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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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点在する系譜編「the beach boys/pet sounds(1966)tocp-3322」



と、思ったが、駄目だ、書けない…今週はもう精魂尽き果てた…課題である蕪を彫った盆に自分の銘を刻むと、彫りと書きは精神の同じ箇所を浪費するのか、もう、何ぞ書く気は全く起きぬ…それでも、むしろ、それゆえこそ、後頭部にあの曲の残響がいつまでも沁み付いて反復され、書かざるのを許さぬ…書きたくないのに、今は書ける状況にないにも関わらず…だいたい、あの、ティンパニーだか何だかの、ロックドラムからも、播種のように解き放たれてしまった打楽器の、思いの外意表を衝く殺伐として毛羽だって獰猛な大柄な音の闖入は何なのだ…かといって耳障りだとかの事件性は恐ろしいほどの自然さで払拭されているのだ。リズムやリフや煽りを刻む役割から、鉈で割られたかのようにかっすりと下りて、無軌道に、楽曲即ち陽気な、イデオロギーの滑落した陽気なおしのデモ行進にどかどかと勝手に帆走してくる気安さと、ぞんざいなる獰猛…人を捕食しない限り事件にはならぬ野生動物の獰猛が、あの打楽器の、対象に左右されぬただぶち壊すためだけの打楽器による打撃であって。頭空っぽで腹いっぱいでのし歩く、数年ぶりに木の根元で目覚めてしまった無能で聾唖の三年寝太郎の能天気が、わらしべを、次々に宝に変えてくれる人との出会いは頻繁だろうと、その宝、流れ星燃え尽きて身につかない無償の、愛…結節しているはずの細胞群が牡丹雪が無音で降り積もるようにそれぞれ離れて行ってばらばらに、如何なる文脈からも解き放たれる時の奇蹟がここに、いつまでも軽く小さく、流れない粒の、粒粒の、流れにならない、ただ、ただ、流れにならない光が音であったとでもいうように…。きれいなメロディライン、美しいコーラスワーク、凝ったアレンジと実験の数々、不意に挿入される具体音の椿事…そんなことが、この音楽にとって何だというのだ…世界がこの世界のままに崩壊しきっている、そうした妙境を呈した絶後のこの音楽にとって、それらが、だからなんだというのだ。そんなことは糞の足しにもならぬ。それは聴くことでしか甘受し得ぬ、しかしそれを画で暴発させたフランシス・ベーコンの絵は、電気椅子に掛けられて通電中の絶叫せる枢機卿でもあって、ムンクの叫びでもあって…動機の無い不安にたっぷり包まれる夜空が明るい、それは白夜どころではない極彩色の空しみが、冷たくも暑くも無く至って涼しげで…恐ろしい。これほど恐ろしい音楽は無かった。この音楽を聴いて発狂せぬ者などいるのだろうか、いや、既に、狂っているという事を、専ら、聴くという、こちらの主体的行為に任せて、この音楽が告発する…この狂いこそは、社会社の承認によって裁定された正常と異常との対立によって大量生産される類の近代の産物ではなかった、絶対的な狂いとしか言いようがない。こうした言い方、即ち言表の不可能性でしか、至りようがないのである。そしてこの事実は肯定的に転倒しようもないから、そして、と、無意味につなげよう、そして、音楽も言葉も泡立つ。流れに浮かばないウタカタである。ペットサウンズは充実したうつろである、とか、そうした、引き裂かれた言葉でしか、どうしようもない。人間を駄目にすることで人間を試す虚ろである。発作がさらさらと小川である。みみっちいルサンチマンから断絶した、涼しい哀切がとどまらない音楽であり、しかも人間の独立をそそのかす残忍な哀切である。しかも、情けないへたれである。以前、点在性という事を、大雑把に、ジャーナリズムで承認された潮流の言説では説明しきれぬ突発性として紹介していたが、本来はそんな卑近な事で足りる事ではない。あの潮流(ビートルズ史観)は、説明しようと思えば言葉の暴力(歴史=雰囲気作り)を使って如何なる対象でも説明しようとするそうした節操なき音楽への侮蔑をリスペクトと称してあげつらい肯定におもねて政経におもねる渡世上手の、それはそれでしたたかな欺瞞に過ぎないのだが、点在性はそうした史観によっては説明つかぬ異常性というよりもビートルズ史観が楽天的に機能する説明の語法の基底を燃やし尽くす獰猛性が言語による理屈や理念ではなく芸術の表象という逃げも隠れもせぬあからさまな闇によって暴発するのを謂っている。この場合重要なのは音源のみならず如何に聴くかを問われるリスナーの生き様も関与するのだが当然ではある。もう、こんなことは事ここに至っては蛇足も蛇足だから書きたくも無いが…ブライアン自身の発言もあるからそれが説得力の一助となっているが、そんなことも、作者と作品との間には死という関係性しかないというブランショの言を引くまでも無く、ブライアンの発言「ビートルズのラバーソウルを聴いて感動してペットサウンズを作った」という逸話には何の意味も無い。それでも書くのは、この、点在性の中の点在性として、まさに作品として生誕してしまったあのペットサウンズでさえもラバーソウルの「影響」によって出来た、と承認することでビートルズ史観の最大最強の補強になっていやしないか、という取りこし苦労である。そんな馬鹿な、と、一笑に付してよい。聴けば分かる事だ。ペットサウンズとラバーソウル、やってることが全く違うじゃないか。影響されたがる人間奴隷にこれ以上気を使う必要は無い。かつてペットサウンズを聴いた発売元はこれは愛玩動物=ペットにでも聴かせる音楽だと揶揄したが、ペットサウンズが出来た時に、このペットサウンズ以外の音楽が全て、まさに制度が餌付けする愛玩動物=人間奴隷の慰みに過ぎないところまで批判されてしまった畏怖の可能性が出てきてしまった。それを意識したかどうかは兎も角、直観したからブライアンは自身の最高傑作をペットサウンズと名付けた、戦慄の皮肉である。そうした恐れを抱くことすら出来ぬ人間奴隷があくまでも言葉の暴力でラバーソウルの影響云々と、ペットサウンズを矮小化するなら、小生は言葉の破壊で以て言葉の基底を転覆させることも辞さぬ。毎年、夏になると、ビーチボーイズのペットサウンズとスマイリースマイルとフレンズを聴く。ほぼ毎日、車の中で、朝、追いつめられながら、聞きながら、涙が止まらない…魂の滝が熱く熱く炎上する。

