ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
紅白梅茶会
去年、白梅を楽しんだものだからやはり対で欲しうなって…去年の年末、紅梅も贖う…白梅は手持ちの萩焼の大ぶりの片口碗に穴を開けて鉢としたが、紅梅についてほどよい大きさの器がなく、素焼きの鉢に植える…室内に紅白揃うとむせ返るような香りが…気に入った和菓子屋さんにて生菓子を買い…菓子切り、いわゆる黒文字を手作りする。旅先の南国のホテルの庭先で拾ったヤシの木の枝?をナイフで割り、薄く削って黒文字とする…水で洗って分かったが耐水性はあまりなく、水分を含むと柔らかくなるから、将来的には漆で固める必要がある…其れに、繊維に黒い斑点が染みついているのが単なる模様なのかそれとも黴なのか懸念はあったが、使ってみることにした…生菓子を切って口に運ぶと、変な後味がして…其れは菓子のせいなのか、いや、やはり手づからの菓子切りのせいだろう…直後、何だか体全体がぐったりと倦怠感に襲われ、変な毒を盛られたような状態になった。やはり、ヤシの枝の菓子切りは漆で固める必要あり。
紅白梅見茶会
日時:2022年1月30日
場所:拙宅
菓子:多津瀬 氷牡丹、こぼれ梅、椿羊羹
菓子器:鉄釉トルコ風織部亀甲紋小皿、志野檜葉紋小皿
菓子切:ヤシの枝
茶碗:黄瀬戸鉄絵蟹図天目形、黄瀬戸緑釉雲紋平形
濃茶:宇治
次回更新は2月27日です。
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ゼロと無限小の間の無限の差異
去年の紅白歌合戦をタイムリーに見た訳ではないが何かのきっかけで東京事変の緑酒の演奏を視聴して、悪い曲ではないと気に留め…今や恐らく遠くロンドンで創作に没入する宇多田に、飽くまでも日本の地において匹敵し得るのか、椎名林檎を仮設…南蛮人を強く意識した襞襟の洋風和装をメンバー全員で召す創意にて林檎は拡声器で気を吐く東京事変の新曲「緑酒」…政治意識剥き出しの歌詞を安易なノリや理解を拒む玄人好みの曲調で根源へと目指すのは評価に値するが…ユーチューブで三回聴くと飽きた。結局、有限から無限小概念を通じてゼロを目指す椎名林檎と、始めからゼロ地点に端座する宇多田の才能には無限大の差異があると云う事であった。其れは、林檎が最低限、無限小を戦略し得るからこそ顕現する、宇多田との雲泥の差であった。宇多田登場以降、雨後の筍のようにディーバと称する女性シンガーが散見され、今に至るも、五輪で国歌なぞ受注したミーシャだの、ジュジュだの小柳ユキだのは宇多田と比較して論評するに値しない輩であるから無視すればよいが、東京事変の仕事の有意義性は件の通り認めざるを得ず、其れゆえに宇多田との比較論評に値するものの、論評した途端宇多田との無限大の差異を以て劣等と位置付けられる羽目になる…宇多田本人の意志に関わらず、宇多田と東京事変の作品の本質がそうなせる、と、緑酒が、近年Jポップと云う名のメジャーシーンにおいて稀に見る良作だからこそ、そう痛感した。
今や宇多田を聴いていると、聴覚と云う感覚器官を通じて認識的に聴いている気がしない、自分の心の中から宇多田の声が沸き上がる…自分が宇多田を歌っているのか、宇多田が自分において歌っているのか、最早自分が宇多田に成りきっているのか、宇多田が自分に成りきっているのか、心の声が宇多田の音楽そのものとして宇多田が根源を歌っていて其処には自分と云う枠組みすら消失しているように宇多田が歌っている無我の境地…そんな訳ないだろとCDを切ると、ほらやっぱり宇多田が聞こえると云うよりも既に宇多田だ、心が宇多田だ、最早同一化とか共通化と云う論理過程さえもすっ飛ばして直接的に宇多田としか云いようがない…いや、冷静になるべきだろう、CDを切れば宇多田は聞こえない、少なくともCDからは聞こえてこない、聞こえていると思っているのは自分が心の中で宇多田を記憶において反芻しているだけで其れは宇多田ではないはずだ、と云う常識が其のまま肯定されたまま、心が宇多田の作品を形式として宇多田が歌っている、宇多田が溢れると云う大仰ですらなく、ごく自然な細々とした意識の流れとして…今、自分の顔を鏡に映したら、自分以外の他人が見ても其の顔立ちは宇多田の顔になっているのではなかろうかと云う疑念も現実味を帯びて(バカも休み休み云えと云う正気も気弱に…)…宇多田に成りきる、宇多田への生成変化と云う批評的態度の限界を超えて、自分とロンドンの宇多田とは量子エンタングル的に時空を超越して混然としているのか。
そうした状況を踏まえつつ、宇多田を聴き続けると其の不幸体質が根源へと誘い込むから此れ以上聴き続けるのは危険だと日増しに懸念が付きまとうので入手すべきか逡巡しているにもかかわらず、宇多田のニューアルバムの入手へと確実に動きそうな事に逡巡するまでもなく確信していると…其れをあざ笑うように、ニューアルバムのタイトルは確か「バッドモード」。宇多田が一リスナーの自分の人生状況を見透かした訳でも無かろうに、まるで見透かしたかのようなタチの悪い偶然が必然であるかのよう…最早人生のバッドモードからは逃れられないのか。
次回は2月6日です。
