夏バテと休載
困った時の実験音楽「jean dubuffet/experiences musicales(1961)man4871」
久方ぶりの雨も地方によってはお湿り程度の生温さじゃないがこちらはさめさめとぬれしょぼる。降っているという感じじゃなく、空気が汗かいているようなじめり。困った時の実験音楽…よく知っている、体験済みの日日の拷問と、こっちを選択したら早速やってくるだろう未知の拷問、どちらを選ぶのか、意志であれば未知の拷問を掴むのであろうが運命の巧みな揺さぶりの最も手強いやり口とは即ち懐柔、急進的な誉めそやしの稀有であって、人間悪い気はせぬそこんところの卑しさに付け入る事巧みな甘言ほど厄介なものは無い…かれんなる拷問のほうが自分の意志に反して反射的に抗いが生じやすいから寧ろ拷問は意志の支えになりうるが懐柔工作の甘ったるさは全く…攻撃的に常に緊張していた心を、不意にほだして、足元をすくってくる揺さぶりの巧みさに凄く翻弄され…意志を試してくる、意志というのが、本当に依拠できるものがきれいさっぱり更地にされた真平な只中で屹立するしかない峻厳を…神聖モテモテ王国読んでいたら、人間最後の欲望「尊厳」、とあった。肉の繊維を千切ってくる気ままに獰猛なチェロ、笛という楽器がリードやら管内構造との共鳴による音色発現によって立つという前提を端から無視して、笛の中に、素材や空気と共鳴せぬ獰猛な空気を野放図に送り込むと徒に毛羽立った空気の棒の音が掠れて、ぶおおぶおおぶおおぶおおすぴっぴ音階を拒否して聞こえるのであって、このお方、ジャン・デュビュッフェは画家であるが、彼の提唱した「生の芸術」云々は別途調べていただきたいが、(障碍者の絵画への評価の眼差し…)収集した民族楽器やらそれらを結合させた自作楽器を本来の楽器としての用途から解き放ちながら、珈琲豆を焙煎していると豆が爆破したような取り返しのつかなさで殺伐としたひょうきんを濃厚に粘らせ、周りの空気を巻き込む太い声を土足で突っ込んでくる知的野卑、儀式を踏み潰すほど内容の無いふざけた呪いの声を朗々と唸るフランスの義太夫この自由このコク。ノイズとか物音系とはいえど、評価の基準が粉砕されたさなかであっても、出来不出来というのがあるなあと感想させる。また失敗した。ああ、葉っぱ一枚うまくいかない。毎日葉っぱ一枚ずつなんとか彫ろうと思うが、それは兎も角、息と胸が時折苦しい…息が狭くなるというか、深い処まで吸えない感覚がたまにあるし、人間の心臓であるはずの自分の心臓が鼠の心臓のように小刻みに打ち生き急ぐような動悸に攻め立てられるのは気のせいなのか妄想なのかも分からない、胸につかえているのはある本を紛失してしまったこと、社会社への出頭の手持ち無沙汰を補う社会社用の鞄に忍ばせていた杉浦日向子先生の百物語、ふっと消えてしまってもおかしくない漫画だから致し方ないと諦めるしかないかもしれぬが、腑に落ちぬし、社会社の何処かに落としたとあれば証拠として弾圧されるならまだしも、想像を絶する辱めに吊るし上げられるのではと迷妄が止まらない。決して遠ざからない音、直ぐ間近で熱く臭い息を吹きつけてくる、下らないいかがわしさが秀逸の音楽である。内蔵臭いフランス語の音感が遺憾なく発揮されている。無茶苦茶に足を踏み鳴らすし、拳に違いない、鍵盤のぶっ叩き方が半端ない。弦を千切るために弾いているとしか思えない執拗な暗い明るさだ。その千切りも、破壊という意味=称号すらも与えられずに…頓狂な高速もあって、ついていけない。誰にも頼まれていない新作が息切れという形でなだれ込むように完成、その編集作業と印刷手配が待っているがやる事が多すぎて、滞っている。息が、浅い。宇宙戦艦ヤマト2199に出てくる戦艦ヤマトの主砲たる波動砲がぶっ放される開放口の位置は船首だが、そこんところには、本家の戦艦大和には菊の御紋の浮彫がほどこされてあった気がする…波動砲が使われるたびに菊の御紋から波動砲が放たれている気がする…保守翼賛の雰囲気が強まるこのご時世にまことにうまく便乗した企画アニメゆえに、これも、団塊スタイルや天国への階段(番組名うろ覚え、西田敏行ナレーション)テラスハウス同様に毎週欠かさず視聴…特に団塊スタイル…定年退職後も体力財力に余裕のある団塊世代が地域社会に溶け込んで米粉パンや有機野菜に挑戦する生き生きを、ジッと、血眼で、目を皿のようにして、ほとんど舐めるように、内心を黒黒と沸沸させながら、世代間格差などという低俗な言葉形式になるのを禁じる、怨念や憎悪ですらない、筆舌に尽くしがたい情念をたぎらせながら。
