忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[50][51][52][53][54][55][56][57][58][59][60]

内省編 「吾如何にして吾になりしか」其の一

割り切れぬ蟠りは徒に熾火のように胸苦しく、暴発の予感のみが、王政廃止共和制樹立を熱望する怒髪パリ市民がパリ中で夜中十叩き鳴らす半鐘のように気ぜわしい落ち着かなさに身もだえしながら、一端吐き出された途端文字通り限りを知らず噴出余儀なくさせる無鉄砲さに事前におののく用心深さまでもが自らを苛むように如何ともしがたく、この、ここ数十日で専ら小生内部で沸き起こった思念や情念そして決断にまつわる溢れんばかりの言葉を吐き出してしまわない事には、真に己のなすべきことに集中できぬ弊害が大きいという無闇に切羽詰まった挙句での始まり、ここに「内省編」と銘打つ。これまで、「サイケデリアのふるさと編」「点在する系譜編」「ハードロックの非継承編」「悪趣味の系譜編」「低迷編」と銘打つごとに、生来の怠慢と目移りちらつき衰弱によるものなのか完遂することなく潰えては生え、を繰り返してきたが、性懲りもなくまた新機軸を打ち出す。経緯定まらず、即ち縦糸横糸などといった統制も無くこれらの糸がフェルトのようにもつれにもつれたのがこの「王道なきロック史」といえる。内省編については、しばらくの間、ロック音源から離れるだろう…気が向いたらロック音源についての言説を挿入するかもしれぬが、それも結局は見かけの態に過ぎぬ。というのも、先週その兆しを垣間見せる嫌らしさのままに、語弊が多い表現となって申し訳ないが小生においてまことに個人的な文化大革命が勃発している…それに付随しての諸々の経緯と展望が身勝手にざわめきを止めず、はた目には至って割り切れぬ、何を考えているのか死んだマグロのようにぬぼうと無明なれども、発情した馬のように心の息は騒々しく熱く重い。当然ながら、こうした事情が今後のロック聴取に影響を与える可能性がある、とは云わぬ。ここで、影響、という概念を使ってしまうとこれまでの論考の全てを台無しにしてしまう。否、ことあるごとに台無しにすることこそが肝要でもある。影響や変化などと不用心にいうことで、まるで、ああすればこうなるみたいな統制論理へおもねる結果にもなるのは慎みたい生硬な潔癖からいまだに脱却できぬという事情もある。将来的にはそこのところもどうにかしたいという、転んでも只では起きぬ野心的目論見もありはする。だいたい、こうした内省においては、無自覚の内に、己の生き様や思想を因果律などで整合し、整合ということを成立させながら整合自体にも依存しているが如き美意識への説明責任に忠義を尽くすブルジョア奴隷になりがちではあるが、そんなことはどうでもよく、この内省編では割り切れぬ矛盾が整理されることなく説明責任を放棄してそのままぶち撒かれるだけだろう。何か知らんが人は因果や直線とか対称性とか円とか区切りとかに無自覚に媚びるようにそれらを崇めるかと思えば、反動なのか超克なのかバロックなのか弁証法なのか言い訳がましいが曲線や非対称や混沌にもすり寄る…もう、そんな反復横跳びにも、目を細めて安らかに残忍に冷め切って愛想尽かしている。正・反・合ならぬ、正・反・離などとポスト近代が云われたところで(小生の咄嗟の思いつきであり、聴いたことは無いが)、遠い昔の猿蟹合戦にしか思えない…それに個人的文革とて今更ながら突発したように書いたがそれは言葉の綾というものであり、実情では日常において既に馬鹿馬鹿しいほど空のように明らかになっている底の浅い、卑小なる懊悩に過ぎない。それとこれとは関係ないが、否、関係するかもしれぬが、人の性格を表す表現として、たとえば、おっとりしている、怒りっぽい、優しい、しっかり者、ずぼら、普通、異常、等々、枚挙に暇ないが、ここに、無政府主義者、というのを追加したい。私は、特に生活において実際に活動したりしているわけでもないしその予定もないが、人格として、無政府主義者である。繰り返す。私は、人格として、無政府主義者である。最早こらえようもなく逃れがたい業ともいえるので、ここにとりあえず布石しておく。無論、無政府主義者とて種々の歴史的解釈が存在するだろうが、この際、そのいずれもひっくるめて、である。ニーチェならば、思想とは人格である、などと断言しそうではある。多分、どこかで言っているだろう。ただ、己の事を語るなどと云うても、数数の組織の中で速攻で孤立してきたし自分から排除してきた小生とて絶海の孤島に一人存在しているわけでもなく、多分に社会化されているゆえに、問題は難儀だ…ここで小生が云う社会化とは、自分が何かしたら、それによって不利益を被った他人群あるいは不利益すらも被らぬ、何ら小生と関係ない他人群からぶちのめされ兵糧攻めにされる、という事ではなく、自分が何かしたら、自分にとって大切な特定の身近な人々が悲しみ、恐れ、怯え、苦しむ、その苦しみを自分としても連動して波のように感応してしまう、という、いささか幸福な定義である。個人の身の上話など当事者以外にしてみれば取るに足らない、いずれも似たり寄ったりの金太郎飴のような小さい凡庸な悩みに過ぎないのだろうと思われるが、とくのこの電誌を未知のお客様への営業目的に書いているわけでもなく、専ら小生自身のやむにやまれぬ常習的発作に起因して書いているので、如何に読者がつまらないと思おうが、己が書きたいように生臭い吐露をできるだけ綴るつもりだ…無論、全てではない…いくらなんでもこれは書けない、と判断される危機的事情も小生は抱えているので、そうしたことは選択的に除外されるだろう…自分が赤裸々に書いたものを読むことでうろたえ、あるいは無礼な扱いを受けたと憤る身近な人が居るというのならば電誌に書かなければいいじゃないか、せいぜい紙の日記帳に万年筆でこっそり記せばよいではないかという声もあろう。(ブログという外来語が馴染めないので、勝手に和名を名づけました、電誌と。いまいちなセンス…)これから何かするにせよしないにせよ、自分一人で生きていくつもりはないのだから自分の生活史を書くことは否が応でも、これからお世話になる人々やずっとお世話になってきた人々の神経を逆なですることもありうるだろう。だいたい、そういうことは直接口頭で述べるべきことであって、一般的に公の発言とされる、しかもお手軽な電誌を介して知らされることで恩人に対して真心の籠っていない態度だと受け取られ、立腹されるという筋道もごもっともである…そうした不本意を回避しつつそれでも書きたいのならば夜中に隠れて日記に書けばよいと思われる。正論である。松岡何某が、電誌は公や近親からの目を想定され自己規制が働く分、日記よりもつまらなくなると千夜千冊で云っていた。だからといって、小生が、日記を超えるほど電誌で赤裸々しようと挑戦しているのではない。そんなことは幾らなんでもくだらなさすぎる。M・ブランショは「文学空間」の冒頭で、「私は孤独である」と書き綴る詩人の欺瞞を指摘していた。私は孤独である、と、他ならぬ他者への伝達手段である言葉で以て述べるということ自体、他者を想定しているのであり、その限りにおいては孤独でもなんでもない、という指摘である。無論、ブランショにあっては、この冒頭の指摘から、言葉や私の根源的な孤独ないしは死へと思索を下降していくのであるが…社会的ににっちもさっちもいかなくなったら、命をあきらめずに、山か孤島に籠って自活しよう…狩猟採集の能力に疑問はあるが、餓死をもいとわぬ…自決は嫌だ…しかしこの場合の餓死は自決に等しいではないか…どうしたものか…特に、自分が孤独だと思っていないから、全く不必要な引用であった。思えば、事ここに至って、書きたいことなど何もないように思えてきた…しかし、書かなければならないのだろう…書きたくないんだけれども、書かなければならないのであるこの苦痛…欲望にもまさる義務感、というのがある。趣味は欲望である。しかし芸道は義務である。例えば小生にとっては陶磁器収集や音楽聴取は趣味であり欲望である、多少は、義務も入っているが…。しかるに文芸ならびに工芸は義務である…小生には、来るべき文芸や工芸の姿がはっきり見えている…それがこの世に顕現すれば、その途方の無さはいささかも歴史に解消されることなく燦然とこの世を反乱混乱させうるだろう…それをこの世に花開かせるべく、義務感に無情にも日々苛まれている…その根拠など全くないにも関わらず、もう、見えてしまっているのだから、やらざるを得ない…誰かがやってくれるのならばそれでいい、しかし、誰もやりそうにないなら、自分がやるしかない、やりたくてやるわけではない、誰もやらないから、自分が仕方なくやらざるをえぬ…運命の奴隷だと笑うがいい、一度未来を見てしまったら、現状の小競り合いなど影絵に過ぎぬ…などと啓示のように思いながら小生のこの怠けは一体なんなのだ…少しでも多く彫刻修行しなければならないのに、こんな駄文に貴重な時間を割いてしまって。そういえば、自分の生活史について書くのだから身近な人に影響を及ぼすかも云々という懸念であったが、何も解決されぬまま、このまま、電誌に書き続けようと思う、書けば書くほど物事は悪化の一途を辿るだろう、それに対する社会的大人的覚悟など無く、その都度うろたえながらきちんと解決できずに大切な人々の信用を失いながら、安全策を講じる立ち回りの良さなどとうに瓦解、さらに物事は悪化するだろう、大切な人の事を大切に思っている唯一のまことも、的確な行動で示されないと次第に理解され難くなるところまで追いつめられて初めて、小生の、なけなしの社会性でもってぎりぎりの礼を尽くすことでぎりぎりの社会性を保ってきたが、今後展開されるこの内省編によって、その、ぎりぎりの社会性が通用しなくなる危険を承知で、でも承知していたらとても書けないので真剣には分かっていない浅はかさ、日常が続くという無根拠に基づいて…いずれにせよ、悪の華である。注記、この電誌文は、上述の、小生がなすべき文芸、とは何ら関係ない、極めて表層的なこなし仕事だから、そこまで生活を賭ける理由も全くなかった。それでも書くのはかわらないのだけれども。それに、よく考えたら、これを明かしたら既存の人間関係が崩壊する、というほどのことは自分の過去にありはしなかった。よく考えたら、何も考えていなかった、という御粗末。

