「三善晃/きこえるかしら・さめないゆめ(1979)日本アニメーション」
あんな体格の、身体能力に加えて組織力まで兼ね備えた超人みたいな黒人の人たちになんか勝てっこなかったんだよ、ワールドカップ、対コートジボワール戦での日本敗戦…なるべくしてなった、素直な実力の差だと思う…これからもっと超人的な選手たちの国と対戦するのだから、あとはずり落ちるように惨めに敗北を重ねるのみ、日本のワールドカップは終わった、と、北叟笑んでいる。村上龍原作のドラマ(NHK土曜日の夜)、55歳のハローライフ、だったか、秀逸であった。ああいう、定年を迎えた団塊世代の人が、結局志が足りぬゆえに、あるいは他者の存在を受容できずに枯れきらずに何かとジタバタするドラマとか番組、というのが好きというよりか、小生の好物であり、貪るように見てしまう性分である。リリー・フランキーが的確に演じていた。来週も絶対見てやる、と思う。
あれは今から十数年前の白熱の夏…二十代も後半に差し掛かった男二人が…アニメ「赤毛のアン」のシリーズを、うろ覚えだがエアコン無く、汗だらだら、徹夜で朝までぶっ続けで視聴したのであった…書物とマンガとレコードと段ボール箱らのうず高い尖塔がカサ・ミラやサグラダ・ファミリア大聖堂の建築物のようにぐにゃぐにゃ行ったり来たりのたりながら幾つもぶんぶん渦巻いている黙示録的光景の、文字通り足の踏み場が家主のすこぶる貪欲な知識欲情報欲がのさばる具合で万年床といってもまさに人一人ぶんの棺桶の幅くらいしか空きがなく蒲団の半分以上はやはり嵩張る書物とマンガとレコードの塔が崩れ風化した跡地のようにそれらがぎっしりのっかかる、そうした六畳一間の東京のアパートの一室で活動を進めていた先輩を訪ねて小生が上京、一宿一飯の宿、しかし前もって忠告されていたように本当に寝る所が皆無なのに辟易しつつそれが全く苦にならぬ展開になったのは…ちょうど先輩が借りてきたか安価で入手したか、アニメ「赤毛のアン」のシリーズのVHSビデオかDVDか忘れたが…幾つかのお奨め実験映像を視聴した後、赤毛のアンを先輩が画面に出したのであったがそれが最後、最早…片時もその画面から目を離す事ができぬ驚愕と陶酔の強制的持続に…始めは正坐で、夜明け近くになると足は崩すが心は決して崩さぬ集中力でそれこそアン・シャーリーという類稀にして破格の人間を凌駕せん勢いのままに一晩中動悸と、暴風雨と晴天が一挙に押し寄せたかのような激しい感動にその身をコテンパンに砕かれながら、一話終わるごとに集中による無呼吸からの解放もあって怒涛で改めて押し寄せる激烈な感動に四肢の端々までその潮に満たされびんびん延ばされながら息継ぎ息継ぎ、必死に、見たのであった…
L・M・モンゴメリ原作の「グリーン・ゲイブルスのアン」について此処で本論するつもりはない。(ちなみに朝ドラの影響でアンを取り上げているのではない。数秒しかそれはみていないし、あの朝ドラの作品性自体は、「想像力の欠片も無く」アンの世界とは今の処隔絶している、しみったれている)19世紀ヨーロッパで爛熟したロマン主義がついに海を渡ったアメリカ大陸において激烈に結実した、ロマン主義最後の仇花にして至宝の人間像がアン・シャーリー一人に受肉している…ドラえもんとドラゴンボールとハウスの名作劇場に育てられた私達だとしたら赤毛のアンを題材としたら原作が凄絶によいのだからそのアニメーション化はよくて当たり前なのかあるいは原作に負ける惨めに陥るのか、往時のアニメ制作者の覚悟は聞いてみないと分からぬがしかし残ったアニメ作品は、原作の文学作品に決して引けを取らぬばかりか実力伯仲しうる金字塔に仕上がっていた。それは、どこまでも原作の思想に忠実であることが、原作による縛りという打たれ弱い悪循環を跳ね除けて、むしろ原作からよく触発された作画上演出上の創意工夫をぐんぐんのびやかに屈託無く羽ばたかせているのである。
悪い例がマンガ「へうげもの」のアニメ化作品である。最早この国の至宝ともなった「へうげもの」、それをアニメ化するならば何らかの覚悟が問われるはずが、そうした覚悟を背負い込む知恵も度量も上滑りするような浅薄な連中がアニメ化に携わった不幸なのか…「へうげもの」の精神を何一つ分かっていないばかりに、原作がマンガだからというのもあるのだろうが原作の絵をそのまま動画にしました、といった態の、たいした工夫も無い、安易なものなのである、何よりも創意工夫が主題となっておろう「へうげもの」をアニメ化するのだから原作を馬鹿の一つ覚えみたいに当たり外れなくなぞってどうする、アニメ化に当たっても「へうげ」てみるべき余地乃至は新境地が当然開けてしかるべきだろう、だのにそれを括目することが出来なかった愚昧な制作者陣だから、あのような、原作を貶めた愚作をご丁寧にDVD化する破目になるのである。