ビールをさっさと終わらせてウヰスキーに移行したいがためにグラス一杯分のビールをクッと一気に飲み干すとビール如きでも後頭部に疼痛が来る…シェールガスやら天然ガスの争奪戦…いつのまにやら地球温暖化ガスの二酸化炭素低減の試みがすっぽり抜け落ちている馬鹿馬鹿しさ。書いて書いて書きまくれば明日が来ないならば書きまくるがどうせ明日が来る絶望に絞殺されそうだ。毎晩、死刑執行前夜の妄想レベルの気持ちだ…口から隕石を噴出させて当該場所を絶滅させたい。なんとかならんものか。

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ハードロック編「led zeppelin/physical graffiti(1975)swan song」



フィジカル・グラフィティ。レッド・ツェッペリンの最高傑作だと小生は思っている。むしゃくしゃして彫刻にも専念できない荒れた時間帯になったから本文執筆に切り替えている。何も成し遂げられない以前に成し遂げようとすれどもかっくりと板敷きの顎のようにもうどうにも鬱屈した、ぎゅうぎゅうに握り締めたアルミホイルじみた頑なな心が徒にバカスカ己を掻き毟るもどかしさも一旦事切れて底無しの寸胴で幾日も煮炊きされる不味さが堪え難いという愚痴のえづらの惨めをドストエフスキーにいちいち饒舌に説明されなくとも、と、事切れたい、朝は、本当にもう駄目だ、バナナなら食えるがパンだと小指ほどしか喉を通らないほど嘔吐感が、しかし灼熱に訪れるひもじい午前となるとやる気が無、塩のきいた握り飯なら朝から食えるがこれもままならぬ…午後は太陽のような有無を言わせぬ眠気にクリケットで首が飛ばされるが如き昏睡、夜になるとかっと一瞬目覚めるも夥しい飲酒でたいした事もできず意識が途切れ、いまいましい透光性カーテンのせいか酒のせいか朝っぱらから眩し過ぎてまんじりともせぬ悪質の睡眠で疲労はむしろ重力を増して、倦怠の泥が凄く、すっきりは絶対せぬ意識においてさえも寧ろそれゆえなのか異状に括目させて余りあるのがフランシス・ベーコンの見果てぬ現実であり、ケロイドのごとき、しかし痛覚剥き出しの流れ否爛れという命の動態が。かようなまでに苦しく怠惰な情念に蝕まれ何もしたくない気がどべへえと天井から満たされ身動きできやしないにも関わらず漸くハードロックの真髄を、かつてぎらぎらと飽く事無く聴いていた、それこそ聞き果てぬ現実であるハードロックへの分け入りを決心させたのは、繰り返しになるが、フランシス・ベーコンという画鬼が描ききった見果てぬ現実のお陰だと声を大にして咳で台無しにしながらでも収拾尽かずに宣言したい。あるガレージパンク本の煽り文句にサイケは幻想だがビートは現実だぜ、と先走る活きの良さがあったが謂い得て妙、サイケが幻想かどうかはさて置くとして、ビートというものの現実性、この現実は承認の後ろ盾なく独立した、稀有な現実であり優れた最底辺の芸能のみが奮起しうる現実だというのは確かである。そう、確かに、ビートとは現実である。現実とは何だと問われようとも困るだけであるが、依存できる確かさではないのだけは確かだ…これ以上何が云えようか。かつて(中世~近代)、美学上、これ以上掘り下げようの無いこの様態、即ち表象と意志の間に、嫉妬に満ちた解釈概念が介入しようもなくついに表象と意志が合致したこの様態が美といわれたが、産業革命と政治革命という価値体系の転倒を促す動乱の最中、美が静的なる感動へと置いてきぼりの憂き目になるにつれて、歴史的なことは色色省くが、産業と民俗の徒花ともいうべき波乱の音楽としてのロックがリフないしはビートで以って美を駆逐する現実を爆音させた。じっくり感動する間もない気ぜわしい慌てと同時進行で聴き縺れる興奮へと。とりわけこれから語られるであろうハードロックという音楽こそが、現実というビートを現実化する不届き不逞をやってのけたのである。如何なる修飾も解釈も払拭するこのビートこの現実この自由この混沌この反復この生死を唯一形容しうる修飾語があるとしたら、もう、お分かりだろう、「荒み」だ。