駄句一つ

水道の水が冷たし秋来る

昨日、会社の車の中で10円拾った。素早く己の財布にしまった。

やり遂げられる目標(3法案成立)を立て、政官民一体となったあらゆる妨害に耐えながらそれを達成した暁に辞めた管総理は、ここ数年でころころ変わった歴代首相の中では立派だったと拍手したい。

拍手[0回]

PR

「兆し」太閤忌



 No 海江田 No cry

 夏が終わった

 蝉腹や脚三対で合掌す

 モッツァレラチーズ凄まじく旨い。モッツァレラチーズとアボガドは日本の食卓を劇的に変えた

 フランス革命勉強中。スタンダールが今、面白い。

 米国のオバマ大統領のキャッチフレーズ「yes we can」、既に1990年代に広島東洋カープがキャッチフレーズとして掲げていた事実を周知させたい。オバマ氏は2000年以降に大統領になったので、カープの方が数年早く、このフレーズを独自に用いたのである。オバマ氏の今更ながらの反核宣言に何故か、戦後60年以上も反核を訴え続けていたはずの広島市長が追従するが如き調子の良さでオバマジョリティなどと吹聴する恥さらしの体たらくは文字通り灯台下暗しだったわけだ。

 言葉が、最早、どんどん、途切れていく。

 この御盆休み中、色々な事があり過ぎて言葉や情念が溢れんばかりに糞詰まり、出にくくなっている反面、言葉自体が薄く薄く失われていく過程に突入している…自分の近況であるならばごく限られた人々への感謝も込めて云いたいことは盛り沢山なれど、一方で、最早、余計なおしゃべりに興じている暇も余裕の無さすらも、失われつつある…ついに失語するまで出来るだけ語り続けたいと思いながら、今宵は結論のみを記す。彫物漆工芸の修行を始めました。目下、毎日、修行中であります。 

拍手[0回]

