酩酊編
リビアのガダフィ大佐が拘束後殺された地はリビアの地中海沿岸の都市シルトであったようだ。シルトといえば、ジュリアン・グラックの「シルトの岸辺」を思い出す…ちょっと本棚見に行けば分かることではあるがそれすらも面倒なので当てずっぽうに記すが、どこぞの文学全集にM・ブランショの「アミナダブ」と一緒に収録されていた茫洋小説である…グラック氏が高校教師を定年退職後に書いた小説らしい…横山大観らの朦朧体とは異なる…こんなことはどうでもよい…もう、既に酔いは深まっています。室内で、午前1時20分。
勤労後の疲労困憊、心身共ににっちもさっちも行かぬどん詰まりの果てに度が過ぎた飲酒止められず最近の人間ドッグでは過去最悪の結果を更新しつつ秋深まるにつれ酒はウヰスキーから日本酒へときっちり移行、備前五大老を揃えし今となっては新入りの備前徳利を育てるがためという浅ましい背景もあって備前徳利にしきりに酒を湛えては粉引高坏盃に注ぐ。就寝前の貴重で希少なる時間すらも速攻の就寝ゆえに読書にあてがえない困難である今となっては、わずか十五分の電車通勤時間しか時間がない…通勤電車…生ぬるい心情的にはアウシュビッツ‐ビルケナウへの護送列車にすら等しくなっている、精神が絶望的に切り立った地獄の15分…泣き言がましいが事実ではある。それゆえか、その瞬刻を読書時間に当てると、腰痛なんかの緩和治療に使われる針治療のように鋭く的確に小生の心にあらゆる重要な書物がピンポイントで劈き入ってくる。口腔で酒を巡らせるようにして執拗に味わっていると酩酊によりそれすらも瞬時に忘却、口腔に酒を含んでいる事すら忘れた結果、なんかの拍子に不意に酒が喉を落下、自律神経すら正確に判断できず気道に酒が入りかけてゴッホゴホむせぶ。今週襲われた激甚なる鬱状況について語ろうと思ったがそれすらもどうでもよくなってきた時間という時間…出まかせに、十一世紀ペルシャの詩人オマル・ハイヤームの、妙にいさぎよい厭世四行詩(ルバイヤート)を三つ刻む…こういうのを滑稽と云いたい。苦み走った…何の悟りも無い…
幾山川を越えて来たこの旅路ではあった。
どこの地平の果てまでもめぐりめぐった。
だが、向こうから誰一人来るのに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人は、見なかった。
もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほかに得るところあったか?
今は、何のために来たり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!
酒をのめ、マハムードの栄華はこれ。
琴をきけ、ダヴィデの歌の調べはこれ。
さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう。
今さえたのしければよい―人生の目的はそれ。
「四天王寺太子会紀行」のお知らせ
四天王寺の縁日「太子会」に繰り出したときのことを発表します。
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「太子会紀行 ~強欲回廊巡礼記~」
昨日、至高の徳利を求めて、こらえきれずに備前焼祭りに参戦してきた。いつになるかはわからぬが後日、「備前、ふたたび… ~生涯の友を求めて~」を発表したいと思います。思えば「備前焼紀行 ~無釉の驕り」から始まった小生の日本焼物紀行…ここにきて新たな転回点を突破、らせん状に舞い上がる日の本の焼物たち…
反芻編