構造や展開への納得性という、世の無意味への欺瞞と、その納得性が織り成す甘美の化けの皮の裏には自身の自由への臆病を糊塗するに必死な自由への嫉妬と自由へと突っ切る他者への脅しや宥めすかしといった惨めな悲喜劇ならまだましだが、とことん態度と意識が硬化してくると欺瞞と嫉妬への内的には痛い惨めによる裏返しとしての脅迫と宥めすかしという連鎖すらも断ち切れて、裏が無くなり、意識がミイラ化した結果(復活を願って死んでも死に切れぬから生きることも出来ぬ)、ただ反射的に脅迫と宥め透かしを繰り出す自動化が起動するという静かな日常民主暴走になるのだが、フィジカルグラフィティにおいては、もう、構造や展開が止揚しがちな全体的な(全体主義的な)別次元の印象やそれをなすための努力の焦りといったこせついた装飾が削ぎ落とされて、ビートがただただ湧出する、しかも、豊穣の恵みという、自由への欺瞞と宥めすかしである物語をがりがりに貧しく一切拒絶して、讃歌を掻き消す獰猛なる吼えと鳴きが無性にうるさい現実の自然状態(←啓蒙思想で云う処の)が沸騰する。法の有無など関係ない、現実というのは自然でしかないのである。そこでは、ついに、解釈も物語も自然の吼えへと回帰する。しかも、この音楽は決して統合した形式のような全体性ないし完結した様式を彷彿させないにも関わらず、はっきりした形が聴こえてくるのであるが、その事は、まさに私達がこの浮世で感覚する雑多なる形象に対して、それを感覚する瞬間の認識一歩手前のぎりぎりではそれらの形なり臭いなりを、有りのままとはいうまい、まさに無造作に雑に感覚し、統一されず解釈されずただばらばらに爛れている混沌即ち自由即ち現実を、叩きつけくるのである。此処で云う雑とは曖昧の意味ではあるまい。動いているのではない、流れているのではない、爛れているのだ。私達が感覚している形は解釈から解放されたから混沌へと回帰するのではなく、解釈もまた形でしかなくなる時に形が自然と自由に生起し混沌を呈する。だから常軌を逸して余りある。形とは有限の事としか言いようがない。形や有限もまた認識に過ぎないが、そういうことを言いたいのではない。雑こそが生成無為に目くるめく形である。これも、聴こえてくるとしか言い様が無い、聞くことしか出来ない、こんな、音楽の当たり前が成立した音楽が、如何に稀有な事か。啓蒙思想が恐れる処の、万人に対する万人の闘争という自然状態だが、社会実験というのが民主党政権下で少し流行ったが、一度、実験してみたらいいと小生は思っている。不謹慎とも思っていないが、調度よい場所があるではないか、福島第一原発の高濃度放射線地域…人間は外的に法が与えられないならば本当に自然状態になるのか、それとも内部で法を作り出すのか…そうであるならばこの社会実験では唯一、次の法が与えられるだろう、即ち、如何なる種類の法も作ってはならない、と。

表象と意志が合致すると自由という名の無が生まれるのみであり、従って絶対的に薄っぺらいし、頼りにはならない。それが現実であるとしか聞きようが無い。レッド・ツェッペリンin my time of dyingハードロック基底の最高最底辺の楽曲を奏し死にながら生きながらの必然でビートを純粋に生成した後、この後はもう、あれだ、水だ…ビートといっても既にくったり角が無く、ただ、ゆったりと、流れるわけでもなく留まるわけでもない、世界創造の神話的な混沌の水である…表情の無い水である…顔のない水である…そんな楽曲が滔滔と続く。さもあらん、と、思う。しかし、絶叫して白目で驚くべし、この水が、何と、燃え出したのである…そう、それこそ、ザ・フーの音楽だ。世界の始まりにして終わりの水が燃える時、ザ・フーの音楽が聞こえてくる。ハードロックが、聴こえてくる。始まりの水とは混沌にして興奮と獰猛の水であり、終わりの水とは認識にして感動と協調の水である…。独立の水と奴隷の水、とまで言い切るつもりはないが、いずれにせよ、分かち難い水である…水が燃える、その意味が分かるだろうか。これは、比喩でも何でもない。とにかく焦りながら、自分が破滅する前に自分諸共でもいいから共感だけは破壊しなければならない。