・・・つづきはこちら

「the mummies/death by unga bunga(2004?)bs2100」立秋



 蝉の腹お岩のおしろいアスファルト

 透明な枠組みの果てに激突せぬ石を吐く珍重される金魚ウゴウゴ

 英国は倫敦その他各地にて暴動惹起せり。政治性や思想性から零れ落ちた、食うことよりもむしろ精神面での生活苦の貧相に根差した粗末で無目的で目先のことのみを渇望するし店舗からの物品の略奪による一時的な富を獲得する、秘密の無い祭りが、高失業率に喘ぐ英国の若者らの間で燎原の火と化したようである。こうした、大文字の文学や思想や歴史と完全に絶縁しえた、単なる無恥と肉迫した有様はかつてのポストモダンの論客が望んだ状況なのかどうなのか聞きたいところではあるが今更インテリゲンチャの意見に権威なぞありますまい。インテリという単語すら知りはせぬ若者たちなのだから…しかし、かような、一見すると政治的思想的に見えるが政治的に組織化されはせずその実はまことに貧相でチャチな目的しかない卑小なる事件という意味では日の本の方が遥かに先進しているだろう…以前に本ブログで書いたが、厚生事務次官夫婦を、愛犬が保健所で殺された恨みゆえに殺害に及んだ事件や、秋葉原連続殺傷事件など…現状への不満が体制の破壊へと思想的に目的化されぬのはそうした思想を知りつつ忌避してるのか単にそうした思想の存在そのものも知らないのか、しかしたとえ知らなくても人間の思考の道筋というのはだいたい、形にならぬ現状→体制破壊へと進むとするとそうした思考力を支える忍耐力が衰えているのか判然せぬ。興味深いのは、日の本では英国のようにプレ民衆レベルの複数人の暴徒とはならず、いずれも単独行であるということである…お国柄と一言で片付けるにはもったいない何かがありそうな気がする…きっちり組織化されなくともネットを通じて緩く同時多発的に集まり暴動を共にしたという意味ではまだ英国のほうが人間同士の連帯の可能性がある分、社会的に健康である。しかし日の本ではそんな、ストリートで自然発生する連帯などなさそうだ(もっとも、日の本では報道規制がかかっている可能性あり。尖閣問題で日の本で中国でのデモを上回る人数のデモ行進がなされた事もマスメディアは黙殺したように)日の本で何事かを惹起する者は関係とは無関係に点在しながら点火、そして立ち処に鎮火される珍事の勃発の果てに如何なる諸相が見えてくるか、とんでもない文化が生まれやしないか。…まことに浅はかで貧相なる荒み(すさみ)という意味では日の本社会の方が遥かに病んでおり、最先端である。小生はこれらの事象をこう呼びたい。「待ちに待った閉塞感」であると。

 さて、ザ・マミーズという芸能者の音源である。お国がいずこなのかよく分からぬしCDの添付された紙に書かれた文字情報読んでもメンバーの楽器分担はよく分からぬし、録音年代もいまいち不明である。調べようと思えばネットで調べはつくのだろうが、眼前の情報のみが彼らの意志であろうという尊重ゆえに調べない。いずれにせよ、ぶすぶすと不完全燃焼する赤熱する灰の根元から恨みがましく聴取せざるを得ぬ、(セックスピストルズ以降のパンク経由の)ハードロックという未明不審の一形態である。ジ・アドヴァーツを思わせる、刃先の角度は鈍いが切れ味だけは鋭いゆえに切れ味良くぶった切るという、繊細なんだか粗雑なんだか不明なパンクのおが屑を所々で着火剤としてまぶしながら、黒色音楽起源ながら当世気質の能天気な白人ライブなノリも踏まえる…昭和元禄ゲバゲバサイケのように茜色の隠微な斜光をいっぱいに浴びて…まぶされるサイケデリアは既に、現代人が民芸品を扱うような市場サイケの上っ面しか残さぬのは致し方ないにしても、どす黒くこみ上げる猥雑はロックという音楽を志してしまった者には不可避な誠実さゆえである…秘密の無い祭りの、空疎な賑やかさ。息はしっかりと臭そうだからお近づきにはなりたくないタイプである。しかし、聞かざるを得ない…容赦無い拳の如きドラムの、場を弁えぬというほどではないが他愛無い小石にも躓きうる、しかしバシバシと重ったるくみぞおちにキメてくる重工業系のドラム…殺伐と歯並びの悪く素行も悪いジャギジャギの、小うるさい蝿のギター…燃えながら水に浮いてゆっくり速く流れ刻む、そこんところはしっかりした重油ベースの妙…聞く者の耳を積極的に聾してくるように変調された、奥行きを幻想させぬ、鼓膜の直近でガナルが如き亡者の攻撃的絶叫。セックスピストルズ以降の思想化されたパンク以前の、ガレージやサイケとほぼ同義語であり1965~69年までに既に勃発使用されていたパンクが貫通している…無論、パンクをかように思想化したのは小生ないしは聴衆の身勝手なマスコミ承認欲求というおもねりに過ぎぬ。

拍手[0回]

・・・つづきはこちら

閑話休題

浅草キッドの玉袋筋太郎が、芸名をいつの間にか「玉ちゃん」に変えていた…NHKの番組で水道橋博士と司会していた時に表示されていたので知った。仕事の幅を広げるためなのは分かるが、腑に落ちぬ…(否、芸名自体を変えてしまったわけではなく、「玉ちゃん」という芸名で出演することが多くなった、ということのようだ…玉袋筋太郎という本芸名?はまだ生きているようだ…)ポテトチップス…食べると二週間後に口内炎になると分かっていても暴食…かつてはコンソメ味一筋であったが、最近ではのり塩一辺倒である。リサイクルショップ「バカ安」の窓から見える、伊万里焼の下劣な徳利が気になる…

拍手[0回]

今週休載のお知らせ

気が付けば、抹茶茶碗を50碗以上も所持している羽目になり置き場に窮し、その辺に日用食器のように重ねて置いているのを見かねて棚を購入したものの、どの位置にどの茶碗を鎮座さすべきか、この茶碗の隣にはどの茶碗を置くべきか、地震対策も含めて重要な茶碗ほど下段に置くのだが上段に重い茶碗を置くとリスクが高い…などと考えに考えているうちに頭痛がひどくなり、今週は休載します。

拍手[0回]

「bastro/sing the troubled beast+diablo guapo(1989-90)pcd-23590」左京忌



 殺せども部屋の隅より蚊のいづる

 日本酒のつまみには、味付け一切なしの炒り大豆に限る…淡白で芳しいかおりが一噛みで砕けては去る小ざっぱりした無味が、酒の旨味を引き立たせてあまりある。萩焼藁すぼ形徳利、掻き彫り花鳥呪紋青磁盃にて。

 なぜか首筋が痛み続ける。こめかみを中心とした頭痛が止まらない。頭に風船をつけて、その浮力でもって首への負担を減らしたい切実な思いに駆られる。それでも頭痛は治らないだろうが…あまり首筋をもみ続けると大事な神経系がやられそうで怖い。

