点在する系譜編「the beach boys/pet sounds(1966)tocp-3322」
と、思ったが、駄目だ、書けない…今週はもう精魂尽き果てた…課題である蕪を彫った盆に自分の銘を刻むと、彫りと書きは精神の同じ箇所を浪費するのか、もう、何ぞ書く気は全く起きぬ…それでも、むしろ、それゆえこそ、後頭部にあの曲の残響がいつまでも沁み付いて反復され、書かざるのを許さぬ…書きたくないのに、今は書ける状況にないにも関わらず…だいたい、あの、ティンパニーだか何だかの、ロックドラムからも、播種のように解き放たれてしまった打楽器の、思いの外意表を衝く殺伐として毛羽だって獰猛な大柄な音の闖入は何なのだ…かといって耳障りだとかの事件性は恐ろしいほどの自然さで払拭されているのだ。リズムやリフや煽りを刻む役割から、鉈で割られたかのようにかっすりと下りて、無軌道に、楽曲即ち陽気な、イデオロギーの滑落した陽気なおしのデモ行進にどかどかと勝手に帆走してくる気安さと、ぞんざいなる獰猛…人を捕食しない限り事件にはならぬ野生動物の獰猛が、あの打楽器の、対象に左右されぬただぶち壊すためだけの打楽器による打撃であって。頭空っぽで腹いっぱいでのし歩く、数年ぶりに木の根元で目覚めてしまった無能で聾唖の三年寝太郎の能天気が、わらしべを、次々に宝に変えてくれる人との出会いは頻繁だろうと、その宝、流れ星燃え尽きて身につかない無償の、愛…結節しているはずの細胞群が牡丹雪が無音で降り積もるようにそれぞれ離れて行ってばらばらに、如何なる文脈からも解き放たれる時の奇蹟がここに、いつまでも軽く小さく、流れない粒の、粒粒の、流れにならない、ただ、ただ、流れにならない光が音であったとでもいうように…。きれいなメロディライン、美しいコーラスワーク、凝ったアレンジと実験の数々、不意に挿入される具体音の椿事…そんなことが、この音楽にとって何だというのだ…世界がこの世界のままに崩壊しきっている、そうした妙境を呈した絶後のこの音楽にとって、それらが、だからなんだというのだ。そんなことは糞の足しにもならぬ。それは聴くことでしか甘受し得ぬ、しかしそれを画で暴発させたフランシス・ベーコンの絵は、電気椅子に掛けられて通電中の絶叫せる枢機卿でもあって、ムンクの叫びでもあって…動機の無い不安にたっぷり包まれる夜空が明るい、それは白夜どころではない極彩色の空しみが、冷たくも暑くも無く至って涼しげで…恐ろしい。これほど恐ろしい音楽は無かった。この音楽を聴いて発狂せぬ者などいるのだろうか、いや、既に、狂っているという事を、専ら、聴くという、こちらの主体的行為に任せて、この音楽が告発する…この狂いこそは、社会社の承認によって裁定された正常と異常との対立によって大量生産される類の近代の産物ではなかった、絶対的な狂いとしか言いようがない。こうした言い方、即ち言表の不可能性でしか、至りようがないのである。そしてこの事実は肯定的に転倒しようもないから、そして、と、無意味につなげよう、そして、音楽も言葉も泡立つ。流れに浮かばないウタカタである。ペットサウンズは充実したうつろである、とか、そうした、引き裂かれた言葉でしか、どうしようもない。人間を駄目にすることで人間を試す虚ろである。発作がさらさらと小川である。みみっちいルサンチマンから断絶した、涼しい哀切がとどまらない音楽であり、しかも人間の独立をそそのかす残忍な哀切である。しかも、情けないへたれである。以前、点在性という事を、大雑把に、ジャーナリズムで承認された潮流の言説では説明しきれぬ突発性として紹介していたが、本来はそんな卑近な事で足りる事ではない。あの潮流(ビートルズ史観)は、説明しようと思えば言葉の暴力(歴史=雰囲気作り)を使って如何なる対象でも説明しようとするそうした節操なき音楽への侮蔑をリスペクトと称してあげつらい肯定におもねて政経におもねる渡世上手の、それはそれでしたたかな欺瞞に過ぎないのだが、点在性はそうした史観によっては説明つかぬ異常性というよりもビートルズ史観が楽天的に機能する説明の語法の基底を燃やし尽くす獰猛性が言語による理屈や理念ではなく芸術の表象という逃げも隠れもせぬあからさまな闇によって暴発するのを謂っている。この場合重要なのは音源のみならず如何に聴くかを問われるリスナーの生き様も関与するのだが当然ではある。もう、こんなことは事ここに至っては蛇足も蛇足だから書きたくも無いが…ブライアン自身の発言もあるからそれが説得力の一助となっているが、そんなことも、作者と作品との間には死という関係性しかないというブランショの言を引くまでも無く、ブライアンの発言「ビートルズのラバーソウルを聴いて感動してペットサウンズを作った」という逸話には何の意味も無い。