ハードロック編「led zeppelin/led zeppelinⅡ(1969)amcy-4006」あるいは御手火素描
持ち前のクサクサ感が我武者羅に上滑りしながら捉えどころ無く滑落の憂き目にも事欠いて腹立ちが憎悪へと薄暗く煮詰まる夕暮れの金色の日射が鶏頭の乾燥花の襞を浮き立たせる。まだ蝉は鳴かないものだなと思っていた矢先に梅雨が御開き、はや夏の通低音、油を絞る音響装置による無駄な増幅、蝉がじりじりしゃわしゃわしており、感情とは下痢でしかないと、卑近卑俗に縋る追い込まれた憔悴が功名心を守護する塀が荷崩れした途端の下世話、短絡の喩えがしゃしゃり出るのももう無残ですらない。格調だけは、低い。如何せん如何ともし難く底辺でしかない。底辺が最も暑い…夏の高校野球=学徒出陣保存会の皆さんのきっちり仕込まれた伝承の演舞など…家の中とはいえビールを2リットルも飲むと鉄球を受ける浅間山荘の気分になって一挙に頭をくらう、すわ酒量は増える一方で、だるさの温存が、紙一重で成り立つ書き割りの、かつてのチボリ公園じみた、感情を寄せ付けぬ薄さである社会生活からまさに焙り出される…中心の無い日射を全天から浴びて、眩暈が、辛うじて歩かせるも捨て鉢が事切れる、続く、事切れる、歩く…けったいが…。先週は朝鮮通信使をして日東形勝第一と墨書せしめた鞆の浦に遊ぶの御誘い、蕪彫りの修行ついでに足をのばしたのだった…今日は自民党独裁政権樹立の日。夕立ならぬスコールが各所に散見さる道すがら、濃い雨雲の下は黒み立つ雨模様、そのつい隣は薄曇で明るみが揺れるを遠望される景色を眺めつつ、祭に雨がかぶらなければよいがと一抹の不安もあったが杞憂であったのは何も祭の刻に雨が降らなかった偶然に安心するのではなく専ら祭が継承する創意の意味に依拠する…雨ずる気ゆえ夏至過ぎの日永ながらどんより暗みが冷えているが、何の事かというとこの日、鞆の浦では御手火祭という秘祭にして奇祭が勃発する、それをよそ者ながら体験しにいくという算段である…とはいえツェッペリンも憂き世には、居るから聴かなければならない。晴れているから湿度が濃くないから音響再生被膜の振動に深みが足らずいい音が鳴らない…このリフの歴史的意味も、もう、どうでもよくなっている…ついに、ここまで至りましたか、と、織部の純真な創意を冷めた目でしっかり認知しながら心はもっと荒ぶる静観へと凄む利休の気持ちもさもありなんとして、いや、しかし、兎も角電源を入れて聴いてみる…くっ、難だ、否、何だ、否、難だ、これは…鎮守の森の御神木を次次と、脂をよくぬったチェーンソーで切り倒す非情の連覇が、松脂が粘りそのままに唸るのであって、ちょっともう一回あたまから再生させると…よく聞くと冒頭、蛇が毒気を吐くような小さな吐息が極めて短く棄てられたと思う間も無くあの怒涛がもりもり盛りあがる雲へ歩むじゃないが(山頭火の辞世)、建築物と山岳と爆発の区別ももうつかない、こんなのをリズムというのか、もう魂は乱れるしかないのかと無論思うわけではない、そんな閑を土足で轍に変えるこの音楽が、すぐさまさして工夫の無い混沌へとだだっぴろげに乱れる展開に行くというのは本当によく分かる。聞けば聞くほど頭がおかしくなる、いや、狂う、その残忍な覚醒の代償が苦しすぎる強制的な心肺蘇生、心臓には右心房とか左心室とかあってそれらの部屋が弁で開閉されているだろう、循環を司るその弁を無遠慮に蹴り上げてくる始末の悪いドラムは重い精確だから絶対に循環に支障を来たさないが分配される血流は潮のごとく膨大で、滾る、胸いっぱいの愛を。さっきチェーンソーでぶった切ったばかりブルースの切り株、まだ樹液の玉がいくところも噴出する切り株の上にどっかと座ったハードロックのダルさが、なんとものびやかで琥珀色だ…飴釉だ…全然晴れがましくないのに、ぎゅんぎゅん延びる、樹齢を重ねた幹の中を高速で道中する。対潮楼から件の瀬戸の景勝の圧巻を味わい下山、別所で食事を頂き、戻るとうだつの上がる古格の建物がこじんまりと佇む鞆の浦の夜道を、活気が走り出している、狭い路地を、先駆けの太鼓がもう暴れている…地元の若衆らしきが大八車のようなのにのって太鼓を乱れ打ちしながら無茶苦茶に引き廻しており夜道から祭を爆ぜさせ箍の外れた雄叫びを揚げ続け、早くも上気した人々は集結し家々は戸を開けて拝む…知らず付いて行くと表参道、大鳥居には沼名前神社、と。