した。雪見灯篭型の大内行灯と、御盆前の廣島のコンビニには欠かせない、紙と竹でできた灯篭(その年に身内が亡くなった家族用の白いものと、そうではない通常の彼岸参り用の、色紙をふんだんに使ったものの二種)を購入。書斎の中の、増えに増えたる盆灯篭群を見るにつけ、我ながら不気味であり、自分の不謹慎による不幸の襲来を恐れる日々…。
ガセネタであると思うが、スーパーモーニングという朝のニュース番組で、「はだしのゲン」が絶版、というテロップが一瞬、表示されていた…どういうことだろう…自分の勘違いだろうか…平和関係の表現は小説、詩、映画、展示等々ある。生き残った方による語り部活動というのも重要である。しかし、ゲンに勝るものがあるのだろうか…生ぬるい平和教育でお茶を濁す前に、8月は、国内外で、「はだしのゲン」を流しまくるべきなのだ…自分は決して見ないが…この漫画とアニメは、今でも小生のトラウマである…いずれにせよ、たとえこの世からはだしのゲンが絶版になっても小生だけは所持している状況を作るために、全巻、買うつもりだ…、無論、買ったとて、ページを開くつもりは全く無い。
そろそろ低迷から脱出せねば、しかし、またキツめの生活が始まれば速攻で低迷にぶり返す可能性大なれど、一歩進みたい、「悪趣味の系譜」編へと。本当は、以前語りそびれた10ccから始めるべきだが、構わず、本作にて。イエスのトマト、1978年、である。イエスはコンプリートしているので最終的には全アルバムを語らなければならないが、なぜトマトを?と思われる節があるかもしれない。イエスのアルバムの中では、プログレ絶頂期が過ぎた頃、パンク/ニューウェーブ/モダンポップへの独自解釈を施したアルバムであるが、そのへんを軟派だとして一部のプログレ好事家からは否定されがちなアルバムではある。無論、イエスの、プログレ性を真率に体現した諸作品も至宝であるが、小生は、このアルバムの隙間産業的重要性に耳が離せない。また、悪趣味の系譜ということを考える上で、こうした、境界線上の音楽への過敏が必要であった。
まずこのジャケット。名前忘れたが金属探査しているような紳士の白黒写真に、トマトが小汚く殴り付けられている…血痕ではなくトマト、という馬鹿馬鹿しい脱力…本当にどうでもいいんだという荒れた制作姿勢が伺える…メンバー間の仲も険悪だったらしい、本当にどうでもいいんだという捨て鉢な気持ちで作られたと伝えられるこの作品の、なんというきめこまやかさ…。プログレバンドによる、プログレ末期におけるパンク/ニューウェーブ/モダンポップ受容、という現象はイエスやキング・クリムゾンなど多くの有名無名バンドに聴かれるが、単純に十把一絡げには出来ない各々の事情を聞き取らなければならない、他ならぬ、残された作品を注意深く聴くことによって。イエスのモダンポップ化とキング・クリムゾンのモダンポップ化だけ聴いても全く別の現象である。正確には、イエスのモダンポップ化ではなくて、イエスは、一般にモダンポップと云われながら収束しえないようなそれでも茫洋としてあるようなモダンポップ音楽とは別種の、珍妙な音楽の頂きを、イエス台地の上にそびえさせたのであった。(キング・クリムゾンについては別稿を要する)
なだらかな上り坂を天使的な光速で駆け上がるがあまりになだらかなため、地上とは隔絶した天上には至れぬ、それ故にいつまでも続く爽快感がどこまでもパストラルでスペーシーなのが決定的にイエス。パンクモダン系のツッパリやヒネクレは皆無でありながら、プログレ的技術主義とは異なる、小粒ながら技の精巧が透けて見える根付的モダンポップアレンジの偏執的妙境が、楽器の多さを厚かましく感じさせないバランスを保っている。プログレとモダンポップの分水嶺(泣き別れ!)に位置する本作は、孤立を余儀無くされる悪趣味の系譜の道標でもある…。
ジオットの宗教画と同等に、天使というものの存在を強く感じるアルバムである。
余談ながら、「僕の地球を守って」という漫画を友人に貸した時に、スペーシーなこの漫画に相応しい音楽として、このCDをいそいそ録音したカセットテープも一緒に渡した、うれし恥ずかしの記憶ありあり。
jon anderson:vocals and alverez 10 string guitar
steve howe:gibson les paul custom, gibson 'the les paul' , spanish guitar, martin 00045 fender broadcaster, gibson elec. & ac. mandolin and vocals
chris squire:harmonised rickenbacker bass, bass pedals, gibson thunderbird bass, rickenbacker bass, piano and vocals
rick wakeman:birotron, hammond organ, harpsichord, rmi, and polymoog
alan white:drums, military snare drum, glockenspiel, cymbal, bell tree, crotales, drum synthesizer, gong, vibraphone, percussion and crotales
