東寺弘法市再訪とイエス尼崎ライブ(ハードロック番外編)浅はかに・・・
稽古とは一より習い十を知り十より還る元の其の一 利休
単詩
肉離れ
何かの卒業の折りに歌わされた歌
桑の海
光る雲
人は続き
道は続く
遠き道
遥かな道
今は、もう、何事にも深入りする気持ちにはなれない、どんよりと張り詰めた気持ちである。またぞろ、くさくさ感が胃潰瘍のように出血する日曜日の夕方。水底の珪石のきらめきがさらさらと流れているような浅瀬の心持で、時が記憶へと堕落した移ろいごとを淡淡淡と書き綴っていきたい。とはいえ、干瓢(かんぴょう)が、夕顔の実(西瓜くらいの大きさ)を、木椀などの木地師よろしく帯状に切り出したものであることは人口に膾炙するものですが、この度、この夕顔の実をくり貫いてこしらえた火鉢、という、有り得ない珍品を、お助けしました。恐るべきネットオークションで・・・。数週間前に出品されていたのを知っており、その時は、あまりにも、ネットでお手軽に欲しい物が手に入ることが空恐ろしゅうなって、細君の機嫌を憚る手前、こらえて入札せず、そのまま期限切れとなった。どこぞの好事家の手中に収まったに違いないと諦めつつ、澱のようにいじましい、物欲しげな悔いが消えることは無かったが、昨夜、さもしくまたネット界隈をうろついていると、同じものがまた出品されているではないか!どうも、買い手がつかないまま期限切れとなったパターンのようで、再度、出品された模様なのである。もう、形振り構わず、即決で競り落とした。釜もそろい、風炉用の火鉢もついに整った。ついでに、遺品系リサイクルショップで激安大正琴まで手に入れた。荒み茶会の日は、もう、そう遠くない。あわれ、おかし、侘び、寂び、しおり、軽み、萌え、に続く「荒み」の世を興す大事な茶会・・・。とは言え、こんな、刹那的愉快な生活ばかりしていたら、その内、きっと、よくないことが起こる。そんな気がする。
平成24年4月21日。春の京都の雰囲気にあたりたく、やはり、東寺を選択する。久方ぶりの弘法市である。相変わらずの膨大な人出。毎月毎月やっているのにその勢いは衰えるどころか増しておるのじゃないかと勘繰りたくなるほどの、尋常じゃない人気が持続する、日の本の、縁日、骨董市、陶器市、手作り市…政経がどうなろうと、こうした市の繁盛は約束されているのだろう。古格古式を愛する分厚すぎる購買層の絶えない物欲。絶対に飽きられることのない、これ、は、一体何なのだ。お助けした織部茶碗、楽の緑釉管耳香炉(裏に楽印があるが怪しい)、志野織部向付、姿よろしき山の木、釣り合いよろしきトンボ細工。
同日。京都から尼崎に急行。ここでは、イエスの音楽性について詳論するつもりはない。ライブの模様を簡単に記すのみ。尼崎アルカイックホールの外壁は、線路の敷石のような、赤茶色に錆びた、牡蠣のような不定形の石をびっしり敷き詰める凝りに凝った意匠がなされており、ペラペラの建材が幅を利かす平成じゃ考えられない、昭和遺産ともいうべき古格あるミュージックホールである。音質にも定評のあるホールであり、イエスのライブ会場に選ばれたのもむべなるかなである。二階席のさらに奥の方が、小生の指定席である。膝が、前席の背もたれに接触するしかない、拷問のように窮屈な、昔風の造りである。いざ音楽が始まるとその拷問の苦しみはさあっと忘れてしまったが…。開演前、多くの客がステージ前に屯し、巡礼のように順繰り順繰り、ステージ上の機材のセッティングや楽器の機種、ドラムセッティングなどを激しく拝見してごった返し且つ人が流れているさまが、何だか茶の湯での床飾りや道具組み拝見、のようで、数奇の道に共通するものがまざまざと露見され、たのもしくも面白かった。スティーブ・ハウ…まさにギター職人、であった。往年の武満徹のような内省的な宇宙人的風貌である。ハウの立ち位置にだけ、何故かペルシャ絨毯が敷かれている。曲の最中に幾つものギターをとっかえひっかえするその、音質へのこだわりよう…。こだわりのキツそうな御仁である。なるほど、あの曲はこうやって演奏していたのか、という事が如実に納得できる、レコードに忠実な再現であった。時間でいえば往年の名曲が7割、老いてなお盛んなのか相変わらず異様に長い新曲が3割ほどのプログレッシブなライブ構成であった。上から下までホールをびっしり埋める客層は、9割5分が男、母国のバンドを懐かしんでか白人客もちらほら。しかし昔の人サイズの、江戸指物のようなこじんまりした座席であるから大概大柄な白人男性は脂汗たらたら、凄まじく窮屈そうで気の毒である。イエスTシャツを無言で着込んだ、一癖ありそうな一家言ありそうな青年~壮年ばかりの年齢層が、今や遅しと開演を待つのは、まことに息苦しい。スティーブ・ハウ:ギター、クリス・スクワイア:ベース、アラン・ホワイト:ドラムス、ジェフ・ダウンズ:キーボード、ジョン・デイヴィソン:ボーカル。ハウ、スクワイア、ホワイトといった、70年代の名盤をものしたメンバーが健在で三人も揃っているのは単純にうれしいし、ダウンズ氏も出戻り組とはいえ往年のメンバーである。新入りのボーカルのジョンも、きっちり、かつてのジョン(・アンダーソン)の歌唱を踏襲する、何が何でもイエスを継承しようとする伝統の理不尽を思う。「こわれもの」「危機」といった、何度も聴取した金字塔を、ご本人らの、全く衰えやしない激しい生演奏で聴くことが出来て、素直に感激である。(イエス史というのは本当はとてもじゃないが一言では片付けられない紆余曲折を経ているので、そうしたことを無論知悉しているファンからしたら、三人ものオリジナルメンバー(この言い方も本当はよろしくないが)の会合にあいまみえることができるのは、それこそ感慨無量なのだろう)ライブのハイライト、かつてはリック・ウエイクマン、その時は色々あって出戻りのジェフが背中を見せながらキーボードで有名なフレーズを繰り出すと、興奮した隣席の男が己の膝の上で鍵盤上での指の動きを真似ていたのがついにおさまりきらず小生の膝の上で指を高速でびろびろやり出すに至っては主客一体となった興奮の坩堝であった。気持ち悪かったけど・・・。スティーブ・ハウの声はいい感じに飴色に干からびた小柄な体躯に似合わず、屋久杉の洞のように茫洋と粗剛の低音であった。
