「the mops/psychedelic sounds in japan(?)vicl-18212」小沢
たいしたことではないけれども下線部を後日追記しました。
タモリ倶楽部、昆虫の脱糞映像特集やっている。吾が邦の至宝の番組である。
近所の豚カツ屋がドライブスルーを始め、マクドナルドは宅配を始めたらしい。毎年恒例の、日本伝統工芸展を見に行く。どうせ手に入らない品々を見るだけ、というのはいたずらに物欲が増せどどうにもならないから鬱屈が溜まる一方でもどかしい気持ちでおかしくなりそうだ。毎年の事ながら鋳物の釜だけは欲しゅうなるものがある。備前焼と萩焼がやたらと多い…備前枠あるいは萩枠という、強固な権力基盤が形成されている模様である。中でもちょっとどうなのだろうと思ったのは、審査員で備前の人間国宝である伊勢崎淳の、牡丹餅の巨大な板皿が展示されているところの近くに、入選者として伊勢崎何某という、淳の係累とおぼしき人物の作品が鎮座してあった事であり、しかもこの作品が、ほとんど先述の伊勢崎淳の作品と同じような巨大牡丹餅板皿なのだ。師匠と同じようなことをすれば入選ということなのか。ちなみに伊勢崎系の人が二名入選していた。どうでもよいことではある。美術館のショップで、リアルに人糞のような形(なり)を荒々しく残す、ホオの木の茶合をきっちりお助けする。
先週デパート天満屋の美術品部門で目に留まった、呪的文様が刻まれた青磁の平盃と、藁灰釉にタンバンを施した高坏の盃(底に碧の湖が小さく溜まる…)を、一週間考え抜いた結果、今日お助けした。世の既成の評価を自動的に表出する事しか能が無く従って物の良さなど分かるまいと小莫迦にしていたデパートの美術部であったが、偏見はよくないのだろう、よい品はいつどこに潜んでいるのか、全く油断ならぬ。
ザ・モップスのサイケデリック サウンド イン ジャパンである。CDのどこにも、原盤の発売年月日が記されていないのでよく分からないが、当たり前だが恐らく60年代後半から70年代前半のものだと思われる。お揃いの制服GS全盛期のころ、彼らは思いも思いの如何わしい装いで登場した。いわゆるサイケデリックな服やいんちきチャイナ服、インディアン風や闘牛士などの装い…。日の本においてGSという枠組みから外れようとした動きを見せた最初期のバンドらの一つであったと思われる。このアルバムのサイケ観はいわゆる英米の産業サイケを直輸入したようなものでさして目新しいものでもなく、日の本のロックとして英米サイケを換骨奪胎しようとする形跡を認めるのは困難であろう…。この王道なきロック史において再三提唱してきたサイケデリア性の荒ぶる淵源をとらまえることは、出来ていなかった。英米の古典ロック楽曲のカバーの合間に阿久悠作詞の従来型GS楽曲を配置するというところに新奇を聴取すべきかもしれぬがそこまで肩入れする気持ちもしない…最早カバーとオリジナルの区別なども必要ない、先人の楽曲を自分らで改めて演奏歌唱することも全てオリジナルだと考えてなんら支障はないであろう、殊にロックやジャズなどという音楽においては。
そうはいってもモップスの、特にカバー曲、否、オリジナル曲に聞かれる、下顎諸共内臓吐き出さんばかりの勢いや余裕の無さは、特に孤独の叫びという古典においては白眉であり、奇しくもハードロックに通ずる殺伐たる混沌を呈していた。氷結した雪原を這い回る亀裂のようなジゲジゲのギターの、決して上向くことのない低調のしゃがれ音がイライラとはびこるのがよい。
華厳経の本を読みたいので今宵はこの辺で。
鈴木 ヒロミツ:ボーカル
星 勝:ボーカル、リード・ギター
三幸 太郎:ボーカル、サイド・ギター
村上 薫:ボーカル、ベース・ギター
スズキ ミキハル:ボーカル、ドラムス
「軍歌のすべてcocn-20033」小沢
冷蔵庫の中で乾燥しきった生ハムは、ただの生ハムよりも酒に合う。以前、常滑焼紀行で紹介した、ナウシカの黴の釉薬のぐい飲みで酒を進める…中也の、汚れっちまった悲しみのような、小汚いぐい飲み…今宵も長い夜になりそうだ。
ブラウス収集家でもある小生。落語でも聴くかと思って大手レコード量販店に向かう途中のエスカレーターで、肩の根元から虹色のゴムで袖を支えている不思議なナチュラル乙女系ブラウスを発見、胸元のドレープや刺繍の上にまで何やら細かい細工を施している品物が気になったまま、その時は小生単独だったためと他の事で頭がいっぱいだったため見逃していた(その品が真に重要であるように思えて、且つ小生の気合が漲っておれば女物のブラウスだろうが猿股だろうが鷲掴みにするのであるが)…後日、このまま見逃しにするわけにもいくまいと発心し、寒気厳しく気乗りしない細君を連れて再見を試みる…過日はちら見程度であったが本日詳しく実見するに、うーん、これはあまり良くないな、と思う品であった。胸元の飾りの細工は、あえての仕業なのだろうが小学生が家庭科で初めて裁縫した結果のような拙さで無茶苦茶にブラウスの白地に赤い糸の縫い目が点在し、チャらい光り物が雑に縫い付けられている…さすがにこれを細君に着せるのは気が引ける…否、細君が嫌がろうが何だろうがそれに価値があればお助けするのであるがこれで値段が25000円はちょっと高すぎる…ということであきらめた。いや、本当は価値があったのかも、と思い返したりする逡巡が無きにしも非ず。