しかるに「赤毛のアン」アニメ制作者陣は…前述したように、誠に屈託無く、アニメという手法でもってアンを新しく止揚しながら原作の精神とアンという人間性をあます処無く表現しきっているのである。それは、見ている者に、打ち震えるほど伝わってくるし、往時の制作者陣の本気度が画面の細部で炸裂しているのである…それを数え上げたらきりが無いし、最高評価の批評というのはその作品をなぞる、臨書する、書き写す、カバーする、ということであり究極的にはその作品を、批評を伝えたい相手にそのまま提示する事に他ならないのだから赤毛のアンをそのままここに持ってくることになるのだから、この際、レンタル屋で借りて見てほしいとお奨めするしかない。
生活描写の細部に十九世紀の風俗が生き生き精密であるし、たとえばマシューが木型のような道具を用いてブーツを脱ぐ描写をきっちり描いている所など、細部の行き届きに作品の心が感応している。アンの、恐ろしくよく発達した前頭葉…都会の文物よりもアヴォンリーの自然からの誘惑にびんびん感じすぎるアン…(日曜学校にて牧師の話をよく聞いていなかった事を咎められて)「牧師様は私たちではなく神様に向かってお話なさっていたわ、だから、わたしは聞かなかったの」(他の少女らが造花の飾りの帽子をしていたのは怒られず、アンが、自らの創意の赴くままに、野で摘んだ花を帽子に飾ったのが叱られた事に対し)「帽子の飾りが、造花なら許されて、摘んできた花ではどうしていけないの」あまりに本質的な問いを澱みなく繰り出すアン。そつなく調子のいい「スクリーン」しか見せない「イラスト」ばかり持て囃される劣悪な現状を、「人間の神経系統に直結する絵画」で以って自ら告発した画家フランシス・ベーコンの仕事を思い出す。あと、気づいたこととしては、アンの話には茶会が多い、というのがある。洋の東西は違えど、茶の湯物語としても見ることができる。
見てなかった回があるのでリーガルハイを近所のツタヤでレンタルするついでに店内を視察しているとアニメ「赤毛のアン」シリーズがあったので、ふっと、前述の、十数年前の感動を思い興こし、アンをレンタルしたのであった…そして…泣いた。初回~十話まで借りて…一週間かけて4回ずつは再視聴したからアンだけでのべ40回は見た。その間にリーガルハイも楽しんだ。ついでに南の島のフローネも借りていたが、アンとは比較にならぬほど、まあ、普通の出来なんだろうけども、今となってはアンとは比較にならぬほど雑な出来栄えのアニメに思えた。とても見てられなかった。ちなみにツタヤというのはほんと劣悪な品揃えのレンタル屋であった…久しぶりにタルコフスキーのノスタルジアでも見たい、と思って探しても、あるはずもないとばかりに「そんなミニシアター系みたいな高尚なものなんかうちでは置きませんよ」と悪びれもせず言うような貧しい品揃えで、最新ハリウッド作品と売れ筋の国内&海外ドラマとジブリと萌えアニメと、申し訳程度にチャップリンしか置いていない。黒沢や小津すらも無いという殺伐とした割り切りである。寅さんもないってどういうこと?ツタヤといえば蔦屋、江戸時代の浮世絵の版元として北斎や広重や写楽などのさまざまな実験的試みを受け入れて世に放った、幕府の弾圧にも耐え抜くしたたかさと、芸術への眼力を備えた、懐の深い版元であったのに…。クソッタレ、と思う。放送中に見そびれた半沢の西大阪スチール編を最近、DVDで確認した折、半沢疲れともいうべき激しい充実した疲労に倦怠感がひどかったが、此度はアンを見過ぎてアン疲れが甚だしい。
何よりも音楽がいいのである。三善晃作曲のオープニングとエンディングテーマが凄まじくいいのである。武満徹以降、現代音楽の聴衆離れという拭い難い風潮を横目に調性回帰へと短絡の一途を辿る日本現代音楽界にあって、調性と非調性の狭間に交響楽の歴史の成果を全て詰め込もうと勇躍した貴重な作曲家の一人である…それは、過去にこの王道なきロック史において言及した事があるが、今宵は本格的にそれを味わいたい。