今や宇多田を聴いていると、聴覚と云う感覚器官を通じて認識的に聴いている気がしない、自分の心の中から宇多田の声が沸き上がる…自分が宇多田を歌っているのか、宇多田が自分において歌っているのか、最早自分が宇多田に成りきっているのか、宇多田が自分に成りきっているのか、心の声が宇多田の音楽そのものとして宇多田が根源を歌っていて其処には自分と云う枠組みすら消失しているように宇多田が歌っている無我の境地…そんな訳ないだろとCDを切ると、ほらやっぱり宇多田が聞こえると云うよりも既に宇多田だ、心が宇多田だ、最早同一化とか共通化と云う論理過程さえもすっ飛ばして直接的に宇多田としか云いようがない…いや、冷静になるべきだろう、CDを切れば宇多田は聞こえない、少なくともCDからは聞こえてこない、聞こえていると思っているのは自分が心の中で宇多田を記憶において反芻しているだけで其れは宇多田ではないはずだ、と云う常識が其のまま肯定されたまま、心が宇多田の作品を形式として宇多田が歌っている、宇多田が溢れると云う大仰ですらなく、ごく自然な細々とした意識の流れとして…今、自分の顔を鏡に映したら、自分以外の他人が見ても其の顔立ちは宇多田の顔になっているのではなかろうかと云う疑念も現実味を帯びて(バカも休み休み云えと云う正気も気弱に…)…宇多田に成りきる、宇多田への生成変化と云う批評的態度の限界を超えて、自分とロンドンの宇多田とは量子エンタングル的に時空を超越して混然としているのか。
そうした状況を踏まえつつ、宇多田を聴き続けると其の不幸体質が根源へと誘い込むから此れ以上聴き続けるのは危険だと日増しに懸念が付きまとうので入手すべきか逡巡しているにもかかわらず、宇多田のニューアルバムの入手へと確実に動きそうな事に逡巡するまでもなく確信していると…其れをあざ笑うように、ニューアルバムのタイトルは確か「バッドモード」。宇多田が一リスナーの自分の人生状況を見透かした訳でも無かろうに、まるで見透かしたかのようなタチの悪い偶然が必然であるかのよう…最早人生のバッドモードからは逃れられないのか。
次回は2月6日です。
宇多田の変拍子と不整脈について
年明け早々に宇多田が新アルバムをリリースと云う情報を聞きつけ気もそぞろ…期待、楽しみと云うポジティブな反応半分、ネガティブな不安も己の半身のような影のようによぎり…と云うのは…宇多田を此れ以上聴き込み続ければ何か自分の個人的人生状況が不運や不幸に見舞われる、そんな要素がポツリポツリと火の粉が障子紙に穴を穿つように日増しに増えていって遂には真っ黒な積雪に埋もれるようにして出口を失うのではないかと云う、被害妄想じみた、しかし宇多田の楽曲の根源的意味からするとあながち妄想では済まない必然性のような、と云う強迫観念である。死から切り離された生を決して歌わず。常に死の影を、短かったり長かったりしながらも確実にのばす生を歌ってしまう宇多田であるから、のめり込み過ぎると気が付くと死の淵に頭を突っ込みかねない、其れが思弁を弄ぶレベルなら人畜無害だが、宇多田を聴くと云う行為とは直接には関係ない具体的な日常生活のあれこれにおいて、なぜかシミのような不運が具体的に次々と勃発する…怪訝に思いながら其のなし崩し的な坂道への転がりを押しとどめようもなく…とりわけ色々あってがた落ちした小生の身体状況の不如意などは其の最たる不幸の現れではないのかと云う、宇多田当人にとっては身に覚えのない不当な下衆の勘繰りが、実在世界の事実なのではないのかと云う確信へと…そして、最早、此のように危険性を認識しながらも、確実に年明けには入手に動く自分の背中がもう過去の記憶のように幻視されており…手遅れ感は否めないが…諦めの境地に達するほど、自分を達観できやしない往生際の悪さは備えているから余計辛い。
そして、そうした宇多田的背景もあって、本当はあれこれ語りたい小生個人の身に起きたよしなし事を語る事よりも優先されて宇多田の事が前景化するのも宇多田の魔力の結果なのかしらんと愛憎入り混じって宇多田が自分の思弁から顔を出す訳だが…宇多田の楽曲の変拍子と不整脈の違いについて力説しておきたい。基本的にソウル~ポップスの枠を踏襲する宇多田であるから、リズムは通常のものが多いが…創作意欲盛んな宇多田であるから、時に実験精神が機嫌よくほとばしった場合には、癖になる変拍子を独創的に繰り出す事がある…しかし其れは…結局のところ、アルバム全体にスパイスを聴かせる、少し面白い楽曲としての変化付けのレベルである事が…宇多田の不整脈と比較すると暗澹として判然する…其れは、大げさな表現上の比喩ではなく実在論的事実として論証される生と死と絶対的な差異に等しく…宇多田の不整脈とは…宇多田が楽曲において内省の度を深め、生命領域の深度限界を超えて実在世界へと没入する楽曲において顕著に用いられるリズム手法であり…其れは、次の手が安易に予想されるような一定間隔のリズムでもなければ、予想し難く構造が複雑だが其れでも何らかのリズムを刻んでいる範疇に入る変拍子でもない…一打一打が不連続に、それぞれが独立して時空に勃発するようにして、其の予測不可能な一打が確実に遠くから獲物を射殺するかのような