先鋭的なものが決して嫌いではない。東京カワイイTVを拝見。萌え系の女子が握る寿司屋なぞやっている…アキバアイドルの方がステージ上で、かつてはファンの男どもが創始継続していたヲタ芸を激しく実演する模様…日曜日夕方の、ヒーローの男が正念場で「銀河美少年!」と叫ぶアニメも毎週見るようにしている。始めからアニメ化をあてにした作風のものばかり掲載した漫画雑誌ガンガン所収。敵の女性が、なんとなくこの銀河美少年に惚れてやられてしまう、切実に生死が関わる余地は無いという緊張感の無さであり、バトル場面であっても萌えの約束事に過剰に徹底的に終始する様は、予定調和という古めかしい言葉で批判する居丈高な態度を萎えさせて余りある新しさなのだろう。アキバやヲタ的なものが先鋭的かどうかという議論もどうでもよいのは十分承知しているつもりだが、自分としてついてゆく気が全くしない分野である。
落語でも聴くかと思って行ったレコード屋ではなかなか落語CDが見つからず、仕方ないから軍歌でも聴くかと思って、ちあきなおみのシングル集(「喝采」がもう一度聴きたくて…)とムード歌謡ベストなどと一緒にこれを購入した。いずれ考究しなければならない対象だとずっと思っていた。聴くに、概ね軍歌の曲構成は、マーチ調の演歌であるといえる。戦争における出征の目的が勝利ではなく何故か死そのものに置換されているような悲壮な軍歌の楽曲から、日本の第二次大戦末期の崩壊へ向かう異様な情熱やアイロニーを考察できれば、という思いであったが、このたびのCDでは、どちらかというと軍部お墨付きの、上り調子著しい陽性の、単純なプロパガンダに終始した楽曲が多かった。各国特有の軍歌はあろうが、これほど、勝利という言葉が軍歌の中でほとんど見受けられない国はあろうか。かの有名な「露営の歌」でも、冒頭、勝てくるぞと勇ましく、と歌ったかと思えば、末尾では、戦する身はかねてから、捨てる覚悟でいるものを、鳴いてくれるな草の虫、東洋平和のためならば、なんの命が惜しかろう、と結ぶ…同じく有名な「麦と兵隊」(火野葦平?)ではもっと顕著に、勝利のあてのない大陸での行軍=戦争の徒労感が哀切である。いずれにせよ男声合唱団の分厚さがナショナリズムをきっちり高揚させる。「ラバウル小唄」のような、ウクレレがひょうきんな珍楽曲も、この音源に収録されているということはそこそこメジャーなのだろう。しかし最終的には万葉歌人家持の、有名な「海行かば」に収束される…歌詞だけ知っていて曲は初めて聞いたが、思っていたよりも荘重で堅固な作りであった。大君の辺にこそ死なめ、と聴く時、卑近の生活上では天皇とほぼ無縁である小生であってみても何かしらその気にさせてしまいそうな崩落への傾注への異様に薄暗く充実した情熱に押し流されそうになる…
兵士が戦死する時、天皇陛下万歳と言って死ぬ者などいなかった、嫁さんの名前やお母ちゃんお母ちゃんと叫んで死んでいった、と身近な老人やNHKスペシャルなどで取材された老人が証言する。まるで、これが戦争の真実だった、といわんばかりに、である。小生も確かにそれは真実なのだろう、と思う。しかしながら、こうした言説が、戦後になって語られる事自体において、戦争の真実(そんなものがあるのかという疑問もあるが)を隠蔽しているように思えてならぬ…。かような、確かに目撃した事実のみを正しいと認識する素朴な意識が、実は戦争の餌食になりうるのではなかろうか…天皇陛下のために、あるいはお国のために死ぬ、という途方もなく抽象的な言説もまた、政治的現実において実効力を振るったのも間違いない。
雑なとらえ方であるが不景気や民族、宗教対立、資源の争奪といった生存権に関わる不安を国家規模で受け止めた場合に勃発の萌芽が見いだされるのであろう戦争は、自分の命が危ないというプリミティブな危機意識からも発祥するし、さらにはそうした危機意識から端を発しながらいずれは言説として幾らでも増殖し機能する何かしらの抽象的な理念をも駆動力とするようになるのである(八紘一宇やアーリア人種の優等性や…)。商品と貨幣の関係のように。戦争は命への危機を起源とするし、あるいは、初めは命への危機を起源としながらもあっという間にその起源をぶった切って独立独走しうる理念からも戦争は栄養を直接もらうのであり、なんとなれば命への危機という極めて具体的であるはずの事も理念化抽象化されうるのであり、疲れたので思考ができないがいろいろあって、最終的に、命の維持が目的であるはずの戦争が、命の死を目的にし始めるのである…勝利を見失って死を目的化し始めるような陰惨な情熱が、大局的戦略が失われた戦争現場での逐次対応に追われる中での特攻といった戦術を、追認し助長し始める…初めは追認する役割だったそうした情熱が、ついには目的と化する。戦争終結の報を受けた上官が、それでも特攻出撃の命令を直ぐには止めなかった、そして若い兵士を文字通り無駄死にさせたという逸話はいくらでもある。他にもいろんなことはあろうが、今宵はすべて列挙する気力はない…いずれにせよ、抽象性よりも具体性に価値を置くような、具体と抽象を弁別するような浅はかな思考をしていると戦争にしても政治にしても芸能にしても何も分からないだろうと云える。最後に、「海ゆかば」を記す。
海行かば水漬く屍
山行かば草蒸す屍
大君の辺にこそ死なめ
返り見はせじ
大伴 家持 作詞
信時 潔 作曲
佐伯 亮 編曲
収録曲
「軍艦行進曲」
「暁に祈る」
「露営の歌」