オープニング「きこえるかしら」…よい音楽というのはビーチボーイズのスマイリースマイルにしろ何にしろ始まりというのがギロチンや火蓋が切って落とされたその瞬間が永遠に告示されるかのような素っ気無く速い始まりを始めて全てを置いてゆくのだがこれもまた凄い始まりで野原が既にして見えないほどの音の躊躇の無さが残酷なほど爽やかだ…この歌の凄い処は…冒頭の一節「きこえるかしら ひづめのおと」の後の、間奏による間、である…この一節の直ぐ後にそれに接ぐように歌詞が歌われるのが凡俗の普通の運びなのだが、あえてためらいも無く突き放したように悠々と詞を入れず、時間を出し惜しみする事の無い豊穣、この非連続が必ずしも断絶を伴わぬ自由さを即座に遊んでいるのであって…安易な慣性を許さぬ、捕まえられそうで捕まえられない蝶の飛び方のような外し処を随所に、線形な時間経過の中でなく流れが放射へと解放される潮の満ち引きの緩慢且つ気まぐれな噴流へと頂く玄妙なる間奏であって、脱臼した鯨の遊弋、ふと物思いから覚めたかのように何事も無かったかのような無垢なタイミングで「ゆるやかなおかをぬって かけてくるばしゃ」と歌うのである。ドビュッシーの交響詩「海」とマーラーの交響曲「大地の歌」が僅か1、2分に凝縮したかのような、細部の煌めきと大きい揺らぎを支える超絶技巧のオーケストレーションを惜しみなく投入している濃厚がある。この間奏では、更に、20世紀初頭の白人世界におけるジャズの受容形態ともいうべき、たとえばラベルであったりガーシュイン風のビッグバンドジャズのブラスを、擬古的に挿入する遊びもある。この第一節と第二節の運びだけで既に、これから活写されるアンという人間の真に迫る形を与えている。原作がそうであり、それをアニメがこの上ない尊敬を以って再現出しているのであるがアンという人間の表情というのは並の人間とは比較にならぬほど一定時間における表情の変化回数が桁外れであり、それはアンが想像の炸裂にまかせて言葉の羽を紡ぐように喋りたおしている最中は当然ながら、喋りと喋りの間の、たいていの場合は感無量で胸が一杯になって言葉が詰まっている時の、黙っている時においても、意識の流れが剥き出しのままに表情が、ころころ落ちる水滴のように無邪気に、20通りくらいは変化しているのである。だから、アンが黙っている時の表情の、川の瀬のように常ならぬ変化の流れのその沈黙の豊かさというのが、前述の間奏で、表現しきれているのである。その後のアニメ技法上の創意工夫とこの音楽の相乗はまさに計り知れぬほどで、むかえにくるの むかえにくるのね だれかがわたしをつれてゆくのね 白い花が渦巻く無限世界、どっさり宙を舞う落ち葉、凍て付いた樺の道に走る雪、しろいはなのみちへ かぜのふるさとへ 最早その全てを感覚しきれぬほど手が込んだ、所詮人間には追随出来ぬ自然、にまで昇華してしまっているので、こんなに小さな楽曲なのにまことに大掛かりに湧き上がる陶酔に身を任すしかない。つれてゆくのね つれてゆくのね…人間にはかないっこない美しい自然へと、この生死をゆだねる、確かな心の、あきらめの穏やかさ…
エンディング「さめないゆめ」…超高速ピアノの微細高音トレモロがにわか雨の気まぐれを強い意志で繰り出してくる有り得なさ…人間の思考や感覚というのを邪気無く、批評的に小ばかにしてあざ笑うのではない、少女らが折に触れてくすくす笑うように些細な刺戟に乱反射する、ただ面白いだけの笑いであり、人間にはその軌跡の起伏を決して悟らせない、それほどの速さが…速度というのが如何に人間の身勝手で傲慢な物理であるかというのを痛感させる。はしっても はしっても おわらない はなのなみ みずうみはとおく もえるくもはもっととおく…この破格の音楽の天国への階段は山が雲になった証し、そんな壮絶オーケストレーションが音も心も剥き出しに次から次へ、生まれては生み生んでは生まれる狂ったように絶えざる盛り上がりの盛り上がりの底を雷鳴のリズムがティンパニーだろうか情熱的にダーンダーンダーンダーン力の限りとことん叩き尽くされて銅鑼がドシャーン夕暮れの真っ赤に爛れた積乱雲が燃え尽きた…その瞬間の絶頂を少し越えた翳りがついに滔々と歌う…はなのなかで いちにちはおわる さめないゆめみたいに さめない ゆめみたいに…まだ懲りない超高速トレモロはすばしっこく裏駆けて姿もみえぬほど速い命、光そのものへと…熱く静まる…そのいとおしさ…余韻がいつまでも火照る。
アニメ「赤毛のアン」
製作:日本アニメーション・フジテレビ
演出:高畑勲
場面設定、画面構成:宮崎駿
作画監督、キャラクターデザイン:近藤喜文
アン・シャーリー:山田栄子
マリラ・カスバート:北原文枝
マシュー・カスバート:槐 柳二
オープニングテーマソング:きこえるかしら
歌:大和田りつこ 作曲:三善晃 作詞:岸田衿子
きこえるかしら ひづめのおと
ゆるやかなおかをぬって かけてくるばしゃ
むかえにくるの むかえにくるのね
だれかが わたしをつれてゆくのね
しろいはなのみちへ かぜのふるさとへ