なんともおどろおどろしい…「ぬなくま」と読む…あとで延喜式で調べたいが、闇とか夜の枕詞で「ぬばたま」というのがあるが恐らく関係するだろう…参道は既にごった返し、出店の賑わい、しかしそうした風物よりも小生を牽引するのは山上から轟く太鼓の煽りである…鳥居をくぐると急峻な石階段が真っ直ぐ山上の本殿まで続く…血眼で祭を待ち構える群衆を掻き分けて夢中で階段を登りきると本殿で、白麻を纏う稚児ら十数人が間断なく、一時も休まずに交代要員も控えさせて、数基の太鼓を連打している、しかもその辺の自治会が持ち回りで厭厭ながら主催する祭でスポイルされた子供が時と共に投げ遣りに叩く太鼓ではなく、裏に裏に先回るビートをも刻まんとするほどの激しい發回しで一心不乱に乱れうちトランス一歩手前の目が据わった表情で汗だくで、ドカドカドカドカと岩をも噛み砕く轟きを横溢させている、民衆を煽る者特有の冷静さすら兼ね備えて静かに燃え滾って太鼓を叩きまくっている…どれどれ、御祭神はどなたであらせられるか、と由緒を読むに、ああ、やはり、貴方でしたか、スサノオノミコト。沼名前神社という呪われた名も納得。スサノオの呪われたウガイのような太鼓の垂れ流しが鞆の浦の町いっぱいに満ちながら石階段の中腹ではスサノオ好みの捧げ物が準備されつつある…御手火だ。大躯の鬼の松明もかくあるやと思わせる、全体としてマッコウクジラの子供ほどもある巨大な「薪の束」に御神火が移されると、それを、十数人の男衆が、水をたっぷり飲んだ布をかぶって巨大松明の下にうまいことやって潜り込み、抱え揚げながら長大なる石段を登る、という創意である…ばちばち火の粉と白煙を上げながら松明は炎を唸らせて燃え上がるのでそれを担ぐ男どもの頭の直ぐ上を炎が燃え滾っている、スサノオに捧ぐ炎が彼らに引火せぬように他の男どもはバケツリレーで本殿脇の神水を、担ぐ男どもの焦げそうな頭に的確に注ぎ時にぶっかけ炎勢が強すぎると松明にも水を掛ける、しかし松明の奥で燻ぶる炎は寧ろすぐさま息を吹き返して一層炎を高くする炎と水のせめぎ合いに雨天関係なし、いきり立ち目が笑ってない男衆は興奮の怒声を上げながら、燃えながらにしてなお重い「薪の束」に耐えかねて後ずさりし近接する群衆の目を炎で焼かんとして人だかりに突っ込んだりする素振りも見せながら息も絶え絶えにえんやーとっととおらびながら、炎を担ぐこと小一時間、この薪の束が3柱、順番に、ゆっくり、石段をにじり上がる様子は高みの見物を群衆に許さないのか汗だくの絶叫がそこかしこで波乱するし、尚且つ、この祭には何度も来ているからこの興奮も知り尽くしているとばかりの、かつては祭の世話人だった風格すらもありそうな愛情をも自負するらしき、この祭の見巧者を自認するらしき、高級カメラを抱える熟年が、小生に向かって「見えんや無いかボケが」と罵ってくる始末で、やはり、いささか祭の創意とは別の意味で卑俗な軽薄に巣食う意味だが、荒んでいる。神事をカメラのチャンスととららえることで卑下せしめる恥知らずの、現代的荒み。それに、燃え盛る松明の下に潜ってかついで山上のスサノオに捧ぐはいいがその若衆のノリ、というのが、目くじら立てるほどではないが、どこか合コン的な、試合に勝って調子に乗った、眉毛の輪郭を几帳面に整えた今時の高校球児らがマウンドに集まって人差し指立てて一番を誇示するあけすけな子供っぽい下卑を思わせ、伝承される祭の創意は兎も角それを担う人間の劣化というのはやはり存在した。ちなみに、「薪の束」のことをイタリア語でファッシという。ファシズムの語源であり、イタリアのファシスト党の党旗にはそれと分かる薪の束が描かれている。だからといってこの祭の興趣や創意をあげつらうつもりは毛頭無いが、自分に振り返れば、小生には、この祭には参加できない、出来て、速攻の孤立だろう、というのは感得できた。幼少のみぎり、近所の地元への祭への参加要請があったが拒否したし、祭当日、境内で踊る獅子舞に崖から投石した記憶も沸沸と甦る…祭に限らないが集団で一つの事をやる事にそれこそ生理的嫌悪感が発動するし、参加したとしても厭厭ながらだから役には立たないし役に立とうと思えない…鞆の浦の御手火祭…よいものを見たが、しかし、少なくとも、自分が欲するものではないのは明白だった…こうした創意と雰囲気、地元共同体をも含んだ構えというのに群衆が没頭するのはむべなるかな、しかし、己がなすべきこととは違う。