「若鷲の歌」
「ラバウル小唄」
「ラバウル海軍航空隊」
「加藤隼戦闘隊」
「空の神兵」
「荒鷲の歌」
「月月火水木金金」
「愛国行進曲」
「燃ゆる大空」
「日本海軍」
「日本陸軍」
「敵は幾万」
「雪の進軍」
「戦友」
「父よあなたは強かった」
「勝利の日まで」
「麦と兵隊」
「梅と兵隊」
「同期の桜」
「異国の丘」
「海ゆかば」
結局、落語はなぜか日本人のジャズコーナーの隣にあった。どういうことなのだろう…。談志の芝浜を購入。
「kinks/kinks kinda kinks(1964,1965)vicp-5328」小沢
恒例になりつつあるが小生の書斎に未虫が発生するようになって当惑している…窓ガラスの結露がひどくなり室内の湿度が高まるとこいつが何処からともなく繁殖してくる…未虫というのは小生が勝手に名づけた生き物であり、大きさ0.2㎜ほどの肌色の虫である…シャープペンシルや小生愛用の雲龍硯、収集物の盆灯篭や竹炭ループタイ、果ては備前の徳利にまで疎らに、時に密集しながら蠢いている。毎晩小生がティッシュで拭うのであるが、職から帰るとまた同じ箇所に生息している、抜本的な対策を講じる知識も努力もできないまま、毎晩愚かしく同じことを繰り返している。気持ちがおかしくなりそうだ…。
苦行に耐える菩薩の爪痕のようにくっきりと厳しい、痩身の月がこうこうと照る冷たい夜である。確実に最悪だろうと思っていたことが確実に最悪だった、新年早々から職では碌なことがなかった。制度が制度として自立しているのであればそれを袖にすればよい話で簡単ではあるが、制度というのは人間を宿主にするものであり、血の通わぬ制度は存在しない。持ちつ持たれつ生活する人間の血が本質的に通った制度であるからこそ安易に敵とは措定し難く、拘泥してしまうのだろう…情緒ある人間の生身として現象する制度を容赦なく張り倒すことは、その、他でもない眼前の人間を言葉ないしは拳で張り倒すことができるかどうかという肉迫した問題にすり替わる…結局組織として生活のお世話になっている眼前の人間を…。金がもらえることだけでも有難い事ではあるがそれ以外は被侮辱意識と加害者意識と吐き気しかない賃金時間である。職に対する内的隷属を強いる自己実現だの自己啓発だのといった欺瞞的洗脳に縛られるよりは、上記のような、働く喜びなどといった概念がはびこる余裕のない、心理的には資本論が示したような底辺の労働状況に居る自分の生活の方が何だかはるかに清々しい気持ちだ(マルクス/エンゲルスは産業革命後における労働者の疎外という問題意識によって働く喜び的なものの付与の重要性を意識していたような気がするが)…未練がましい開き直りかもしれぬが、自分が研ぎ澄まされるのは確かだ…
はびこる未虫を酒で洗い流したモダーン酒器で虫睨みでNHK会社の星、オフィスでのファッション特集をじっとり鑑賞…先述の内的隷属の是非を問うレベルですらなく、最早、どのようにすればその媚びを昨日よりも高められるか、という率先した媚びのスキルを磨く、俄かには信じがたい番組である…会社というのは町工場の旋盤工やら遠洋漁業の漁師さんやら派遣社員やらいろいろいるだろうに、総じて、いわゆるオフィス系の、生産現場からほど遠い小奇麗な若手社員しかでてこないのは如何なる料簡であろうか。
キンクスのファーストとセカンドが一緒になったものである。ずばり変態、というバンド名、初っ端から、タガが外れたように素っ頓狂な、後味の悪いリズムを焼け糞に繰り出し、踏み潰された虫が踏み潰されながら不屈の目つきでがなり立てる、汚いだけの虫の声を乗せる…ジャケットは、朝のニュース番組の小倉智明のように分別ありげに気持ち悪く手を組む彼らは朱に染め抜かれ、朝焼けか夕焼けか想像させる…小生は朝焼けが滴っているのだと思う…希望の無い、陰惨なる朝の、既に腐った光を馬鹿馬鹿しくも神妙に浴びる彼ら。気ぜわしくも余裕のないけたたましさの、愚連た鰹のような生きのよさは荒みに荒んでいて、よい。荒んだ生活しているとマックやら激マズ回転寿司といった荒みスポットについつい足を運びがち、ロックもまたしかりである。余裕のある人間が癒しを求めるのであり、荒んだ人間はさらに荒みを尖らせるため荒んだ作物を摂取する…こんな人間の荒んだ欲求を音楽において初めて提案しえたのがロックであった。ジャズではまだ足りなかった…繰り返しになるが民俗生活に根ざした黒人アフロ音楽に恥知らずの白人が頭ごなしのリズムを介入させた時、安住を許さぬロックが生まれた。キンクス=変態どもは、英国ひねくれのエッセンス元祖と見なされるだけでなく、ロックという、疎外されながら良くも悪くも大きい音楽の蕊として聴かなければならぬ。
「あぶらだこ/adk years 1983-1985(1983-1985)pcd93130」小沢
自分の失態による事態の悪化の直接の影響なり責任をとらなければならない各立場の当事者は事態の改善に忙しくあれやこれや云う暇はないのだろうが、この事態にたいして関係ない、責任を取る必要のない部外者に限って、自らの安全な立場にふんぞり返って、枠組みの中で承認された一般的正義的言説を振りかざして文字通り無責任な浮かれ心に無自覚に没入するようにして、わざわざ言いたい放題罵倒してくる、自分の責任とはいえこちらはそんなのに対応している暇はないというのに…というような、人間の度し難い醜さが炙りだされる日々であった…。しかしこれはマスコミ民主主義の姿でもある…世論とは私刑である…(芥川)。枠組みに浸かって保身しながら枠組みの意向そのものを自分の意見のようにして振りかざす人間など信用してはならないし気にすべきではないと思いつつも、物理的音声として叩き付けられた衝撃というのは、理性によってはなかなか癒えぬものである…。自分も含めて枠組みから解脱した人間などいやしないのであるが…。