つれてゆくのね つれてゆくのね
エンディングテーマソング:さめないゆめ
歌:大和田りつこ 作曲:三善晃 作詞:岸田衿子
はしっても はしっても
おわらない はなのなみ
みずうみはとおく もえるくもはもっととおく
はなのなかでいちにちが おわる
さめない ゆめみたいに
さめない ゆめみたいに
「nuggets vol.1/original artyfacts from the first psychedelic era(1965-1968)r2 75466」
風の無い厚曇り、梅雨のはざま、長閑な昼下がり…雨を吸ってずっしり涼しい気温が心地よく集中が壊れていく音もなく、蝶がまぐれのたまたまの浮き沈み、その下を、それぞれの関係性の猫三匹がサカリ声を人語のように妖しくなすり付け、子らのドッヂが塀にぶつかるゴム音が間断なくうるさく…雀はちゅんちゅら。目出度いばかりか恨めしいくらいの、生誕を起点とする還り日も近づくにつれて、真っ黒の柾目のような慟哭を、声を忍んで、目から黒い血が流れたらいっそせいせいするものを、開き切った目が見る物はそこらの、いつも目にする、ありふれた家具。ほうじ茶を啜り…日の傾きの遅れに豪を煮やしつつ夕方に向けて緩慢なる日差しの強まりも思い出でて、近所は、まだ、晩の支度に着手せぬまでの長閑が能然としている。(「能然」という言葉は多分ないと思う。小生の咄嗟の造語)気晴らしにワインと赤肉塊(ローストビーフ)でも買いに行くかとぼんやり思い、極私的な聖餐を妄想…しかし故あって別途飯を炊かねばならず、憂鬱もある。思い起こせば、それがしくじれば、あるいは強烈な他者の悪意の的になってしまったならばもろに自分の生命財産や大切なものを脅かす恐れが強大だが、しかしだからといってそれの解決のために小生自らが直接的に行動に打って出る事は出来ぬというか出る幕が無い、そうした社会的規定状況にあって、煩悶は徒に貧相なびくつきへと苦しく、小生を苦しめ、不甲斐無く、それをふと思い起こす度に、気持ちが陰惨になり、ぐったりと、如何なる祝いの隙をも抹消してくる暴力が目下、続くしかなくて、気まぐれ且つ明確な悪意目的を遂行しかねぬ他人の御目こぼし頼りというはなはだ心許ない危うさの中で、苦しい日が、最低でも一週間は続く目算だから、浮かばれない、自粛モードが氷河のように日常を少しずつ奈落へと攻め落とそうとする不安が…加えていわゆる誕生日も近いのだからなお一層、日頃の、浮ついた、地に足のつかぬ、ゴミへの漸近でしかない志ははや滅多打ち、何もかも台無しにされたような被害妄想に窒息寸前の妄想暴走…惨めどころじゃない苦しさが最近のトレンドとなっている。つい数か月前にインターネット上の仮想通貨ビットコインを扱っていたある会社が破産、というのがあったがそもそも仮想でない通貨などあるのだろうか…国家通貨だろうがビットコインだろうが、通貨というのはそれ自体仮想でしかない…通帳をまじまじ眺め、貯金=寿命と考えた場合、こんな吹けば飛ぶような、ゼロの多い少ない関係なく、素っ気なく印字された数字(=今はやりの「ポイント」へと還元されるだろう、近い将来…)に何の実態があるのか…世のシステムが全的に悪意で壊されるか全的にうっかり壊れるかしたら、「はいッ、残念でした~(笑)」といった軽い感じで、通貨=ポイントなんか、たちどころに霧散して取り返しつかぬ消失は免れないのだから…また、ぎゅっと苦しくなる。
権力に中心など無いだと、そんな、上から目線の御託は、余裕こいたプチブルどもの戯言だ、この期に及んでそんな小奇麗な歌合せに付き合ってられるか、あいつだろ、あいつが全ての元凶なんだ、と、急進、切迫する余裕の無い藪睨みの底辺が焦点を焦付かせんとするそのあいつを実力で排除した処で替わりのあいつがどんどん更新されてでてくる玉葱の皮むきだと…そんなら剥きまくってやれ、玉葱の皮を飽く事無く剥いて剥いて剥きまくってやれば何にも無い虚無が剥き出しになるだろう、その剥きだしの虚無を表沙汰にする事で安全安心が撹乱されるのが怖いから権力に中心は無いなどと正論に座して乙に風流ぶってんじゃないのかよ、こっちは余裕は無いんだ、だから、あいつが真に権力の中心かどうか、など、神学論争やってる暇は皆無、まずは目先のあいつに目を付けて皮を剥いてやれ、所詮人間のやる事、皮は無限じゃない、兎に角表にぶちまけてやれ、と、毒つきが止めどないのは本当は、近所の留守宅で鳴り止まぬ目覚まし時計のジリリリ連続音に苛まれているからであって…目覚まし時計をセットしたまま家を出て、蛻の殻の家屋で一つ、指定時間通りに目覚ましが鳴り捲り、しかしそれを止めてくれる