「das synthetische mischgeweb」春宵酔
月並俳諧一句
水の冷たさ心地よければ春近し
震災一周年という負の記念日を迎えるにあたって、日本中という訳でもないだろうが兎も角テレヴィ界という情報概念世界では朝から晩まで震災福島関係の映像で持ちきりである…ここまで溢れ返ると、震災原発復興関係の映像が、例えば明石家さんまあたりのどぎついバラエティ番組なんぞよりも心落ち着く番組としていつまででも視聴し続けてしまう…まるで「日曜美術館」や「新日本紀行」や「小さな旅」を、自分への思想的影響皆無ながらも見てしまう朝の安穏のように、津波映像や瓦礫映像、成人式を終えて福島の真っ黒に暗い盛り場で醜く爛れたおらび声をカラオケする、除染労働に携わる男とその妻が荒んで「俺らはマウス、実験台」「わたしら子供産んでやるよ(その子供が放射能の影響でどうなるかお前ら好きなだけ確認しとけ)」と酔いに任せて悲壮な覚悟を口汚くヤケクソに叫ぶ生命力繁殖力強そうな様を見続けると、心に馴染みながらしっとりと見てしまう…こんな見方への批判など幾らでも出来ようが、一個人たる小生のこの事実は、無かった事、にすることは出来ないし、させやしない。命や生活の危機に晒された困難時に他人から無償で助けられれば有難いし、そうした喫緊の状況から遠ければ何とも思わない、という、不連続たる人間の自由である。
記憶があいまいだが、会津若松城か鶴ヶ城は、屋根瓦が茶色だったようだ…青灰色の釉の瓦や銅葺きや鉛葺きや金箔押しの屋根瓦が一般的だと思っていた城の瓦界では、意表を衝く外観が忍べるだろう。そう、山陰から山陽の山間部の農家の屋敷によく使われている石州瓦のように…農家と云うのはみんな瓦が茶色なんだと思っていたが、自分で稼ぐようになって少し旅行するようになって世の中はそうではない、と、蒙が啓けたほどだが、今では、実家に近づくにつれて茶瓦が増えてくるのを目の当たりにすると、息詰まるような嘔吐感は否めない…あの茶瓦を見ると、過去の忌まわしい記憶が蘇ってくるのである…あの茶瓦を石州瓦というということも、焼物を学びだしてようやく知った事である。
いささか愕然としたのは、品物が揃っているので嫌々ながらたまに行くが内心その存在を忌々しく思っている近所の巨大ショッピングモールでの出来事…薄暗い屋内駐車場に駐車してある客の車を、若い男が、それ専用の器具を使って洗車していたのである…客がモールでショッピングを楽しんでいる間に、愛車を洗ってもらう、という新手の商売のようであった。ラグジュアリー感が漂う、七人掛けくらい可能なファミリー向け乗用車をピカピカに磨き上げる、茶髪の、ジャニーズのV6のように貧相な男…ここはまるでインドか、と思った。富の再分配の適正化を口先のみで制度化したがるのみで資本主義批判を巧みに忌避する格差社会論に拘泥するつもりはないが、走馬灯のようにいろいろ思い出した。
苦しすぎる雁字搦め個人無き共同体を封建制というならば、個人が生まれはしたが一方で個人対組織、個人対国家という対立構図が制度化したのが近代である。近代の発生には当然ながら貨幣経済の浸透の寄与が大きいのだろうが、個人が商売組織と対峙するに最も象徴的なのがバザールやパサージュやデパートやモールなのだろう(その反対で、封建制の農村で、しばしば蔑視されながら重宝もされた商売形式が、行商である。旅の行商人。消費者の共同体の中に、売り手の個人が突入するという…)…19世紀にはバルザックだか誰だか忘れたがデパート小説が書かれたし、そういえば大江健三郎の「万延元年のフットボール」にはスーパーマーケットの天皇(←しかも在日朝鮮人)という人物が暗躍、村上龍の「オールドテロリスト」には「モール」や「スコーン」(←小麦粉を焼いた土台に施された珊瑚のような凹凸に蜜や生クリームを埋設させて食う御洒落洋菓子)に異様な興味を示してくる、隷書体が書ける女が出てくるし、そして昨今では、地域社会と隔絶しながら直接地域の個人に消費を促すショッピングモールがのさばる現状に、資本と国家の日常的な非情なる剥き出しを見たのであった。かといって、小生が、例えば人情商店街のようなものを懐古しているのではない。
それにしてもこのCDは何なのか…アルバムタイトルも製作者名も極度に分かりにくい表記方法…電子音の畸形を取捨選択した音の粒が神経質なためらいと微細すぎる控えめな態度で無音の闇から浮沈する、いつ終わるともしれぬ虫の宴。承認制度から否定の烙印が無意識的に押されるのすらからもとっくに零れ落ちている無限広大なるノイズの世界の住人たちによる、飛散と狼狽と気まぐれの集中、そして希薄、誰も気にしない精神の余白の隅において丁寧でもある。鼓膜にいきなり着火させんとして耳道を突進してくるとち狂った糸トンボの形したジッポのような、小さい虫ゆえに可能な凶暴を、刹那と終局を暴力的に婚姻させながら劈いてくる。モツモツした音がよい…こういう音楽の分野は何なのか、などといった、分野へ格納することで理解した気になっている情報馬鹿への飼葉に過ぎぬ問いに答えるつもりは毛頭ない。