それでも書くのは、この、点在性の中の点在性として、まさに作品として生誕してしまったあのペットサウンズでさえもラバーソウルの「影響」によって出来た、と承認することでビートルズ史観の最大最強の補強になっていやしないか、という取りこし苦労である。そんな馬鹿な、と、一笑に付してよい。聴けば分かる事だ。ペットサウンズとラバーソウル、やってることが全く違うじゃないか。影響されたがる人間奴隷にこれ以上気を使う必要は無い。かつてペットサウンズを聴いた発売元はこれは愛玩動物=ペットにでも聴かせる音楽だと揶揄したが、ペットサウンズが出来た時に、このペットサウンズ以外の音楽が全て、まさに制度が餌付けする愛玩動物=人間奴隷の慰みに過ぎないところまで批判されてしまった畏怖の可能性が出てきてしまった。それを意識したかどうかは兎も角、直観したからブライアンは自身の最高傑作をペットサウンズと名付けた、戦慄の皮肉である。そうした恐れを抱くことすら出来ぬ人間奴隷があくまでも言葉の暴力でラバーソウルの影響云々と、ペットサウンズを矮小化するなら、小生は言葉の破壊で以て言葉の基底を転覆させることも辞さぬ。毎年、夏になると、ビーチボーイズのペットサウンズとスマイリースマイルとフレンズを聴く。ほぼ毎日、車の中で、朝、追いつめられながら、聞きながら、涙が止まらない…魂の滝が熱く熱く炎上する。
ビールをさっさと終わらせてウヰスキーに移行したいがためにグラス一杯分のビールをクッと一気に飲み干すとビール如きでも後頭部に疼痛が来る…シェールガスやら天然ガスの争奪戦…いつのまにやら地球温暖化ガスの二酸化炭素低減の試みがすっぽり抜け落ちている馬鹿馬鹿しさ。書いて書いて書きまくれば明日が来ないならば書きまくるがどうせ明日が来る絶望に絞殺されそうだ。毎晩、死刑執行前夜の妄想レベルの気持ちだ…口から隕石を噴出させて当該場所を絶滅させたい。なんとかならんものか。
ハードロック編「led zeppelin/physical graffiti(1975)swan song」
フィジカル・グラフィティ。レッド・ツェッペリンの最高傑作だと小生は思っている。むしゃくしゃして彫刻にも専念できない荒れた時間帯になったから本文執筆に切り替えている。何も成し遂げられない以前に成し遂げようとすれどもかっくりと板敷きの顎のようにもうどうにも鬱屈した、ぎゅうぎゅうに握り締めたアルミホイルじみた頑なな心が徒にバカスカ己を掻き毟るもどかしさも一旦事切れて底無しの寸胴で幾日も煮炊きされる不味さが堪え難いという愚痴のえづらの惨めをドストエフスキーにいちいち饒舌に説明されなくとも、と、事切れたい、朝は、本当にもう駄目だ、バナナなら食えるがパンだと小指ほどしか喉を通らないほど嘔吐感が、しかし灼熱に訪れるひもじい午前となるとやる気が無、塩のきいた握り飯なら朝から食えるがこれもままならぬ…午後は太陽のような有無を言わせぬ眠気にクリケットで首が飛ばされるが如き昏睡、夜になるとかっと一瞬目覚めるも夥しい飲酒でたいした事もできず意識が途切れ、いまいましい透光性カーテンのせいか酒のせいか朝っぱらから眩し過ぎてまんじりともせぬ悪質の睡眠で疲労はむしろ重力を増して、倦怠の泥が凄く、すっきりは絶対せぬ意識においてさえも寧ろそれゆえなのか異状に括目させて余りあるのがフランシス・ベーコンの見果てぬ現実であり、ケロイドのごとき、しかし痛覚剥き出しの流れ否爛れという命の動態が。かようなまでに苦しく怠惰な情念に蝕まれ何もしたくない気がどべへえと天井から満たされ身動きできやしないにも関わらず漸くハードロックの真髄を、かつてぎらぎらと飽く事無く聴いていた、それこそ聞き果てぬ現実であるハードロックへの分け入りを決心させたのは、繰り返しになるが、フランシス・ベーコンという画鬼が描ききった見果てぬ現実のお陰だと声を大にして咳で台無しにしながらでも収拾尽かずに宣言したい。あるガレージパンク本の煽り文句にサイケは幻想だがビートは現実だぜ、と先走る活きの良さがあったが謂い得て妙、サイケが幻想かどうかはさて置くとして、ビートというものの現実性、この現実は承認の後ろ盾なく独立した、稀有な現実であり優れた最底辺の芸能のみが奮起しうる現実だというのは確かである。そう、確かに、ビートとは現実である。現実とは何だと問われようとも困るだけであるが、依存できる確かさではないのだけは確かだ…これ以上何が云えようか。かつて(中世~近代)、美学上、これ以上掘り下げようの無いこの様態、即ち表象と意志の間に、嫉妬に満ちた解釈概念が介入しようもなくついに表象と意志が合致したこの様態が美といわれたが、産業革命と政治革命という価値体系の転倒を促す動乱の最中、美が静的なる感動へと置いてきぼりの憂き目になるにつれて、歴史的なことは色色省くが、産業と民俗の徒花ともいうべき波乱の音楽としてのロックがリフないしはビートで以って美を駆逐する現実を爆音させた。じっくり感動する間もない気ぜわしい慌てと同時進行で聴き縺れる興奮へと。とりわけこれから語られるであろうハードロックという音楽こそが、現実というビートを現実化する不届き不逞をやってのけたのである。如何なる修飾も解釈も払拭するこのビートこの現実この自由この混沌この反復この生死を唯一形容しうる修飾語があるとしたら、もう、お分かりだろう、「荒み」だ。