確実さで命を射程にするようにして、宇多田が楽曲に弾痕を空ける任意の打撃音である…此れを小生は、宇多田の不整脈と呼ぶ…通常、音楽のリズムは其の連続性が保証されているかのように、其れこそ根源的な不連続性を隠蔽するようにしてリズムを刻む…其れに対して宇多田の不整脈は…其の不可解なリズムが、まるでいつ終わってもよく其れが最期である事が当然である事を晒して、時空に穿たれる…そして、リズムがいつ終わってもよいという事は、とりわけ生命にとっては事実であるのであって…不整脈は此の事実を露骨にする…自分は心臓が動いている動画映像と云うのが苦手であり…其れを見ると次の瞬間には止まるのではなかろうかと自分の心臓に成り代わって恐慌状態になるからなるべく心臓の事は考えないようにしているが…殊更に心臓の事を考えさせるのが、宇多田の不整脈なのである…リズムの根源的不連続性を暴き立てる宇多田の不整脈は、形而上学的な条件によって、少々変わった変拍子と位相を異にして、楽曲を絶対的に根源へと誘う…だからこそ聴き込んでしまうのと同時に、聴き込むと不整脈的な心的恐慌と救心的な心臓への悪さも相まって掻きむしられ、大混乱しながら暴れるほど沼にハマる水牛のように深みに引きずり込まれる…無論、心臓はいつ止まってもおかしくないがだからといって次の瞬間確実に止まる訳ではないから、不確定性をネガティブな側面でだけ捉える事は実存的には誤謬ではあるのだが…しかし其の実存が事実である事が確かなのだと不整脈は宣告するのでもあって…兎にも角にもリズムに思弁的意味を開闢した宇多田の不整脈は、変拍子も含めた通例のリズムと一線を画す。
次回は2022年1月16日です。
そして、そうした宇多田的背景もあって、本当はあれこれ語りたい小生個人の身に起きたよしなし事を語る事よりも優先されて宇多田の事が前景化するのも宇多田の魔力の結果なのかしらんと愛憎入り混じって宇多田が自分の思弁から顔を出す訳だが…宇多田の楽曲の変拍子と不整脈の違いについて力説しておきたい。基本的にソウル~ポップスの枠を踏襲する宇多田であるから、リズムは通常のものが多いが…創作意欲盛んな宇多田であるから、時に実験精神が機嫌よくほとばしった場合には、癖になる変拍子を独創的に繰り出す事がある…しかし其れは…結局のところ、アルバム全体にスパイスを聴かせる、少し面白い楽曲としての変化付けのレベルである事が…宇多田の不整脈と比較すると暗澹として判然する…其れは、大げさな表現上の比喩ではなく実在論的事実として論証される生と死と絶対的な差異に等しく…宇多田の不整脈とは…宇多田が楽曲において内省の度を深め、生命領域の深度限界を超えて実在世界へと没入する楽曲において顕著に用いられるリズム手法であり…其れは、次の手が安易に予想されるような一定間隔のリズムでもなければ、予想し難く構造が複雑だが其れでも何らかのリズムを刻んでいる範疇に入る変拍子でもない…一打一打が不連続に、それぞれが独立して時空に勃発するようにして、其の予測不可能な一打が確実に遠くから獲物を射殺するかのような確実さで命を射程にするようにして、宇多田が楽曲に弾痕を空ける任意の打撃音である…此れを小生は、宇多田の不整脈と呼ぶ…通常、音楽のリズムは其の連続性が保証されているかのように、其れこそ根源的な不連続性を隠蔽するようにしてリズムを刻む…其れに対して宇多田の不整脈は…其の不可解なリズムが、まるでいつ終わってもよく其れが最期である事が当然である事を晒して、時空に穿たれる…そして、リズムがいつ終わってもよいという事は、とりわけ生命にとっては事実であるのであって…不整脈は此の事実を露骨にする…自分は心臓が動いている動画映像と云うのが苦手であり…其れを見ると次の瞬間には止まるのではなかろうかと自分の心臓に成り代わって恐慌状態になるからなるべく心臓の事は考えないようにしているが…殊更に心臓の事を考えさせるのが、宇多田の不整脈なのである…リズムの根源的不連続性を暴き立てる宇多田の不整脈は、形而上学的な条件によって、少々変わった変拍子と位相を異にして、楽曲を絶対的に根源へと誘う…だからこそ聴き込んでしまうのと同時に、聴き込むと不整脈的な心的恐慌と救心的な心臓への悪さも相まって掻きむしられ、大混乱しながら暴れるほど沼にハマる水牛のように深みに引きずり込まれる…無論、心臓はいつ止まってもおかしくないがだからといって次の瞬間確実に止まる訳ではないから、不確定性をネガティブな側面でだけ捉える事は実存的には誤謬ではあるのだが…しかし其の実存が事実である事が確かなのだと不整脈は宣告するのでもあって…兎にも角にもリズムに思弁的意味を開闢した宇多田の不整脈は、変拍子も含めた通例のリズムと一線を画す。
次回は2022年1月16日です。
騒音始末記