よく通る道沿いのブロック塀の庭から生える白木蓮の枝枝の新芽か蕾かが、早とちりなのかほころびかけている気がする。まだ早いぞ、と毎朝でもなく心の声をかける。
霧の深い朝、はるか上空の雲から、3本の電波塔がそびえ立っているのが見えた…ついに幻覚が現れたか。
朝起きたら、奥歯のあたりが全的に疼く…虫歯ではない。家人の指摘によると、小生、夜中の歯ぎしりがすごいらしい…何をそんなに苦しんでいるのか歯を食いしばってキリキリ音を立てながら寝ているらしい。小生は目が覚めているときよりも夢の中で、厳しくぎりぎりの現実に直面させられる場合が多い。日々の不安や恐れが、夢の中では現実になっているのだ。脱力した快眠を渇望する。
テオドール・W・アドルノの「ミニマ・モラリア」(法政大学出版局)を読む…ナチス政権成立後、彼はアメリカに亡命するが、これはその前後の、ファシズムとの対決を余儀なくされたフランクフルト学派として最高度に敏感ならざるをえぬ1940年代の著書だと思われる…今少し書き足りぬと思われる部分もあるが、ほぼ現在の状況に言及している…「死に至る健康」と題された章などは、卑近な例としては端的にNHK「会社の星」や「デジスタティーンズ」を理論的に批判するものだった。全文引用しないと分かりづらい書き方してあるので有志の方は全部読んでほしいが、無理やり抜粋引用する。
「陽気さとか、あけっぴろげな態度とか、如才のなさとか、避けられぬ事態への適応の早さとか、物事をくよくよ考えない実際主義とか、種々の形を取って現れる…」
「似たもの同士ともいうべき損なわれた社会と同じように正常なこうした心の状態は、いってみれば有史以前の介入の産物なのである。この種の介入は葛藤を生ずる前に心のエネルギーを萎えさせるのであり、後年見られる無葛藤な心の有り様は、こうして事前に決着がついているという事実、いわば集合的な権威の先験的な勝利を反映したもので、認識を通じての快癒の現れというわけではないのである。」
「溌剌たる元気とはちきれんばかりの精力を証明することに憂き身をやつしている彼らではあるが、見様によっては標本化された死体に過ぎない、ただ大往生とは言いかねる彼らの死亡について人口政策上の理由から彼ら自身には通知が出ていない、たとえてみればそんな具合なのである」
「円転滑脱に論理を運んでいる最中にうつろにぼんやりした様子がちらついたり、時に途方に暮れた身振りが現れたりすれば、まだしも消え去った生命の痕跡をそこに認めることもできようが、そういうことすらないのである。」
「それというのも社会的に要求される犠牲は全面的であり、(中略)事態は八方ふさがりというべきである。」
永久機関のように非現実的ですらあるにも関わらず実際には現実的対応能力に長けた、予め権威化された現状と齟齬を生まない健康的人間の、問題化されず告知され得ぬ人間性の死、という指摘は、既に、否、むしろ、ファシズム状況下のドイツ(そして、無論帝国主義的列強諸国においてさえも)で観察されるものだったのである。この章は当然ながらキルケゴールの「死に至る病」を念頭し、「死に至る病」がいかんともしがたい実存認識と現状との齟齬による病(「うつろにぼんやりした様子がちらついたり、時に途方に暮れた身振り…」)をいうのに対し、「死に至る健康」は上述のとおりだ…このあたりをもっと深めるためにキルケゴール再読したいが、ああ、またしても、どこに行ったのだろう。所持していたはずなのに、見つからない…また買うしかないのか、苛立つ。
ただ、思い返してみればアドルノの云う、社会的健康者への死亡通知というテーマは多くの芸能者、とりわけ文芸の徒が群がる餌でもあり、ともすれば村上春樹でさえもそうした素振りを示しもする凡庸な問題意識でもあったが、凡庸化無害化させられる成り行きについての考察に、ポストモダニズムも含めて多くのインテリゲンチャが自家撞着的言説を資するのみの、「八方ふさがり」である…。
身も蓋もなく憔悴しきっているかに見える小生であるが、家人から、「鼈甲釉っ!」と声を掛けられると僅かに気を持ち直すことができるゲンキンなものである。こんな時こそ数寄に走ってしまう。薩摩焼の図版をねっとり眺める…薩摩焼の一角をなす川内焼…伊万里まがいの半磁器への染付が主だが、少なく伝世する鼈甲釉の酒注や六角皿というのに頗る心を鷲掴みされるではないか…いわゆる唐三彩に想を得たのだろうがあまりに独創的だ…黄色、黒色の釉が混沌と分布しながら交わらぬ蟠りの輝きに穿たれる緑、時に白。薩摩には、いわゆる黒もんや白もんのみならず蛇蝎釉や鮫肌釉といった、俄かには信じがたい器肌への追及もあって、現地調査が必要である。来年、絶対行く。宝玉の類では、ダイヤなど自分にとっては屑同然であり、値段関係なく、瑪瑙のほうが心ゆすぶられる…概して鉱物系よりも、真珠、珊瑚、琥珀、象牙そして鼈甲といった動植物系の宝を称揚したい。