今週の言葉…
地獄で待つ者は、きっと楽器を持っている。 岩井志麻子「黒焦げ美人」
「eugene ysaye(1858-1931)/sonates pour violin solo/thomas zehrtmair plays/ecm1835」春一番
もう春など来なくていい、とまで、半ばはぶてたように恨みがましく募らせていたのが、一雨ごとに暖こうなる季節の移り行きにほだされるかと思いきや、そうはならぬ頑なな思いが私生活の鬱屈も相まって八つ当たりのように、こんなに寒くて苦しいのに今更春が来たって、お情けをかけられているようで馬鹿にしているとしか思えない、いっそこのままずっと冬でもいいわいという薄汚れて子供じみた意固地はいささかも衰えはせぬ、余人にも計り知れる浅はかなくさくさ感と気ぶっせいである。冷たい粒子と暖かい粒子がざんぐり混じった風が、ふくらかに、大きい。
部屋を薄暗くしないと文字が書けない。光と音と文字と点字の関係を語り出したら今宵は眠れないので躊躇しておくが、一般的に文字が黒いのは無政府人格(無政府主義ではない…)との関連があるに違いないと確信している。人格、と云うことで、主義がまとう歴史や直接行動から逃げるわけではない、と、言わずもがなの註も入れつつ。むしろ逃れがたい業として、転向の言い訳を遮断する覚悟として、人格、と云うているのである。
この冬、ずうっと、自分好みのコートを探求していたが、ついに連れて帰ることができて満足しており、もうこの先何も出来そうにないほど虚脱している…一度、何となくその店に入ったところあまりのデザイン性の高さに這う這うの体で逃げ帰った事があったが、今回は満を持して突入したのである。モンゴルで羽を伸ばす朝青龍が着ていたような民族衣装をモダンにしたような大胆な布のカッティングと水際立つ構成力、細部に渡って有り余る工夫と上質の布地、縫製を施したコートである。現在、まあ悪くは無いので渋渋買ったがサイズが合わないので真っ二つにぶった切って溢れ出る綿と格闘しながらリメイク中のコートもあるが、遅遅として進まぬ手縫いの苦しみを背負いながら持続する気力が、この度お連れしたコートの出現によって萎えてしまう。いずれにしても、よい物を作って売っている店は、微力ながら支えねばならぬ義務感によって。
自分でも救い難く俗っぽいと思いつつも、真白き豆腐に醤油を垂らすのに長らく疑問を煩悶させていた小生は、醤油を止め、豆腐に塩を降らせることにする…江戸時代の「豆腐百珍」に既に記載されているかもしれぬが、名付けて、雪見豆腐、とする。塩が酒と豆腐の味わい全てを生かし切る潔さ…見た目にも美しい。豆腐と云うのはつくづく眩惑的な食べ物である。
宇宙の終わり、即ち時空の終わりを、時空の形式の中でしか説明できぬ物理学者らは、もしその説明で満足しているのだとしたら、それは同時に物理学の敗北と終わりを宣言しているに等しいのだろう…時空の終わりの時空的説明というのは、理解と云うのをイメージの枠の中でしか捉えられぬ、無学の民衆相手の説明に過ぎず、実際の物理学はそんな愚は重々承知であることを、不勉強の小生が知らぬだけかもしれぬとはいえ…宇宙が膨張後に収縮して消えるにしても拡散して薄まって消えるにしても、そうした述語はどこまでも時空的である…時空の終わりを云わんとしているにもかかわらず…こうした述語は、消える宇宙を包括する高次の宇宙時空を前提しているから、終り乃至は死という一点をとらえられぬ言葉自体の無明性というのに範疇的説明から自ずと近づいてしまう、今更わかりきった遠回りに過ぎぬのだろう…数式以前の言葉の原理の問題に、わざわざ数式経由で至っているのだろう。数年前に再会した、素粒子論している高校の旧知が、最近の物理学ではカントを読むようになったと言っていたが、今更感が強い。本当の最近の物理学はどうなのだろうか。
イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタである。ベルギーのヴァイオリン奏者兼作曲家兼指揮者。イヤホンでポテトチップス喰いながら聴いていると、ポテトチップスを食む音が黙示録的崩壊のように凄まじく増幅されながらヴァイオリンも粘り強く聴こえてくる妙な体験となる。本当云うと近頃ではザッパの初期しか聴いていない。とはいえ、枝じゃない、葉も花も実も要らぬとばかりに幹のみで立つ針葉樹が強靭に軋みながら割れながら音を叫んでいるようなイザイの楽曲の孤立感は立派である。吠えるのを取り戻そうとする現代人である。アフリカやアマゾンの奥地の事まで熟知していないが、多くの人間は吠えることが無くなっている…その辺の犬や虎のように、小生は、吠えたい、ただ月夜に向かってではなく、あくまでも人間生活上の危機に際して、眼前の人間に対して無闇に吠えかかりたい。吠えたい。音楽は「吠え」でなければならぬ。音と声と吠えがあって、音楽は「吠え」を音と声に分割管理したのかもしれない、言葉が内通する儀式や資本の論理によって…。言葉の特権を放棄した、最後の、切羽詰った威嚇と攻撃の前触れを心理なく即座に吐き出す獣の活動…思えばロックと云う音楽ほど吠えるのに適した音楽はなかった。「吠え」は怒りですらないのである。無論、ロックほど怒りを聴かせる音楽もないのであるが…そして、それゆえに、人間の「吠え」の最前線を音楽へと収束、馴致させることで「吠え」の不可能性を社会に説明する恰好の見せしめとなりやすい音楽でもあった、いずれにしても最前衛の音楽であった。今はどうか?それにしてもイザイ…鉈で弦を弾いているような危うい獰猛よ。
来週、うまく事が運べば、茶会ができるかもしれぬ…正直、うきうきしている…とはいえ、客になってくれそうな先方の都合がよく、且つ、小生の賃仕事の都合が割り込まなければ、の話である。茶会の組み立ては、完成した。
「スクリャービン リサイタル/ピアノ:ホロヴィッツ(1966~1972)cbs/sony32dc443」226
くさくさ感の度合いが日々窮迫を増し、土曜日の夜から既に猛烈にくさくさしている。本当は土曜日出勤して実験しなければならぬほどの、賃金仕事上の窮迫状況であるにも関わらず、珍しく運が味方したのか更なる事態悪化への呼び水なのかうまく休めている…目先の休息にがっつかぬ理由は無い。提出したデータをよく見たらば目的からかけ離れた結果であるにも関わらずあまりよく分かっていない管理者に「(推測に推測を重ねて更に運が良ければ)うまくいきます」と軽く豪語、休日出勤をうまいこと免れるが月曜日が最悪な事態になることは此れ必定。とはいえ天下国家にとってはまことにどうでもよい、一企業内の個別事象に過ぎぬからどうでもよいとはいえ、自分への無益な弾圧は免れぬから苦しい。
危険を冒す野獣は居ない。危険を冒すのは人間のみなのか。そういえば、雌に喰われる雄のカマキリは、どう考えればよいのか…
本物や老舗は違うのかもしれぬが、スーパーやコンビニの焼鳥やみたらし団子は、なにゆえ、タレを肉ないしは団子に浸けてから炭火あるいはガスで焼かないのだろうか…どう見ても、先に肉ないしは団子を焼いてから、言い訳がましく味付ましたといわんばかりに、タレを浸けてパッケージしているように思える…タレを浸けてから焼いた形跡がないではないか。先にタレをつけてから焼いた方が、食欲をそそる醤油の芳ばしさが生きてくるだろうに…焼いた後にタレをつけるから、肉や団子の旨味とタレの濃い味が寒々しくそっぽ向いているように感ずる。タレをつけてから焼けば、そこのところに一体感が生まれ、全てうまくいくというのに、なにゆえ、かような、嫌がらせのような調理方法に固執するのか。
なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を求めて闘うのだろう スピノザ/G・ドゥルーズ
スクリャービン(1872~1915)の晩年のピアノ作品、エチュードとかソナタを70代のホロヴィッツがまことに切れ味鋭く弾いている…全く衰えをしらぬとばかりに、あるいはスクリャービンを弾くという時になっていきなり奇跡的に往年の指の動きが蘇ったかのように…スクリャービンといえば色光ピアノの発明というのがあって、打鍵に応じて光が放出される仕組みなどを試みた、20世紀初頭の、政治的にも芸能的にも革命の嵐が暴発する季節を生き抜いた芸能者の一人である。法悦の詩、という作品で有名だろう。神秘和音といったものの創発にも凝り、本人的には音楽による恍惚境への没入を志しているようであるが、小生には、音を聴く限り、至極現実的に聴こえる。音を聴いても何の情景も浮かばない、音しかない、あまりに音楽の現実に忠実な音楽である。こう書くと、作曲理論原理主義のようないわゆるコンテンポラリー音楽かと誤解されるかもしれぬが、たとえそうであっても一向に構わぬし実際スクリャービンは当時の最前衛の音楽の成果の一翼を担う存在でもあったが、いいたいのは、スクリャービンの音楽は一部のコンクールなどでのみ生息を承認されるがごとき絶滅危惧種音楽ではなく、たとえば那智の滝の後ろからスクリャービンの音楽が流れていても全くおかしくない現実性を帯びているということなのである。