まだまだ残暑は続くんじゃないかと己に対して意地悪く気負いたっていたのに肩すかし、過ごしやすい気候が続けば続くで、腹に冷たい鋭利を差し込むように不安でたまらなく、暑くて仕方がなかったり長い冬が続いたりの劣悪な環境への憎悪が生活に漸近する頑強な記憶が自虐的によこしまに根回しするのか、こんなに気持ちいい気候が続くのであれば、それ以外の、社会的ないしは私的生活において最悪なことが惹起されるは必定、と、物事の悪化しか信じられぬ成り行きにうつつを抜かし、微細にわななく。これから、ろくなことが無いに違いない。自分の尊厳が踏みにじられる程度ならまだしも、生存すら脅かされるような危機的状況が待っているに違いない。なぜなら、空気が涼しくてたまらなく気持ちいいからである。穏やかな一日を送る…細君は仕事に出かける…午前中、自分好みの洗濯をすませ、水炊きの残りで軽く朝食。自分好みの配列で衣類を天日に干し(小生が住まう賃貸アパートは午前中のみ日当たりがよく、午後から悪くなるのでこの機を逃せない)皿のみならず台所の排水溝の、放っておけばヌルミのある有機汚物が堆積し腐敗臭を吐き出す箇所を毎週の日課として掃除した後は怠いので寝、昼ごろ起きて神学大全(トマス・アクィナス)と大田南畝の漢詩パロディ戯作本をつらつら読む…そして寝て、これまた過日の残りの、小松菜とピーマンと蓮根とベーコンの、塩コショウ等の味付け無しの炒め物と異常に塩辛い塩鮭と御飯といった昼餉…神学大全(スンマ)読んで、おもむろに彫刻…さほどうまくいかずいつもと同じパターンできたなく仕上がったかと思うと夕暮れ、穏やかであった。賃金仕事から帰って苛苛、殺伐とした精神であっても彫刻すると心が落ち着きはする、しかし予め心が落ち着いていないと彫り損じることも多く、やはり予め心が落ち着いている方がよいのだろうがかといって落ち着いていてもうまくいかないものはうまくいかない厳然があって、いずれにせよ全く苦にはならないから面白い…一彫り一彫り、考えながら彫る。思い立ってタンスの中の、今までもこれからも決して着ないだろう衣類を片っ端から引っ張り出して袋詰め、木曜日の有価ゴミの日に備える…5袋…黄瀬戸のように黄ばんでどうにも取れないワイシャツ5枚、同じく黄ばんだ、元は白い、ダサすぎるコート等…日はとっぷり暮れ、急いで洗濯物を取り込むと月が小さく高く、澄んでいる…買い物に出かけ…牛丼チェーン店「すきや」で白髪葱牛丼の豚汁サラダセットを食す…すきやというのも、激マズ回転寿司やマクドナルドと並んで日の本の荒みスポットの一つとして押さえておきたい場所である。日中はマクドナルドでのママ友会合荒みが激しいが、すきやは主に日が落ちてから、親子でジャージ&サンダル、子はジャンボ尾崎風の後ろ髪伸ばしヘアー、といった階級のファミリーばかりとなる…とりわけ小生が行く店の入り口には地元中学生の不良男女がうんこ座りでお出迎え、である。一般客に危害を加えることはない。しかし人は見かけによらないのか、案外、すきやで散見されるヤンキー家族の子供はおとなしく牛丼食べている…大声で騒ぎまくり走り回ることはない…一方、以前にも報告したがマクドナルドに昼間から屯する中産階級風情のママ友連中の子供の騒がしさ、暴れ具合は桁外れに激しく耳障りで傍若無人である。無論、小生にとっては、ヤンキー家族もママ友も、「荒み」という概念の酒を進めるうえでの「つまみ」として、肯定するでもなく否定するでもなく苦しく味わいながら眺めているだけである、彼らと同じものを、牛丼やダブルチーズバーガーを食いながら…細君が、フランス~室蘭観光ツアー、というのを考えているのを記録代わりにここに記す。フランスを一通り観光した後、東京で解散、ではなくて、なぜか北海道の室蘭も観光する、というツアーである。会社の車に会社の人を乗せて小生が運転、幸い会社の人が小生以外に二人以上同乗していたので小生は会話に加わる必要が無いので小生以外の人々の会話を聴くとも無しに聴いていると、おのずと、子供を持ったパパ友的会話となる…聴くと、どうも、街に住む最近の小学生はだいたいサッカーや野球などのスポーツ少年団ないしは水泳や武道などを習わせているようだった。