あぶらだこの初期音源集である。小生は、自分が愛飲したいビールとして、世の中に無いから「エラスムスビール」というのを勝手に夢想、主著「愚神礼賛」をものしたエラスムスの図像を配したラベルを家人にデザインしてもらっていたが、このアルバムのジャケットもエラスムスであるという、因縁。
疲れたので多くが語れないが、自分が今まで語ってきた全部の言の葉を捧げれば、このアルバムについて如何ほどか言えたことになるかもしれないし、それでも足りないかもしれない。要するに、あぶらだこは、小生が所望してきたロック=ハードロックというものの、一つの決定的な到達点であると宣言する。サイケデリアの、不用心に手を出せば不意に平穏を破って噛み千切ってくる凶暴性の深い平和と、一方で何の用意もなく無鉄砲にやり出した乱れを拙く尖らせるガレージの乱れに乱れた粗暴というのが音楽的に骨身にしみてこそ繰り出されるであろう、破壊と同義である構築性を矛盾のまま、積極的に自分らの街を自分で空襲した後の爛れて壊れたビル群家屋群が総出で統率なく暴れまわる移動の無さで嘆きも滑稽も汚いハードロックである。そうしたことを体現する、人間やめた時から人間が始まるような獣のしゃがれ声絶叫。低姿勢で攻撃性をとがらす。日の本土着のサイケを模索してやまぬ珍珍歌詞世界、右肺と左肺を交互に高速で正拳ツキしてくる生き急ぐリズム。脊椎の一つ一つが、椎甲板をかなぐり捨てて無茶苦茶に激動する魅惑の変拍子の怒涛。ノイズが楽器を弾くとこうなる。度を越した爆音が耳を聾する時、果たして今まで聴いていたのか、と、音楽と聴覚の前提を真っ先に切り崩してくる力技のようでいながら、腰砕けで芯が通っていず、まっさらな愚かである。あぶらだこを以て、ハードロックは現存する、と言える。繰り返すが世俗的にはロックの王道のようでいて、実際にはその本質的ギリギリ境界線綱渡り音楽たるゆえに権威的流布を拒み拒まれながら忍ばれ、水平線を越えようとする無謀の渇望にあって幻聴されたサイケ=ガレージ=ハードロックの中の、一つの点在するバンドである。以上、パンクという脈絡を使わずにあぶらだこについて述べてみた。あぶらだこやジャングラーズは、パンクやハードコアの文脈を通ってハードロックへと還り咲くありようであり、それはそれでよいと思うが、小生としては、もう一つの素直なルート、即ちガレージ性のプログレッシブ化をもってハードロックをやるという、在り来たりなようで実は危うい音楽を聴きたいと熱望する。そのためには、ラブ&ピースなどという体制の許容範囲にすぎぬコマーシャルに誤魔化されずにサイケデリアの本性に耳を澄ます必要がある。サイケについては過去のブログを遡って読んでいただければわかると思う。しかしながらパンク文脈からも離反せざるを得ないあぶらだこの音楽は、ハードロックの点在性をも意味した。
これは初期音源であるが、その後の彼らの音楽は、日の本サイケデリアが依拠すべき土民主義とでもいうべき妙境を提示しつつばかばかにしていった。いずれ詳論する。この場合の土民主義というのは、初期アナキスト石川三四郎が、既成の村落共同体による反国家を言いながらも資本の利にかなう農を称揚するに過ぎない欺瞞的農本主義に対抗するものとして、時に実力行使も辞さず不逞にもしたたかに支配勢力と抗った、日の本の歴史に通底する土民の生活にアナキズムの萌芽を見た思想である。
あぶらだこのような音楽を聴くと、スカコアとかメロコアとかモンゴル800などの欺瞞表現が本当に腹立たしくなってくる。
ヒロトモ:vocal
イズミ:guitar
マルイ:drum
ヒロシ:bass
「the genovaのロシアものについて」諫早
かつてないほど、今週は最悪だった…自分が手がけた新製品が、今週末の最終試作で、全く、できない、という事態に陥った。来週初めから正式に量産開始というこの時期に…全身からさぁっと血が抜ける寒気に襲われる。絶体絶命、電話の嵐、責任のなすりあい、組織からの袋叩き…今更出来ることなど殆どないが、気休め程度に出来るだけの策を施して来週を迎える、ほとんど無策状態。天命を待つのみ…まあ死ぬわけじゃあるまいし、戦争に行かされるわけではないし、と気休めしつつ、不意に、科学テロ、という言葉が薄暗くよぎる…蒲団の中でがたがた震えながら、ハッチハッチェルの新譜「理由なき祝宴」を、それこそ藁をも掴む思いで必死に聴く…聴いたからとて好転することなど絶対有り得ないのだが…聴いていると、どんなに現世が辛くても強制的に笑わせられてしまう、まるで笑い茸のようだ…苦しすぎる泣き笑いの発作で死にそうだ…
かつてこの王道なきロック史でも論じたことがあるスパイダースのアルバムvol.1とvol.2を聴きたいと唐突に所望したが、見つからない…。どこにもない…。仕方が無いからアマゾンで買おうかと思って検索しても、vol.2の再入荷予定がないとのこと。熱いカバー集であるvol.2がどうしても聴きたいので街に買出しに行くが、無い…vol.1のみ連れて帰る…消化出来ぬ記憶のしこりがまたしても残る…
高橋源一郎と、ロビー的なところの椅子に座って議論する夢を見る…道元について思うところを聞かれ、小生としてかつて見解をまとめていたが思い出せず、側にあった、自分の思いつきを記録したノートやメモ類をめくるが出てこず、待ちきれぬ感情を露にした高橋氏が、「道元は高みへ昇ろうとしているのか」と言い、小生は答えて曰く「否、底辺へ向かおうとしている」。ここで目が覚めた。道元についてまた勉強しなければならないようだ…道元の文章で使われている単語が全く分からないからきついのだが…