那智の滝の後ろでラジカセをセットして観光客相手にスクリャービンを流す、という意味ではなく、滝の後ろが自らスクリャービンの音楽を流すという意味である。ちなみに小生はあまり夢を見ない、見てもすぐ忘れる、その代わりなのか、白昼、眼前の物体を括目しながら、だいたい別の事を考えている。小生はスクリャービンを、相当好んでいる。何なのだろうか…ロマン派のある種大仰なしつこさや甘ったるさが無い、たとえばラフマニノフのような、人の記憶に残ってうっとりさせようとするあざとい叙情とは無縁に、甘くない甘さ、それこそ和三盆のような…いや、和三盆は結局甘いからたとえには相応しくないのであるが…かといってロシア/スラブ民族の苦み走った、松脂のような、それこそバルトークのような調べを凶暴にぶつけてくる訳でもなく…枯淡というわけでもなく…光に味がないように、でも透明感の無い現実でもあって、しかし徒に土着するでもなくシティ派技巧派でもなく、モーツァルトのようなとち狂ったアンファンテリブルでもない、人間の青年の音楽であって…不思議かつ、熱い。ドビュッシーらしくないドビュッシーというか…何を云っているのか。
タモリ倶楽部…ダイヤモンド☆ユカイの軽く程よい如何わしさが絵面的に優しくて、よい。…コンニャクについて、次、書く。最近、隠岐の島かどこかで深海魚が頻繁に打ち上げられているようだ…何かの異変の予兆か。南朝の人々の怨霊か…
虫唾
車中、発作のように陛下の容体が気になり出して自身もモスバーガーに含まれる生の玉ねぎを食した故に腹痛に襲われ不安定になった細君がラジオのニュースを聴きたいとせがみ、CDからラジオに切り替えると、オレンジレンジという、糞よりも下劣なおべっか音楽を商業の源流から垂れ流して憚らぬ狡猾な無恥を陽気に無自覚に振りまく、欺瞞を呈するのに必要なごく僅かな注意力すらも丁寧に拭い取った、違和感の曇りがうっすらもない透明な、無罪安全なる毒ともいうべき順応ラップバンドの曲が流れてきた。あきれ果てたことに「オレンジレンジは10周年♪オレンジレンジは10週年♪」という、自らのバンドが10周年であることだけを連呼しつつ内輪の盛り上がり感に過ぎぬことが社会に共有されて当然とでも言わんばかりの下衆極まりない歌であり、内心、激昂し、即刻ラジオを消した。天皇の容体が気になること→オレンジレンジ、というのが必然のようにも思えて、言いがかりなんだけれども不当に忌々しく思った。本当は、言いがかりなんかじゃない、必然だと確信している。全ての現実は道理であるというヘーゲルの言葉を思い出す。
と、ここらで、ウヰスキーの水割りの二杯目をこしらえる…東萩駅で埃をかぶっているところを連れて帰った、ゴシック教会の内陣のようなガラス器で…午前0時50分頃…
資本主義と共産主義と無政府主義の関係を戯画的に、手っ取り早く5分間で知りたい人は、大杉栄の「鎖工場」という短い文章を読めばよい。時間にして5分間で読める。主義も理論も組織も否定し、群れることなく点在する野獣の活動こそに現実をとらえる…上記三つを頭で否定するのは簡単だが、野獣の活動に徹する困難さといったら…棍棒で殴られるという社会の反応をも面白がるという浮ついた理性は許容しているようだった活動家、大杉氏…。そうした理性ないしは批評性をもかなぐり捨てる真の野獣性を標榜したらば、どうなるのだろうか…アナキズムに変にこびり付くロマンティシズムもとっかかりを失って滑り落ちるのだろうが、だからどうなのか。それは、自分がやるしかないのだろう。自分がやるしかない、その事が、(存在するとすれば)アナキズムの唯一の原理であると、大杉氏は単純明快に云う。
虫唾が走る○○大学の白熱教室…これもまたどうしようもないが、しかし、今宵は、東ドイツ国民に問うた「民主主義に満足しているか」に対する答えの円グラフが大理石の色分けだったのは、よい。
欧米からの輸入家具屋で、小生がずっと欲しがっているアメリカ製の椅子を細君に見せる。オリーブ色の革を真鍮の鋲でバスバスに留めた素敵な椅子…13万6500円…とりあえずまだ売れていないことだけを確認して帰るが、その店で、イタリアの掛け時計が目に留まる…朴訥な浮彫が施されたそれは白蟻に喰われた跡が所々残っており、どうしようもなく心がざわつく…木質をトンネル状に微細に食い荒らす白蟻の、木を食んだ痕が何とも侘びておるではないか…人知れず目頭が熱くなる。なるほど、木材というのは白蟻に喰われると美しいのか、さすれば、それを、何とか彫刻で再現できないものか…創意は湧けど技能が追い付かぬ、歯噛みする思いである。いつかは…。いや、いっそ、自分が彫るよりも白蟻にやらせればいいだけの話じゃないか。よし、それでいこう。彫刻家と白蟻とのライバル関係、という、妙な問題点が浮上してきた。これは重要だ。