東寺弘法市再訪とイエス尼崎ライブあるいは冥福の春
家内閑吟
なじられて放哉取り上げられる妻
東京の原宿の竹下通りに行きたい。行ってデザイン性の高い服をお助けしつつクレープを頬張りたい。クレープのしっとりした生地と甘すぎない生クリームの塩梅が好きだ。でも地震が怖い。
写真は、先月の弘法市で連れて帰った、鹿の角、蓮の種、朝鮮の錠前、手作り市系のガラスのペンダント。
いつになく後先考えぬ穏やかな心で連休を過ごしている。波風立たぬと言の葉も荒ぶれぬのもひとしおとは言い条、たまたま休みだから、という外的因果のみではない、小生の内的変化というのも言葉が薄く遠のいてゆく謂いがかりのようになって、そうすると言の葉が枯れる前にさっさと書くべきことを、例えばハードロック論や秘密文書の類についても早々にものにしなければならぬ重い危惧もあれども、当の言の葉が炙り出されるその基盤が、緩むというよりか、目に物みせず遊びもなくさあっと挿げ替えられる、理不尽な結果のみのような、これ以上掘り下げようのない文字通り浅はかな契機が押し迫っている油地獄も隠微にとめどなく知ったかぶりに均されることで、基本どうにもならない。
とはいえこれは自分として珍しく断固として選んだ道でもあって、一時的かも恒久的かもしれぬ言葉からの遠のきなぞ、過去の文芸者たちにおいてありふれた人生の一幕ではある。ようするに、たとえば宇宙開拓史においてのび太の部屋の畳の裏の遠くに、コーヤコーヤ星との、時空を超越した繋がりが小さくゆらりゆらりと切れかかっている、そんな危うくも儚い悲しい状況で書かざるを得ない。それでもまさに今書いているのは、それこそ底意なく単純に、文字が、そして言葉が黒いから、というのがまずある。PCやインク、墨による文字が黒くなければ、こうして氷柱が滴るように惰性で書き綴ることすらできなかったであろう。酒の飲めぬはずの亡くなった祖父がなにゆえか自作していた、15年物のあんず酒の水割りを飲みながら、そうしたことを思う。それにしてもこの琥珀色のあんず酒、なんとも喉の沢を流れるように後を引かない甘露が爽快だが、本当にアルコールが入っているのだろうか・・・と思っている端から脳髄が頭蓋と脊柱からすっぽり抜けて春の海をふわふわ浮き上がるような感覚が静かにやってくる。ウヰスキーや日本酒のような、ある瞬間に横殴りで襲来してくる粗暴な酔いとはまた別格である。しかし、と、ここで、やはり横殴りの粗暴な酔いが欲しくて、星や月や雪を愛でる余裕をかなぐり捨てた、競走馬の目隠しのような熱い暗黒の酔いを欲し、ウヰスキーに切り替える。
最早、時間がない、というのがある。半ば必死で、自分に言い聞かせている節もある。人生の節目は自分で作らなければならないのだろう。思う事はこの盛春を迎えられずに逝ってしまった人々の事である。春まだき三月は葬式の多い季節…。
思い出すのは今年の三月、吉本隆明氏の悲報。ちょうど、彼の膨大な著作の一つ「源実朝」を読んでいたところであったという奇矯もあった。氏の戦後思想における影響云々はここで論ずるつもりはない。今も昔もたいしてその本質は変わりはせぬたかが資本主義に対してしきりに高度、という単語を冠して高度資本主義と呼び習わすバブル期の彼の資本主義論の楽観性には辟易したが、今となっては読み返してもよいかもしれない。80~90年代、構造主義批評全盛のころ、物語の類型による文学の腑分け作業が新しがられ、そして氏の批評の方法も徹底して批判されていた頃、どこぞの三文記事で、正確な言葉は忘れたが、内容は「類型という形でしか小説を見ないのであれば小説の類型化が可能なのは当たり前のことだ。小説個々の機微や文体を読まないで、小説を読んだと言えるのだろうか」と、歯切れ悪く云っていたのを思い出す。無論そうしたことを承知の上で戦略的に類型化を推し進めているのだというのが当時の構造主義者の弁なのだろうが、今となっては、あらゆる類型に収束されない機微と仕草の固有性への固執が、生身の突飛として人間や、それと紐帯する諸芸能に厳然とあるということのほうが、滅法浮足立っていると思う。しかしながら自分としても歯切れの良さや機微に全幅の信頼を置くものではない。類型だろうが機微だろうが所詮説得力の化けの皮に過ぎず、それを取ったところでのっぺらぼうだ。ほとんど反射的に、統制の狂気である類型よりも共同の迷妄である機微のほうに、どうせ歩かなければならないのだから致し方なく重心を預けているに過ぎぬ。こんな区別も無意味だと分かっているにしても。ともあれ80年代以降は歯切れ悪かったが、それ以前は、理論はともあれ、歯切れの良い啖呵、悪態が彼の批評の真骨頂の一つであった。