掲載している写真はザ・ジェノヴァではなく、ザ・プレイボーイの「ジュビデビで行こう」のシングルジャケットであると思われる。街のレコード屋さんにふらりと迷い込むと、60年代GSのシングルの寄せ集めCDの類が多くある。これは「カルトGSコレクション[クラウン編]」であり、sixties japanese garage/psych raritiesと銘打ってある。60年代GSを、欧米ロックの文脈としてガレージ/サイケ運動として捉え直す、思想的な意志が強いシングル集である。往年のファンのみならずロック数寄の若い人々の問題意識をくすぐらんとする意図が明白であり、それを買ってしまう自分というのが何かしら媚びているようで情けなくも恥ずかしい思いもありはするが、確かに、この問題提起によって発せられるであろう聴取方法の改めというのは避けて通れぬし、レコード会社が提起しなければ他の者や他ならぬ小生が遅かれ早かれ提起せざるを得ない、有体に云えば在り来たりな問題提起であった。
種々のGSバンドの音が2、3曲ずつ収録されている。GSをガレージ/サイケと見なすこの問題提起、概念設定に対しては大いに是々非々論じたいところである。しかしながら今宵はそれを忌避するとして、そのように漫然と聞くにしてもどうしても耳についてしまうのは、この、ザ・ジェノバである。戦後のいつからかは思い出せないが、日の本の歌謡界でロシア民謡が流行った時期があったかと思うが、短絡的に云えばザ・ジェノヴァはそうしたロシアものの、まことに隙間産業的な流行をGSとして律儀に全うしようとした結果なのだろう。だが、なぜロシアものなのか、よりによってGSというロックの端くれなのに…バンド名はイタリアの地名なのに…そんな疑問などどうでもよく、ロシアものがキている、という作曲家北原じゅんのこらえ難く異様な確信が、ザ・ジェノヴァを生んでいる…。
凍て付いた大地でウオッカ煽りながら男たちが斉唱する重厚なロシア民謡調の日本語歌唱が、ふざけているとしか思えない歌舞伎の唄い回しと共通しつつ、合間でふざけたように過剰に叫ばれるロシア語の禍々しさ…どのようにふざけているのかというと、例えば、人の云うことを聴かない不逞の馬が前歯剥き出しで汚く人語をおらぶような…それでいて曲調は時にラテン風味でもある滅裂、ピロピロのキーボードが雪原をさ迷う寂しげ。かつての日本の領地(異論はあると思われるが)、樺太=サハリンへの望郷の念を情感たっぷりに歌い上げる…しかし領土問題への意識は全くない。できれば北方領土(エトロフ、クナシリ、ハバマイ、シコタン)について歌ってほしいが…
解説の中ではシベリア・サウンドと呼んでいるようだ。殊更に60年代の作物の特異性を現代の視点から面白がり、まるで発見したかのように自己顕示する恥を今更晒す必要はなく、古今東西、何でも有り得る芸能の世界なのである。それにしても日の本の民の、二葉亭四迷など明治以降続くロシア数寄というのは何なのか…小生は料理書を読む趣味がある。家庭画報社なぞが出す、主婦(主夫)向けの、写真ばかりの実用的な料理本は眼中に無い。写真も絵もなく、聞いた事もない料理名と入手不可能な材料と調理法のみが雑に記載された昔の料理書を読んで妄想するのであるが、ロシア料理の味付けや材料などは日の本料理と似通ったところがある。戦後のロシア数寄には、ロシア文学や共産主義といったブランドに加えて、シベリヤ抑留という体験までも加わった。かような、愛すべき似非ロシア民謡ロックでさえも、そうしたシベリア抑留の所産であると思えば、途方も無く予見しがたく調子に乗る芸能の本質たる椿事、ということを思う…
ザ・ジェノヴァ
「サハリンの灯は消えず」
「さよならサハリン」
「別れた湖」
「いとしのドーチカ」
「想い出のムーン・ストーン」
「ザ・スパイダース/明治百年すぱいだーす7年(1968)tecn-20390」海老蔵
「へうげもの」がNHK-BSで来年春頃からアニメ放映されるとのこと。以前から実写ドラマ化を希望していた小生にしてみれば納得ゆかぬ思いではあるが、これを機に衛星アンテナつけようかとも思う…とにかく道具をどこまで迫真的に描けるかが勝負であろう…
今週は著しい虚脱と鬱状態に陥り、肉体、精神共に呆れるほどぴんぴんしているにもかかわらず、人間に絡む事ゆえ努力の中途で弱く折れてしまう事や何もかもがどうにも嫌になり会社を二日休む…小生が際どく成立させているぎりぎりの社会関係というのも、こうした些細かもしれぬ亀裂から決定的に崩壊していくと思われる、否、この亀裂は些細どころか決定的であり、既に崩壊していること必定である…。
と、こんなこと書いている最中、無音で流しているNHKデジスタティーンズ、反吐が出そうなほどどうしようもない媚び状態が臆面もなく露呈されていた…。どこぞの高校生が特撮手法で作った作品であるが、内容は、地上デジタル放送とアナログ放送のそれぞれを擬人化させ、特に前者を正義のヒーロー、後者を悪役に見立て、往年のウルトラマン風の演出でデジタルがアナログを倒す、というものだった。本当に情けない。いったいにどこまで恥知らずな媚びを日常化すれば気が済むのだろう、しかも映像だろうと何だろうと何にせよ作品というものを世に問おうとする者が、最もそうした媚びに対して批判的に過敏に機敏に反応せねばならぬ者が何故に、恐るべき厚顔愚鈍をさらけ出して率先して媚びるのか、呆れて物も云えぬ…このことは、同じくアナログ→デジタル化に想を得た中原昌也の小説「悲惨すぎる家なき子の死」(2010冬号「文藝」所収)と比較すれば分かる。