家人が外出で居ないのだから目覚ましはいつまでもいつまでも鳴り続け…15分鳴り続けて一旦鳴り止んだ後、5分後にまた鳴り始めるという…何が何でも主人の目が覚めた、という確証を得たい目覚ましはその肝要な処をバチコンと苛立たしく叩き押されるまで、執拗に、律儀にジリリリリリリリ鳴り続け…休日だと言うのに…茶碗蒸しのような小生の脳みそに、バリも取ってないささくれ立ったフォークを突っ込んでぐちゃぐちゃに掻き回されているような耐え難いイラツキが激昂…早朝から深夜午前2時までひたすら続く、上の階の子のドタドタ音や、風の日にはこれまた鳴り止まぬ近所の風鈴音など、騒音での拷問は種が尽きないが目覚まし時計もまた、解決せず持続するだろう…近所と言っても、一体何処の家からなのか、絞りきれぬゆえに。(子のドタドタ音は、引っ越してくれたので一応の解決を見た)あいつの最近の所業…いよいよ以って年金破綻が目に見えたのもあって小出しの誠意で取り繕おうってか、激甘な見通しであの年金額予測…ひとまず景気浮揚の絶対目的として年金を人質にしておいて国民の綱紀粛正(資本への奴隷化)のだしに使うか、という見え透いた策略…加えて年金の運用における株式運用の比率をアップする法案も検討だと…生き馬の目を抜く株式市場で、とっぽいお役人が出し抜かれるのが目に見える。難局打開にはリスクを伴うのは理解するが、そのワリを食うのはやっぱり被支配者層であり、上層支配層ではない(ただ…年金運用の最大の投資先が現状、「日本国債」、であり、株式どころじゃない、最も×××(自己規制!))…さらには消費者金融の法定金利上限を上げる法案…此処までくると、国民への、裏表無き悪意としか思えない。沖縄返還に暗躍した若泉敬や鴎外の「堺事件」のような、失策や失政の責をとって自決するくらいの覚悟を前例で形で示してもらわない限り、政権の純然たる悪意が結実しているようにしか思えない。富の再分配による基本的人権の保障を目的とする社会契約的公の精神をかなぐり捨てた国家が資本の論理と結託した挙句、国家が国民を資本家と被支配者層へと分断し、国家=資本へと振舞うつもりならばそれは国民を棄民と見なす事であるからして、国民自身が国家の治安に気兼ねする必要も無くなる。最早…憂さ晴らしにこんなところで反吐している場合じゃない。
ナゲッツ四枚組の第一弾。ジャケットのアートワークがよい。ガレージパンクというものを掬い上げ先鋭化したバッグ フロム ザ グレイブ(以下、グレイブ)に比するとその純度は劣るが言わずと知れたガレージ集成の嚆矢である。とはいえ、ナゲッツでは、グレイブが先鋭化したガレージパンクの純度が低い分、より鳥瞰的なところから、如何にガレージへと急進的に先鋭化されたか、の、過程が大雑把に聞き取れる。ここでいうガレージパンクというのは、その語を知らなかった小生がかつてサイケデリアのフルサトとして想念していた、アメリカ文化の真髄に位置するあの獰猛性=荒みであるといえる。このアルバムに収録されたバンドを下記のように列挙しており、その横に○印がついているものがあるがそれは、小生が過去に「王道なきロック史」で取り上げたバンドであり、その主要概念であるサイケデリア=ガレージパンクを強く突き動かしてくれるバンドたちである。小生の精神の核を成していると言ってもいい。ナゲッツには、だから、ガレージへと濃縮される以前の原液の雑多ぶりが彷彿しており、ソフトサイケやガレージサイケ、フォークサイケやコーラスサイケやスイートサイケやポップサイケなど万華鏡有象無象である。みな、いとおしい。何もかも終わってしまって、今となっては、何もかもが懐かしい、という気持ちと、まさに今、この音楽が己の精神と生活を進行形で耕してくる、切迫して生きた当事者意識、との差異が擦り切れてなくなるような…グレイブを聞き込んでいた時期はナゲッツに物足りなさを感じていたものだが今となってはこの如何わしい多様性に立ち返ってこそ可能性が臭うのだろう。そして…ザ・シーズやエレクトリックプルーンズ、13フロアエレヴェーターといった小生の精神を形成した化け物に出くわすとやはりその度に度肝を抜かれる…精神の波形が黒死病の死者数のように鋭く他を排して屹立する制御の出来なさ…この3バンドが、ナゲッツに拾ってもらえなければ歴史の藻屑へと消え失せたかもしれないのだったらこのナゲッツの功績というのは文字通り計り知れない。あるいは、ナゲッツが無ければ、狂わされる人間が少しでも減ったのではないか、という慙愧の歯軋りが悲喜こもごもなのである。小生も、その、狂わされた一人だからだ。過去に何度も書いたが、人生への険悪の種、ザ・シーズのpushin' too hardに出くわすと今も頭がおかしくなりそうになる…これ以上の危険思想というのはあるのだろうか。○印以外にも、精神の基底を揺さぶってあまりある、不逞なるバンドは多い…ザ・キャスタウェイとか…異次元人の古典芸能としか思えない。 チョコレートウオッチバンド、ずっと探していたが入手できずにいたがこんな所にいたとは。これほどまでに土迫力とは思わなかった。ミュージックマシーンに匹敵する。黒人に武器を持たせてしまった白人の後悔とでもいおうか、音楽的な意味で。