あの轟々たる炎を一瞬で消沈させる、あるいは長時間かけてゆっくり消し去る、あるいは夜中に炎ならぬ虹や別のプラズマを立たせるほどの一言あるいは万巻の言葉を紡がなくてはならない。所詮、承認された共同体的熱狂など元より興醒めである…創意の独立はインターナショナル(国家の隙間)であろうか、たとえばツェッペリンのように、あくまでも極私的にささやかな奮起を促す勃発こそが…たくましい勃発であるが既にあらぬ方向へと突っ走った取り返しのつかない勃発であるが…新幹線の時間もあるので祭の終わりを見届ける事無く帰路、車の中で、下痢性の猛烈な腹痛に襲われ脂汗だ…原因はあれだ、義父母からご馳走いただいたステーキ屋さんで、さもしくも、ガーリックスライスをかりかりに焼いたものをつい食いすぎたためなのと、祭の熱気による汗ぐっしょりが腹を冷やしたのと…印度カレー屋でニンニクをまぶしたナンで腹を壊したことがあるゆえに…義父の車内で糞を漏らすわけにはいかぬ…か細い声でわが意を情けなくも細君に伝え、細君の仲介で、福山駅一歩手前のところで車を止めてもらいコンビニの便所に駆け込む…折り畳み傘二本分の液状の糞をすっきり出して、寄生虫のハリガネムシを腹から出して放心中の死期迫る蟷螂のような気になって便器でぐったりうつむいていると、小生のその日のTシャツ、図らずも、全裸のザッパが便器に座っている図。ガレージパンクのような捨て鉢な笑いの破滅ではなく、笑えない怒気による破壊たるハードロックが志に寄り添うてくる。餓死か、屈服か、ならば、餓死を選ぶ。後悔が生じても後悔しない。後悔に後悔しない。その時に慌てる。毎日餓死のことを念じている。言葉ほどに、心は潔くは無い。体ならなおさらだ。しかし、心は頼りない言葉に頼るしかない。しかし、餓死だ。沈痛だろうが破れかぶれだろうが、餓死だ。餓死だ。餓死もまた題目、念ずる。餓死餓死念ずる。まだ餓死だ。金曜日のテラスハウスと団塊スタイルを血眼で、視聴する。一つに選べなかった句を列挙する場合じゃない。
御手火をも撃ちてし生きよ吾の唾棄
御手火をも撃ちてしやまん吾の唾棄
御手火をも消沈させよ吾の唾棄
悪趣味の系譜編「10cc/how dare you!(1976)phcr-4418」
突然の夕立というよりも亜熱帯性スコールによって室内が暗くなったから写真もどんよりと煤けて見える。サイレン、汚い怒号、爆音、絶叫、轟音、…無性に気性が荒くなる夕暮れ、掴めるものは何でも掴んで握り潰したいイラつきが殺伐を荒ませるどうしようもなくきな臭い時間がこらえ難い…どこか等閑なる梅雨の晴れ間なれど動悸がきりきりと絞られる不安心地は苦しい。湿度が高いと車載オーディオの調子が頗るよく重低音に空間の深みを齎すがこの音楽は湿度頼りの安い車載オーディオではなくきちんとした再生装置で聴取すると何とも、地中海の絵葉書のように音質が鮮烈であった。何度も何度も聴き過ぎてCDケースの開け閉め回数が頻繁だから手を滑らせて落とす回数も多いため、開閉式ケースの接合部が破壊されている…冒頭のギロの音が原色動物図鑑だ。園児や児童がやらされ高校生吹奏楽部くらいになると率先して忠誠する、命を人質にして保身をはかるのに余念が無い合奏と、独立した人が期を一にして会する命がけのバンド演奏との差異が揺れる巧妙な仕組み…邦題「びっくり電話」…歪んだ画像がいやらしい立体的をどぎつくさせる、つぼをわきまえた楽曲が謳歌するかと思いきや、チャンネル切替のような断絶とも接続ともとれぬ不自然な成立のようにして薄気味悪い陰湿の暗みがくだを巻くのもある現象、しかもほどよく脱力した潔癖は…黴が埃へと枯れた古代の叙情ではなくいつまでも真新しい、故障の屈託をまだ知らぬつるんの抒情であり、…こうした現象から何とか悪趣味の系譜を旗揚げせしめるに相応しい事を言いたいと思ったが昼下がり15:39、昨日に引き続く鑑定団再放送の二回目を待つ浮き足立った腐敗した時間は関係ないが、一言にはとてもまとまらぬ…関係ないが、半透明あるいは白色の絹糸を、青竹から煮出した染液で煩雑な工程を経て染色すると白く染め上がるのであって、光に透かすと虹色に分光される眩暈のような瞬間…あらゆる色が溶け合う白…あらゆる色を飲み込む黒…白は黒を溶かさない、それは絵の具の問題だけではなく当然ながら白人音楽と黒人音楽のことを思うのだろうが…とにかく、白糸を竹で白に染めると虹になる、そんな奇跡に魅せられた染織家が居たのを知った、30年前の雑誌で…薄気味悪く不快な挿入的展開はポップ抒情を切り裂くわけでもなく丁寧に、しかし違和を解消させる事無く毛羽立たせて織り込んである新時代のテキスタイルであるびっくり電話は。