 昨日も今日も、虫も殺せなかった極貧の農民が満蒙の地でいかに憲兵隊として完成され、中国の人たちに残虐非道の限りを尽くしてきたかが書かれた本を読み続ける…関東軍潰走、赤軍につかまったチチハル憲兵隊の土屋氏らは5年間、シベリヤ抑留で瀕死のどん底を生き抜いた後中国共産党政府の引き渡し要求によって中国へ送還され、日本人戦犯管理所で拘束される…シベリヤでは零下40度の中、一日二回の水のごときコウリャン粥を与えられるのみで過酷な伐採労働を強いられてきたが、中国ではなぜか労役も強いられず、しかも毎日鱈腹の白飯に肉、野菜が日に三度、与えられた…はじめは「大和民族の優秀さを中国人は理解しているから厚遇してくれているのだな」程度にしか思っていなかった旧憲兵隊らは、いつ処刑判決が下るか分からぬ不安な日々においていつまでたっても裁判が始まるわけでもなく厚遇される生活が4年近く過ぎたころ、自分らがやってきた残虐行為を思えばすぐさま拷問で殺されても仕方がないはずなのに逆に丁重に扱われることに良心の呵責が芽生え始め、ついに、床に膝をついて泣き崩れ、自らの罪を自白し始める…そう、これは当時の中国共産党の政策で、自ら積極的に罪を認め心底からの反省を促す認罪運動というものであった。下部構造(白飯)の質を高めることで上部構造(反省、悔悟)の質も高めるという、よくできた応用例ではあった。シベリヤでは過酷な抑留の合間での赤軍からの取り調べに対しいい加減な回答で済ませ、裏でベロ出して北叟笑んでいた元憲兵隊らが、中国ではこのように豹変したのだった。当然ながら歴史のことゆえ、あらゆる例外は存在しただろう、この本に書かれていることが全てではないだろう。
 今のようにインターネットもない時代、一応戦勝国の中国が日本人戦犯を秘密裏になぶり殺しにするくらいわけなかっただろうしそれを実行する十分な理由も日本人自身が作っていたにも関わらず、4、5年かけてタダ飯食わせてでも自らに反省を促そうとする気の長い、根気強い人間観は、やはり、この当時の、毛沢東がいた頃の中共というのは論語や韓非子、老子孟子を生んだ国としてのしたたかな寛大さや余裕を駆使する大陸的発想と云うのを保持していたのだなと思わせる。共産党が好むいわゆる自己批判はともすれば性急で形式的になりがちだが、諸子百家の伝統が通底した時にそれが人間臭く生きてくるのを、文革以前の中共は知っていたのだろう。そう思えば、どうも漢文臭いことばかり言っている日本の初期無政府主義者、石川三四郎の文章なども、これまでと違った読み方が出来るかもしれない。いわんや、昨今の、高速鉄道の事故処理を巡る対応を見るに、中共の資本主義的堕落というのは、相場(情報)の動きに一喜一憂する場当たり的な貧相へと矮小化の一途を辿るのみである。無論、我々にしたって、神も仏も知恵も無い議会制民主主義が、自らを主体的に律しえぬゆえに創作した市場と云う自然に取り縋る資本主義に振り回されながら、さらなる人間性の卑小化を生き抜くしかないのだろう。

 社会的能力的ヒエラルキー的理由などいろいろありはするだろうがそんなものはもうどうでもよい、畢竟、他の人間から、下の身分として、馬鹿にされて当然のようにして扱われることに、これも金のうちとして我慢する理屈も空疎に棚上げされるがままに、もうこれ以上こらえきれぬ、表象せぬ憤りのみがいたずらに根を深くするのみである。小生がかような構造に心身ごと同調できず批判するがゆえの見返りに過ぎぬと分かってはいる。殺伐とした、見るもの触れるもの全てに過敏に毒つきたくなる、余裕のない、イラついた心の伴奏に相応しいのはやはりロックと云う如何わしい底辺の音楽に限る…バストロ、アメリカ80年代末のハードコア…もはやパンクやメタルといった言葉も意味をなさず死語に等しく成り果てた芸能者たち…メタル的ドスの効いた奏法が重厚に、逆立てた鱗を土壁にごりごり擦りあてながら路地を高速徘徊する亜細亜の龍を思わせる圧密された音圧。筋肉質の白人が身勝手な狂気を吐き散らかすが切れ味は鋭くなく、繊細なる鋭利さでもって対象を切るというよりも、対象よりも固い棍棒でもって兎に角ぶん殴る類の冷静なる凶暴である。肉を切るのではなく肉を叩くという執拗さ。一歩間違えれば体制の犬になりかねぬような…時折シロップの如き叙情を垂れ流すことも忘れはせぬ。しかしそれでも…小生のやっかみなのだろうか…どうしても、パンク的精神を経由したハードロックの一典型、というふうに聞こえてしまう。それはそれで悪くはない。しかし、そうした経緯のややこしさによってまことの混沌、即ち正方形に混沌の姿を見るが如き危険な混沌が無かった事にされ、ただのジャンル横断的消化試合的発想に格納されるきらいがあるのが、何とも遠まわりに思えるだけである。サイケ、ガレージからしか、ハードロックという閃光は聞こえはしない。パンクやグランジ、オルタナなんぞへの道草乃至は迂回も、殊にハードロックという途方もない音楽からすれば、道は全ての道に通ずるという常識をあてにできないだろう。延長なのか飛躍なのか判然せぬが歴史の時間軸としてサイケ/ガレージの次に来たハードロックという事実を主体的に生き直す素直でもあるし途方もない愚鈍こそがハードロックを聴きつけるし演奏するだろう。袋小路にしかハードロックは存在しないし、道なき荒野にしかハードロックは佇まない。狭き門より入れ、ということなのか…。
 バストロ聴きながら、盆灯篭界の新型モデル、蓮の花を蛍光ダイオードで縁取った妖艶なものを買いに行くと、無かった。先週はあった。どこぞの数寄者に先を越されたらしい…品物との出会いは一期一会、なぜ先週即断即決でお助けしなかったのか、幾度も経験したことなれどまたしても拙劣にほぞを噛む思いだ…イライラする…

デイヴィッド・グラブズ:ギター
クラーク・ジョンソン:ベース
ジョン・マッケンタイア:ドラム

拍手[0回]

「talking heads/remain in light(1980)wpcr-2664」小鳥



 台風が来る度に、愚かしいと分かってはいても、命(と小生所持の茶碗と掛軸とその他古陶磁とCDと蔵書と金と盆灯篭)だけは残して、それ以外はみんなぶっ壊してくれないか、という未熟な、無責任な破壊願望の拠り所にしてしまう。台風直撃を願っている。断水と停電くらい我慢する覚悟である。