すれ違う群衆の一人が、「芸能なんか、服従への慰めに過ぎんよ」「学術も芸能も宗教も政治も、所詮薄汚い隷属を、悟り、信仰、知への愛、真実、善、美、表現、崇高、荒み、福祉、公共、自由等々の意匠に言い換えて、飽きもせずとっかえひっかえ御色直し=編集している茶番だ」と唾棄する声が今、聞こえた。 その声に今は…反撃できない。侮辱の中で甘んじるしかない。反論、ではない。反論などいくらでも出来る。ねちねち反論に弄する時間はない。やるべきは反撃だ。来年から、反撃を開始します。今は、その来るべき時のための文献修行の真っ最中だから。ナッズが怒涛の煌めきでopen my eyesさせてくれたから。私の辞書には「=」(等号)という言葉は無い。絶叫と感嘆と宣言と命令だけ。結局ローストビーフでワインがぶ飲み。大の字に寝、腕と脚の付け根と膝と足首にまで酔いが回ってじんわり温かく麻痺する感覚が心地よい…。
the electric prunes ○
the standelles
the strangeloves
the knickerbockers
the vagrants
mouse
the blue project
the shadows of knight
the seeds ○
the barbarians
the remains ○
the magicians
the castaways
the thirteenth floor elevators ○
count five ○
the leaves
michael & the messengers
the cryan shames
the amboy dukes
blues magoos ○
chocolate watch band
the mojo men
the third rail
sagittarius
nazz
the premiers
the magic mushrooms
「texas flashback vol.1/take a trip to the psychedelic/punk era in texas(196?)mmcd 66061」
初期ガレージ拾遺集としてはバック フロム ザ グレイブと同じくらい重宝しているのがテキサス フラッシュバッグ。題目通り、テキサスでの初期ガレージ勃興に焦点を当てた珍VA版である。どうしてよいのか分からぬ状況においても変に迷いのないリラックスした崩れが穏やかながら気狂いじみており、突拍子が無いという言い方よりも、原義的には誤りかもしれぬが突拍子があるといったほうが腑に落ちる。場違いに流れへの慣性を切り崩してくる容赦ない鉈の一閃のような瞬間はやはりロウであり、陽気な不敵具合はジャケットでのアルマジロとの乱交パーティのように、ドチャドチャしている。亜米利加固有の、明るい狂気の砂漠の流砂の底に沈んで蠢く饐えた獰猛を期待したが、まだ、表層の明るい砂漠の狂気に留まっていたと思う。サイケやアシッドフォークの方方のバンド名には長めのものが時に散見されるが、初期ガレージパンク系のバンド名は80年代再興パンクと事情は同様に、短い、小気味いいバンド名が多い。試みにこれに収録されたバンド名を追善供養のような気持ちで書写してみた。話は変わるがリーガルハイの第二話での著作権闘争に登場したハードコアパンクバンド「自爆魂」の、荒川ゴミータとジャンゴジャンゴ東久留米がやらかした法廷ゲリラライブの演奏がハウってて耳に痛く秀逸であった。