街だから子供の遊び場が無いから公園で遊べといっても、承認された遊び場で遊んだところでそれは既に遊びでないことは子供がてら分かるのか公園などでは遊ばなくなった小学生ぐらいの子供はむしろ率先して社会の仕組みへといっそ没入するかのようだった。自分の経験など、今の自分を顧みれば何の説得力もありはしないが、少なくとも小生は地域のスポーツ少年団なるものに入団することはなく、そんなことは考えたことすらなく、実際に、周囲でも、入団しているのはごくまれだったような気がする。なにぶん田舎のことゆえ、現在は開発されて団地ばかりになったがかつては家の周囲は山しかなく近くにきれいな小川がさらさらいくような自然であったから小生は野山で、近所の子供らとそれなりの序列も意識しながら、それでもお仕着せのルールなど無い処で何かしら遊んでいた気がする…従って放課後にすぐさまスポーツ少年団活動するよりは、小生は人間以外の自然というものと触れ合っていたような気はするがその事が取り立てて豊かな経験、といわれるゆえんもありはしない。しかしかような留保もありつつも、小学生からスポーツ少年団なるところに入団するということは、人間が決めたつまらんルールを金科玉条しながら人間が人間同士でごちゃごちゃとうまいことやる術を幼い時から身に着けるという事なのだろうと推測する。体制的人間を早期に量産するのだろう。極端な例でいえば、かつては人間同士の馴れ合いの同意(宗教等)を覆す存在としてあった科学が技術を媒介にして政治=社会と結託した結果、人間が人間どうしでうまいことごちゃごちゃやる自己完結こそが既成事実として保護された挙句に昨今の原発事故があったのだろう。それを思えば、子供のころから、スポーツという、たかが人間が決めたルールに則して人間が人間同士でうまいことやることに長ける訓練をするのであれば、特に科学に限らないが現状の人間社会の限界を批判的に見据えたうえで何かするという思想は生まれないだろう…自然からの何らかの供給なしには生存できない人間は自然と対峙せざるを得ないが、その際の自然解釈が、たかが人間内部での談合による社会承認に終わっていては、いずれ自然からしっぺ返しを食らうのだろう…しかるに昨今の親は、しかも自然を相手にするのが職業のエンジニアの親らは、自然ではなく人間どうしでうまいことやる世渡り術を子の教育において重視しているようだった。人間よりも自然を見ることは将来的には人間のためになるとは言い条、結局目先の反応に右顧左眄するのが習いである生活者の人間であれば些細ながらも人間への反逆であることを無自覚に察知して人間におもねているのだろう、反逆の苦労を子供にさせたくないという老婆心ではなくて、大人である自分がそうした反逆的行為に加担したくない、加担すれば何があるか分かったもんじゃないという些細且つ決定的な保身ゆえであろう。人間同士で承認しあいながら沈んでいく泥船の様子が目に浮かぶが、しかし小生などいわゆる人類の未来を憂える構えなど野暮ったくてやってられず(人類など存在しない、卑小なる生活者が烏合するのみ…)、その泥舟が沈むのであれば小生も、それを横目で見ながら沈んでいくのだろう…かといって、街のマンションに住んでいるのであれば子供が野山を駆け回れる環境にはないのだからどうしようもないのだろう。それに、幼少のころの経験なぞ、大人に至るときに必ずしも決定的とはいえないだろう。かつて野山を駆け回っていて人間への批判力旺盛なはずのかつて自然児だった小生などは、この時、所用が終わって会社に戻った時、車庫入れに失敗して会社の車の後部バンパーをドガッと柱にぶつけて凹ませ、始末書&反省文という体たらくである。小生が社会社の人を車に同乗させた時のこらえがたい精神の動揺が身体に直結することによる危険運転の発作、については以前書いた。自家用車は軽自動車なので普段は乗りなれない、この国にそぐわぬばかでかい車の幅感覚がつかめず…いろんなことに対して不甲斐無い惨めさや汚辱のみでいっぱいである…(車をぶつけたことにたいしてではない…注)感謝の心は忘れたくないものである。そういえばこうしたことに関連するのだろうが、数年前に放送されたNHKスペシャル「里山で子供が輝く」の欺瞞に対する批判を展開する予定であったのを思い出した。かなり前にメモしていた宿題である。