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休載しながらも絞り出す

やはりこの時間からだと魂の慟哭が上ずるような真剣味ある、己が追い込まれるが如き堅固な文章なぞ書けぬ。故に此度は休載いたしたく候。内的にはついにそろそろハードロック編が始まる兆しが頭を擡げ…フランシス・ベーコンの、見果てぬ夢ならぬ見果てぬ現実=人間ともいうべき歪みの、叫びの強靭なる粘りの荒みきった高速画像…どこまでも言葉が上滑りする駄目な、もどかしい今なのでとてもじゃないがベーコンの浅すぎる戦慄を書ききることなどできないが否が応にも至高の芸術を招来して止まぬ…統制と整理との相対的関係ではなく比較を絶して、ありのままが絶対的なる乱調であり混沌である人間というものを描いたベーコンに喚起されて久方ぶりにレッド・ツェッペリンを再聴…沸沸とハードロックという獰猛かつ凶暴が現実の顔をして、肉薄するが、まだ、熟成ならぬ腐乱が必要…先週書いた自民党の憲法草案についての訂正兼補足…教科書的な事ですけれどもブルジョア革命以降に成立した立憲主義、という記述をしてしまったがちょっと飛躍しすぎた。ブルジョア革命後に成立したは、フランスの権利章典やアメリカの独立宣言にあるような自由主義的人権宣言であり、そこでは、法以前の正当性として個人の尊厳と自由の確立が明確に謳われており、社会契約説は省くが兎も角個人の自由を守るための必要最少悪としての国家、という位置づけである。要するに、all for one(みんなは一人のために)であり、one for all(一人はみんなのために)という思想は明記されない。したがって、フランスやアメリカでは、個人の自由や権利が国家から損なわれる場合は、革命権あるいは抵抗権という言葉で、その国家を打倒ないしは改変する権利を法以前の明証性のもとに記述している。実力による封建領主の駆逐とそこからの独立を果たした歴史的経緯によるのだろう。一方、近代後進国ドイツや、ドイツをお手本にした日本ではそうしたラディカルな歴史を経ない修正主義的な折衷案的な経緯があったため、立憲主義をとっている。要するに、all for one(みんなは一人のために)、且つone for all(一人はみんなのために)、である。よく学校の教室に掲げてあるやつである。この立憲主義は当然ながら矛盾を抱えているため時代によってどちらかに偏る振り子運動から免れないといいたいところだが歴史を見るならば圧倒的に、one for all(一人はみんなのために)に偏りがちである。なぜそうなのかを歴史的に説明するのは、もう、いいだろう。問題は、これからである。したがって立憲主義国家においては革命権や抵抗権は明記されず意識されていないのもあって、人間よりも国家という概念にリアルを感ずる国家主義政党自民党などがしれっと、表現の自由という、個人が持ちうる最も無力かつ肝心要なる抵抗権ないしは革命権の核となる原理までもを、狡猾に払拭したがる。もっと恐ろしいのは、こうした立憲主義国家においてはそもそも表現の自由を欲するが如き者が少数であり、民主的多数派は表現の自由が制限されたところで不自由も侮辱もかんじないような封建的奴婢である事である。絶望的である。テレヴィで讀賣の元記者が愚かなことをいって自民党案を擁護していた…その元記者が大学で学生に講義するに、「公益および公の秩序に反することを認めないってことで反対される方は戦前の事を思い浮かべるようですが、それは時代錯誤でしょ?今は違うでしょ?憲法でそう規定したからと言って今の時代、戦前のようになるわけないじゃないですか。公益および公の秩序に反することで思い浮かぶのは?そう、オウム真理教でしょ。そういうのを取り締まるのにも必要なんですよ。高知新聞の人とは議論が平行線になったけど、結局、人間をどこまで信じられるか、ということなんじゃないかな」いったい…どこまで…どこまで…下劣なのだろう。どす黒い怒りの焔が己自身を焼き尽くすようだ…。現在と、戦前と、いったい何が違うというのか。文章の読解力がなさすぎだろう。草案を日本語としてそのまま素直に読む限り明らかに治安維持法の文言と同義じゃないか。それを憲法で承認するというのか。現行法でオウム真理教が裁けないというのか。全くわけが分からない。人間を馬鹿にしきった下手くそなゴマカシである。人間が信じられないから法というのがあるんじゃないのか。ルソーやモンテスキューくらい、元記者なら読んどいてくれよ。人間とは信頼が破たんすることがあるのだから法という明文化によって誤解なきよう明記する必要がある。その法が、明らかに、表現のプロパガンダ統制を明記しようとしているのに、意味的には自民党草案はそうした統制にもとれるけれども自民党も含めて僕たち現代人は良識(何だそれ?)があるから実際には戦前のようなことはしないよ、と、なにゆえに分別顔で厚顔無恥にも屈託なく言えるのか。アドルフ・ヒトラーが何度も何度もユダヤ人を絶滅させると著書と肉声ではっきり明言しようとも、選挙戦略で言っているだけで政権とったらいやまさか本当にそんなことはしないだろう、とたかをくくって、ワイマール憲法のくびきをはずし戦車作りまくって不況のどん底から救ってくれたヒトラーを支持したドイツ国民。その事実も、現在は戦前じゃないから、といって一笑に付すのか。過去の事実も直視できない記者が現代の何を報道できるのか。腐った妄言も甚だしい。一体、人間において何が、戦前と現在で変わったのか、元記者は説明できるのか。どんな根拠で人間を信じられるのか。その信頼が裏切られた時の社会的悲惨に人間が追い詰められた深刻を想像したことはあるのか。想像などしなくていい、学んだことはあるのか。そうした悲惨を惹起した責任を、元記者には取れるのか。国策報道でもう一度甘い汁を吸いたいのか。お上から言われたことをそのまま報道する方が何も考えなくてすむから楽でいいとでも?子供だましにもならない、何重にも狂っている、あの、定年後に大学なんかでおしゃべりしている元記者は。高知新聞の記者は、小生が述べたような当たり前のことを主張。土佐は自由民権運動発祥の地である。明日が来る。反吐が出そうな、最悪。くそ。くそっ。最強伝説黒沢、復活の噂あり。本通りの裏に一本入った入った通りはカレー屋激戦区といっていい、カレー通りである。今日、雨の日曜日、このまま一日が終わるのにむしゃくしゃして、ミモザのドライフラワーを買いに珍しく日曜日に外出。いつもなら日曜日は安息日ならぬ絶望の喪に服する日なのだが…続行しているカレー屋開拓。今日で5軒目。テイクアウトの、速さと安さが売りのところ。皿の置き方などががしゃがしゃ耳障りで客への配慮が足りず、店員の厚化粧のおばさんや店の雰囲気、安く荒んでいる。向かいにゲームセンターがあるからか。味は、良くも悪くもなく万人受けの辛さ。続々と、5、6人の男グループで背の低い若い貧相な、V6みたいな人々がゲーセンに入店。V6や関ジャニは年をとるごとに風貌が小さい貧相になる。なんか柄の悪い絶叫が聞こえるなと思ったら、艶消し黒塗の街宣車、誠臣塾と大書してある。何を言っているのかマイクのせいで分からぬが若い男の絶叫だった。憂国の士が、何事にも無関心な市民を叱咤している。黄色い嵐のようなミモザが売り切れ、替わりに吐血のごとき鶏頭のドライフラワーを連れて帰る。いつか、旨いカレー屋を紹介します。