「転向論」では、日本共産党トップが獄中から発表した転向声明文にあった転向理由の一つとして(大衆的運動として組織化できなかったという力不足云々が主要理由ではあるが)仏典の一つである「大乗起信論」を獄中で初めて読んだことを挙げているのに対し、日本の前衛党指導者のインテリゲンチャが大乗起信論も読まずして共産主義革命を起こそうとしていたことへの、日本の当時のインテリゲンチャのみじめな教養ぶりに憤りを隠さぬのが痛快であった。(中野重治の文章の孫引きかもしれぬが・・・)
もう一つ、今読んでいる「源実朝」も痛快である。氏は、戦時中、二人の文学者、即ち太宰治と小林秀雄が源実朝についての文章を書いていることに触れている。この問題意識は、小生がいつか論文にしたいと思っている、「戦時中における平家物語の読み方」というテーマとも通ずるものがあって面白い。ちなみに平家物語については戦時中、保田輿重郎と小林秀雄がそれぞれの論旨で書いている。どちらにも小林氏が居るというのも興味深い。その内容はここでは触れぬとして、中世日本の新興武家政権中枢における、それこそ共同の迷妄の中で状況的に殺されるのが必然となっている鎌倉幕府三代将軍源実朝が、そうした宿命から逃れようと、周囲の反対を押し切るばかりかその宿命を早める効果しかないことも承知の上で、唐突に、宋への渡海を試みる・・・。渡海するための大型船建造を、宋からやってきて、東大寺修復も手掛けた陳和卿なる人物に託すも、由比ヶ浜でその大型船は技術的問題で浮かべることが出来ず、砂浜に朽ち果てるのみだった…。この陳を、吉本氏は、「ちょうど三流の技術者でも、後進地域へでかけて技術指導にあたったら、何とかなったということかもしれない。多少のはったりをきかせながら、後進地域へやってきて、しかつめらしい顔をしてみせるといった、平凡な仏師を想像すれば大過がないと思える。…(中略)…ここでは先進国の三流技師として失策をしでかしたまま、陳和卿のそのあとの消息は杳としてわからなくなってしまった。」と断ずる下りは、中世史専門の学者には書けない文章であり、何より内情を活写していると思わせた。今、読むと、過去にはあまり読解できていなかった箇所が自分なりに節を立てて強固にその主張が飲み込めるようになってきたに違いないと、吉本氏の著作に対しては最近、思う。
私事であるが、もうあっという間に数年前の事になってしまった、それでもごく数年前の、二人の祖父の死が、あった。いずれの御方も春を迎えることなく、薄ら寒い三月に生を全うした。
父方の祖父の死があった。阿蘇の火山灰土ゆえに稲作が向かず、麦や綿、玉蜀黍畑といった、本州で馴染んだ日本的風景とは一味違った田舎風景が広々と続く肥後の内陸での葬式…。そこに至るまでの紆余曲折の出来事や思い出や至った時の思念をめくり返せばそれこそきりがないし極私的な事でもあるので割愛するが、今はどうか分からぬが少なくとも20年以上前、夏休み、熊本の祖父母の家で飲んだ単なる水道水がすこぶるうまい、本当の水のうまさというのは他にたとえようのないものであったという記憶がある。遺体との対面、ということも小生にとっては初めてのことであった。たったその事だけでも、自分の思いを全て吐き出せるのならば自分としては全2巻くらいの長編小説あるいは手紙が書けそうだが、その後の火葬、遺体とはいえ死んだ身体ではあったその身体が、つい先ほどまでは身体だったという前提を何の拠り所も無く提出しながら骨となって出てくるということにいたっては、あくまでも自分の普段と地続きである日常の中で度し難い眩暈と途方も無い断絶を強要される混乱を生じせしめた。薄ら寒い日々が続いていたのが、この日、春らしい霞んだ青空、ひばりが宙で、春の瞬きのように舞い踊り、真新しいような草木が翠に匂い初めるこの季節、葬式までのどうしようもない悲しみと重圧が、まことに理不尽な断絶の下できれいな白骨が生まれた途端、やり場のない、拠り所の無い悲しみと違和がかすかに後を引きながらも、変にからっと明るい気持ちになったのも事実だ。火葬というものの独自性である。弔いは三つの形式に大別されるだろう。遺体を遺体のまま、もう見ないようにするのが土葬や水葬、遺体をあえて白骨にするのが火葬、そしてまた次元が違うのが鳥葬、である。それぞれ、全く違う。遺体が焼かれて白骨になるのではないのだろう、あの時、白骨が生まれるのだ、というほうが、絶望的なあの断絶に際してはしっくりくる。今分かったが、道元も同じような事を言っていた。物が焼けて灰になるのではない、灰が生まれるのだと道元は言っていた。そこでいう物とは、遺体の事なのだ。灰とは白骨のことだ。
青空にからりと焼けて荼毘の祖父
母方の祖父の死があった。それこそもう祖父の時間が残りわずか、という、覚悟してはいた知らせがあり、病院に行く。つい数か月前までは近所を自転車で走り回るほど元気だったのが、病を得て、病院のベットの上で、あっという間にあまりにも小さく紙縒りのように縮んでいた。元々大柄な体格だったゆえにその事実にまた眩暈を感じた。乾いた舌の表面が深く割れ苔が生えている。もう長くはない、ということが否が応にも伝わってくる。しかし、ふと視線をずらすと、かつては気が付かなかったが、兎も角かつてと変わらぬ獰猛なまでの太い足首が二つ、強烈な存在感で突き出ていたのであった。なるほど、この太い脚で、大陸の戦場を生き抜き、戦後を生き抜いてきたのだ、と思った。戦争について語ることはなかったが、悲惨な出来事を単に逃げるように見てきただけでなく戦争の行為者でもあったという意味も含めてまさに生き抜き、何とか母国に辿りつかせたのがこの、危篤であっても残り続ける逞しい脚なのだろう。ここでも割愛するがさまざまな思い出も、この瀕死の御姿に、全部吹っ飛んだ。