ブルースマグースのサイケデリック・ロリポップをしつこく再聴。以前にもこのアルバムについてはこのブログで思いを述べたことがあったが、反芻編ということでお許しいただきたい。オープニングの曲以外にはさほど印象に残っていなかったが、改めて聴くと、全曲、よい。麦藁のように猛々しく、やさしい、ポカポカした日なたの暴力である。懐かしいかと問われれば懐かしいが、この懐かしさは、いわゆる懐古趣味が持つ、過去を肯定することによる現状への馴れ合いとは別種である。現在の自分を批判的に奮い立たせるような、攻撃的な懐かしさというのもあるのかと改めて思わされた。ワインはなるべく買わないようにしている。なぜなら一晩で一本飲み干してしまうからだ…またワインを買ってしまった。痛飲中。
越前焼紀行のお知らせ
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越前焼紀行~永平寺物欲問答~
予告編
野分明けの秋空は思いの外、風の裾が長々とたなびくのか、とうに過ぎ去っているのに大らかな涼しい風が塊となってどこまでも軽く気まぐれに強く吹き付けてくる。明日は、久方ぶりに、日本焼物紀行を更新すべく作文しようと思っている。過日の夏に訪れた越前焼紀行と、ついさっき日帰りで行って帰ってきた大阪は四天王寺太子会での奮闘記の豪華二本立て増刊号をお送りしたい。作文自体は明日中に何とかなるだろうが、ホームページの形にするのに外注(細君)に出しているので、今週の土日にできるかどうかは分からないことをお知らせしておきます。
ブログ屋の陰謀によって、下品な広告が載るようになった。↓
吐き気がする…人に何の許可もなく、他人の文章の下にデカデカと下劣で厚かましい広告を強制的に掲載させる設定にするとは!朝っぱらから怒り心頭である。
歌の終わり
今週もいろいろあり過ぎてまとめることができないほど…生活俳諧とやまと歌、そして今月の安全標語でお茶を濁す。
夜干しのタオル朝日にはためけり
露草は摘みし刹那に散りにけり遅れじと手向ける露はあわれ白々
(注解…早朝、秋草を愛でようと野遊びに出かけたところ、これからの季節一層深まるだろう蒼空の滴の如き青を湛えた露草の可憐に心惹かれ、折しも今日の午後訪れる予定の御客様へのもてなしのしつらいにふさわしかろうとも思って摘み、ビニール袋に乱暴に突っ込んでいると、あわれ悲しや五分と経たないうちに花がしぼみ散ってしまった。人の興趣とは無縁の処で、野に咲く花は野でしか果てぬとばかりの野の矜持を突きつけられる。野にあってみれば白々ときらめきを点在させる秋の澄明な露を朝にいただき気持ちよく潤うのだろう露草の無念を思って、せめて、己の恣意的な無神経を悔いる小生の心の涙が秋の白露であってくれたらばと、涙を白露に見立てて手向ける気持ちが、摘まれたせいで枯れゆく露草に通じてほしいと遅ればせながら思う。しかしながらさような心の涙など、野の草々や花々にあってみれば欺瞞にも及ばぬ白々しいものであるよ。野に咲く花が黙っているがごとく、何も言わず黙って悲しめばよいものを人間の業というものは…)
とっさに出したその腕が二度と戻らぬ重大災害