なんでも鑑定団の再放送を見ていると、「偶然大吉」という言葉が出てきた。珍重されているある種の小判のことなんだけれども、詳細は省くが、なんともいい言葉だ。江戸時代の人はすごいな。
いよいよ大正琴を衝動買いしようと思って本通りの琴・筝専門店に行ったら、17時過ぎていたために閉まっていた。残念。一説には、大正琴というのは、日本人が発明した唯一の楽器であるらしい。
つまらん、労働者狂歌を一つ。
出勤に限りて先々青信号真っ逆さまに落ちるがごとく
ついでに生活小唄を一つ、
妻が眉ととのえたまふ小鋏は元は吾が鼻毛切りなり雀の子
「/()」大寒
歌を一つ。
よく冷めたおこわ弁当食らいつつたまきはるかな栄の精神
もう一つ、厠の秘め事にて夫婦善哉を詠める。
自由なる妻の経血こびりつきほとばしる吾が尿もてもうるみたまわず
今宵の東京かわいいTVは面白かった…千家十職ならぬ、ガガ十職といったところか…小生も今、コートをリメイクしている…羽目を外そうと思えばいくらでもできるが、どうしたものか、悩んでいる…絵画は視覚、音楽は聴覚、そして、ブルーノ・タウト曰く、建築は釣り合い、だそうであるが、なればファッションは、似合うか否か、ということがあるのだろう…左様であればこそ、ぶっ飛んだものなど作ろうと思えば作れるが、それが他ならぬむさい小生に似合うかどうかというと、自信は無い…。
テオ・アンゲロプロス監督の急逝、ご冥福お祈りいたします…「アレクサンダー大王」…癲癇持ちのアレクサンダー大王が、疲弊して馬の背にもたれながらゆっくり丘を登ってくる、肉色に糜爛した真っ赤な情景が脳裏に焼き付いています…「永遠と一日」…終わりそうで終わらない映画は、よい映画の証拠です。ああ、今宵は何だか、もう、くったりと、書けない。
ミシェル・レリスの「幻のアフリカ」を読みたいのでもうやめます。文庫本というよりも豆腐に近い驚異の分厚さ。フランス政府による、アフリカ植民地の民族学調査団の書記係だったレリス氏が作成義務を負わされた、調査団としての正式な調査日誌であるが、そこには現地での出来事や調査内容以外にも、己の思想信条や赤裸々な植民地政策批判ばかりか性的妄想や夢の記述までこき混ぜられており、当時(1930年代)勃興した科学的民族学やフィールドワークなどといったものを笑い飛ばす噴飯物であった…社会社への業務報告書に、なぜか己の個人的ないかがわしい夢想を書き込んで管理職に提出するようなものである…。管理職、と、文字づらを入力するだけで、こらえ難い吐き気に襲われる自分が居る。
NHK「今夜も生でさだまさし」…今宵は岡山でだべっている喋り数奇のまっさん…つくづく思うのは、山口の萩焼、岡山の備前焼、島根鳥取の民芸諸陶に囲まれて広島と云うのは焼物不毛の地であることが文化不毛の地の証左となっていると云いたくなるほどの広島の文化の不毛にはいささか辟易している…昔、備後に姫谷焼という磁器があったがこれも滅びたし…宮島御砂焼なんていうのは陶芸だと口にするのも恥ずかしいほど下の下の土産物追従物に過ぎぬ。少なくとも、烏滸がましくも、小生が居る、と叫びたくなるほどの無根拠の自負は有しているつもりであるが…。
あらゆる共同体、組織、集団において、それらの存立に寄与し、且つそれらからそれゆえに肯定という勲章を授けられた、すなわちあらゆる習慣や規則や雰囲気を、法律から挨拶に至るまで、殲滅することを小生の人生の唯一の目的とする。たとえ自らを安穏たらしめている人間性を自ら破壊することになろうとも…。共同体から承認された事柄から外れた人間を、共同体の意志を代弁する形で自分の意志と自覚的あるいは無自覚的に合一した傀儡が弾圧し死に追いやるとしても、彼らに率先して媚び諂うは問題外だがたとえ媚びないまでも怒りを内に秘めたまま堪えることも最早あり得ず、ついには積極的な反撃ないしは殲滅を行使することをここに唐突に宣言する。
もう書けないと書きつつ、だいぶ書いてしまった。
暗い日曜日 誰も楽しんでない(人間椅子)
「the psyclocks/psyclock shock!!!(2011)bnr-01」大寒
春の訪れを感じた雨の大寒。