こん棒だ縮んだ祖父の脚太し
死という事にまつわる様々な思想や想念はこの際どうでもよい。ただ一ついえることは、自分が生きている時間も、これからやろうとしている事を考えれば、ほとんど無いに等しい、というあまりに即物的なことであった。ハードロック論の番外編としてイエスのライブ模様について報告する予定が、またしても書けなくなってしまった。専ら自分の、精神の相克をなおざりにしては、ハードロックについては勿論の事、その他の、自分が取り組むべき重要ないくつかの事も何も出来やしないという切迫した内的状況ゆえに、自分としては致し方ない。ロックについて読みたいと思っていた方は、読み飛ばしてもよいと思うし、できれば過去の記事を読み返して復習するよい機会かもしれない。金麦っていう発泡飲料は、ちょっと信じがたいほど不味い。
旅立ちを前に
21日・・・関西では三大縁日の内、二つまでも開催される血沸き肉躍る日にちである。京都の東寺の弘法市か大阪の四天王寺の大師会か、どちらに行くべきか煩悶している。野外での骨董市なので天気がすこぶる心配だ。古銅の火鉢または位牌代わりに茶合を納めるための古格ある厨子、または彫刻刀を収納するための侘びた蓋付き小箱なぞを狙っている。ザ・バンドのドラム、リヴォン・ヘルム氏逝去の報。往年のロック芸能者たちが、断続的に鬼籍に入る時代になってきたようだ…音楽的にはあまり関係ないだろうになぜか、今日のイエスのコンサートで、なぜか、とはいえ音楽する人が己に近しい音楽しか聴いていないということはありえぬのだからこうしたこともありえるかもしれぬがイエスがザ・バンドの「怒りの涙」を追悼の意を込めて歌うのを身勝手に夢想してしまう。そういえば来週28日は、今日イエスがコンサートする尼崎のアルカイックホールにて、ザ・フーのロジャー・ダルトリーが来日公演する予定だったな…どこかで見たうろ覚えの記事だが、ちょっこし調べてみると…ええっ、「今回の公演ではザ・フーのオリジナル・アルバム『トミー』を完全再現するほか、ザ・フーのヒット曲も披露する。」って、マジかよ!おい!もしかしてこっちのほうに行くべきであったか。しかしさすがにもうチケット取れないだろうし、いや、試してないけれども、しかし関西に2週続けてコンサートに行くのもなんだし、実家とかに顔見せないとだし、どうしたものか・・・いや、ロジャーのほかのメンバーはどうなんだ…何々、ピート・タウンゼントの弟のサイモン・タウンゼントと来日、とある。ザ・フーらしいが、なんだそのいかがわしさは。この期に及んでどこまでばかばかしいのだろう、いや、サイモンの実力のほどは存じ上げないが…気になるっちゃ気になるが、行くほどのことでもないか、とも思いなおす。脇腹の痛み、ほぼ治った。医者の見立て正しき。
同じような句を以前吐いたことがあったがまた同じような状況になったのだから致し方なし。
家の酒を飲みつくしてぞ春の闇
野に遊んで詠める・・・
土筆そよいでふぐりの日向たんぽぽぽ
ハードロック編 第三夜「yes/yes songs(1973)下ごしらえ」
仄暗い底から音も無く注がれる酒を嚥下すればほっこりした温もりで、四六時中持続する右脇腹の痛みも少し痺れ軽減されるにしても、一向に治癒の気配を見せぬ…ほんの少し良くなったような気がするのも文字通り気のせいのような気もして、薄い不安は晴れやしない。日曜日も診療していたので行ったがそのコンビニエンスゆえにどこか専門性の深みに欠けるような気がする小奇麗なクリニックでは「レントゲンで分かる範囲では異状は見られません」という、原発事故対応中の関係者の科学的答弁のような結論しか得られず、問題なのはレントゲンでは映らぬ、X線を透過しやすいのだろう軟骨と、炭カルが大分を占めるからX線を反射して画像になるいわゆる骨である肋骨との接合部ないしは軟骨部なのだからレントゲンで見えるところは大丈夫と太鼓判押されたところでだからどうなのだという恐れは拭えぬわけで、治癒に二週間程度かかると言われても一週間たった今でさえもいっかな好調の兆しが見えぬとあっては、軟骨の折れや接合部のずれ、といった、鎮痛剤や湿布ごときで治るはずの無い重篤な事態を思い浮かべざるを得ず、はたまたそうした事実による、予想だにせぬ内臓系への損傷、それによる劇的な病状悪化へのなだれ込みも無いとは言い切れぬわけで、もし来週末まで耐えても恢復の兆しが見えぬようであれば転院も辞さぬとはいえ、来週は自分の魂の問題と同義であるイエスの来日公演のため尼崎まで這ってでも参上せねばならぬ境遇ゆえ新たな病院探しなぞできぬし、しかし来週を逃せば長期連休で病院は休みだろうし来週までに治らなかったらと思うとやり場のないむしゃくしゃと殺伐で居ても立ってもいられぬ状況でありながら痛みは通奏低音のように生活の小さな楽しみの芽を根こそぎ刈る忌々しさに、もう、差し当たって、浮かばれぬばかりか深まるばかりの飲酒によって心身の痛みを誤魔化す体たらくである。今日、新たな病院を探すのは億劫だ。水玉模様のド派手で蠱惑的な恐竜の卵が脇腹に挟まったような、妙に異物感のある痛みのような…自分の感覚なぞ一切信じてはいないが…。口元を覆うようにぐい飲みで飲むいぎたなさ。