宇多田を聴いていると、作り込まれた音と声と言葉が互いに共鳴しながら幾重にも深まる万華鏡のような意味が必然性を以て織り成すから音楽の細部にまで構造的にどんどん引き込まれて聴覚の解像度が段違いに上がり、自然と聴覚過敏になってしまうのもあるのかもしれない。最近追加注文した、宇多田が英語圏をターゲットにした全英語歌詞のアルバム二枚も意欲的に攻めた内容で大満足…しかし聴覚過敏では全くない、社会通念上迷惑な騒音でしかないような騒音にも日常的にさいなまれ、其の対応、対策に苦慮した一年でもあったが、結論を云えば、理論と実践に忠実な対策の効果が認められ、とりあえずのささやかな達成感と当面の安堵を得た一年でもあった。それぞれの事案に関して憎悪と怨念が万感の慷慨を悲憤たらしめて余りあるので各事案の詳細には立ち入らず、メモ代わりに列記するに留める。
①飼い主が出かける度に同じ集合住宅の階上にいる愛玩系バカ犬があざといほどわざとらしく寂しさを込めた悲痛な吠え声と共に、玄関扉を思い切り力強く押したり引いたりする事でバンッバンッバンッバンッと云う猛烈な騒音がコンクリートの建屋全体に鳴り響く事が毎日毎日夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに鳴り響くと云う騒音被害。
故あって直接飼い主と関わり合いになるのも不快なので書簡にて対策を講ずるようお願いするが、一回で収まる訳もなく、何度も投函した挙句、ようやく、犬が玄関に近づけないような抜本対策に乗り出したようで、とりあえず今は玄関扉による騒音は収まり、甘ったれた吠え声のみがうるさいくらいとなった。
②二つ隣のベランダの室外機から、コンクリートを伝って騒音が鳴り響いてくる。綿密に調査を重ね、発生源特定に一か月を要した。室外機騒音がなる度に外に出てどこのお宅なのか、耳で聴き分けたり夜だったら灯などで在宅確認などしたりして総合的に判断した結果、発生源を突き止めた。関係をこじらせると解決は遠のくとの大人の考えに至り、菓子折り持参で騒音被害の旨を勇を鼓して丁寧に説明し、其の解決策のため自ら買った防音ゴムシートを手渡し、…室外機下に設置してもらうと、狙い通り騒音はピタリと聞こえなくなった。話し合いが可能な、よい隣人でよかった。近所付き合いの大切さを痛感。小生が持参した菓子折りは辞退する常識的な人であったから、その後、その方から改めて菓子折りをいただく。すっきりと解決した。
③駐車場に駐車したらさっさとエンジンを切ればよいのになぜかエンジンをつけっぱなしのまま数時間過ごす住人が居て(ずっとスマホをいじっている模様)…アイドリングの音がいつ終わるともなく鳴り響く、地味に神経がやられる騒音被害が何日も続いた。激高した小生は直接そこに行って注意した結果話がこじれるも、とりあえず其れ以降はエンジンかけっぱなしのスマホいじりは少なくなった。スマホいじりは構わないがどうして家に着いたのに家に上がらずに車内で、しかもエンジンかけっぱなしでスマホいじり続けるのか、環境にも悪いし、世も末。
④うとうと眠気に襲われ始めた午前1時過ぎ頃から延々とまた駐車場から車のエンジン音が一向に消えず…いつかエンジンが切れるだろうと願いつつ、半ば眠いのでまた直接行くのも億劫で耐え続ける事数時間、午前三時半になってもエンジン音が切れないので業を煮やして現場に行くと、スマホいじりとは別の住人が車内でエンジンかけっぱなしで横臥している。今度は激高を抑えて、丁寧にお声かけ…すると、事情を聴くと、階段の灯にたむろする生きた昆虫や、階段に散らかる死んだ昆虫が怖くて階段が登れないから一晩車の中で過ごすつもりでいた、ついては階段の虫を追い払ってくれないかと其の女性がのたまう、驚愕の事情。開いた口が塞がらないが仕方なく階段の虫を追い払ったり死骸虫を詰まんで外に投げやったりしてやって其の人の帰宅を助ける。其れ以降、其の人がまた虫が怖くて一晩車で過ごそうとするのを恐れ、階段でカナブンやセミの死骸など見かけるとせっせと掃除するようになった。そのおかげなのか、夜中にエンジンかけっぱなしで一晩過ごす迷惑行為はなくなった。何じゃこりゃ。
⑤今まで気になっていなかったのが、宇多田による聴覚過敏のせいなのか、気になるようになってしまい…細君の咀嚼音。仲良き家人と食事を共にするのは人生の喜びの一つであるが、其れがいちいち楽しめない、細君に対して早く食べ終わらないかと思ってしまう二重の嫌悪感に苦悩する羽目に…其の苦悩を告白し、当方もなるべく気にしないようにするから、細君側も咀嚼する時に口を閉める、食べ物を味わう時に舌で音を鳴らさないようお願いし、理解して頂く…其れ以降、苦悩はかなり低減し、うっかり不快な咀嚼音を聞きつけても指摘すれば直ると云う安心感から其れほど苦にならなくなったと同時に、指摘すれば取り敢えずその場では直ると云う改善が現実にもなって、ほぼほぼ解決した。
⑥小生を最も苦しめていたのは、新車の運転席のドアからの騒音。運転しながら音楽を聴くことを人生の楽しみ以上に、小生の精神活動が最も先鋭的に研ぎ澄まされる時間として大事だったのにその時間が台無しになってしまう、しかも新車で、と云う苦悩ほど情けない事はなかった。高い買い物で負けた、と云う敗北感も重なり、惨めで苦しい事この上なかった。気温が下がると運転中、カタカタ音がなるが、其のドアを肘で抑えると取り敢えず音が消える、気温が上がると異音は鳴らない、と云う事象は分かっていた。初夏と初秋の二回、ディーラーに車を持ち込んで修理依頼したが、詳しい経緯は省略するが、結果、素人目からみても頓珍漢な対応で、解決せず。ある日、用事があって、午後10時頃、だだっ広く人気が全くない駐車場で此の事象について深く考え、ドアの構造をよく観察したところ、車のドアを固定する三つのゴム柱(円錐を途中で切断した、台錐形とでも云うべき形状のゴム)の存在に気づき…其れがドアの開け閉めや温度変化によってへたっている可能性を仮説し…ゴムが当たる板金のくぼみに、椅子の脚に床の傷付防止のために貼る硬質スポンジゴムを設置してドアを閉め、走らせてみると…ピタリとカタカタ異音が消えた。仮説、理論、と実践の勝利。永らく諦めていた枢要なる音楽ライフが復活。