(注解…工場に貼りまくられた今月の安全標語。とっさ~戻らぬ、までは、事故に遭遇し、あるいは自ら事故を起こした結果、腕を切断する羽目になった労働者個人の立場を斟酌しているが、最後に、重大災害、というところで、「災害」であると認定する事業組織の立場がぬっと出てくる。いくら重篤であっても「怪我」であるならば個人的なものである。しかし「災害」とは社会的なものであり責任関係その他諸々の社会現象の範疇が入り込んでくる。一見、労働者の腕が失われるという悲惨を防ごうとする労働者を労(いた)わる視点を見せながら、そうしたことを全く否定はしないのだろうが、しかし、結局のところ、「災害」という言葉を使うことで、「事件事故が起きたら会社の責任になってマスコミやお役所など他の社会からいろいろ文句言われて迷惑なのだからいい加減にしろよ」という、組織保全に務める組織側の立場が強調され、事故に遭う可能性のある他ならぬ一人の人間への思い、という心配りは薄まることになる。ようするに巧みに隠蔽された欺瞞の歌である。なおかつ、そうした意味を標語にして貼りまくることで、組織側の視点に過ぎぬ考えを個人の考えにまで刷り込ませ、自分個人の考えがそのまま組織側の考えでしかなくなったような文字通り組織的体制的大勢的個人を増産しようとしている無意識の意図がうかがえる。こうしたことを無意識にやっているからやっかいだ…しかも、この標語は会社側が一方的に作成したものではない。会社側からの応募要請があった上で一般社員が一人一つずつ以上作成した標語の中から会社側が優秀作として選定したものであるから、体制の構造はより複雑である。)
反芻編
下線部追記
ひと雨ごとにもののさびしき夏の暮れ
迷妄須らく晴れぬうちにも晴れたり曇ったり夏と秋の逡巡いつしか季節は過ぎ去る道行き。定まらぬ竹馬千鳥に踊り場こそ山中の隠居かはたまた飛び込み台の土壇場か己でも名状しがたく、差し当たってのしのぎにご笑納の段。過去にこの電誌で綴ったことがあるこの音楽を、性懲りも無くまた聴いている。諸芸能の中でもとりわけ音楽は、反芻して聴くということが聴取の常態にして大事である…と書きながら、何だか今宵は酒の力を借りてもいまいち筆が進まぬな…と心苦しく、自分の所持していた微力なる能力であっても失われるのが恐ろしい気持ちに苛まれ、まことに強い物欲まみれの自分には私有財産の否定なぞできっこない、ましてや身体能力の喪失はどうなんだろう…生活さえできれば手足の一本ぐらいは無くなっても構わないが何よりも聴覚の喪失だけは過敏に恐れ、テレヴィの音量はなるべく小さく、必要なければ消音しているし、音楽鑑賞の際も、昔日はヘッドホーンで鼓膜に直接爆音圧を叩きつけていたが、昨今はほどよい音量で耳に優しくするようにしている保身ぶりも顕著である…彫刻を始めた手前、特に自分の指先の健康管理というのに意識が尖らざるを得なくなっているのも事実である…職場に貼りまくられた、一瞬の不注意で一生台無し、といった意味の安全標語…今までは何の興味も無かったが、今となっては、身につまされる、いたたまれぬ恐れを以て関知せざるを得ぬ…これからという時に、こんなことで台無しになってたまるか、という、怒り混じりの閉塞感の憎しみ悔しみに率先して苛まれる…過去に二人ほどの労働者の手首を潰した機械を日常的に使っている。安全装置が二重に設置してあっても、基本的に人間が介在する時、一切の絶対安全はあり得ない。いきなり筆が走り出したのは無音で流しているテレヴィから会社の星が垂れ流されているからで、炎の夏合宿、なぞやっているのを目撃、ドスにも似た憤怒が突沸したからである…まず、出演する若手営業たちが、皆、そこそこ整った容姿と顔であるのが気にくわぬ…今に始まったことではないがテレヴィに映る人間はだいたい小奇麗に整っている…嫌らしい、優生学的、社会進化論的選別が行われているんじゃないかと思うと滅茶苦茶にしてやりたくなってくる。既に社会化制度化された相対的主観に過ぎぬが学校のクラスのうち一人か二人かは容姿や顔が醜い人物というのがまさに存在していたはずであり、それは社会にまで敷衍されうる事実である。管理された公園の芝生で、積極性を試す練習のようなのをやっている…「遅い鈍いトロいは誰でもできる!」