もう一つの苦悩は、本日、日曜日の深夜、見切り発車で、いろんな理由があって、組織的同意無く自分の独断でこれまで試していない方法で生産することになったこと…もう時間も無く、且つ、改めてテスト時間を別途確保するための煩雑すぎる根回しなどの精神的苦痛に打ちのめされるという自分の生来の怠惰やこの期に及んで方向転換するための膂力なぞあるはずもないことによるところが大きいが、にもかかわらず、思いつめると破れかぶれになって瞬間的で空疎な度胸の突発が最も危険な方向へと打って出てしまう自分の性分が情けなく、思い余って、ええい、ままよとばかりに見切り発車でこっそりやることにしたが自分では最早どうにもならぬ事情でよりによって日曜日の夜中にやることになるとは。最悪な事態になると、設備が破壊されるかもしれない…数億円の設備の損壊も、最早自分ではどうにもならぬ責任の重さだが、何より生産が止まってしまうということが、全く余裕の無い計画の中で深刻に致命的である…夜中、もしくは早朝に激怒電話がかかってきたら、おしまいである。取り返しはつかない。死ぬわけじゃないからいいか、と、ぎりぎり思う。書けば心のささくれ立ちが落ち着くかと思ってかような下らぬ個人的な事を吐露したが、まったく落ち着かぬばかりか動悸で息苦しい。落ち着いて眠れないし酒も飲めない何も手につかないし気が気でない。こんなことならやめとけばよかったと後悔しても後の祭り、もう、突っ走るしかない。大丈夫、きっと、うまくいく。安全装置が働いて損壊前に安全停止するはず、しかし、それを上回るほどの暴走が今回のやり方では想定されうるからこんなに怯えている。生き抜く。生き抜け。おさまらない脇腹の受苦に耐えているのだから、今回の件がチャラになってくれないだろうか、と、俄仕込みの低姿勢でさもしい事を思う。
木蓮の花は雨に弱く風に強し
腐れども散るべき時を自ら訣す
効果無き湿布冷たくもなし葉桜忌
細君切り立ての爪たどたどしく小さい
ささやかな欲望を詠める…
位牌替わりに厨子に納まれ茶合かな
やり切れなくて、また、ソニックスを聴く。ケロイドの声のようだ、と叫ぶように思う。
金正恩=きれいなジャイアン(女神「あなたが落としたのはこちらのきれいなジャイアンですか?」のび太、ドラえもん「いいえ!、もっと汚いのです」女神「あなたは正直なので、きれいなジャイアンをあげましょう」)
ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
(「yes songs, the song remains the same, who's next!」)
ハードロック編唯一の問答は、これだ。
問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
答:「それは、ハードロックである」
yes/yes songs(1973)atlantic7576-82682-2の下ごしらえ
2.siberian khatru
いきなりの躓き…khatruって何だ。旧約聖書のヤーウェ的な、安易に読むことを許さぬ子音の素っ気なくも神聖な羅列。辞書に載っていないじゃないか…一説によると、ジョン・アンダーソンの珍造語だという…一筋縄ではいかぬことを、がつんと示してくる。気を取り直して、では、これから、この歌詞の、己の魂への刷り込み作業を行う。
2.シベリアのカートゥル
餌食になった鳥を歌え
美しさが君の足元から始まる
君は決まりを信じるだろうか?
黄金の、錆びない爪が
人間をはるかに引き裂いた
彼らが究極だと見なした人間を
シベリアでさえも動く
…
(来週に続く…続くんだけれども、思いの外時間がかかる…ちょっとやり方を考え直さないといけないかも)
ハードロック編 第二夜
シメジでも加えてみるか夢の雷
亀虫が夜明けのカーテンに御座候
白き吐血かフロントガラスに鳥の糞
どんよりとして、もう、やる気が失せた。このところ立て続けに淡淡斎好み宇宙コロニー形車軸釜や蜂図彫刻煤竹茶合、イエスの公演チケット等、己の欲する物を所持することになった。しかしながら、落語の帯久じゃないがそれがケチのつけ始めで。薄薄怯え、もう、これからいいことなんかないに違いない、不幸なことしか起きないに違いないと思い込んでいたところへ、案の定、そらやっぱり、さもありなんとばかりの北叟笑みが何処からともなく聴こえる…仕事中に75kgほどの資材を台車で運搬中、やっぱり荷崩れを起こし、足場の悪い処で荷組みをやり直していると腰をかばう為に変な姿勢で荷を引っ張った途端、右脇腹を、さっと懐に飛び込んできた猛禽類の鋭い嘴で抉られたような鋭い痛みが走り、痛みは残るものの腰じゃなくてよかったと己を慰めながら平日はだましだまし働くが、土曜日の朝、起き上がろうとすると、右肩と右脇腹に、どうにも堪えきれぬほど鋭痛が走り、起き上がるのに至極難儀する…単なる筋肉痛だろうと思うも、経時で悪化している様子から、骨や関節への損傷も予想され、不安は募る。日曜日、痛みはおさまる気配を見せぬので、思い切って病院へ。日曜日も営業しているそこに行き、レントゲン…指触での所見でも分かることだが痛みは、背骨から脇腹に伸びる肋骨と、その肋骨とつながって腹を包むようにして胸骨へと至る軟骨との、その接合部およびその近辺の筋肉の損傷によるのだろうということであった。結局、レントゲンでは肋骨は映るが軟骨はよく分からぬらしく(肋骨の異常は無し)、肝心の、軟骨と肋骨との接合部や軟骨の損傷の詳細は分からぬわけで予測でしかなく、どうにもならぬということで何となく曖昧なまま、痛み止めと湿布をもらう。