次回は11月28日です。
①飼い主が出かける度に同じ集合住宅の階上にいる愛玩系バカ犬があざといほどわざとらしく寂しさを込めた悲痛な吠え声と共に、玄関扉を思い切り力強く押したり引いたりする事でバンッバンッバンッバンッと云う猛烈な騒音がコンクリートの建屋全体に鳴り響く事が毎日毎日夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに鳴り響くと云う騒音被害。
故あって直接飼い主と関わり合いになるのも不快なので書簡にて対策を講ずるようお願いするが、一回で収まる訳もなく、何度も投函した挙句、ようやく、犬が玄関に近づけないような抜本対策に乗り出したようで、とりあえず今は玄関扉による騒音は収まり、甘ったれた吠え声のみがうるさいくらいとなった。
②二つ隣のベランダの室外機から、コンクリートを伝って騒音が鳴り響いてくる。綿密に調査を重ね、発生源特定に一か月を要した。室外機騒音がなる度に外に出てどこのお宅なのか、耳で聴き分けたり夜だったら灯などで在宅確認などしたりして総合的に判断した結果、発生源を突き止めた。関係をこじらせると解決は遠のくとの大人の考えに至り、菓子折り持参で騒音被害の旨を勇を鼓して丁寧に説明し、其の解決策のため自ら買った防音ゴムシートを手渡し、…室外機下に設置してもらうと、狙い通り騒音はピタリと聞こえなくなった。話し合いが可能な、よい隣人でよかった。近所付き合いの大切さを痛感。小生が持参した菓子折りは辞退する常識的な人であったから、その後、その方から改めて菓子折りをいただく。すっきりと解決した。
③駐車場に駐車したらさっさとエンジンを切ればよいのになぜかエンジンをつけっぱなしのまま数時間過ごす住人が居て(ずっとスマホをいじっている模様)…アイドリングの音がいつ終わるともなく鳴り響く、地味に神経がやられる騒音被害が何日も続いた。激高した小生は直接そこに行って注意した結果話がこじれるも、とりあえず其れ以降はエンジンかけっぱなしのスマホいじりは少なくなった。スマホいじりは構わないがどうして家に着いたのに家に上がらずに車内で、しかもエンジンかけっぱなしでスマホいじり続けるのか、環境にも悪いし、世も末。
④うとうと眠気に襲われ始めた午前1時過ぎ頃から延々とまた駐車場から車のエンジン音が一向に消えず…いつかエンジンが切れるだろうと願いつつ、半ば眠いのでまた直接行くのも億劫で耐え続ける事数時間、午前三時半になってもエンジン音が切れないので業を煮やして現場に行くと、スマホいじりとは別の住人が車内でエンジンかけっぱなしで横臥している。今度は激高を抑えて、丁寧にお声かけ…すると、事情を聴くと、階段の灯にたむろする生きた昆虫や、階段に散らかる死んだ昆虫が怖くて階段が登れないから一晩車の中で過ごすつもりでいた、ついては階段の虫を追い払ってくれないかと其の女性がのたまう、驚愕の事情。開いた口が塞がらないが仕方なく階段の虫を追い払ったり死骸虫を詰まんで外に投げやったりしてやって其の人の帰宅を助ける。其れ以降、其の人がまた虫が怖くて一晩車で過ごそうとするのを恐れ、階段でカナブンやセミの死骸など見かけるとせっせと掃除するようになった。そのおかげなのか、夜中にエンジンかけっぱなしで一晩過ごす迷惑行為はなくなった。何じゃこりゃ。
⑤今まで気になっていなかったのが、宇多田による聴覚過敏のせいなのか、気になるようになってしまい…細君の咀嚼音。仲良き家人と食事を共にするのは人生の喜びの一つであるが、其れがいちいち楽しめない、細君に対して早く食べ終わらないかと思ってしまう二重の嫌悪感に苦悩する羽目に…其の苦悩を告白し、当方もなるべく気にしないようにするから、細君側も咀嚼する時に口を閉める、食べ物を味わう時に舌で音を鳴らさないようお願いし、理解して頂く…其れ以降、苦悩はかなり低減し、うっかり不快な咀嚼音を聞きつけても指摘すれば直ると云う安心感から其れほど苦にならなくなったと同時に、指摘すれば取り敢えずその場では直ると云う改善が現実にもなって、ほぼほぼ解決した。