などと叱咤する女講師…5.15、2.26、虎の門事件、血盟団事件といった世相でなくても心の持ちようによってはいつだって切迫した世の中である。一人一殺、という言葉が夜這い星のように心をよぎり、ケロイドのような記憶の汚い傷を残す。関係ない市民まで殺傷に及ぶのは論外だが小生はピンポイントで対象を絞り込んだテロリズムを支持する者ではないかどうかここは有耶無耶にしておくが、今、この日本でテロリストが狙うとしたら天皇でも閣僚でも資本家でもない、あのような媚び上手な若手元気連中と彼らを食いものにするバブル世代のセミナー講師や上司なのだろう…まずは話し合いで解決してほしいものではあるが…「会社の星に出演すべきではないよ、一緒に会社の星を粉砕しよう、自分が馬鹿にされているのがわからないのか」と云ったところで納得されるか疑問だ…否、むしろ、小生が会社の星に出演し、小生が三島よろしく繰り出す番組批判の演説が放送されるように元気若手営業に協力を申し出るか…あり得ぬ…文藝春秋で村上龍が連載しているオールドテロリストという小説も、こうした内容なのだろう、と簡単に一読した限りではあるが思った。やる側もやられる側も、どこまでもチープでコンビニエントで短絡的な、すべてがあからさまで事象の表層を裏付ける深い事情も理屈付けもあり得ぬ現在、みたいな。世代間闘争などどうでもよいが、思えば、世代間闘争を真正面から標榜した芸能の嚆矢としてはロックをおいて他はない。ザ・フー「マイ・ジェネレーション」。木金の休日にはNHK高校講座を見てしまう。
何を云いたかったかと云うと、エレクトリックプルーンズをまた愛聴してしまったということである。自分の音楽的精神を形成しているのは、ザ・マザーズのサード、ザ・シーズのファースト、the 13th floor elevators、そしてエレクトリックプルーンズのロストドリームの4つである。日本酒で酔えば酔うほどコメカミや首が痛いのはなぜだ。エレクトリックプルーンズについては過去に詳述したので書き加えることなど今更ないが、何度でも聴いてしまう…何度聴いてもよい、聴くたびに発見がある…と悦に入りつつ何度も何度も聴くうちに興奮が磨滅していった音源はいくつあろうか。こんなにも情けない、みじめな、ヘドロの中でしか生活したことがなく晴天の爽快など概念としてすら知らぬ捨て鉢な連中の荒みきった音楽を自分が好んでいるとは、しかも、むしろそうした音楽しか最早聴けなくなっているとは。こんなにも弱弱しくひねこびた、度し難い音楽を。改めて愕然とする。特殊に荒くれた奏法を新規に創発させているわけでもなく、ポップで在り来たりな演奏、へなへなで肝心な部分で力が入らぬ脱力も意図的ではなく基本的には演奏をこなしているのにささくれ立つ闇の獰猛を放つ男どもの癒しようも無く苦しい、間の抜けた歌である。いきなり気ぜわしいロシア民謡を一斉にがなる頓狂おさまりがたし。
数年前の荒んだ時期、ナチュラル雑誌を熱病のように購買熟読、一度に5冊ほど購買していた週が何度も続いた時期があったがこれが再燃。これについても書き出すときりがなさそうだし、「荒み」を標榜する小生が何ゆえナチュラル雑誌を?という説明責任も付随すれば今夜は徹夜、ナチュラル雑誌とはいかなるものか知らないかたのためにキーワードを。ナチュラル。オーガニック。アースカラー。プレーン。モノトーン。心地いい。カントリー。…
雑感編