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茶会記更新のお知らせ

荒み茶会記第一回~荒みの世の始まり~ を、茶会記に正式に掲載できました。以前はブログにのっけただけで未完成だったのを、ようやく、やり遂げた成果となった。今週も何とか一つ、課題をやり遂げた。また一つ、王道なきロック史に近づいた。また同じことをいうが、フランシス・ベーコンの絵への渇望が甚大だ…画集だけでは満足できぬ、本物が欲しい…ロックという音楽が理不尽にも絵画になったならばそれがフランシス・ベーコンだろう。牧野邦夫という画家の絵もすさまじくよい…戦時中の和製ブリューゲルが壇ノ浦の合戦を描いた時の惨劇リアルエロティシズムが全く新しい解釈だった…30年前の雑誌で既に老人だったから今はもうご存命ではなかろうが、藤井達吉という仙境の画人の絵も、よい…禍禍しくも妖しい黄泉の赤光に縁取りされた山水…焼けた鉄板地獄の上でひん曲がった枝を振り乱し踊り狂う紅梅の図…とはいえ数奇にかまけてばかりだったがこのところついに、「時局」が到来したようだった…自民党の憲法草案…表現の自由の条項に、看過できぬ文言が追記されていた…「公益および公の秩序に反する表現ならびに結社はこれを認めない」激甚なる怒りの沸点を久々に超えて思わず我を失う卒倒しそうであったがここは落ちついて、それでも、冷めやらぬ憤怒のわだかまりは否めず…思わぬ時局の到来に、そうした時局にがっつくさもしさに没入しはしゃぎたい欲求に直情したところで倒錯したマゾの惨めな手合いなのかもしれないがそれでも事を荒立てるに十分な事由があるだろう…自民党の改正案は、もう、明らかに、表現の自由は認めない、と言っているに等しい。立憲国家にあっては憲法とは代議制における権力行使者のやり口を制限するものであって、などという常識論はどうでもよい。多くの成文憲法を整備した近代諸国にあって基本的人権の天賦説を否定するものなどあり得ないし、それを考えても呆れてものも言えなくなるほどの封建性への回帰なのだが、いつの世でも権力は堂々とした態度であれば数百万の殺戮だろうがなんだろうが通せる、という昔ながらの思惑…えてしてファシストというのは経済政策がうまいものだ。かつてのアドルフもそうだった…札束を口にぶち込んでおいてものを云う気が失せたところで雁字搦めに縛りにかかるのがいつの時代でも彼らのやり口なのだから…即ち表現とはそもそも公益および公の秩序に反する事それ自体であって、そうでない表現はいわゆるプロパガンダに過ぎぬ、言わずもがなである…法によって承認されようがされまいが、表現は表現すればいいだけの話である。たとえば公務員は争議権が法によって承認されていないが、本当にやりたかったらやればいいだけの事だろう、人民の基本的権利は常に、承認されざる弾圧下の底辺から自力で(日本は別)勝ち取られてきた。しかし、国家が、この期に及んで、ついに、表現の自由を否認し弾圧に転じるは、国家の態度としては正直ではある。潔さすら感じるし、そういう意味では感服に値する。そういった潔さ感、割り切り感におもねるつもりは毛頭ないが…(「法とは常に最終的には権力の利益のために存在する」レーニンだったと思うが、出典を失念…)繰り返しになるが表現とは政経、芸能、諸科学といった分野に限らず現行秩序への批判と異議、破壊以外にあり得ず、民主主義と人権を現実化するための最低限の条件であり、絶対的に危うくも脆い、武力闘争の惨めから自らを自力で解放した唯一の人間の力である。現行秩序の追認と補強、宣伝は人間奴隷の憂さ晴らしが倒錯した悦びに過ぎぬ体制マゾの発露たる惨めなプロパガンダに過ぎぬ。分野は限らないとはいえ、これらは常にその本然上通底しており、もしそうでないといいきるならばあまりに楽天的犯罪的無知ゆえに一党派への太鼓持ちに成り下がる。政経、芸能、諸科学は通底しており相互貫入しているのだから如何なる表現も政治現場からの鉄の爪の標的になりうる…もう一つあるとすれば深山幽谷に自給自足の隠遁する風流趣味のみが安穏生存を許される。これまでのぎりぎりの、ある意味大人な感じの、理詰めで異物を排斥する強硬に偏らぬ立憲主義的な許容のされ方は、このご時世、人民にとっても国家にとっても生ぬるい欺瞞になってしまったのであろう。それほどまでに、もはや、立法、行政、司法の三権分立のみならず、国家、資本、消費の三権分立もすでに成り立たないばかりかこれらの結託と異物排斥がますます葛藤なくキツクなっているのだろう。その結果、人間のみが疎外されるという現状認識に、めらめらと、目覚めるしかないのだろう。国家資本主義(国家主導で資本をぶん回す、中国、ロシア型)と資本国家主義(資本主導で国家をぶん回す、アメリカ、韓国型)がブロック経済戦争状況で各国がこの二種に収斂し、やり合おうとも、この二種、同じ穴のムジナである。マグナ・カルタこの方ブルジョア革命が確立した立憲主義という、強固な原理に見えながら薄氷のような理念は(理念とはそもそもかように危ういものである。そういう危ういものに酔い、賭けるのが愚かにもしたたかな人間であった)、だれもが建前という衣服に過ぎないと分かっているにもかかわらず、衣服は人間ではないと当たり前のことを言いだした悪意ある馬鹿正直が、人間から衣服をはぎ取って猿に貶めようとしている。猿山の喧嘩…。それもよかろう、しかし、公益ならびに公の秩序、という文言、これも過去に幾度となく使い古されている手口だが、何の規定もできない、権力側の主観がいくらでも拡大解釈し適用できる危険極まりない文言である。無論、政府はそれを百も承知の、狙い通りである。要するに、憲法の承認を得て治安維持法の復活を可能にする文言である。表現は法の承認など関係ないとはいえ、治安維持法、これやられた日には、正直、キッツイぞ…理念の成果である権利はこわれものである。これを、壊れないように大事に守り続けたいのはやまやまだが、事ここに至れば、常にうっかり壊しながら、あるいは強力に壊されながら、自ら生み出さなければならない。諸君、時局が来た。とはいえ、書いてみると、どこにでも書いてあるようなことを書いた。