⑥小生を最も苦しめていたのは、新車の運転席のドアからの騒音。運転しながら音楽を聴くことを人生の楽しみ以上に、小生の精神活動が最も先鋭的に研ぎ澄まされる時間として大事だったのにその時間が台無しになってしまう、しかも新車で、と云う苦悩ほど情けない事はなかった。高い買い物で負けた、と云う敗北感も重なり、惨めで苦しい事この上なかった。気温が下がると運転中、カタカタ音がなるが、其のドアを肘で抑えると取り敢えず音が消える、気温が上がると異音は鳴らない、と云う事象は分かっていた。初夏と初秋の二回、ディーラーに車を持ち込んで修理依頼したが、詳しい経緯は省略するが、結果、素人目からみても頓珍漢な対応で、解決せず。ある日、用事があって、午後10時頃、だだっ広く人気が全くない駐車場で此の事象について深く考え、ドアの構造をよく観察したところ、車のドアを固定する三つのゴム柱(円錐を途中で切断した、台錐形とでも云うべき形状のゴム)の存在に気づき…其れがドアの開け閉めや温度変化によってへたっている可能性を仮説し…ゴムが当たる板金のくぼみに、椅子の脚に床の傷付防止のために貼る硬質スポンジゴムを設置してドアを閉め、走らせてみると…ピタリとカタカタ異音が消えた。仮説、理論、と実践の勝利。永らく諦めていた枢要なる音楽ライフが復活。
次回は11月28日です。
天上大風…
風立ちぬで三菱内燃機の役員室や黒川主任の玄関先に掲げられていた扁額の書、天上大風の出典はどこなのだろうとしつこく心に残っていたが…たまたま立ち寄った小さな書道展で、良寛さん由来である事が分かり、村の子らが揚げる凧用に揮毫したらしく…滋養が臓腑に染み渡るように腑に落ちる…長年の気がかりからようやく解放的な気分…遠からず近からずの親戚から、庭に生ったスダチを30個ほどいただき…お世話になったあの方この方におすそ分けしても残ったスダチの大半をドレッシングに使い、香りの清新に背筋が立ち…更なる残りは焼酎に絞ろうと欲深く物色…あまり主張が強いのはよくなかろうと考え芋は避け、あまり立ち入った事が無い麦焼酎のコーナー…目に留まったのは蕪村と名乗る麦焼酎だが…名前に騙されてはいけない、成分や製法等に軽薄さが否めない、蕪村とは名ばかりだったから、蕪村を己が精神の一部として尊敬してやまぬだけに、安易に蕪村を名乗る酒会社に反感と嫌悪のみを抱いた(飲んでみたらおいしいのかもしれないが)…唐突に、若い奴が思いつきで始めたばかりのやっつけ仕事ばかりで音がうるさいだけの下らない居酒屋での不快感を思い出し…元々焼酎は舌に馴染まぬのもある…結局、黒麹全量仕込常圧蒸留と云うこだわりらしき高千穂なる麦焼酎を選ぶ…すると、香り馥郁たる其れはスダチなぞを絞るには惜しい、其れ自身のみで十分完成している本格麦焼酎だと思ったが、だからこそスダチの風味も存分に生かしてくれる懐の深さを酒自体が湛えているのは望外の喜びであった…愛用の飴釉蕎麦猪口(表に茗荷絵の掻き落とし、内側の釉のムラがうっすら白滝が落ちるようで、まだ見ぬ高千穂峡を想起させつつ)スダチ半個絞り、高千穂を半分注いで、同量の炭酸を投入…折しも冷気を備えた初秋の天上大風、闇夜の中を右へ左へ大暴れする大凧を夢想しながら、こってり煮込まれた牛筋をつまみつつ、スダチをまとった高千穂を嚥下すると酔いの深みが目線よりも上に来て頭を沈め、次はスダチを入れずに真率に味わいたいと思う。
政局放談…
オリンピックでも政権の無能無策がごまかせないと知るや、マツリゴトの本家本元は俺だとばかりに、政策の立案・実施と云う本来の仕事をおっぽり投げて自ら権力闘争と云う演劇をぶち上げて衆目をごまかす機を見て敏な手練手管だけは胸糞悪いほど御立派、そして其の手口が民衆に見透かされてもなお、其の分かり易さの効果に期待するだけの無駄に肝の据わった政権の悪質な傲岸不遜に愚かしくもきちんと対応してしまうほどまんまと現実から目を逸らされて権力闘争劇と云う虚妄にのめり込む選挙民の暗愚と云う共演もまた紋切り型をとうに超越した反吐が出る自作自演の田舎歌舞伎に、暗澹たる気分である…そうした幼稚なマツリゴト劇でてんやわんやな日本のどさくさに紛れてロン毛化した小室帰国と云う珍事まで差し込まされて馬鹿馬鹿しさが極まる来週である…其れはうつけの演技で会見の時はこざっぱりと美丈夫ぶりを披露するつもりなのか其れともふてぶてしいうつけを通すのか見物ではあるが…どのみちあの憲法草案を自己批判して棄却しないならば自民党が派閥ごとに如何なる政見を述べようが全て×であるが…せめて高市以外なら御の字だろう…四人の候補者らが森友と原発の踏み絵を踏まされる異端審問の背後に君臨する枢機卿安倍と其の教団経団連の影を見せつけられて一体何が面白いのか…其れにしても野党がだらしないとか弱いとかよく批判されるが野党を非力にしているのは有権者だから野党の非力を野党に責めてもお門違いもいい処で、国会ではわりかし野党もまっとうな政策論議もしているのにテレビや新聞では野党が自民党の不祥事追及している処ばかり取り上げられるからとは云え…さすがに此のところの野党の怠慢?無能?