土曜の夜だというのにもう気分は、突破力や人間力がずり落ちただらしの無い蟠りの闇雲の脂にまみれたクサクサ感に苛まれ、鬱屈、やる気は省かれる。熱心に撮影したわけでもないから写真では判然せぬが部族の呪的文様を肉に直接、麻酔無しで粗雑な鉄器でぐいぐい抉りに抉った波状黒備前の徳利から、厚ぼったい器胎の見込みにたっぽり含ませられた黒釉の底にはもぎ取られた翼の化石の如き目跡が残りそこに凍結した星辰が降り出さんばかりにホツホツとかせ、縁には局所的な釉薬の垂れが、恐山のイソリ山の遠望のように黄金色に沈みつつ、高台脇は駱駝の一斉遁走のような晩秋の木漏れ日が精妙に溢れる同じく備前の酒杯に酒を注ぎ、織部の、踵で踏んづけたが如き小皿に割きチーズを戴き、という体たらくである。彫刻の大先生から頂いた越乃寒梅…賀茂鶴の爽やかな甘口もよいが、越後の酒のキリリとした辛さもまた、よい…酒杯に酒を満たせば夜が静かにたゆたう。
雑誌連載上の最近のへうげものは、関ヶ原を中心とした政局の話が多く数寄が少なく、致し方ないとはいえ、もう結末も分かっていることからも、既に悲しみが納まらぬ。東京カワイイTVはギャル系とその系統に偏りすぎでつまんない…かつては種々の分野にまで目を配っていたはずだが、最近は勉強不足ではなかろうか。と思っていたら、手作りロリータが反骨を剥き出して面目躍如。原宿系派手キッズ派…初めて知ったぞ。モデル経験、ウォーキングなぞどうでもよろしい。新しかった。かくいう小生も、年末にお助けしたコート、剃刀未経験の真っ赤な頬に産毛がさわ立つような幼い面構えの不良中学生(後ろ髪ロングのジャンボ尾崎ヘア、整った細眉…実際には悪事を働いたことは無い。小遣いせびりながら親を口汚くののしるのみ)が屯するような安価な店で、そこそこ悪くなかったが如何せん三十路を越えてししおきが意志に反して発達したおかげでサイズが合わずさながら拘束衣のようであったのを、妻に進呈しようかと諦め掛けた矢先、むしろいぎたなく好機ととらまえ、そのコートをリメイクすることにした次第。ばっさり鋏を入れたら綿が溢れ出して処置に困っているが、少しずつ手縫いで改造するつもりだ。
いつまでこんな状況をだらしなく反復しているのか…決定的にまずい、その状況を聞けば誰もがあまりの深刻さに絶句するようなにっちもさっちも行かない事態をまたしても引き起こしてしまい(とはいえ最早自分に責任があるのかどうかも己の迷妄故なのか人間が二人以上いるだけで複雑すぎてもう分からない…責任とは責任の存在の不可能性を受け入れることかもしれないとは思いつつ…)、個別的社会社内部の個別的出来事なので当事者以外にとっては些事に過ぎぬが、些事に盲目的に真摯に拘泥することが、天下国家百年の計と隔絶した、民草の営みというものとはいえ…。製品を量産する上で根本的にまずい、破綻した状況…あらゆる原因の可能性を探るためちょっと原材料の温度を測定しただけで、「うちの部署を疑っているのか!」と怒鳴り込まれる始末…責任のなすりあい…心底馬鹿馬鹿しくうんざりしてくる…根回し好きかと思いきや「密室談合は印象が悪い」と事前協議を拒否し国会でのぶっつけ本番を望んでくる、しかしいきなり法案提出すればそれこそ「こんな重要法案をいきなり提出するとは何事だ」と難癖つけてくるに決まっている昨今の野党の対応を見ていても、最早冷静な話し合いすらも反射的に拒絶してくる思考停止の幼稚な日本人にほとほとうんざりしてくる。(野党のそうした反応は、与党としても折り込み済みの事であり、最終的には消費税や社会保障改革を進めるために、事前協議の持ち掛けは、野党の国会での論議拒否を封ずるための布石だと思われるが、本来ならばそうした三顧の礼的な意思決定プロセスにかける悠長な時間もないほど国の状況は切羽詰っているのではないか)天皇制という大いなる無責任体制に護持された下剋上が良くも悪くも跋扈する、そのくせ理念を尊崇する狂った知性は幸いながら皆無なれど率先的に媚びるしたたかさだけは活発ゆえに妙に統制が堅固な不自由極まりない無政府主義国家=日本、というとらえ方をすればあまりにユニークであるが、兎角面倒くさい、関わりたくないのは確かだ。天皇と云うのは有難がられるだけで統治能力ゼロ、根本的に馬鹿にされている白痴の王である。そろそろ「風流夢譚」を出版する気骨のある出版社はいないのか。いないだろう…極右壮士の捨て身の攻撃はいまだに健在ゆえに。(「楢山節考」で有名な深沢七郎の小説。天皇一家が、革命を起こした日本人民によって皇居前広場で吊し上げられ虐殺される発禁小説)来週からまた最悪な状況が始まるのが正直、苦しい…。