 野分に乗って速さスコブル小鳥群
 
 去年買いそびれた、銅細工の泡沫水中花盆灯篭を今年こそはゲットするつもりだ。しかし、昨日目撃した、造花のハスの花びらを、蛍光クラゲのようにあやしく発光するダイオードで縁取った、盆灯篭界のニューフェイスも捨てがたい、と、悩んでいる。

 先週、近所のスーパーで買い物していると、店内では、凶悪な司祭血祭り系のデスメタルがBGMとして絶叫していた、と同時に、その店の生温いテーマソングも鳴らされており、おかしな世界となっていた。今となってはこれも、自分の妄想なのか、と疑獄に陥る。

 山田洋二が、「復活」というテレビ映像を作っていた。遊園地に展示されていたSLを修理して実際に軌道で走らせるまでの技術ドキュメンタリーである。そこでの山田氏の発言のあまりの幼稚さに愕然となった。蒸気機関車を、科学が人間の生活を良くしてくれることに全幅の信頼が寄せられていた幸福な時代の象徴、などと云っていた。これは単なる無知無恥発言に過ぎない。蒸気機関の発明と産業革命は、それ以前になかった過酷な労働環境(幼児や婦女子も含む)をもたらし、蒸気機関による挟まれ、巻き込まれといった労働災害は産業革命当初から深刻の度を増し死亡事故は激増、何よりも機械による効率化が雇用を奪うということで労働者による蒸気機関の打ちこわしはイギリスのみならず後進各国でも頻発したという、中学の教科書にすら記載されている程度の歴史を知らないのだろうか。蒸気機関が人間の生活を良くする?かような状況で、そんな認識を誰が持つのだろう。持つとしたらごく一部の資本家やブルジョワ貴族に過ぎない。産業革命後、イギリスで史上初の労働組合結成、マルクス・エンゲルスの共産党宣言、ヨーロッパ各国でのプロレタリア革命運動、パリ・コミューン、そしてロシア革命という歴史の根本の一つが蒸気機関による産業革命であったことを知らないのか。
 また、蒸気機関の仕組みは、ピストンやクランクの動きを辿っていけばよく分かるけれども、原発はなんだかゴチャゴチャしてよく分からないから人間にとって危険なのではないか、などとも云っていた。小生、唖然となった。原発だろうが何だろうがああいうものは図面見たら仕組みは分かるようになっているし、それを分からないというのは山田氏の単純な勉強不足、怠慢に過ぎない。それを、何の根拠もなく自分の、あるいは社会雰囲気内で何となく承認されている短絡的なイメージで、原発はよく分からないから怖い、などと云っている…短絡的なイメージに乗っかった浅はかな認識を、さも説得力ありげに発言することで、結局、こたびの原発の問題を含む科学技術と社会との根本関係に巣くう問題を公衆に対して見えなくさせようとする愚かさを露呈させていたのだった。結局その程度の認識だから、このSLドキュメンタリーにしたって、従来からはびこる、技術立国日本、みたいな、まことに空疎な衆愚的イメージを再生産させるのみであり、無自覚に問題を誤魔化してしまう欺瞞にセンチメンタルに加担するはめになっている。要するに、山田氏は、この件に関して何も考えていないし批判できていないばかりか、承認されている既得権益へのお追従の上手さを披露したみじめな人間である。山田氏の幼稚な発言やこのテレビ映像が発する幼稚なメッセージに影響される視聴者など、今時いないだろうと期待するしかない。ではこの問題とは何なのか、詳論すれば長くなるのでかいつまんで言うと、社会化政治化経済化された存在である人間が主体となる科学技術の限界に対する認識と社会的許容、ということに尽きる。科学的人間など存在しないし、科学を支える科学的良心というのは科学の中では規定しえず、あくまでも社会的なものに過ぎぬということである。今更云うまでもないことなのだけれど…。
 
 喋る頭、アメリカ、1980。パンクの灰。アフロアメリカなるもののファンキーな体臭にすらも何かしら古臭い厚かましい制度的欺瞞を感じ取らざるを得なかったプログレ以降の者たちは、ジャズにおいてもロックにおいてもより直接的にアフリカなるものへの視線を明敏に主張するのだろう。ブルー・ノートとして規制される以前の、すなわち黒人奴隷市場としてのアメリカにおいてこそ発達したジャズやロックという歴史の範疇からの反抗的逃散を目論む者らは、アメリカ化される以前のアフリカに次の手を打ってくるのは今にしてみれば必然であった。しかし、そうした者らが、たとえば同時代80年代のレゲエ(ボブ・マーリー)や一部のソウル(スティービー・ワンダー)のように母なるアフリカを楽観的に希求するポピュリズムに身を委ねることなどできはしなかった。音楽上、いかに直接的にアフリカの民族音楽に根差した奏法を採用しようとも、結局のところ白人の都合に限定されたアフリカしかとらまえることが出来ぬ袋小路であることを、何よりも自覚した音楽を作るしかないのであろう。煽るようでいて冷め切った単調ポリリズムも既に著しく電化処理されざるを得ず、所詮、アフリカの土俗などに感応しようも無い限界を承知しきっている白人の身勝手な、だからこそ行き場の無い絶望をハリネズミのように撒き散らす。しかしこの種の絶望は思えばかつての凶暴サイケデリアが保持していた矜持でもあったのだが、その矜持を捨てて更なる精神の底辺へ至らんとする衰弱した破滅欲が不健康に先走っても仕方が無い時代ではあった。ロックにおいて王道への道行きは異端へ至る逆説である。そして無益な計算処理しているがごとき尖がった、珍妙電子音が場違いに陽気に無責任を託ち、食欲の無い、顔面蒼白な男がか細い声で、遺書の黙読のように非元気に変態じみて頓狂に歌うしかない。アメリカ化される以前の直接的なアフリカの再発見などといったところで、そんなものは終わりが見えきった者が流れでやるしかない消化試合に過ぎぬことを、それでもあえてやるということに、ブライアン・イーノのその後の音楽の新しさが聴かれるのだろう。だから、楽曲としても、決定的に盛り上がりに欠けるし、線が細い。陳腐な言葉だが、終わりの始まりという奴なのか。反抗ですらない自滅なのか。音楽は楽しむためのものではない、と、最底辺のポテンシャルから北叟笑む、悪趣味の系譜の道標(墓標)である。全然関係ないかもしれないが、こたびの震災と津波で、15年間ほど家に引きこもっている40代男が、津波が迫っているから早く逃げろという母親のいうことを無視してまで家に閉じこもり続け、母親は息子を捨てて家から逃げたものの現在も行方不明、しかしこの40代男は家の二階ごと津波に流され、ドンブラコドンブラコうまいこと漂流の末、救助された、救助される際も、食糧が無いから渋渋外に出たが本意ではないという態度であった、というニュースを思い出した。うろ覚えなので事実と異なる部分もあるかもしれないし、小生の妄想かもしれないことを注記する。