一週間前、自分が何に対してむきになって思いつめていたのか、思い出そうとする努力すらも疎ましく、億劫に思える、あっという間の気移りである。自分の生活史思想史について赤裸々に述べる、などと…あらゆるものに媚びへつらい様子をうかがい、ぎりぎりにせよ順応してきた浅ましい市井人としての有り様を、多くの人々は既に見透かしている既成事実であるにも関わらず今更告白然として披瀝されたって、勝手にしろと唾棄されるが落ちの凡庸な私事である…他者のためではない、専ら自分のためではあっても、自分なども他者に過ぎぬ、というのは軽薄なレトリックではあるにしても…あらゆる矛盾とされていることは、これこそ、まさに言葉の中での整合性の問題に過ぎぬ…言語化された人間の頭の中の身勝手な自家撞着などと無関係なところで、諸現象というのはいくらでも生成されている…矛盾云々は主観者たる人間の、何の必然性も無い悩みに過ぎぬ…並々ならぬ空しさの波間に揺れるうたかたは喜怒哀楽に取り縋る日々の暮らしは今何処…内省編など、大上段に振りかざしたりして、恥ずかしい…どうでもよくなってきた…無傷で無神経で無害な精神へと、生活と云う砥石によって磨滅していく過程での鋭利に過ぎなかったのかもしれない…いずれにせよやらなければならないことは決まったので、あとはそれに向けて猛進するのみ、といえど潔さなどどこ吹く風で横道しかない生活の猥雑にも事切れて如何ともしがたく、いまだに未練がましく後悔の念を赤熱させているのは、数か月前に突入した福山での骨董市で、うまく判断が付かずにお助けしそびれた、小ぶりの天目茶碗のこと…ぐい飲みよりは大きく通常の茶碗よりは小さい妙な大きさのその天目はようかせた黒味が光を返さずに煮凝りのように深海のように自然と暗く、そそり立つような口狭の器形、見込みには木の葉天目紛いの落葉が化石のように沁み付いている…茶筅で茶を練るには小さすぎると思って、他にも(偽)天目茶碗は既に所持しているし買うまでもないかとその時は見逃してしまったら、帰宅後、ようよう考えたらそれで日本酒でもやればさぞや…などといった嫌らしい欲望に、最早一生出会う事も無いという嘆きの壁の事もあって、無駄に苦しい後悔に毎日苛まれている始末である…
数か月前の事…行きつけの近所の激マズ寿司に行く…入店早々、「今の時間帯は流しませんので」と、店員から通告。その時は夜の7時くらい…晩飯時だろう…この時間帯に寿司をコンベアに流さずに、一体何時流すつもりなのだ…しかし店員は小生と、作業服の男とその関係者の熟年女性、そしてタクシーの運転手の四人だけだから致し方ないとはいえ…仕方なくバイト店員に注文…小生、アメリカンロールなる創作寿司を依頼する…恥ずかしながら、アメリカンロール(カリフォルニア巻)は嫌いではない…むしろえげつなく陰湿に好んでいる…なぜなら、おいしいから…元来はアボガドや大葉など気の利いた具材を酢飯で巻いた上に海苔とサーモンを巻き、ゴマなんぞ振りかける、アメリカ西海岸の人が創作したものの逆輸入なのだろうが、この激マズ寿司では、アボガドではなく、言語道断にもキュウリを用いているのである…そこんところを指摘してやろうと思って、話のタネに頼んだのである…しかし、待てど暮らせど、来ない…二つ隣の作業服男はこれまた無遠慮に、一度に五種類ものネタを何度も矢継ぎ早に頼みまくる…ぎこちない、慣れていぬバイト店員二人、4人しか客がいないのにまったくこなし切れていない悪状況…いっそのことコンベア解禁にすれば、多少は、客からの直接的な注文攻撃からは逃れられるだろうに、最早時期を逸している…それでも、こうした、回転寿司における注文系の無作法客というのは、たとえコンベアに寿司が回っていたとしても、直接、店員に注文するのだろう…コンベアで回っているものよりも、直接注文後に握られた寿司のほうが新鮮だとでも思っているのだろうか…くだらない…こんな激マズ寿司屋で新鮮も糞もあるか。あまりにも貧相な貪欲と無知による愚の表明以外の何物でもないことに、自分では気づきもしないのだろう。気付け!だいたい、回転寿司屋で店員に直接注文するときは、せいぜい2種類を上限とするのが作法と云うものだろう…それをこの大食漢は全く…しかし来ない…アメリカンロールや天ぷら巻のような特殊ネタはカウンターではなく奥の調理場の女性が制作するはずだが、これまたただならぬしくじりを繰り返している模様で、こなし切れていない様子…だいたいこの店、来る度にバイトが変わっていて、一向に、「慣れる」ということを知らぬようだ…人生に対してどこまでも新鮮で生まれたばかりのような態度は結構だが、経営に関してはどうにかしてほしい。