まだ5月なのにエアコンON、真夏日、遠くから間断なく高層マンション建設の槌音が鳴り響く長閑な休日の昼下がり、細君が友達と喫茶に出掛け…自治会の月当番の広報配りを炎天下、首尾よく終えた後、一人なので気兼ねない納豆飯と残り物の味噌汁、平らげ、近所の子らのはしゃぎ声も耳に痛くない程度に遠くから、そんな穏やかな心持に添う時波に洗われる装いの筆の運びも一入、郵便局の単車が一台、走り去るひととき…テレビは競馬、スタートゲージに馬が押し込められたら間髪入れず走り出す躊躇なき無駄の無さの刹那の粋が競馬放送の醍醐味…夜になると無性に居酒屋放浪したくなる、はしごを重ねて重ねて止まらない泡膨れのように気持ちよくのんでのんでのみまくりたくなるがままならぬ諸事情…この季節、ビールで喉を鳴らすというよりも、喉の内壁全体を使ってビールをごっきゅごっきゅ「噛み下す」感覚…なけなしの憎悪も露と消え…寝ながらにして夜、蒸してまんじり、頭に血が上るのと同時に頭に言葉が上ってぎゅうぎゅう眠れぬ苦しみの記憶も昼下がりの静けさに消えるのもあり…かような浅はかな徒然文、所詮結実せぬまま排出される言葉の経血に等しいと、読書灯つけるもまだるっこしいとばかりにメモに暗中殴り書き、諸君は言葉の経血を好む趣味人もしくは好事家なりしか、と吐血のように吐き捨てていたのも、昼日中にあっては、毒気も白白しく、明るく空しいだけ。高級でなくてもよい、基本的清潔を守った程よいビジネスホテルを転々とするホテル暮らしを1週間ほど続けながら昼間は浅めによく知られた観光地観光(城跡など)、夜はディープな居酒屋放浪に明け暮れたい。恐らく二、三日で嫌になるがそれでも続けるホテル暮らしがスれてくる感じに憧れる。離島の民宿でもいい。
ステテコ&リラコ着た友人夫妻と家族ぐるみの付き合い、子育て世代ハッピハッピィファミリーが、ノアやプレマシーのような大型厚顔ファミリーカーでカーナビで乗り付けて、交通の利便よろしき湾岸のよく整備された公園などで夕暮れの高層ビル群眺めながら都市型バーベキューにいそしむという週末。上場企業が垂れ流すこうしたハッピィファミリー像は最早…ブルボン王朝の仮面舞踏会くらいに現実感に乏しい、小生にあってみれば…無論「像」に苦悩などないが実際のハッピィファミリーにはそれなりにそれぞれ生活苦を抱えながらであって、自らの意志で天国から地獄=生活へと堕ちて蘇った、最強伝説黒沢の、「新黒沢」は…やはりさすがとしかいいようのない底辺であって、かような都市型バーベキューの現場の本質を露見させるべくその最底辺を抉り出す健在ぶりが、矜持、頼もしかったのは何か月前の雑誌掲載の「新黒沢」だったか…天国から現世へと蘇った黒沢はあの伝説の死闘の後数年間植物人間状態だったからその間に財の全て(と童貞)を失い御乞食(おんこつじき)、乞食は社会身分ヒエラルキーの最底辺だがらヒエラルキーには含まれていると、かつて、安倍公房が、ヒエラルキーから逸脱した箱男を以て箱男の批評的の優位を指摘しようともそれは所詮現場を知らぬ空論故に現場の本質である汚れから免れていたに過ぎず…黒沢が底辺の一辺たるを以て現実の告発に十分であることは明白、問題なのはその底辺黒沢の人間の訴えの基底が、これまた、啓蒙思想=基本的人権、という思想によらざるを得ていないのであって…基本的人権が自明盤石でなくなったこの昨今の腐敗したアジア退化世界において如何なる振る舞いが可能かは、ひとえに、「新黒沢」=現代の菩薩にかかっている。無論、新黒沢だけに頼るわけにもいかぬから、小生も助太刀いたす所存。浮ついた、地に足のつかぬ、ゴミ屑に等しき言の葉の、吹けば飛ぶような無意味無価値なる布石…そのひもじい苦悩。
数年後の選挙までは期限付きで全権委任独裁状態の政権与党のみならず形骸化した妄想民主主義の言い訳ついでにその存在が許されているに過ぎないほどまで失墜した野党までも、消費増税や震災復興を鑑みてしおらしく給与二割削減していたのが時限立法、期限が来たらば声を押し殺して国会議員の給与が元に戻るつまり増額されるのを黙ってやり過ごそうとするさもしい御手盛り状態を露呈、騒ぎ立てられるのを極力恐れながらもしめしめと懐具合を温め直すついでに国家公務員までも給料増額、外資呼び込みを口実に資本側の法人税はちゃっかり削減、しかし地方公務員のは減らす嫌がらせ、「私腹を肥やす」というこれ以上掘り下げようのない浅ましい理由も堂々とやられるとまかり通る始末、労組排斥の、資本家と御用学者的有識者を見繕った御都合会議体の中で派遣労働規制緩和、残業代ゼロと、剥き出しの資本の理屈を絶好の全権委任状態を駆使して執行してくるため早晩には労働環境の最悪化の再発は資本主義的伝統に基づいて必定、成果主義を押し通すならまず国会議員と国家公務員を、成果主義で給料査定すればいい、そこんところは体よく保身、カイより始めよなどどこ吹く風、目先の労働に忙しくて声と力が出せない、幾ら搾り取っても個人では非力で何も出来やしない愚民から搾り取って搾り取って搾り取りまくって私腹肥やしてやれとばかり、大衆はこんな身勝手なこと権力様がやるはずないと思いたがるが現実は、こんな馬鹿げた傲慢事をやるのですよ、私腹を肥やすために。