アートに対する意識が高いと思っているらしき先述の高校生らが、アナログ→デジタルという世の趨勢が如何なるものか自分で考えようともせず、むしろ積極的に思考停止した挙句趨勢にへつらい、かつ趨勢の趨勢たる基盤に自ら盲従的に身を投げ出す翼賛状態を嬉々として晒しているのであった。
対して中原氏の作品は、少なくともそうした趨勢に疑問を持ち、嫌なものは嫌だと、趨勢を破壊させるために有効な手立てを構築するスマートさをも敵に回すことも辞さぬ論理的一貫性の下で断固として抗う姿勢は薄暗く強固だ。この論理的一貫性とは、かようなスマートさが結局アナログ→デジタルという流れと同類であるから、自分の利益になるスマートさであっても愚直に拒否しているという意味だ。語弊を恐れず言えば誇り高いのは明らかに中原氏であり、先述の高校生はその存在が絶望的にみじめであった。その映像作品は糞にも劣る下劣なる努力の滓であった。蛇足だがしかし中原氏の作品に見られるパンキッシュな態度表明もまた趨勢に収束される構造的問題があると思う。じゃあどうすればよいのか知りたい方は小生の秘密文書をお買い求めていただければその懊悩連綿の一端が開陳されようと思う。
そう、先刻ご承知の通り、もう、自分が書き連ねた日本語群を、小説であるとか詩であるとかいうのも収まりつかぬ、いっそ秘密文書と呼ぶべきものを恥さらしにも売文してきた次第である。この場合の秘密というのは隠されたものというよりも、仏教的な意味で途方もなく明らかなるものの謂いである。場所は東京の蒲田の大田区産業会館、約500団体が出店し、会場に来てくださったお客様約3400人中、小生の初期三部作をお買い求めになったお客様は以下の通り。
女性A 男性A 女性B 男性B(敬称略)
軍国軍記(2007年脱稿) 1冊 1冊 0冊 0冊
夜学歴程(2009年脱稿) 1冊 1冊 1冊 0冊
非業愚抄(2010年脱稿) 1冊 1冊 0冊 1冊
合計 3冊 3冊 1冊 1冊
計4人のお客様に計8冊買っていただいた。五千人くらいのお客様が我も我もと押し寄せてきてもおかしくない文書であると自負するものであるが、買っていただいた方にはまことに感謝であり、励みになり申す。特に女性Aの方は、イベント開始直後に訪れ、迷うことなく速攻で三冊買ってくださった。この、侵略すること火の如き動き、明らかに、事前にこのイベント元締めのホームページで展開してくれた530組の団体の広告文の中から、わざわざ小生の煽り文句に目をつけていただき、あるいは小生のホームページまでも予めチェックし、感じ入るところがあったためとおぼしき強烈な目的意識を臆することなくさらけ出されているようで、その、当然あってしかるべき貪欲ぶりに圧倒されました。
このイベントのよいところは、見本市のようなことが別室で催されており、各団体から提出された3種類までの見本用の冊子をテーブルに広げてあり、お客様はそれを自由に閲覧するというシステムである。男性Aの方は、この見本市で小生の文書を手に取ってくださり、感じ入るところがあった旨、小生に直接表明してくださった。迷うことなく3冊お買い上げいただいた。小生の年齢や小生が影響を受けた高名の文人について質問され、簡単に答えた小生。
他の御二方は、文書が発する抗いがたい業のようなものにうっかり憑りつかれたのか長々と逡巡、ついに一冊我が物にしてしまった感じである。なにぶんキツメの文書ゆえ気の毒かもしれないが、多謝である。
むさぼるような異様な確信を持って速攻で全部買ってくれる方と、さんざん迷いながらこらえ難く一冊買ってしまう方と、一度は手に取るものの汚物でも触ってしまったかのようにすぐさま手放す方と、全く見向きもしない大多数、という内訳であった。
さて、この度の上京のもう一つの目的は、浅草酉の市名物の熊手をお助けすることであった。彼岸や正月のみならず折々の祭りに際して日の本の民が織り成す飾り物というのは時に凛として裏表無き薄さの清々しさ弱しやしさであったり、過剰なるおめでた尽くしであったり、材も竹、木、葉や和紙などの儚き調いであるからして欲しゅうなる。掻き入れられた福々はダルマやらオカメやら天狗やら福助やら笹や餅が一緒くたの熊手に心魅かれた次第。
黄昏時に浅草寺に着くと、冬の早々した闇の裾間で夢幻的にも爛堕なる明かりが寂しくも色づいておる…参道脇に他愛無い土産物屋がびっしり軒を連ね、特に祭りでもなんでもないのに非現実的に活気づいており、人通りもぞろぞろと…仲見世であった。上京前の勉強として、浅草に縁の深い、偏奇館主人または断腸亭こと永井荷風散人の「墨東綺譚」(正確にはさんずい+墨)を読んでいたが、まさに荷風の世界がビルヂングに囲まれながら健在であった。一通り素見ぞめて楽しみ、中くらいの熊手を購入。初めは小さいものを買い、年々大きくしていくのが熊手の作法であるが、もう来ることは無いと思って…。しかし、色々見ていくうちに、自分は、数珠が欲しいと思い出す。数年前亡くなった祖父の葬式の折、一人の小柄な老人が、一般的なサイズ(腕輪みたいなの)とは桁外れに長い数珠を巧みにさばきつつ、別離の礼の所作を美しく全うされていたのであった。小生は、憧れた。かような数珠さばきが板についた、枯れながらも艶のある老いを迎えたいものだと思った。それにはまず道具だろ、といぎたなく欲望する小生は、数珠の玉の材質や大きさ、房の毛並みなんかにも目がいく始末…。閉店間際の仲見世通りの数珠屋で、店主の婆が言うには荒法師なんかが山岳修行に使うための、菩提樹の玉を連ねた、直径70cmくらいの、情熱的な数珠をお助けした。菩提樹の玉というのは、一個一個が衛星のようにアバタのように凹凸が激しく穿たれた禍々しい威容である…。