白地を白く染める竹染めのオーロラ、黒漆の上に黒漆で加飾する黒蒔絵の夜桜、といった工芸技法に触手が動くが先立つものは無い。制度と心との板挟み、葛藤、憎悪、そしてそれらでもみくちゃの怒気が。金曜日夜のテレヴィ番組テラスハウスに釘づけ。インターネットというのは人間の言葉というもののいわば下半身的欲求というのを速やかに満たしてくるから、如何に役立とうとも卑猥でしかない。言葉というものの性欲とは即ち伝達、という下世話である。以上の、そしてこれまでのこうした文章も結局そうしたものである。ありふれた、くだらぬ、営営として…批判に値せぬ。細君に連れられほうぼうを物欲し探訪に行くが狙っていた三件中二件が閉店…どこか満たされぬ思いから小生は剣山をつまらなく買う。剣山で大正琴弾いたら面白かろう。七夕か。投げやりがひどすぎる。思えばエアコンを速攻で買い替えたのは近年まれにみる英断だった。三菱霧ヶ峰、本体も室外機も音がうるさすぎてご近所にも迷惑なばかりか室内の小生も眠れやしないしおまけに購入6年目にして涼風が出ず熱風ばかり吐き出してくる始末、修理も考えたがそのためのやり取りや時間の手間、そして肉迫する夏を思えばそんな猶予はないと判断したのだった…電気屋に買いに行くと店員が日本製ですよとしきりに霧ヶ峰を推してきたが小生日本製の良さなどほとんど信じていない、物事の変化に弱いくせに下剋上的で理念が通用しない劣悪日本人労働者は物事の変化にびくついているから改善も遅すぎて旧態依然から手抜きへと誇り高く堕落するのを目の当たりにしてきた。日本製など最早悪質ブランドである。ダイキンのが欲しかったがなかったので今回のエアコンは富士通ゼネラル製の先着5名様までの最安値エアコンだったが音は静か、涼風がきちんと出る、おそらく中国製。だから、いい。糞忌忌しい生活軍隊生活がまた明日から始まる、出生届が赤紙だった。朝顔とノウゼンカズラが満開で項垂れる半夏生。か細いうめきが恨めしく上がるのは何も古井戸からばかりじゃない。息が、殺される。野に揺れる桔梗のつぼみが好きだった…また運転中、目にゴミが入った危機が。前髪が目にかかるからそれに伝って目にゴミが入りやすくなると訝しみ、前髪を自分で少し切る。スケッチブックを先週買ったが放置。朝6時起床、朝餉をこしらえ、8時から古典の臨書、9時から草のデッサン(今のところ樹や花に興味無し)、10時から執筆、正午に昼餉、そして昼寝して2時から4時まで執筆、それから4時から6時まで彫刻、6時から夕餉の支度、晩酌、読書、気が向けば彫刻あるいは執筆、0時就寝…そんな毎日を夢見て。何もかもがくだらないのは重々承知であった。
首尾よくいくかどうか分からぬがいずれにせよ来週は故あってこの地を離れるので休載するので悪しからず。
「back from the grave part one!the rawest,crudest mid60s american teen garage punk rock(1966)crypt cd-0123 efa cd 11566」
息が息できない。鉄を呈色剤とする丸っこい褐色の飴釉が濃淡を光に捧げる笠間焼の蕎麦猪口に冷酒をそそげば見込みに、白い滝が仄かに浮かび上がる幽玄なる釉景にはっとし、日本酒や焼酎のような酒には飴釉がいい、底に渦巻く煮卵の焼き付けの如きが酒のとろみを芳醇、左手で喉に酒の清流を濯がせながら右手によく冷えた胡瓜の一本漬を齧り齧り、梅雨時の雨の恵みに感謝の念抑えがたく、はや七夕風情を夜風に心する。明日からまた、丼に盛られたゲロ飯を啜るに甘んじる惨めに、往来に吐き散らされたゲロをいじましく丹念にかき集めたものを白飯にどっぱあと掛け注ぐ不味すぎる丼を啜らされる苦しい心境である。コーンビーフ丼。コーンビーフをパスタに絡めたら本当にゲロパスタのように糞不味かった記憶が噴く。ガレージパンクが癲癇(てんかん)の発作ならばハードロックは癇癪(かんしゃく)持ちの家庭崩壊なのかと思い込みが激しい。いずれにせよ破滅的である。最早手のつけられぬほど追い込まれたハードロックの荒みの頑なな硬質もキツメすぎてふと懐かしいのは、己の幼さを露呈してかガレージの早合点と粗忽ぶりであって。真っ白な西日、しかし、言の葉を紡ぐのを妨害する撹乱でしかない音楽を聴きながらでも書くしかないのがこの音楽の窮屈な業でもあって、上滑りを恐れていては滑るのもままならぬぞっとする脱臼の瞬間、骨から滑り落ちたゾンビの宴が、もう、始まってしまった。