茶川賞を頂いた田中氏…舞城氏にしても田中氏にしても言葉のみで言葉を書いているような表層の疾走感が新鮮味と勘違いされているのか危うさの無い自閉したガラクタ性の徹底が寧ろ反体制にとっても体制にとっても無害という意味で胸糞悪い紋切り型の主語と述語の繋がりを屈託なく無神経に接続する作風であると批判することが、身体性の無さという批判と同一ではない。身体性は一方で、承認された概念に過ぎず、従って石原氏が身体性の無さによって昨今の小説を非難するのは統制への無自覚な媚びを自ら公表しつつ自らの文学を、自分という奴隷を買った領収書へと貶めている茶番に過ぎない。そうした身体性からかけ離れているからといって、田中氏の小説が小説たりえているとはいえず、かといって田中氏は、専ら言葉の中に突っ込んで行って、言葉を言葉たらしめている絶対の無関係性に直面するわけでもなくそうしたことには都合よく関わらない小器用なスマートさや饒舌が売りなのだとしても、体制にとって如何に胸糞悪い無害ではあっても無害である限りそれは結局、民主的市場的体制の肥やしになることを知らぬのであれば、体制の役に立つという意味で、人間が読むに足る小説ではない。石原が書く小説から、足元をすくわれるような戦慄を覚えたことなど一度も、そして金輪際ありはしないのだがら厚顔無恥ここに至れりの感だが、田中氏の石原への言及はそうしたことにふれることもない、幼い、おそるるに足らぬ不徹底に終わったのも結局そういうことなのだろう。どうせなら、石原の石原性を論理的かつ文学的に徹底的に粉砕せしめるがごとき寸鉄の金言を、あの場では述べるべきだったのである。マスコミ受けするレベルの、酔いながら拗ねて、寧ろ石原に甘えるような皮肉を吐く以前に。酔いの人として小生は、酔いながらあのような媚び発言を弄した事が、酔いの高貴を不当に貶めていたという意味で、許せぬ。田中氏の人格や小説家としての価値などは小生の関与するところではないが、酔いを貶めたという意味で、許せぬ。
サイクロックというバンド…日本。2011。頭空っぽのオールリーゼントのジャケットの模様からいわゆるサイコビリーやパンカビリー、ロケンロールと称する復古主義的動きに、無知による反体制というパンク的能天気の幻想をまぶした、90年代あたりからお洒落気質に沿うようにして流行した芸達者な音楽性かと思いきや、全くよい意味で裏切られた快作である。大坂城の蛸石に押し潰された疣蛙が絞り出す断末魔の読経のような尋常でない濁声が、一挙に、サイケデリアの本然の獰猛へと誘う。あんな声で、普段の生活は大丈夫なのかと他人事ながら心配になる。ただただ明るいのかと思いきや、やはりサイケデリアの根本を根強く悟っているのか、各楽曲の表層の疾走感に反して、カラッと陰鬱な、光は望めないが罰当たりな陽気だがダウナーなのである…光無き明るさ、としか言いようがない。光無き明るさとは黒である。言わずもがなと思われるが、ロックの底は、黒黒としている。それにしても気ぜわしいウッドベース…粗忽にも耳道に闖入してしまった金蠅がとち狂ったかのように飛び回るからますます外に出られないから慌てぶりが過度に増長される出口の無さ、落ち着きの無さは、小賢しくは無いが小気味良い小者感、チンピラ感を呈する実直がある。チンチラチンチラと兎に角うるさいく、the 13thフロアーエレベーターを思わせる。ただ、如何せん、演奏がきっちりとうますぎる。おしむらくは、もっと爛れ、崩れてもよかったのではなかろうか。しかしそうした崩れをも会得すると過去のサイケガレージになってしまうので彼らの音楽の意味がなくなってしまうから云っても詮無い事である。その、日本人的職人的うまさが、山椒は小粒でピリッと辛いといった範疇に閉じ込めてしまい、収拾のつかぬサイケデリアの荒野を遠のかせ、せいぜい憧憬させるにとどめているのである。
MIYAKAWA POPEYE:guitar&vocal
SHUHEY:drum
KO-DAI:w.bass
「奇形児/1982-1994(?)ok-0002」持越し
妄想の天職 お笑い芸人
芸名 吉田パズー(ナイフ、ランプかばんに詰め込んで)
「熊野古道」
「ターヘル・アナトミア」
「中央、何するものぞ」※のギャグを持つ
(※皇軍作戦参謀、辻政信が言いそうな言葉。彼について論ずればきりがないので割愛)
ここで一句、
古本を開けば睫毛挟まれり