には不甲斐なさを禁じ得ず…此の一年半、自公のコロナに対する無能無策が四回も五回も露呈しているにも関わらず、自公と対照を成すような、自公の対症療法的な小手先な対策とは一線を画すような、感染症の根本に根差した目覚ましい対策立案の大々的な発表と其れによる自公政権への徹底批判を期待していたが一向にそういった物は出てこず、提案される事は自公に毛が生えたようなちょろい対策ばかりで、自公と同じように、感染症が蔓延した後の病院や経済支援の拡充ばかりで未来への投資にならない金のバラマキに終始し、感染症自体を最小限に抑えるような対策(国内線飛行機、新幹線停止、感染都市の封鎖、検査と隔離、通常経済から感染時経済への就業体制移行の構想、中国並みの大規模一括検査体制への設備投資等々…)を前面に出した根本対策を確固たる信念を持って出す事は無い暗愚の側面では全く自公と同じムジナとなっている事には失望を禁じえなかった…衆院選を前にしても政局のキャスティングボードをまんまを自民党に握られて後塵を拝するようになってやおら慌てて小出しに政策アピールしているようであるが…衆院選の期日はある程度決まっているのだからどうして其れまでのたくさんある時間の中で政権奪取後の政権構想や政策を練り込んでいなかったのか、昨今の一夜漬け的な小粒の政策発表にはさすがに小生も唖然とする…其れにしても覇権主義中国との対立構図が領土問題において台湾に次ぐ現実感が半端ない日本において安保法制破棄を謳って支持が得られると思っているのか…コロナ以降の野党の体たらくを見ていると、手ぶらの弁説と外交のみで、政治巧者の中国と渡り合えるようにはとうてい思えないが…だからこそ事態を先鋭化させない匙加減で隠密裏になおかつそれとなく分かるように戦備えや同盟強化に努めるのが安保法制の主旨…コロナ対策もうまくやれないくせに敵基地攻撃などと喧伝する高市如きは論外だが…安保法制に関する小生の立場は数年前に明確にしており要するに容認…どう考えても今のご時勢、アメリカは日本を防衛するが日本はアメリカを防衛する義務はないでは通るまい…両国とも議会承認と云う留保付きだから、NATOほどの自動的な軍事同盟ではないとは云え…其の意味では小生は国民民主党の立場と意見を同じくするのだろう…安保法制は賛成、しかし自民党の憲法草案と其れに立脚した様々な反民主主義的国家主義的政策には反対、と云う…しかし立憲も此の安倍菅政権の9年間の長い年月の間、しれっと安保法制に関しては国民民主党と歩調を合わせて修正しておけばよかったものを…そうはできなかった経緯は小生も知り尽くしているとは云え(国民民主党は旧民主党の中で、反自民且つ安保法制賛成と云う立場で国家主義者都知事小池を担ぎ出し…其の事がリベラルの潔癖症を顕在化させリベラルの自滅的純化路線が先鋭化して立憲と希望の党に分裂して共に弱体化して今に至る…)…しれっと安保法制を飲み込めない、リベラルにありがちな立憲の潔癖症が、結局自らを自壊に導く…其のシステムにいい加減目覚めて、清濁併せ呑むリベラルの登場を枝野に期待していたが純化路線がアイデンティティ化しているようだからどうにも…そこんところは自民党を見習ってもらいたいものだ…けれどもまかり間違って高市が勝てば自民党はますます安倍院政による保守強硬国家主義路線へと純化統制が作動するのかと思うと…河野、岸田には健闘を祈る…
次回は10月17日です。
次回は10月17日です。
無題
記事の題名を決めるのも億劫になって来たので、此れからは無題で貫き通す予感…此のブログの終わりの始まりはとうの昔に始まっている低空飛行…最早思考の体裁のみならず構文を整理するのも儚く潰えて其のまま思念の無気力な垂れ流し…其の昔…朝の満員通勤列車に乗っていた時には、年に何度か、とりわけ年末や年度終わりに立て続けに起こる電車への飛び込み自殺に、列車内や駅構内で遭遇していたものだが…其の時には、自殺するのは自由だが自殺するなら他人に迷惑かけないようにしてくれよと自殺者の内面を一切顧みる事無く自殺者の振舞いを内心罵倒していたものだが…今になって其の内面を慮る訳ではないが今となっては…文字通り命がけで意を決した人間の実践に思いを馳せるようになり…一人の生き物が勇を鼓して其の身が無残に四散するのも構わず自決したのであって、其の事に比べたら、漫然と通勤電車の詰め込まれて其の身を移動させているだけの人間が職場に着く時間に多少遅れる事など屁のようなものではないか、たとえ数万人に影響が出ようとも、多様で複雑な自然的社会的背景諸共に自ら命を絶った者の決然たる行為が、日常の延長に過ぎぬ些末な文句の表現対象になるなどとはあまりに烏滸がましいので、電車遅延の如きは小事として甘受すべきではなかろうか…たとえ日常を生き抜く事も容易ならざる精神の飛躍を要するとしても、そうであるなら猶更生の日常を切断させた飛躍をも肯定すべきではなかろうか…そして一人の生き物が決然と自らの身体並びに命を四散させたのだから、其れを回収する当局の個人には陰惨な体験が強いられようとも、其れも甘受すべき事柄ではなかろうか…と、飛び込み自殺者による交通インフラの一時的な麻痺と其れを引き起こした主体者に対する寛容の気分が醸成されている…無論、国家と資本により自殺に追い込まれた事実上の他殺を容認するものではないにしても、少なくとも自殺者により多少社会インフラが麻痺しても其れを迷惑だと切り捨てる殺伐とした偏狭への執着は溶解し、事情はどうあれ、社会悪による結果であったとしても其れへの義憤は飽くまで事後的な動機として、兎も角も飛び込み自殺を成し遂げた者への、有意味の領域で称揚するでもこき下ろすでもない、無意味な敬意が芽生えるのであった。