要は、滾る、という事である、徹底した無力と諦観が悟りの高みならぬ業の底辺へと導くのでもあって。60年代ガレージパンク集成であるこの「バック フロム ザ グレイヴ」(さしずめ邦訳は墓場の鬼太郎か)は数あるガレージVA(いろんなバンドから各1~2曲選びいれたもの)の中でも編集者の目利きならぬ耳利きが際立つ、壁になすり付けられた糞の如き渇きが決して湿りを欲さぬ、しかし砂漠の音楽を気取るほどの軽やかなかっこ良さ自慢知的自慢からも隔絶した、草が枯れたまま空っ風に靡きながらも根は生きている荒野の音楽が誠に高純度に濃縮されている。ガレージ集成という試みはナゲッツを嚆矢としガレージ概念の樹立に役立ったもののナゲッツではまだガレージの本質たる獰猛を鷲掴みしきれぬ雑多感があるがそう感じさせるのは他ならぬこのバックフロムザグレイヴがサイケポップとガレージパンクとの峻別を屹立させたからであった。これは専らこの編集者の耳利きによると云えよう。と、二つ隣に住まう頭の小さい御座敷莫迦犬が、ガレージの音洩れを嗅ぎつけたか、しきりにやかましく憤怒剥き出しにガルルガルル吠え立てるではないか。点在する火山が大ぶれにがなりだした声が間を読まぬ鉈の如く汚いのを叩き込んでくるし屁のように内実が抜ける瓦礫の爆音が地響きを伴うドラムはアフリカ民族の創意、土に穴掘ってそこに獣の皮を張って連打するプリミティヴが民族主義に留まらず近代への無意識の抗いを癲癇してアスファルトやコンクリートや土をも発破かける大らかな軽さが汚さをけんかいにも奇矯にも護持するドカドバであって、水も無いのに無鉄砲に長く延びた変異の萱の枯れた葉脈をばらけつつ束ねつつばらけたギターが野趣溢れる星をその辺の草にうもれる橄欖岩にまで落としめるほど。ベースは水脈を乱す直情のノリを変態させるドスを研ぐ鍛錬が徒によこしまである。もうどこのことでもないが意見具申しても決して聞き入れられぬからかような現状が続くのだが掃除してくれるのはあり難いが掃除道具の数々を決して自分では片付けようとしないのは一体どういう事なのか、なにゆえ小生が散乱した掃除道具をいちいち餌にあずかるように片付けなければならないのか心底腹が立つがこのいらつきを元手に更に執筆を殺伐させたいが為に己に我慢を強いると下劣なサックスも闖入する。
中でも際立つ奇跡が二曲収録してある。バリ取りや面取りする入念が欠落するから端々がささくれ立っている金属製の羽毛が、落ちるべき地からも遂に解き放たれて高く高く青空を舞い狂う妙境に至ったralph nielsen & the chancellorsのscreamという楽曲、これ以上分解や説明しようのない簡素な主題をおが屑のように捨て鉢に執拗に反復する上にメラメラと可燃物から事切れた炎がこれもまた宙宇を舞い上がる地に足の付かなさが軽やかさも吹っ飛ばして不安この上ない殺伐が切り切り舞いである。明るい青空を真っ直ぐいけば真っ暗闇の外宇宙の真空につながる途方も無いリズムの屈曲のけたたましい駆け上がりが兎も角獰猛で凄まじいとしかいいようのない、生まれてから死ぬまで止まらない苦しい絶叫が残響を許さず始終能動的に叫びっぱなしの儚い終わりであって。
何だこの、変質者は…唾棄するにふさわしい値千金、腐った海老が歪んだ虹色の腐った異次元空間で無闇にびちびち脱皮しながらうねりたくる手のつけられぬ異質感隔絶感、chentellesのbe my queenという楽曲、こういう常軌を逸した作品は他の優れた作品を持ってしか紹介も出来ないので云うと、山田先生の初期作品の「やあ!」に出演する源という何ともクエぬ飄々としてぬめっとしたキャラクター(ハーマン・メルビルのバートルビに比肩する)が真面目な薄笑いでひょんな事に目覚めた芸能の産物が原色の楕円がぶんぶんしながらいやに冷静に発作する情動のほっこりイヤラシク照かる崩壊が目の当たりであり、これもまた手がつけられぬほどおかしいモダンポップの魁でもあるし、頭陀襤褸のガレージパンクの意表をつく点滅感覚が音波によって重力場を歪める奇行。収録曲が後半に行くほど癖がひねりにひねられた楽曲が目白押しになるのがこの集成の特徴である。vol.1からvol.3がよい。ガレージパンクの焦点は数うち当たらぬ散弾である。
今週こそ休載
休載しながら絞り出すⅡ⇒ハードロック編「led zeppelin/led zeppelin(1968)amcy-4005」