拍手[0回]

「the beach boys/smiley smile(1966~67?)tocp-3323」七夕崩れ



 下線部緊急追記(2011年7月16日午前9時)

 車の運転中、目にゴミが入る。かなり危険な状況が、こうもあっさりと、ありふれた事で生じるとは!本当に危なかった…目が二つある理由に、しっかと感謝する。

 百日紅や立葵、朝顔などと並んで夏の花を謳歌する槿(むくげ)の花をそこかしこで見かけるように…強烈な日差しの裏側の木陰で揺れる槿の花は青白さの先に向けて紅が淡く微か、全的に青ざめている衰えた印象…涼しげであるが何だか儚くも病的な印象である…結核患者を隔離する高原のサナトリウムで、闘病と云うよりも死をやり過ごすために待ち続ける浴衣姿の少女…竹久夢二絵のような…結核治療が確立される以前の結核治療方法というのは、決定打が見つからぬものだからあの手この手で思いつく限りの相当エグイものだったようだ…藤枝静男の私小説を読むと心が苦しくなる…脇腹に孔を空けて新鮮な空気を吹き込んだり、とか何とか…
 
 ここで駄歌を幾つか披露…

 山際の緑あくどいほどに濃い夕暮れ間近の白熱閃光
 紫陽花を燃やし尽くすか梅雨明けの夕暮れ間近の白熱閃光
 山の端にのぞく入道雲遠慮がち

 子供が見たらワッと、手が付けられぬほど泣き出すんじゃないのかこれは、と思わすものが存在した…枯れた笹を使った七夕飾りである…乱暴に扱われても故障ゼロのバンや軽トラックに使い込まれた機材や人足を矢鱈詰め込んだ一連の状況が山奥の現場や工場に向けて走りまくる、信号が無さ過ぎる県道…周囲の、きっちり田植えされた田園と石州瓦の豪農屋敷の点在といった、長閑な風景(小生からしてみればその風景も既に荒んで見えるが…)に無頓着に、暴力的にかような車両が行き交う荒んだ風景である…そうした県道の脇の畑が潰されて、老人が憩う施設として、アメリカンなウッドデッキがある時設えられた。夏は暑いし冬は豪雪だし春秋は極端に短いその地域、かような屋根が無く野晒しのウッドデッキで寛ぐタフな老人など見たことは無いのだが、その施設の入口らしき、丸太の門柱に、七月七日の数日前から、くだんの笹が縛りつけられていたのだった。縛り付けた当初は青々していたが時間が経って茶色に退色した、というのではない。縛り付けられた当初から、既にその笹は茶色に小汚く枯れていたのだった…嫌がらせとしか思えぬ…青々と瑞々しい笹に、願い事をしたためた真白き短冊やら稚拙ながら愛らしい色紙飾りなんかが結われ、さらさらと涼しい夜風に揺れている…多くの庶民が望む、そんな七夕の風情を真っ向から破壊するものが、よく分からんウッディな、決して老人には優しくない野晒し施設に飾られたということ…笹は枯れて、葉も幹(?)も、晩秋の飛蝗のように薄茶色であるが、飾りの色紙だけは退色せず鮮やかで、それがかえって禍々しさを増す。七月八日には撤去されていた。荒んだ労農県道脇の珍事は、真夏の夜の夢のごとく儚いものだが、それにもまして後味の悪さは拭い難くべっとりしている。

 三週間に渡る工場での勤労を終え、来週からまた本社(と工場との往復)勤めである…これはこれで地獄である…そういえば今年に入って報告書の類を全く書いていないなと気付き、早くもげんなりしている…何かしら実験や試作をする度に報告書を提出し、それが個人に対する社会社からの評価になり、一定のノルマは無論課せられている状況なのだが、思想的にこれ以上耐え難い処まで来ている…原因と結果の恣意的数珠繫ぎを社会通念に喜ばれる範囲内で作成するよう言外に強要される事に対して、もう吐き気を催す所まで来ている…国鉄の懲罰的日勤教育や極左の自己批判や物語大好き検察の妄想調書へのサインのように、自分の思想信条と反したことで洗脳されようとする思想的拷問に等しい…自然科学技術とは所詮、政治的フィクションに過ぎぬ…この事の論証は、既に先週、広島を訪れた友人との時局的対話において大いに論じ合ったのでここでは繰り返すつもりはない…美味しいウイスキーを飲ませる流川のバー「ウスケボ」、素敵なお店でありました。カウンターテーブルの分厚さや丸み、ツヤが、お店の中の琥珀めいた時の流れをゆっくり整流するようで…時間も空間も芳醇ウイスキーで満たされる至福の時を見事に演出していた。月に一度くらい、系統的にウイスキーを嗜むために訪れたい店である…
 些細な事ではあるが、工場での重労働中、珍事があったので備忘のために。予め階級化されていない人が複数、何らかの事業を全うするために集められると、たとえ階級化されていなくとも、自ずと、リーダー的存在というのが頭角をあらわすものである…有史以来、狩猟採集や農耕牧畜、手工業重工業サービス産業政治その他に例外なく、こうしたことは起こるのだろうし、それによって今日の文明文化生活が成立しているのも否めないが、小生とは無縁の存在であるのも確かだ。生産が間に合わず追加要員として本社から派遣された人が、同じ場所に居ると自ずと醸し出される、気配りや行動力、声の大きさ等の性状の突出によって、俄的リーダー的存在となっていった。彼は、持ち前の仕事力人間力をここでも発揮せんとして、ここをもっとこうしたら効率がいいのでは、みたいな、作業手順の改良を皆に提唱しつつあった…彼の本社での仕事は抜本的な工程改善などだから当然の発想ではあった…確かに彼のいう程度の改善ならば工場の現場責任者の許可なくとも出来るだろうし、事後報告でも済む程度だろう、しかし…「こっちは作業しながら、溺れる者のみが掴みうる栄光の藁とも云うべき音楽を反芻したり、諸般や将来について思索したりしているんだ。作業方法を変えられたらそっちの方にしばらく頭を使わなければならないじゃないか。蟻の頭についている複眼のそのまた一つに過ぎぬ程度のことで俺の思索を乱すな。この期に及んで、小賢しい知恵を振りかざすな。気付け!」と、憎悪が心をどす黒く染め上げるのを、小生、自覚した…人間機械の完成である。結局、兎に角目の前に容赦なく迫る、秒単位で設定された過酷な生産ノルマを達成するのに頭よりもまず手を動かさないといけないことに気付いたのか、日が経つにつれて彼も口数が少なくなり、ついには無言となった…こうしてまた一台、人間機械が増設された。
 