労災、という言葉がよぎる…。よぎるのは、数年前の出来事…まあ、労災なんだけれども、20代前半の、まだ首筋に幼さの残る技術部員の男が、グラインダーでの研磨作業中に指を切創、救急搬送され数針縫うという労災があった。緊急で開かれた安全委員会に、頭数合わせで組合側として何となく出席した小生は、各委員列席のもとに、病院から戻ってきた彼が事情聴取のため出頭してきた現場に立ち会ったのであった。彼は、なぜか、泣いていた。20代そこそこのいい年した大人の男が、何を泣いているのだろう…と思った。まさか、傷口を縫うのが怖くて泣いているのじゃあるまい、もう病院ではないし、公の場で、人前で、何事なのだろう、と怪訝に思っていたが、彼の、長身を濡れそぼらせてしゅんとしょぼくれた態度を、幾分意地悪く見透かしてみるに、どうも、つまり、会社=世間様を騒がせてしまった自分の不甲斐無さへの情けなさが嵩じて、自責の念で泣いているようなのである。責任関係はどうあれ、ともかく怪我したのは自分であるのに、何故か自分を責め、周囲の委員でさえも多少の当惑はあれどなんとなくそれで心情的には事がおさまった具合の満足げなのである。満更でもない感じ。彼…何故に、そこまで求められもせぬのに、組織的なものに恭順を示すのか。最近の若年層の、率先した媚び、というものの小汚さ、を思い出したと同時に、製造業特有なのか、個人の人生の安泰が目的のはずの職場の安全が、いつの間にか組織の安全へとすり替わっているのではないかと持ち前の率先した媚びによって過敏に先取りし、過剰な悔悛の態を見せるに至る倒錯した安全意識、そうした媚びを好材料とばかりに組織固めに具するしたたかな組織の姿、というのを垣間見た。反吐が出る…。
ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
(「yes songs, the song remains the same, who's next!」)
ハードロック編唯一の問答は、これだ。
問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
答:「それは、ハードロックである」
日曜日の夕方…天ぷらの化石のようにほとほと情熱が枯れ果てているので、致し方なく、今後の論の進め方、というよりも本論を形成するのに必要な下地作業の項目を並べる。本来ならばそうした下準備は終えた上で更に己の中で十分時間をとって寝かし、熟成させてからしかるべき時に本論に差し掛かりたいところであるがそんな余裕は毛頭ないので、練習帳と本番の区別なく露骨に恥じらいも無く晒す破目となる…かようにもったいぶったところでそこで云われる本論というのも、結局、既に筆耕した上記の記念碑じみた問答以外に何もないのであるが、間を遊行揺籃するしかない気ぜわしい人間の性ということで全てを棚上げして真顔で散らかしたい。
歌詞の日本語訳を己で実施すべし。英語の辞書的な意味ぐらい理解できていればよいが、語学力が小さい小生では残念ながら、ぱっと見て分からない単語というのもある。そこで、この年で中学生じみた努力も辞さず逐語訳を施し、しかる後にイエスならイエスを聴く小生ならではの精神の軌跡を通して、自然として既に存在するイエスの音楽に匹敵する翻訳詩をまずは構築すべし。その翻訳と英語歌詞がマクドナルドのダブルチーズバーガーセット並みに己の意識において渾然と分かち難く、よく熟れさせること。いままでは己の怠惰故に歌詞の意味と楽曲の音楽性を切り離して、音楽性のみを味わってきたが、ロックは歌であることによるロック特有のいかがわしさ猥雑さから、このハードロック論において疎かにすることは、如何に怠惰な小生といえど、出来やしない。主としてこの3アルバムの全歌詞を、翻訳ソフトなど使わず、己自身で、歌うべし。
この論では、イエスとレッド・ツェッペリンとザ・フーを、まさしく同時に聴くこと、というのを課している。彼らを同時に聴くこととは何か、ということを探求する予定だ。この事が便宜上、論を進めるための方法でもあり目的、あるいは結論にもなってはいるが、しかしそのことが何かしらの大上段の箴言ないしは己の生き方や共同体を組織立てるのに有用な勅語になりうるはずも無く、空回りに過ぎぬのは闇雲に幻聴している。件の記念碑といっても、それは土中を基礎とするものではない、何かのSFであったような、宙を漂泊する黒い石のようなものである。それも、既に粉々に砕け散っているといってもいい。我々が住む銀河はまさに空回りしているではないか。太陽系や銀河の中心はそれらの系を統べる中心にあらず、見かけの糸目に過ぎない。とはいえ、この、まさしく同時に聴くこと、というのを、彼らの音楽と対峙しうるまでの、啓蒙ならぬ迷妄思想にまであられもなく乱れさせるには、ただ言葉を紡いでいるだけでは興が乗らぬ。しかるに、本当に、3台の録音再生装置で以て、同時にこの三つのアルバムの音を再生させ、実際に小生が聴く必要があるだろう。全く新しい聴点(視点)が出現するかもしれない。差し当たって再生装置を2台しか所持していないから、まずは、可能な組み合わせをやってみるのもよいだろう。以下の聴き方の組み合わせを順不同でやる予定。あと1台、設備投資が必要。2台の再生装置から同時に空間に音を放出するのもよいし、2台からそれぞれイヤホーンを耳に繋げ、例えば右耳からイエス、左耳からザ・フーを心に注入するとまた違った状況になるかもしれぬ。何となれば耳が三つ欲しいところだが。