たこ焼きのたこに刺さらぬ爪楊枝

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感想文なき感想もまた一つの成果と

時制関係なくいたるところで追記している。件のミュージアムショップで購入した秋山祐徳太子の泡沫傑人列伝~知られざる超前衛~軽めのエッセイ読み物ゆえ一晩で読了。腐った素麺や腐ったラーメンを画廊にぶちまける、画廊で生きた子牛の首にナイフを突き立てその場で血飛沫屠殺、存在演劇と称して集客した上で舞台では1、2時間何も出てこなかった挙句に終わりのアナウンスするケージばりの過激な試みなどは兎も角として、前衛芸術から前衛芸能へと移り変わる事例をつぶさに知るに至る…欧米のようにパブリックな承認が得られない今、それはそれで好都合、絶好のチャンスとばかりに市井の道端でひっそり咲く突然変異のタンポポたらんとして生活になじみながらの異形の芸風へと生きながらえるのみ、そういえば織部もタンポポを好み、ダダカンことイトイカンジ氏はタンポポを主食としているとのこと、タンポポとはいえ日の本では在来種よりも西洋タンポポが繁茂する昨今ではあるが…泡沫性、という概念がよかった。パンクの一回性とは異なり、奇人変人の類ではなく、不意に突発しながら連綿と市井の中で芽生えては枯れ芽生えては枯れる草のような…うまく説明できないが、補足として赤瀬川氏の「奇人はブラックホールだが泡沫性は暗黒物質」という宇宙物理学的説明で合点がいった。飲んでも飲んでも酔いが深まらない、きりのない、浅瀬でしかちゃぷちゃぷできないもどかしさが、正調の古典派ピアノ協奏曲も奏でられ、瀬をはやむ転げ散るピアノ演奏…ゆったりと速く細やかで、印象や述語に辿り付かない不甲斐なさが、結局地平なんだと、耕作を忌避する不毛はゆとりが睥睨する豊かさから滑落する足掛かりの愚昧に託けて、どしどし、瀬をはやみ…書いて彫っていれば一日は矢のごとく過ぎ去るを痛飲、どこぞに行きたしと思えども懸念される人ごみと乗車率に辟易して結局家に蟄居する連休であり、そういえば明日は本当に休みなのか記憶が覚束なくなり記憶に頼る羽目になった己のうっかりぶりに今さらながらこてんぱんにのされ、びりびりと寒々しく苦しくおののいている、確認などしたくもないかさついた気持ちが捨て鉢な憎悪と怒りへと安く炸裂すればまだいいものを、それにしても過日訪れてくれた友人をもてなすにあたって黄色と緑色の春色尽くしでくだけた感じの茶会もそれとなく滑り込ませ、野の河原で摘んできた菜の花、散り方が思い切りよく客人来訪までには八割どっさり落花、野の花のあまりの潔さについていけない悲しみは以前もあったが忘れていてまた痛感させられ、なんぞ新しい言葉を、書きながら書けなければ必ずしも悪くはないにしても衰滅する一方、備忘のためメモランダムに、日々の思索を未熟なまま殴りつけているがそれを正書のように書き興す作業それ自体、今あるものをただ追認する形式のようで吐き気を催し衰弱免れぬのでメモ書きも当てにできないし且つ咄嗟の発想もないから何も出来ない。茶会後に訪れた現代美術館は面白かった。日本の70年代、と、大雑把に題した回顧展、その時代の政治、文化、風俗、前衛もろもろの状況をいっしょくたに展示する…昭和の絵師上村一夫の「同棲時代」の原画、ペン使い筆使いが水際立っており、拝む…もの派の方の、巨大な綿の塊のインスタレーションに正拳突きしていたら監視者に制されもしたが、興味深い当時の作品の数々…川の映像を撮ったフィルムを、同じ川面に映写するコンセプチュアルアートの、意表を突くほどの侘びの底辺や、装丁家だと思っていた粟津潔の、グランドピアノを燃やしながら鍵盤まで炎が来るまでぎりぎりまで熱い演奏続けるガッツあるフィルム…今となっては「時代」ということに収容されている味の、全然同時代でもないにも関わらず小生ですらどこか面映ゆい心地悪さのあるプロテストポスターや百家放斉の雑誌群の数々…寺山修二、天井桟敷、横尾忠則、赤瀬川原平、樺美智子、…時代のイコンへと遠ざかり…もう、たいていのことはなされている、そう思わせてくれないとこちらはやる気がしない、そういう意味で、待ちに待った閉塞感を現在にプレゼントしてくれた有意義な回顧展であった…比治山の現代美術館は自然の中腹にあり環境も四季折々すがすがしくてよいのでまた行きたい。今から、何とか、懸案事項の一つをやり遂げたい、特定の個人の方に向けたお手紙なので公表は差し控えるが、それを以て今週の成果としたい…過日列挙した課題をあらかた片づけないことには、王道なきロック史の再開が出来ない個人的な心情です。明日、本当に休みなのか…気がふれそうだ…ワイン飲みすぎた…こめかみが、こみかみに、鋲を撃ち込まれたように、ずっきんずっきん痛む。課題の一つである手紙も何とか走り書いて、一つ、果たした。ロック史に一歩近づいた。