 さて、ビーチボーイズのスマイリースマイルについて。小生が勤労中、心の中で最も多く反芻したのが、このアルバムであった…聞く者の心を壊すアルバムであるが、もう、これくらいの音楽でないと聞く気がしない、しかし聞くと心が壊れる…もう、壊れてしまったのだろう…スマイルに比べると、ペットサウンズの楽曲は曲の輪郭や構成ともにくっきりしっかりして聞こえる…ペットサウンズは境界領域の音楽であるが、スマイルは、もう、彼岸に行ってしまった音楽なのである…そんな音楽しか、自分の心に糸をつけることができぬようになってしまった…出勤中、そして勤労中、ほぼ毎日、泪で視界が霞むほど、悲しくて仕方が無かった…ああ、何もかも悲しくて明るい、透き通っているが何も見えない…何も見えないという時にこそ、聞こえるという境地に至る…そして、聞こえるのはこの音楽である…この事実に比べれば、盲目の人が検校や津軽三味線やブルースを生業にさせられるという史実は卑俗な事例にすら思える…
 前触れ無く始まる。前触れという雰囲気作りが整わぬまま始まるということは、前提が無いということである。何も定まらぬまま、未熟に弾き出される、繊維が剥き出しの風に戦ぐ葦のような衰えた歌が、はじまりというものの不当と無残を陽気に歌う…生まれることを意識せぬまま卵から世に出た、内臓まで透明に剥き出しの稚魚の無防備が、そこかしこでの早速の捕食という当然過ぎる残酷もありつつ、やはり無心理で苦悩が思いつかれない程の事の移り行きによどみが無い。絶え間なく移ろう気象への過敏…晴れ間から日差しが注ぐ明るみを見上げた刹那、どんより黒黒と曇る雲行きの怪しさを感知するがそうした雲もまた明るみを増す目まぐるしさのいちいちに新鮮に応ずる、中味のない剥き出しの無邪気な神経性である。生まれいずることの無かった水子たちの囃し唄が、生まれ出てしまった者が大人びた声を上げて発する多大な恐れをあやす子守唄になる…なぜそうなるのか、それ以上言葉が進むのが拒絶されつつ、ただただそうなっている事に対して親は感情が喜怒哀楽の形を成さずに泣き崩れるのみである。ここまで、このアルバムについて思いを致すならば、楽曲を織り成す斬新な曲構成やアレンジ、テルミンやチェロなどの特異楽器や野菜を齧る音といった技術的な事に対して言及する気も失せる…
 ところで、ビーチボーイズのペットサウンズがビートルズのラバーソウルからの衝撃により作られたという逸話がある。こんなことは誰も指摘しないが、ロック史上、この伝説はビートルズ史観を補強する最強の基盤となっていると思われる。「あのペットサウンズさえも、ビートルズの影響を受けてできたんだ…」という論法である。これについては、今後、小生が展開するペットサウンズ論において徹底批判する予定である。
 概念の当てはめ作業に興味は無いが悪い癖で一応指摘しておく。以前にサイケデリアの諸条件に示したが、ザ・マザーズやザ・フーのように、ビーチボーイズもまた、「男たちの顔が皆、異なる」。ビーチボーイズ、とりわけブライアン・ウイルソンや、そしてスマイル作製の友であったヴァン・ダイク・パークスもまた、アメリカ音楽における点在する系譜たる、孤立した特異点である。

 わが病のその因るところ深く且つ遠きを思ふ目を閉ぢて思ふ
 こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ

 石川啄木

拍手[0回]

今週休載のお知らせ 梅雨明け

今週はいろいろあって、休日出勤もさせられ疲労困憊しておりますので休載いたします。

拍手[0回]

「デキシード・ザ・エモンズ/SOMETHING Dew(1996)k.o.g.a-103」夏至




 菊でいえば厚物咲よりも平弁や管弁などの小ざっぱりと風通しのよい簡素な品種に心惹かれるし、そういう意味で紫陽花も、ガク弁が赤子の頭部大に折り重なった、市井の路地裏では一般的な厚物よりも、山紫陽花などの、中央部に楕円星雲のように虫の複眼のように濃紫の小粒が集結した周りに、はらはらと疎らに花びらのようなガク弁が蝶のように舞う、簡素にして精妙に工夫された生態に心奪われる…

 NHKタイムスクープハンター、毎週楽しく拝見…だいぶ前の、室町時代の闘茶レポートでは使用されていた茶碗があの時代にはあり得ぬ品ばかりで辟易したが、最近のレポートでは、昔の人の、侍や農民なんかの月代(さかやき)が、異様にリアルだ…頭頂まで剃り上げた跡に、薄汚い産毛まで生えていたり、頭側の髪をひっつめて油で撫で着けているべとつき感も生々しい…かつらには見えず、まさか本当に役者さんが月代を剃っているのだろうか。