○イエス
○レッド・ツェッペリン
○ザ・フー
○イエスとレッド・ツェッペリン
○レッド・ツェッペリンとザ・フー
○ザ・フーとイエス
○イエスとレッド・ツェッペリンとザ・フー
ハードロック編 第一夜
週末、妻からの電話への返しにて詠める
妻は鍵を失うてこそ自由なり春待ちの宵帰路の電鉄
軽く、取っ掛かりも、淡陽に撫ぜられて尖りが磨滅するように滑落した末、すっかり観念して春雨にくたす袂を絞れど一滴の努力も落ちぬ拍子抜けにも今更の無関心に、ほんわりと、豊かさから離縁する細めの揺らぎが風の隙間をひょうひょうと縫うて、途絶も糸目無く軽々と、笑いの無い楽しみが途方も無く淡く仄々と蒸せて、播種される畝とは別れたばかりの無根拠の高揚ばかりが無闇に薄まり、広がりはせぬ意固地が発芽の拳を土に貫く…フーのセルアウトを恒常的に聴き(実際に録音媒体を再生させて己の聴覚から外部入力することもあれば、記憶に残る曲の断片を四六時中反芻するという意味で)、西村賢太氏の私小説を青嵐のように読み下していると、歩行の連続性が滑落するような殺人的眩暈に襲われ、袋小路で淡く、おかしくなりそうになる…セルアウトについてはだいぶ以前に表層的な事をお為ごかしに記載している。西村氏の獰猛私小説…外見的には突沸的に繰り出される暴力の顕現が、結局言葉のみの純正品では有り得なかった身勝手な理性というものの一形態として目先の弱いものをぶん殴る底辺の現状を剥き出しにするものの、基本的に、基底のところでは言葉の豊穣への信仰に救われている、その是非を問うているわけではないが生死を意識しはせぬ生活者のしたたかさが、ぎりぎりのところで作品=商品となっている図太さの限界と、学ぶべき柵(しがらみ)と、断絶すべき馴れ合いなのだろう…理性というのは暴力という形で表出されることもある。一方で横溢するセルアウト(sell out)を、自分は何故聴いているのだろうか。この、終わりの歌を…。恐らく、例えばザッパのバーントウイニーサンドイッチと同じ格付けで、フーの大抵のアルバムを己の血肉にしてきて正直聞き飽きる寸前まで己を追い込みながらなおのことフーの音楽からその度毎に感動を受けるように内発的に感動を生産せざるを得ない切実な聴者が、ふと思い立って、フーの仕事の全貌が切羽詰った深刻さではなく飽くまでもやんわりと季節の空気を吸うようにして且つ一挙に滝のように己の脊髄を怒涛で伝ってくるアルバムが、このか弱きセルアウト(=売り切れ、裏切り)に他ならない。全体とは終わりである(all is end)、とは言い条、フーの音楽に全体は無い、よって終わりもないのであるが弱さというものに付け入るのが人の心と云うもの、虫唾が走るほど出鱈目な約束のようにして概念も人間を保護しようとしてくる。その作用に抗うことも可能であるがその護持の包摂もまとめて花いちもんめとばかりに芸能が迸るのだから、当ては外れる。取り残された荒野は相変わらず茫漠としている。セルアウトを聴いていると…脳が、右脳と左脳と小脳と海馬にすっきり分かれてそれぞれがぷかりぷかりと気球のように陽気に浮かんでいくような気分になる。
言葉は精神の身体である。芸能は偶然の身体である。精神とは偶然か?否、そうとは言い切れない。精神は身体によって偶然から隔てられている。だからといって精神に偶然性が全く無いというわけではない。それゆえに芸能は偶然の身体であるといえる。
完全に均質に分散されることなくざんぐりと荒く混ざる冷気をくるむ暖気にあてられてどこまでも淡い眩暈に襲われているのは、季節以外に動機が無い寄る辺なき心のせいのみではなく、寧ろ、望外に満たされてしまった物欲の、矛先の無い満たされ、によるものであった。インターネットのオークションという恐るべき世界で、船底一枚下の地獄を思わせる簡便さで、かねてより強欲していた茶釜と、故あって入手しなければならぬ茶合を所持できてしまったことによる、その余韻で、いまだに眩暈がしている…深酒によるビタミン不足が原因かと思って野菜ジュースとか飲んでいるが、効かず、眩暈はおさまらず、さらさらした陽の結晶を浴びると、意識の噛み合わせが断絶したかのような刹那の眩暈に襲われる。度肝抜く形態の、まさかの車軸釜…こんな逸品がこんなにいとも簡単に手に入るとは…今までの自分の涙ぐましい労苦と徒労は何だったのだ…これはまずい、身を持ち崩す地獄への案内人=ヤフーオークション、と細君に認定され、しばらく(?)禁止処置に遭う…確かに、やばい…オークション(競り)、という購買形態も、小生の新たな人間性を明るみにしてくる。酔いの人であって賭けの人ではないと自負していた小生である。酔いの人とは、方法と成功の破壊者である。賭けの人とは、方法と成功への偏愛者である。
賭け事に金を賭ける、ということには、確かに、小生は何の興味も無い。金などどうでもよい…(骨董界には古銭好きとかもいるが、全く共感できぬ世界だ)しかるに、小生の心を鷲掴みにする器なり道具なり書画骨董なり美術品が我が物になるということだと、「なにがなんでも取りにいってやる」「物の価値の分からん奴にこの品を渡すわけにはいかぬ」というどす黒い物欲が否が応にもマグマ噴出、見境なく値を張ってしまう習性があるようなのである。骨董市などで、眼前の品物に業者が張った値にたじろいでしまうことはあっても、オークションという動的状況、自分が所持するために存在するような品物の値が、どこの馬の骨ともしれぬネット上の他人によってどんどん加速度的に上昇していきついに他人の手に渡りそうな危機的状況となれば、普段は尻込みしてしまう金額でも、どーんと張ってしまいそうな、自分が恐ろしい。漫画「骨董屋とうへんぼく」なども熟読しているから、中途半端に、骨董品の業者市場での手練手管を齧っているから、値を提示するタイミングとかのテクニック(方法)にのめり込みそうな自分が居て、恐ろしい。