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岩国行状記を胸の内にしまって

岩国への音楽、骨董、観光三昧から帰ってきて、その行状記を書こうとしたらやはり細密になりそうな己の業を何とか踏みとどまらせたいし、やはり午前4時過ぎまで飲んでいたから、命からがらうとうと高速で帰ってきて、意識がダルく…職場では脊髄反射で物語という撒き餌で保身するのに忙しく言葉を言うことは皆無、家で細君と訥々しゃべるのみで人との交流少ないからしゃべり言葉が出難いにしても、こたびは初顔合わせの人とも言葉を、即ち自分が考えてきたことに拠って立つ言葉を、いかばかりか話すことができ、抜本的に自分の思想が面食らうことはなかったがむしろ励まされるという稀有な体験もあり、山口のその現場ではその初顔合わせの人でさえも反骨の気を吐くに会って、経験や体験のもつ説得力をそぎ落とすのに執心する自分であってさえも、己の世間の狭さゆえの思想(=意志?)の狭隘や脆弱は否めないのを痛感する次第、多様性などという事をほとんど信じていないが…そして、かような機会を小生に与えてくれた友人に感謝する次第、喜ばしい夜だった…次回再会を胸に、己のなすべきことを粛粛とこなそう、心の刃を研ぎ澄ましておこう、それにしても源内焼二連絵皿、身も蓋もない椿事である。誠実でありたい、だからこそ、鬼にならなければならない、と、まだ、膝がくがく怯えながら、思う…出張茶会もやる予定でいたが出来事が盛り沢山、錦帯橋でのにわか骨董市で奮戦後に、さんざん骨董や古道具を目利きした後に己がわざわざ持参した骨董を披露するはあまりに厚かましく辟易されるが落ちなので此度は自粛した。週末にも別件の茶会を控えているのでそこで鋭意しっかりしようと思う。

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五合炊きの地獄

今週末もめっきり搾取され時間を奪われ骨と関節、筋肉の類が身も蓋もなく絞られ、再び立ち上がれぬように丹念に叩きのめされ、元元払底していたやる気が殊更に払拭、と、そこへ、シェーンベルグのグレの歌がNHKから滔々と溢れ返り、光が光速をやめてゆったりと流れ始める…しばし恍惚なれど、明日からの水牢生活を苦しく思い、少し進み始めていた山積の課題がまた、はたと、くったりと立ち止まり、続けられず、挫折がごり押してくるとは言い条、なけなしの無益の成果すらも此処に発表できず、炊飯器を三合炊きから五合炊きに変えたはよいが、計量カップで五回、米を掬い取るというのが、一杯、二杯、3杯目までは記憶が残るが、それ以降は途端に曖昧になり、もう、何合測り取ったかがすこぶる不明瞭で、釜に入れた米をまた温泉津焼の壺に戻し、また測り取るのだが途中で曖昧になってまた全部戻し、というのを延延繰り返す、ベケット的状況に陥り、米を五合測りとるのにまことに難儀する。

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「…」

時間があまりに無さすぎる、来週もゆえあって休載、次回は4月6日からです、まったく先行きが見えない、来週先輩の結婚式だがうまく出席できるか不透明過ぎる、もうどうしていいか分からぬ、徴用を拒絶できる理由=物語を虚構する努力に、すかさず萎える、むしゃくしゃする、いったいどこまで搾取されるのか、毎日毎日残業しろ休日出勤しろとののしられる、多数派のゆがんだ狂気にいつまでつきあえばいいのか、危機的状況と悪罵、目をひんむいた本気の怒りと閉所理屈しかやってこない、息切れで気道が炎上しそうだ、社会社の無根柢の悪意を焼き払うにはどうすればいいのか、楽しいことがすべて台無しに破壊される、焼く前に肉がたたかれるように全身の肉がたたかれてたたかれて疲弊しきっている、人間性と生活の質がどんどん転げ落ちて下劣化を辿る、後戻りできない下痢のように絶叫する、屑の…粉塵爆発!被害妄想…病だれの揺り籠…着火、着火、肉、チーズ、酒、半年ぶりに布団を干して冬用タイヤをノーマルに交換したのが肉の疲弊の内幕という落ち、もあって、大声は哄笑、