下からライトアップされた浅草寺本堂や五重塔の、軒の木組みが吐き出してやまぬ荒々しく濃いぬばたまの闇の丈夫に圧倒されながらも、小生は、参道から見えた、今話題の東京スカイツリーに端を発して色々思った。そういえば浅草には、凌雲閣、通称、浅草十二階という塔があった。大正末期の関東大震災であえなく崩壊したが、それ以前はこの塔、聞くところによると、女衒ややくざ、右翼の親分や侠客や社会主義者、無政府主義者、新劇役者興行師演歌師地面師世間師そしてこうした有象無象の陰日向の人士を取り巻く私娼公娼の女たちが蠢く巣窟であったとのことである。
まさに大正期を代表するエロ・グロナンセンスの坩堝のような場所が浅草十二階であったのだ。それが震災によって倒壊したことは、大杉虐殺も含めて、大正リベラリズムの決定的な終焉を象徴した。天の配剤とはかくも恐るべし。関東大震災がもらたした政治、文化状況の激変ぶりは阪神淡路大震災の比ではなかった。たとえば震災後、関東のアナキストらは運動の本拠を関西に求め、大阪水崎町に借家人同盟を結成し着実に運動を逞しくしていた逸見直造や逸見吉三の宿を根城にして運動の建て直しを図る動きもあったが戦争の激化に伴う検束の苛烈によりいかんともしがたい昭和への突入という歴史を思えば分かるだろう。このあたりの交遊史は、直造の息子で吉三の弟、宮本三郎著「アナーキスト群像回想記~大阪・水崎町の宿~」(あ・うん社)に詳しい。
戦後、東京タワーが昭和の復興および戦後民主主義の象徴のようになったが、この度、凌雲閣のことを思えば奇しくも浅草に近いところで建造中のスカイツリーというバベルの塔は、平成の御世にあっていかなる時代を見せてくれるであろうか…。
さて、浅草凌雲閣ということで思い起こされるのは、やはり、スパイダースのオリジナルサイケデリアコンセプトアルバムの金字塔、「明治百年すぱいだーず7年」であろう。ジャケットに凌雲閣の絵をあしらっている。どの曲も最高に良い。東京旅行について贅言を尽くしすぎたためGS史再考する体力が悲しいことになくなってしまったが、以下簡単に。
「あなたといる時、そんな時」、凝った楽曲構成と楽器編成、和臭のする歌謡曲や江戸職人諧謔趣味と外来ポップスと流通サイケロックへの無邪気な盲信との絶妙のバランスという、切り立った、狭すぎる尾根の上で愉快にやるスパイダースの際どさに匹敵するのは、並み居るGSでも数えるほどでしかないであろう。このような切り立った尾根、少しでも足を滑らせたらある種の様式に固まってしまう恐れがびんびんするような危処でこそ、初期日の本ロック=GSというのが成り立つ証明である。うっかりすると、あまたのGSがそうであるように歌謡従属ロックのようになってしまうし、はたまたゴールデンカップスのようなハード路線、もっと惨めなのはフラワートラベリンバンドのような悪しき近代的精神性にも陥ってしまいGS性のかるみを失う…そのいずれも嫌いではないが、ことGSというくびきを重視するならば、スパイダースほどの妙境は少ない。
「オツム・コン!コン!」マチャアキの絶唱、ヘレカンダラストロンパ!こんな尋常ならざる合いの手は、ザッパの、ヘーンヘニャニャニャヘニャニャヘーン、ホーイッホーイッホーイッ!に匹敵する。
「黒ゆりの詩」、なんと素晴らしいのだろう…気持ちが揺さぶられてきちんと書くことが出来ない…一見他愛無い流行へのおもねりのように聞こえないこともないがそんな事は無い、厳しさをも研ぎ澄ますエレキシタールの適用が朝靄の向こうに佇む次元を顕現する。異星人との交信のようなコーラス、心の臓を鷲掴みにしてぐいぐい揺さぶる地熱の如きドラミング、雨月物語にETが出現して黒百合の酒宴を開くのか…「神の掟」の世界も通底する。
「赤いドレスの女の子」、昨日、フィギュアスケートで村上佳菜子という選手が好成績を残したが、彼女の蓮っ葉な、アッパッパ一枚で伊勢踊り繰り出しながら米兵に春をひさぐ切羽詰まった昭和的あばずれな感じが評価されていたようだが、そうした蓮っ葉が能天気なパーティ趣味で怒涛する熱い出鱈目。
「エンド・オブ・ラブ」もうほとんどハードロック=切り立った尾根、である。
「真珠の涙」、日本の情趣がこんな形で分厚いロックになりうるなんて!
井上 順 ヴォーカル
大野 克夫 ヴォーカル、オルガン、エレキピアノ、エレキシタール、スチールギター
田辺 昭知 リーダー、ヴォーカル、ドラムス
堺 正章 ヴォーカル、タンバリン、フルート
井上 孝之 ヴォーカル、ギター、12弦ギター
加藤 充 ヴォーカル、ベース
かまやつひろし ヴォーカル、ギター、ベース、エレキシタール、ドラムス
余談であるが、浅草寺で買った熊手、例のイベント会場に置き忘れてしまった…このたびのお客様との出会いも熊手のおかげであろう、ならば悔いなし。