 朝…工場での仕事の前に何が何でも脱糞しなけらばならぬ事に何よりも気を使わなければならぬ惨めな状況となっている…間断なく製品が流れて来、いちいち加工しなければならぬ工場労働に、自由に排泄する自由などない…始まってしまえばそこから決して動けぬ…監督者どもによる、あらゆる方向からの絶えざる監視…まさに監獄の誕生(M・フーコー)は監獄というよりも産業革命後の工場制手工業において広く社会化されたようだ…山奥の現場までの1時間45分あまりの運転(毎朝6時起き…耐えられない)による微妙な運動が括約筋に刺激を与えるという素地があって、いざ労働が始まると激しい運動により腸が活性化され確実に便意を催すは必定、しかし労働が始まれば脱糞は許されぬので始業前に必ず脱糞する必要があるのだ…従って、以前にもどこかで書いたが、山奥の現場に向かう途中の、つまらぬ県道脇の郊外型コンビニで脱糞しなければならないことは相当切実である…そして、こうした位置づけのコンビニの便所は、毎朝、同じような理由で脱糞したがる現場系の男たちがひっきりなしに出入りする、朝っぱらから心底荒ませる状況が露わなのである…そして自分もその一員なのである…あああ、何だかもう、本当に荒んでくるなあ、と心の声を絶叫しつつ、モーニングを手に取り「へうげもの」を立ち読みしながら先客が終わるのを待っていると、その日は、いつもと違って、異様に長い…始業に間に合わなくなるし、意識的に早めた便意もあって、たまらず、ドアをノックしたり軽く蹴ったりするが、一向に出てくる気配がない…だいたい長くて5分だろう、こいつは15分以上も便所で何やってんだ、一つしかない貴重なコンビニの便所をいつまで独り占めする気だこの野郎、と思っていても、便所のドアの向こう側からは何やらカチャカチャとベルトのナックルを震わす音をさせるのみで、出てこない…糞、朝っぱらから最悪だ、もうこいつは待てない…という事で工場に向かい、着いて、便所に行くと、案の定、労働者たちが全個室でりきんでいる始業前ぎりぎりの時間…最悪だ…

 かような、直腸周辺での切迫した状況と同時進行で、通勤(=出頭)中の車の中で聴く音楽の存在はかなり切実である…1日10時間近く、ただひたすら、一つ一つでは単純な要素作業が、人間がある時間内にこなしうる限界量まで詰め込まれた作業を文字通り休む暇なくしなければならない労働環境…2時間おきに休憩があるとはいえ、精神衛生にはすこぶるキツめである…慣れぬ内はそれでもあっという間に時間が過ぎるが、慣れてくると、時間の経過の遅さが、懲役並みに苦痛となってくる…時間を意識し出すと、たとえばまだ5分しか経っていないのを時計で知って、愕然たる絶望に襲われるものだ…気が狂いそうになる…隣にいる、商業高校卒の女性が、ぶつぶつ、「気が狂いそう」「気が狂いそう」…そのように呟くことで、その呟きがある種のリズムとなって忘我の境地に自らを至らしめ、つらい現実を気休めでも軽減しようとしているのだろう…立ちっぱなしで、加えて荷の上げ下ろしもあるしで足が真鱈の干物のようにつってくるし腰は石臼のように鈍重に痛む、そして何よりも、インダストリアルな理由が指先に、ある特殊な動きを何度も強いる、しかも一回やっただけでも指がおかしくなるほど力を籠めないといけないのだから、指を動かす特定の腱が切断しそうな恐れと実際の痛みに襲われる…何度も、というのは、1個作るのに7工数ほど、それを10時間の内に650個ほど作る、という内訳である。そうした労働時間をやり過ごすのに、件の女性工員は一定のリズムで「気が狂いそう」と呟くのと同じ効能を期待して、小生は、頭の中で、記憶した音楽を何度も何度も再生させるのである…そのために、通勤中に音楽を記憶することに必死なのである…記憶するために聴くという事…そのうち、聴くという事が記憶の反芻へと自閉しつつ、これから確実に訪れる過酷な労働を恐れながら、諸々の人生状況もこの際ひっくるめて、先走る惨め、汚辱、情けなさや焦燥、不甲斐無さや荒みや乾ききった渇望などと共に、こらえ難く、音楽を思念の中でひたすら再生し続けること…指定された動きを、はた目には滑稽に繰り返しながら、いつしか周囲の騒音も自分の行為も消え去りながら、自分が掴みとった音楽を、記憶力が悪いからアルバム一枚分とはいかずある曲の一部分のみを、徹底的に繰り返すしかなかった。これもまた切迫しているが、2時間おきの休憩で、座る場所がない…トイレから現場に帰ったら、誰もいない…みなさんどこで休憩しているのだろう。脚がつってきついので1分でもいいから座りたいのに、現場には座る場所はない…休憩中電気消しているので暗い現場で1人、立ちっぱなしで作業開始を待つ。4時間立ちっぱなしはきつすぎる…かといって人に休憩場所を聞けるほどのコミュニケーション能力はないし、あったとしても発揮するつもりは全くない。持ち前の孤立のせいとはいえ、きつすぎてこれではあと2週間も続けられないよ…

 特に今宵はデキシード・ザ・エモンズの音楽性について語りたいわけではない。かような状況下で、たいした理由もなく、なんとなく暢気で穏やかな、どこか枯れた雰囲気のロックで労働をやり過ごそうと思って、本作を手に取ったまでであった。しかし、それでも、迂闊だった…ボーナストラックのドッグスとオール オア ナッシング…ドッグスは、誰かのカバーなのだろうか、詳細は忘れてしまった、オール オア ナッシングはスモールフェイセスのカバーだろう…ドッグス…自分の状況とは関わりなく楽しくやってそうな、気のいい連中の野放図なコーラスと、悲しい人間の声…他人が楽しそうなのが、たまらなくうれしく思える虚ろな感謝の念…オール オア ナッシング…本当にその通りだ…全てか、無か、こんなにも残酷なことが、希望や美ですらなく、ひたぶるに心を打つ妙境…次に眠ってしまえばそのまま死んでしまいそうな、優しい荒みというものなのだろう…もう何も言うまい、小生が、労働している間、ずっと記憶の中で反芻していたのは、結局、この二曲であったことを特筆するだけで十分だろう。不覚にも運転中と労働中、はらはら溢れそうな涙で視界が霞んだ危険をも伴っていた。
 
 デキシーについて一言云えば、彼らは、スモールフェイセスのカバーにあっては、原作と区別がつかぬほどの、しかし妄執を感じさせぬほどの自然さで正確無比にコピーしてくる、ということを指摘するに留めたい。声色までスティーブ・マリオットそっくりだ。絵画のデッサンや書道の臨書のように、スモールフェイセスをきっちりカバーするということが、彼らの音楽の核となっている。

 そして、テレビで、福山で骨董市があることを知るや否や、矢も盾もたまらず早速、出かけた…とんでもない品々に出会い、お助けしてきたが、それについては長くなるのでまたの機会に。写真では分かりづらいが、参考までに。肉眼で実物見ると本当に凄まじい品です。

阿部智康:ベースギター、オルガン、ピアノ、スティールギター
ハチマ氏:ファズギター、ベースギター、ドラム

拍手[0回]

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

01 2026/02 03
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

ブログ内検索

最新トラックバック

最新コメント

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]