いつものことだがむしゃくしゃしていらついている。いらつきが度を越していままで絶対買ったことのない缶チューハイなどという軟弱な飲み物をうっかり購入するほど狼狽がひどい。涼しげで悪くはないがチューハイのほろよい程度では我慢ならず結局がつんと酔いの杭を首の根元に打ち込みたくて濃いめのウヰスキーの水割りを作製…とてもじゃないが心千々に乱れ通して、書けない。以前から胡散臭く、不信を以て接していた三菱のエアコン霧ヶ峰の不具が決定的となり、怒り心頭、蓄熱すさまじく風が外からほとんど訪れない蒸し風呂状態アパートではいたずらに荒みがこみ上げ、手近に鉈、でもあればむんずと握って何もかもぶった切りたい荒んだ心やみがたく、冷却機能は失われ高価な送風しかできなくなったエアコンの役立たず、修理の手間にげんなり、もう捨て鉢に、買い替えを模索する、こうした、己の思索と創作とは関係ない生活雑事に煩わされることが心底我慢ならずかように垂れ流すありさまで。人の好い大家さんが植えてくれたプランターの紫陽花があろうことか真っ赤っ赤、薄紫や青の移ろいによる涼感が全く期待できない暑苦しさに八つ当たりしたくなる。それというのもまた「明日地獄」が執行されるのを待つからだが…もぐらたたきのもぐらの、さえない怒りのわだかまりの心境がますます濃く煮詰められ、ランダムとはいえ決められた穴に出頭しては叩かれ出頭しては叩かれて小銭をせしめるエンターテイメント=資本の余興、に嘔吐を催す。道野辺の立葵がわさわさ夕泥む風に揺れて、夏。といいつつ怒りにまかせてまとまらぬまま寸鉄射る思想の研磨の余裕もないままにレッドツェッペリンのファーストが。フーとイエスとツェッペリンを同時多発的に聴くことを主眼とするハードロック論であるが三つ巴の糸を縒り合す前に糸そのものを紡がなければならない…ガレージ・サイケ/ガレージ・パンクが無計画で無道具で徒手空拳な自滅であるならばツェッペリンは人を正確に殺傷しうる拳銃を入手した意識的テロリストの覚悟と現実である。今夕はこれだけ書けたら賭けたらいいと思っている。いったい、何がこの音楽を、ロックという音楽をここまで追いつめてしまったのか、それを思うだに悲傷が疼く恐るべき孤立の暴発が、敵の武力でもある認識とか働きとか形などを、本来破壊すべきそれらさえも敵と敵対するためには己の武力にしてしまえるほどの冷静な絶望にまでに、一体何が追いつめてしまったのか…苦しくも悲しくも兎も角まっすぐに敵対と対峙するこの音楽が、共同体的恥を捨てるという卑屈への甘んじではなく尚且つ浅はかにはしたなく野蛮を形にすると、あまりのあけすけで聴く者の動揺を音楽への遮断に変えずに恫喝しながらあくまでも、何だ、その、怒りが…聞けば聞くほど苦しいのにその苦しさに糊塗されぬ、よく研がれて鋭利な怒りの刃が込み上げてくる…精密な研ぎなどに興味が無かったガレージの無軌道な獰猛を懐かしみこそすれそれを以てしても甘んじられぬ憤怒がその汚濁ぶりを増しながらも、つんざく。制動の効かない理性の暴力が静と動のコントラスト・ドラマではなく静と絶叫の、心肺をショック死させながら蘇生させる荒療治の突発と断絶、その、手の付けられない感が息を引きちぎって余りある…最早黒人音楽の影響云々は意味をなさないこの新味は古くて新しい荒みの一言であるが、ドラムの音を無理やり訓読すれば立て続けに「蛮社の獄」「蛮社の獄」と嗚咽しており、オルガンはファンク臭を排した、キリスト教的な理念の理念たるゆえの冷徹なる過剰な暴力性が、狂った幾何学を樹立している。そしてコミュニケーション・ブレイクダウン…こんなにボトムが地に足がついているのにその逆で足に地がついてくる重量級でポップを奏でる面会謝絶の音楽の恐ろしいまでに明るいことっ…!けつまづきながら辺りを巻き込む底上げの乱れが人を踊らせはしないが立ち上がらせるに十分である。「強い」という概念に飽き足らなくなった格闘(思想)漫画バキでは、「武」(ぶ)という概念を提唱していたのを思い出した…用法としては「何という強さだっ!」ではなくって、「何という武っ!」あるいは「歩く姿が武」。この武が何を云っているのか、心技体の総合としての有り様ではない何かに至ろうとしているとしかいえないのは、バキを読めば分かるだろう。無論、封建性への抵抗という葛藤を無事に内面化する過程で過剰に成長する媚びとしての忠誠を説く武士道とは似て非なるものである。あくまでも徹頭徹尾個人的な、武である。ツェッペリンの振武の魂など自分で書いていて信じられないが、少なくとも、弱者が抱懐する抵抗の時、抱卵の時は終わった…伝統だろうが畸形だろうが未来だろうが理想だろうが卵の中身に惑わされてはならない、卵を踏み潰して己自身が覚醒しなければならない。ずしりと重たい、よく手入れされ油光りする拳銃を渡されてしまったのである、これをぶっ放すも捨てるも聴く者次第、逃げ場なく意志が試される時が来たのである。ハードロックは引き金である。リフという引き金である…