夏の終わりに思う事は…老いのせいなのか今年はレモンサワーなるものに触手をのばしてしまったが…此の飲料…唐揚げとか焼き鳥などの脂っこいオカズにはスッキリして後味よろしく合うが…腹を満たした後、だらだら酒を飲み続けるため豆やチーズなどをつまむには何か調子が狂って、要するにツマミには合わない事が判明しレモンサワーとは縁を切る事になった。先週はテレビでまた風立ちぬを鑑賞してしまい、したたか感動した訳だが…そうすると自ずと庵野監督の事に思いを馳せ…思えば旧劇場版はゼーレの思惑やサードインパクト云々と見かけ上は色々あったにしろ結局は全てシンジの主観の閉域内部に終始し、其の外部に逸脱する事は無く気持ち悪いという捨て台詞を残して終わった訳だが…新劇場版破においてシンジが主観の閉域から抜け出して他者の存在を目指す=綾波を愛する段階に達し…其の事がニアサードインパクトを起こし…其れはゲンドウの思惑のようでもあったようだが…Qにおいて一旦他者との交流が開かれても他者との交流において自分の思い通りにいく訳ではない挫折を経験させた後に、シンエヴァにおいては、他者の思いを自らの意志で受け入れた上で他者に対して行動していくと云う、要するに人間の凡庸な社会的成長を無駄に壮大なドラマ仕掛けによって足掛け30年もかけて描いた、そして其の事は取りも直さず庵野氏が30代から30年もかけて60代になって所謂大人に達した軌跡でもあり、此の程度の成長に60代にならないと達する事ができなかったのかと云うバカらしさもありつつ、逆に30年もかけて此の凡庸な成長を成長できたのはやはり非凡な才能なのかとも思いつつ…もう一回くらいは映画館でシンエヴァを見たかったと云うのがこの夏のささやかな心残りである。他者を受容できないため、人間の意識を全て一体化させるため生物全体主義を目指したゲンドウ…其の手段のため生物を含む物理法則自体を破壊させる、そして其の核心的方法が自分と其の妻の分身の如きシンジと綾波との愛の成就という事で、愛と生殖と全体主義の表裏一体性を説く事も納得いったし、生物全体主義への抵抗として、人間よりもその他の生き物の種の存続に心を配るカヲル君ーカジ・リョウジのラインの設定もそつがなく思えたし、ニアサーによって部分的に物理法則が破壊された世界を元の物理世界に戻そうと、まるで除染のように奮闘するミサトと其の国際組織ヴィレ(意志?)と云う設定も含めて、だいたい其の内容は微に入り細に渡り説明責任を果たしていたように思えたから再度鑑賞する気持ちが失せたが…其れでもまだよく分からなかった処があるのかもしれないから。
次回は9月26日です。
夏の終わりに思う事は…老いのせいなのか今年はレモンサワーなるものに触手をのばしてしまったが…此の飲料…唐揚げとか焼き鳥などの脂っこいオカズにはスッキリして後味よろしく合うが…腹を満たした後、だらだら酒を飲み続けるため豆やチーズなどをつまむには何か調子が狂って、要するにツマミには合わない事が判明しレモンサワーとは縁を切る事になった。先週はテレビでまた風立ちぬを鑑賞してしまい、したたか感動した訳だが…そうすると自ずと庵野監督の事に思いを馳せ…思えば旧劇場版はゼーレの思惑やサードインパクト云々と見かけ上は色々あったにしろ結局は全てシンジの主観の閉域内部に終始し、其の外部に逸脱する事は無く気持ち悪いという捨て台詞を残して終わった訳だが…新劇場版破においてシンジが主観の閉域から抜け出して他者の存在を目指す=綾波を愛する段階に達し…其の事がニアサードインパクトを起こし…其れはゲンドウの思惑のようでもあったようだが…Qにおいて一旦他者との交流が開かれても他者との交流において自分の思い通りにいく訳ではない挫折を経験させた後に、シンエヴァにおいては、他者の思いを自らの意志で受け入れた上で他者に対して行動していくと云う、要するに人間の凡庸な社会的成長を無駄に壮大なドラマ仕掛けによって足掛け30年もかけて描いた、そして其の事は取りも直さず庵野氏が30代から30年もかけて60代になって所謂大人に達した軌跡でもあり、此の程度の成長に60代にならないと達する事ができなかったのかと云うバカらしさもありつつ、逆に30年もかけて此の凡庸な成長を成長できたのはやはり非凡な才能なのかとも思いつつ…もう一回くらいは映画館でシンエヴァを見たかったと云うのがこの夏のささやかな心残りである。他者を受容できないため、人間の意識を全て一体化させるため生物全体主義を目指したゲンドウ…其の手段のため生物を含む物理法則自体を破壊させる、そして其の核心的方法が自分と其の妻の分身の如きシンジと綾波との愛の成就という事で、愛と生殖と全体主義の表裏一体性を説く事も納得いったし、生物全体主義への抵抗として、人間よりもその他の生き物の種の存続に心を配るカヲル君ーカジ・リョウジのラインの設定もそつがなく思えたし、ニアサーによって部分的に物理法則が破壊された世界を元の物理世界に戻そうと、まるで除染のように奮闘するミサトと其の国際組織ヴィレ(意志?)と云う設定も含めて、だいたい其の内容は微に入り細に渡り説明責任を果たしていたように思えたから再度鑑賞する気持ちが失せたが…其れでもまだよく分からなかった処があるのかもしれないから。
次回は9月26日です。