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「…」

嘆きの夜がやってきた。パブロ・ピカソの「泣く女」というのがあるだろう…あんな顔の気持ちだ、今は…またしても、命令者の意図は兎も角結果としての嫌がらせで土曜日、徴用に駆り出されて己の人生時間を搾取され足腰が立たぬほどへなへな。ほとんど惨めな吐き溜め状態になっているこのブログ…エチケット袋とかマナー袋とか長距離バスに備え付けてあるが要するに吐瀉袋ゲロ袋…肥溜めに沈む鬼瓦…くそ、この生ぬるさ、甘んじる無様…ファミレスの…チーズ イン ハンバーグかっ!くだらぬ、あまりにも。おぞ気だって疲れすぎて肌が過敏に毛羽立って眠れぬ夜、魂に沿う本はないんかと偶然手に取ったシモーヌ・ヴェイユが服従の美徳を説くのについていけず思わず投げつける…「墓石の臭いがする」と評してヴェイユをひどく嫌ったバタイユ…余裕のなさすぎる、切り詰めたギスギス生活で。見つめ続ける力で目先の蝋燭の炎が消えんばかりの目の据え方でぎっしり思う鍔迫り合いの切羽詰まりは…目の前の見えざる敵が小生の首根っこに手を掛け今まさに毎日じわじわ絞め殺さんとしている、目の前の見えざる敵を殺さないと自分が殺されるので、目の前の見えざる敵を殺しうる言葉を書くし、殺しうるほど音楽を聴きこんでいる…ということ…物騒な慌てぶりでしか生活せぬ。DEVOを切実に聴いている…意外にも真面目なバンドだ…そろそろロック史中興すべきか。目を離した時に限って転んでいるフィギュア…解説の荒川静香がいちいち技の名前を挿入してくる解説の仕事を忘れて思わず「すっごい…」とつぶやいたのがオンエアされるほどの、キム・ヨナの演技…

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「…」

結局日本酒越乃寒梅による意識のぐらつきの助けを借りて、時間がないという典型的言い訳に甘んじる惨めを肴に文字を嘔吐する始末が嫌ならもう目をそむけた方がいい。語る対象のレコードのジャケットの写真を撮ってそれをパソコンで少し加工してウェブ上に載せるという作業だけでも、疲弊著しい昨今にあっては負担が物凄く、耐えがたいからロックについて書けやしないという下らない、幾らでも揚げ足取り可能な浅はかな言い訳がもう既に苦しい。腰を曲げての生活が楽だから何だかだんだん腰を曲げたまま生活している。腰を曲げて皿を洗ってそのままの姿勢で腰を曲げて洗濯物を洗濯機から取り出して腰を曲げて食い終わった食器を片づけて…と、家の中で家事をしていると断然腰を曲げた方が速やかな感じ、いったん曲げた腰を再びまっすぐにするという運動が無駄なものに思え、効率を重視するならば腰を曲げていた方が良いと思うようになる。こうやって老いていくとそのまま腰が曲がってしまうのだろうか…まだ早すぎるとはいえ…膝も痛い、膝の脂が足りない気持ちがして、動かすたびにきしきしと膝が磨滅する気がする。もう走り書きだ。毎日毎日、物語と云う飼葉に餌付けされた社会社の家畜どもに物語という餌をやり続ける毎日に腐るほどうんざり疲弊している。たまりかねて松山に海路逃避行。春の瀬戸内を高速船で渡る… 空も海も色をうしなう春霞光ふりつむ波の音もきえ やはり文化度が高い松山…意表を衝いてくる物品があるある。 瓦礫と更地があれば生きていける、そんな在野の荒んだリアルガイが今後どんどん出てくることを期待する。 くっそー寒蘭とかエビネとか、そんな園芸熱がこみ上げて来たぞーっ。鷺草とか…この堕落の泥沼の歴史的意味が君には分かるだろ。くっそー徹頭徹尾多数派(ボルシェヴィキ?)の心情をおもんばかるということができない。たとえその多数派が甚大なる悲惨をこうむっていようとも…何度でも書くが、地震&津波&放射線による悲惨を切実にとらえる多数派よりも、「嫌な奴や嫌な組織、設備、場所が死んでくれてせいせいするわ」とほくそ笑む、声なき声の少数者の事を思う。震災から2年経ってようやく、テレヴィで、相馬駒焼の事に言及するのを聴いた…それが片岡鶴太郎だった…松山観光港で出航を待つ、夕日の記憶がまだ鮮烈な夜七時頃待合でテレヴィを見ていて、ばかばかしく小さな慶事…鑑定団が震災関連の番組でつぶれて怒り心頭…救い難い生活の底でしぶとく生き延びてやる。車の保険の更新書類を書いてみる…何をどうすればいいのか何が説明してあるのか全く理解できない、保険の文章を読んでいると自分が犯される気持ちになる。ウヰスキーに移行…したたかのみ過ぎた…明日になれば、心底後悔するのは必定、もう酒なんか二度と飲みたくない、と毎朝思っている。惨めはいつだって底抜けだ。既にかなり気持ち悪い。頭が痛い。萩原朔太郎を読みたい。竹が生え りんりん竹が生え…どこにいった?朔太郎は…

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