もう一度、店員に声を掛け、それの遅参状況を指摘すべきなのだろうが、しかし、二度と云えるものか…「アメリカンロールください」などと…まるで、下劣でパーティ漬けの筋肉馬鹿のセレブ白人どもに犯される、褌一丁で角ばった尻をさらす煮干しのような小日本男児、を思わせるこの寿司…二度と云えるものか…アメリカンロールなどと…アメリカンロールなどと!結局、それが出てくることもなく、その日は筆舌に尽くしがたい情けない気持ちで席を立った…行く度に、解消しようもなく新鮮な不快感を創出してくる。それが激マズ寿司である。
どうでもよい話だが、日本ハムとソフトバンクの試合結果に「日ソ」と表示してあると、日ソ中立条約を思い出す…この国の定説では、大戦末期、ソ連が条約を一方的に破棄して満州になだれ込んだ、ソ連は最悪、ということになっているが、一方で、独ソ戦が激しかった頃、関東軍がソ連と満蒙国境付近に演習と称して数個師団集結させたため(いわゆる関東軍特別演習、関特演)、ソ連は極東にも兵力を分散せざるを得なかったためにドイツの快進撃を許した、という見方もある。ソ連にしてみれば、日ソ条約の内実を先に破壊したのは日本だという認識である。無論、独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻したドイツと三国同盟を結ぶ日本のことをスターリンが条約ごときで信じていたはずはない。想定されうるあらゆる状況に対し少しでも自国に有利な大義名分を確保するための外交上の布石に過ぎぬ。
耳たぶのない人間が苦手だ…耳と頭部の付け根が鋭角に切れ上がっており、耳たぶがほとんどない人間というのが結構いる。同じ人間ではないのだろう。耳たぶが無い人間は冷酷、という偏見から逃れられない。就中、耳たぶのない女性というのをよく目撃する…男はほとんど耳たぶがある…女性は三分の一くらいは耳たぶがない。あれはどういうことだ。耳たぶとは、耳と頭部の接着部分の下端よりも下に垂れている部位のことである。妻には耳たぶがあるからよかった。
夢の中での経験のほうが、現実よりも過酷だ…だから、あまり夢を見ないし、なるべく見ないようにしている…夢を見ると、苦しくて、夜中、キリキリキリキリ歯ぎしりしているらしいので、朝起きると顎やらコメカミやらが痛く、首筋の痛みや頭痛がひどい…
職において、別の事業所に行くために小生は車を運転し、その車に職場の人(上司とか、上司とか、上司とか…なぜ自分がこんな他人に服従しなければならないのか→金をもらうため、というのが冷たく突っ切って、吐き気を催す…とうに限界は越えた)が同乗する、という事態に陥る。ごく在り来たりな状況なれど、8年間一緒に居ても全く心開いたことなく共通の話題は気候以外に絶対的に皆無であり必要最低限のこと以外話した事がないため話題は一切なく、心が動揺、元より精神の状況が運転の状況に直結しやすい、運転には向いていないひ弱な心の小生である(免許取得以来13年間無事故)。仕事の事をきかれ、何もしていないことがばれ、周章狼狽、急に速度を落として左折するため車道中央までふくらんで曲りだしたバイクを轢きそうになり、赤信号の交差点に突っ込み、信号も何もない、皆がスピードを出している直線道路で無意味に停止してしまったり、行き慣れているはずの道を間違えてあらぬところでUターン、といった危険運転を繰り返す破目に…二度と話しかけられなかった…何とか生きて帰ってこれたものの、ぎりぎりである…いつだって、ぎりぎりである…
腹見せぬ蝉の不動や路上の死
フランス語で、「社会から疎まれた存在」のことを「アリエネ」と云う。