構造や展開への納得性という、世の無意味への欺瞞と、その納得性が織り成す甘美の化けの皮の裏には自身の自由への臆病を糊塗するに必死な自由への嫉妬と自由へと突っ切る他者への脅しや宥めすかしといった惨めな悲喜劇ならまだましだが、とことん態度と意識が硬化してくると欺瞞と嫉妬への内的には痛い惨めによる裏返しとしての脅迫と宥めすかしという連鎖すらも断ち切れて、裏が無くなり、意識がミイラ化した結果(復活を願って死んでも死に切れぬから生きることも出来ぬ)、ただ反射的に脅迫と宥め透かしを繰り出す自動化が起動するという静かな日常民主暴走になるのだが、フィジカルグラフィティにおいては、もう、構造や展開が止揚しがちな全体的な(全体主義的な)別次元の印象やそれをなすための努力の焦りといったこせついた装飾が削ぎ落とされて、ビートがただただ湧出する、しかも、豊穣の恵みという、自由への欺瞞と宥めすかしである物語をがりがりに貧しく一切拒絶して、讃歌を掻き消す獰猛なる吼えと鳴きが無性にうるさい現実の自然状態(←啓蒙思想で云う処の)が沸騰する。法の有無など関係ない、現実というのは自然でしかないのである。そこでは、ついに、解釈も物語も自然の吼えへと回帰する。しかも、この音楽は決して統合した形式のような全体性ないし完結した様式を彷彿させないにも関わらず、はっきりした形が聴こえてくるのであるが、その事は、まさに私達がこの浮世で感覚する雑多なる形象に対して、それを感覚する瞬間の認識一歩手前のぎりぎりではそれらの形なり臭いなりを、有りのままとはいうまい、まさに無造作に雑に感覚し、統一されず解釈されずただばらばらに爛れている混沌即ち自由即ち現実を、叩きつけくるのである。此処で云う雑とは曖昧の意味ではあるまい。動いているのではない、流れているのではない、爛れているのだ。私達が感覚している形は解釈から解放されたから混沌へと回帰するのではなく、解釈もまた形でしかなくなる時に形が自然と自由に生起し混沌を呈する。だから常軌を逸して余りある。形とは有限の事としか言いようがない。形や有限もまた認識に過ぎないが、そういうことを言いたいのではない。雑こそが生成無為に目くるめく形である。これも、聴こえてくるとしか言い様が無い、聞くことしか出来ない、こんな、音楽の当たり前が成立した音楽が、如何に稀有な事か。啓蒙思想が恐れる処の、万人に対する万人の闘争という自然状態だが、社会実験というのが民主党政権下で少し流行ったが、一度、実験してみたらいいと小生は思っている。不謹慎とも思っていないが、調度よい場所があるではないか、福島第一原発の高濃度放射線地域…人間は外的に法が与えられないならば本当に自然状態になるのか、それとも内部で法を作り出すのか…そうであるならばこの社会実験では唯一、次の法が与えられるだろう、即ち、如何なる種類の法も作ってはならない、と。
表象と意志が合致すると自由という名の無が生まれるのみであり、従って絶対的に薄っぺらいし、頼りにはならない。それが現実であるとしか聞きようが無い。レッド・ツェッペリンin my time of dyingハードロック基底の最高最底辺の楽曲を奏し死にながら生きながらの必然でビートを純粋に生成した後、この後はもう、あれだ、水だ…ビートといっても既にくったり角が無く、ただ、ゆったりと、流れるわけでもなく留まるわけでもない、世界創造の神話的な混沌の水である…表情の無い水である…顔のない水である…そんな楽曲が滔滔と続く。さもあらん、と、思う。しかし、絶叫して白目で驚くべし、この水が、何と、燃え出したのである…そう、それこそ、ザ・フーの音楽だ。世界の始まりにして終わりの水が燃える時、ザ・フーの音楽が聞こえてくる。ハードロックが、聴こえてくる。始まりの水とは混沌にして興奮と獰猛の水であり、終わりの水とは認識にして感動と協調の水である…。独立の水と奴隷の水、とまで言い切るつもりはないが、いずれにせよ、分かち難い水である…水が燃える、その意味が分かるだろうか。これは、比喩でも何でもない。とにかく焦りながら、自分が破滅する前に自分諸共でもいいから共感だけは破壊しなければならない。
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