そろそろ理論的な事も講究しなければ、理論ほど凶暴なものは無いのだから…と気弱に思いつつ、ひどく気分が進まないのは、やはり、書く時間が良くないからだろう…日曜日の夕方である…朝から気が塞がって如何ともしがたい憂鬱の捌け口は何処にも無く、まっしぐらである。奇形児というバンド…2曲目か3曲目、曲の運行の核となるリズムが、そのリズムに煽られ過剰に促進された他の轟音や絶叫によって掻き消されるアクションペインティングのような趣の荒廃したなれの果て感が、非常に気持ち良い…自他からせせましくマーキングされる媚びの如き人垢が、松かさ級に荒いやすりで削られ彫琢される、荒れた解放感が一瞬あった。日本語の歌詞が聴き取りやすいのもむしろ新鮮で、その内容は兎も角…。話は変わるが、最近、メインストリートから二本ほど入った小道沿いで、インディーズ&インポート物を専門とするレコード屋ミザリーなる御店を発見、入ってみると、扱われているバンドの99%は未知のものだったので、有難き幸せ、となった。値段も手ごろ。生来の怠慢と、機を見て敏に動く、利にさとい才覚や目配りから自ら落第して憚らぬ情報弱者たる小生の音楽聴取活動は、大手レコード屋タワーレコードと60~70年代のファインロックの品ぞろえにそつのないジスボーイに限られるという狭矮ぶりであり、そうした所の品々の中身が現在では7割がた分かるので行っても購買という行為の本質たる危機感緊張感が生まれず、ますます既に所持した音源に閉じこもる有り様であった。打開するため手軽にネットで購買したこともあったが、ネットや雑誌からの情報によって他人の口車に乗って購買したものが、例えばディーンみたいな、小生の心を甘ったるく蝕もうとする欺瞞の接客音楽だった場合よりは、事前情報皆無なれど目の前にある現物のジャケットの絵柄やバンド名のセンスのみを頼りにヤマ勘で購買したもののほうが外れが少ないし、なにより前者の、他人の口車で買った場合は外れた時はなはだ胸糞悪いしたいてい順応音楽であるのに対し、情報を投擲した切りつめられたヤマ勘での購買は、案外よく当たる。ヤマ勘で買ったものがディーンばりの順応音楽だったとしても、悔いは無くさわやかだ。(ちょっと破格の、錯乱した思弁を矯正せぬ意味不明瞭の文章になりましたがプレゼン能力は無いので、直そうと思えば直せますが直しません)しかし、ひょんなことから出会ったミザリーでは、久方ぶりに、自分の閉鎖的な経験が生かされたり生かされなかったりするたまたまの危うさにおいて、真剣みを以て購買の原点に立つことが出来た、そうして購買したレコードのほとんどは反コード、非コードのハードコアばかり…なのであったが、そうした視点から聴くと、奇形児は、まだコード進行の骨格は破壊の波間で浮沈している状況であり、その状況は、ハードコアへの発展段階の一つとしてとらえるべきではなく、五里霧中のハードロック沼沢への拘泥を、たとえ時代的空気の後押しもあったかもしれぬとはいえ、強固な意志として聴かざるを得ぬ。臭そうな、男臭い声。くさくさした生活に相応しい…とどまるところを知らぬ放射能汚染…汚染と呼ぶのは人間だけなのだろう…屈託なく放射線を浴びる諸生物の中には、癌で死ぬものたちの累々たる中から、新たな適応能力を備えた突然変異が生まれるかもしれない…癌をも恐れぬ、その奇跡の粒子を浴びんとして福島原発付近での生活を始める奇特な人間の中から、石ノ森章太郎のリュウの道みたいな新人類が生まれるかもしれない。たとえ奇形児と呼ばれようとも、珍奇で閉塞的な進化論に固執する珍念の人よ出でよ。少なくとも今現在、静かな夜に放射線を浴び続けている諸生物の生態は観察し続けなければならないだろう、残酷かつ不謹慎かもしれないが、生物学的にはまたとない機会であり、学問というものの、人間性に対する批評性、非ヒューマニズムを復権させるべく。小生が腹蔵している、今回の地震、原発事故に端を発した思いは、この程度の不謹慎では済まないだろう、こんなもんじゃないが、いずれ吐露するつもりだ。絆、などと…。自分では美辞麗句から隔絶した詩句を吐いているつもりだが小生が詠む限り美辞麗句でしかないような、英語教師ステファヌ・マラルメの書簡集が興味深い。十七歳のランボオが着ていたようなジャケットが欲しい。「大地が不安に震えている」(M・フーコー「言葉と物」序文)ヒロミ、という、90年代まで比較的テレヴィに出ていた、不良あがり系の芸人さん、あの人は今どうしているのだろう…際どい芸風が細微に渡って発達した昨今のお笑い界では生き残っていけなかったのかもしれぬが、今となっては、あの、芸の無い、いたずらに暴力的な80年代の突っ込みの、よい意味で頭の悪い場違い性の冷たさを、見たい。明日は社会社の都合で朝6時起き…本当に嫌だ…。日本初のコミューン、秩父困民党については常々調査しなければならないと思っていたらテレヴィで少しやっていた。困民党に関する書籍をなんとか入手したい。
独学せよ!教育されるな…っ。
YASU-Vo
HIROSHI-G
TATSUSI-B
HIROSHIMA-Ds
KIMURA-Ds(1-4)
SIVA-Ds(13)