雑感拾遺(先週/今週のブログはこの下にありますゆえそちらを何卒確認せよ)
点在する系譜編「the beach boys/surf's up(1971)tocp-65566」
と掲げているものの、心の表ではsmily smileを思っている。小生の呪われた誕生日に託けてそれを祝う名目で小生の事を思ってのことだという抑制を滲ませながらも言外の意図を汲み取るように脅迫する長文の、小生の生活設計とやらに対する弾劾書が送付される呪われた誕生日であり元元目出度くも無い日が一層胸糞悪い一日へと汚され、すこぶる台無しにしてくる嘔吐感は否めない。気持が悪いのが先行してそれに対して何らかの理屈をいちいち捏ね上げて反論を構築する気力も削がれるほど、兎に角、吐き気が凄い。言葉をあっという間に素通りしてもう実力を伴う憎悪しかないのかと思いつめる反面、尼崎事件に一つの希望すら見出す邪な心は如何ともし難く、まず何よりも家族制度を破壊しなければ話になる、と思い込む。話にならない、ではない。こんな感じで呪われた5周年を迎えた王道なきロック史である。結局北野大茶会再興を発願する講談社への手紙、当然のように不発であり返事無しだが、加えて、小生が贔屓にしている岡山の服飾ブランドへの提案として小生、以下の手紙を送ったのだがまあ当然のように返事無し。カフスボタンが着けられるカジュアルなシャツ、という提案…袖口に穴二つ開ければいいだけだからそんなに困難ではないはずだが…
○○ 御中
春霞吹き払う気まぐれな嵐に残る桜もいかばかりか、移ろい、花から新緑へといずれにしても風が新しくなるこの季節、
御社におかれましては益々御清栄の事お慶び申し上げます。
御社の創意工夫にあふれた新作の数々、いつも楽しみにしております。
さて、唐突なるメールではありますがご容赦いただきたく、というのは一つご提案がございます。
それは、「○○らしく、フォーマルからカジュアルに落とし込んだ、カフスボタン(カフリンクス)が着けられるシャツ」というのを作ってみてはいかが、ということです。
カフスボタンというとフォーマルで堅苦しいイメージがあるかと思いますが、それを、○○殿の創意工夫で、日常でもカフスボタンを楽しめるシャツを創作していただけると嬉しく思います。既にあるのでしたらすみません。
なにぶん素人の思い付きですので御笑読いただければと思いますが、ご検討いただければ幸いです。
(なお、本メールは単なるご提案でありまして、この段階で御社に正式に注文しているものではありません)
スマイリースマイルを聴取しているから書こうと思ったが数年前に既に掲載していた。全体へと奉仕せぬ断片的着想の寄せ集め。組み立てなければ、それだけでは何の役にも立たない部品の、美しさ、恐ろしさ…スマイリースマイルに比べたらペットサウンズでさえもきっちりした構築的圧制の遺物のように聴こえる…そしてサーフズアップ…風車との激戦を終えて(何に?)疲弊しきったドンキホーテ、というよりも道化のサンチョパンサから見放された結果の闇夜なのだろう。帰るあてなき帰路。初めて内面をもったドンキホーテの、老い。生活と時空世界の出鱈目を隠蔽する欺瞞の絶望。抱腹絶倒の現実が、命の法を盾に味気ない教条へと化し如何なる冗談も通じなくなってしまった、ルネサンス(恐れを知らぬ笑いの挿話)からロマン主義(恐れが人間と内面を生み現実という懲役を拵えた中での自我の不毛な膨張と鬱屈の物語)への過渡期を鮮明するドンキホーテという紛れも無い小説。楽想は、もう、ゆったりと生暖かい海…そろそろ潮時であろう夕暮れの海…サーフボードを引き上げて、しかし、未練は無いのが寧ろ悲しい明るさで、初めて、老いるようで、無性につらく、楽しいだけの空っぽで…衒いの無い終わりは寄せては返すのみで行き先は無い、それが、いたずらに苛酷でもあり、屈託もあり、明日の出会い無き際でも気負いない別れの挨拶である…意志が、呼んでいる、そんな音楽。穏やかだが、安穏とは違う。