そもそもヤフーオークションという危うくも甘い蜜が充溢する蕊に分け入ることになったのは、偶然ネット検索で、小生の我儘で関わらせてもらっている工芸にまつわるところの品が売りに出されていたからで、それを競り落とさんがためである。先代の銘が入った、煤竹に蜂の細密彫刻を施した茶合なんだけれども、関係筋から偽物(ぎぶつ)であるという情報も得てはいたが写真を見る限りどうにも偽物だとは信じ難く、既に所持している偽物の茶合の、ヤドカリ彫刻と比べると技の冴えは今回の偽物?の方が遥かに上を行っているのは確かだ。偽物であるなら猶更世に出回らせる訳にはいかぬし、偽物だから修行の参考にしてはならぬかもしれぬが今の自分からすれば超絶技巧この上ないのは確かであるし、理屈はどうでもよい、兎に角欲しいという形振り構わぬ思いであった。ネットオークションというのは出品者が入札者に成りすまして(別のIDによって)、他の入札者が現れたらいい鴨とばかりに、客が諦めるか諦めないかのぎりぎりを狙って値を釣り上げている可能性もあると聞く…本当ならば由々しき事である。煤竹の茶合が欲しいなんぞ、小生も含めて、よっぽどの数奇者に違いない…この度小生は件の茶合を、ネット上のある入札者と最後まで競り合い、最終的に小生が500円差で競り落としたが、本当にそれが欲しいと思っている数奇者だったら、500円差くらいものともせず上に被せてきてもおかしくないはず…それが無かったということは、適当なところで手を打ってそこそこ儲けておこうとする入札者=出品者なのではなかったかと、勘繰っている。不当に値を釣り上げる、市場の不健全が拭えぬネットオークション界であるが、既に目ぼしい火鉢を見つけている。小生は、茶釜と風炉、の、あの一体感を嫌い、己の目に適った火鉢に、例の仰天車軸釜を据え付けようと企んでいる。饕餮紋を施した、六角形の銅器の呪的火鉢が気になる。今はおとなしくしているが…。
何事も無かったかのように、全くの手ぶらで、ついに、ハードロック編が始まる。気楽な散歩のように、ほころぶ梅やコブシ、沈丁花の薫香を愛でながらというわけにもいかない、未熟故に肩肘張ったものとなろうが、さてどうなるか。井伏鱒二のようにハードロックを語りたいものだが、無理だろう。準備不足は否めないがしかし、もう、時間がない、小生に残された時間、というのも、痛切に感じ入るこの頃ゆえに、最早、その成すべき業の大きさにたじろいでいる場合ではない、という事だ。闇雲に始めるしかない、と己を奮い立たせる時、始まりとは闇雲であった、と、言葉の悪用の空梯子を掛ける浮足立ちのまま、野を走る兎に一念の誉れあれかし。
ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
(「yes songs, song remains the same, who's next」)
ハードロック編唯一の問答は、これだ。
問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
答:「それは、ハードロックである」
この問答の間には、禅でいうところの問答無用と云うもので、本当は何も無い。無いが、しかし、聴こえるものがある…音楽を論ずることが音楽を聴くことに限りなく漸近しなければならないし、そうした聴き方=論じ方をしなければ、ハードロックというものは聴こえてこないだろう。便宜上、三つのバンドを取り上げているし、その中でも、イエスとツェッペリンについては、彼らの代表的なライブ版アルバムを聴取の対象とした。多少の語呂合わせ乃至は辻褄合わせでしかない意味でフーにおいてはライブ版ではないフーズネクストを題目に採用しているが、フーについてハードロック編において主に聴取するのはやはりライブ版アルバムの「ライブ アット リーズ」とする。(次回に続く)
蝉脱(せんだつ)の夜明け…
昨日は茶会を決行、人との関係が少ない小生は常日頃は自然や物を客として茶会していたが、一抹の空しさ拭いきれぬ感もありつつ特に自分を卑下するわけでもないが、幸運なことにこたびは久方ぶりに人を相手にした茶会でした。詳細はいずれ茶会記にて。反省点多いが、心地よい疲れでもあるが、心身の疲労困憊は思っている以上に激甚であり、且つ、虚脱の余波なのか魂の荒れ、イライラ感も手の施しようもなく…此度は王道なきロック史休載いたします。写真のように、茶会の折、中立ちの待合席に、吉本氏追悼の一角を設けました。衰弱しているとはいえ、日本のジレンマという番組にすかさず反吐を催す慷慨だけは奮発してしまう…。1970年代生まれの、等身大の若者というのを代弁するらしき論客という人々…年若なせいでこれまでは使役される側だったのがいつのまにやら言葉や他人を使役する立場にのし上がったらしい小器用な連中が、格差や民主主義やナショナリズムについて討論する番組…来週、記憶に残っておれば、その在り様について述べたいと思う。