憲法でさえも拡大解釈で軽んじる政権が法令ごときを几帳面に遵守するはずない、資本の理屈のいいように幾らでも拡大解釈されて労働者から剰余価値が搾取されるのは目に見えている。確かに旧態的日本人の一部にはいつまでもだらだらと会社に居残って何するでもなくだべっている給料泥棒もいるが、仕事の効率アップによる三本目の矢云々するならば残業代ゼロではなく残業そのものを禁止にすべきだろう、それでこそ、限られた時間と人件費の中で成果が生まれるというものを、残業代ゼロにして成果だけが求められるのであれば成果なんていうものは無制限に求められるのだから無限大の時間を労働に費やされる事になる、残業代という資本への軛も外れたらそうなるのは分かりきった話だ。(配偶者控除廃止については別考を要する)財政再建=経済活性化=効率化が目的でこういうことするならばまず財政の立案承認者である国会議員が責任をもって率先して身を処すべきものを(国会議員定数削減、給料削減!)それにはほうかむりしてすたこらさっさと逃げておいて戦力逐次投入の逆パターンのように煮え蛙的に小出しに増税しまくる庶民増税へ突っ走るのだから(軽自動車税、健康保険、消費税、ガソリンに混ぜられた環境税…軒並み増税。そういえばガソリン暫定税率どうなった。まだ暫定か。馬鹿にされたものだ)「私腹を肥やす」ためと云われて何の言い訳が立つのか云ってみろ、といいたくなるのに無理はない。
原子力規制委員会からは、安全重視によって原発再稼働という政治方針にそぐわぬ地質学者を放りだし、再稼働に前向きな御用学者を追加。安全度外視、喉元過ぎれば何とやら、原発利権圧力団体の強勢。原発稼働するならば放射性廃棄物の無害化方法をせめてパイロットプラントで確立してから、というのが技術的産業的常識だろう、そんな技術確立が不明の状況で(文殊も頓挫)放射性廃棄物を増産し続ける原発を動かすというのは明らかに他の、政治的論理によるのだろう、それが原発=核兵器所持ならば、せめて原発一、二基だけ生かしてその他は閉鎖でもいいではないか。現有原発全基再稼働を目指す現政権の強勢は人後に劣る。これもまた、啓蒙思想の腐敗の一様態だ。原発賛成の議員、電力会社社員、財界人は一人につき一袋(一トン)の高濃度放射性廃棄物をぶち込んだ鉛の箱を各自の家やマンションで子々孫々保管すべきだ、さもなくば、放射性廃棄物処分場候補地にいい場所がある。一体、どこの自治体があんなものの処分場を受け入れるのか。処分場を、東京のど真ん中、皇居内に建てるべし。絶対安全に半永久保存する事が出来るというのであれば何の異存があろうか。天津神と国津神と天孫が数万年先まで、この国の腐敗そのものである放射性廃棄物の安全に寄与してくれるであろう。だから陛下も喜んで受け入れてくれるであろう。それでも足りないならば伊勢神宮、明治神宮、靖国神社、京都御所に処分場を建設すべし。御国の未来を想う皇祖神と英霊の御力で有害放射線を封印せよ。さもなくば国会議事堂と国会議員会館に放射性廃棄物をぶち込むべし。
人間は、役所や経済アナリストやシンクタンクが統計で作成する棒グラフや折れ線グラフを上げ下げするために生きているのではない。国民総生産や出生率や税収の棒グラフのアップのために個々の人間は生きているのではない。人間は如何に他者と関わろうとも私の生を生き私の死を死ぬのみである。国民総生産の棒グラフが示す、国家間順位の将来的低下を憂う有識者よ、人間を馬鹿にするのもいい加減にしろ。何も十把一絡げに増税ゆるさんと云っているのではない。破綻寸前の財政からいえば増税も致し方ない面もある。ただしそれをするならそうした事態に対して最も責任を負うべき国会議員や国家公務員がまずはカイより始めよ、という事である。こんな時には都合よく主権在民=一億総懺悔とばかりにきっちり被支配者層には重く広く負担を押し付けておきながら、自分らはほとぼりが冷めた頃に御手盛りでこっそり甘い汁を増やすのはやめろ、という事である。それが出来なければさもなくば、という話になるから。
醤油やマヨネーズやソースやワサビなどを封入した小袋の側面を切れやすくしてくれているマジックカットが連続してうまく切れないと、自分の運気に異状をきたしていると思う。マジックカットがうまく切れずに力づくで小袋を破断することでブチュっと指先を和カラシなどで汚してしまうのが数回続くと、呪に縛されているのかと、慄く。
ボーナス日で気分が大きく、出前で街を歩く中華料理人のコック帽を見てビールの泡を想起、たまらず入った居酒屋で飲みまくり酔っぱらってボーナス袋を喪失、やけになって更に飲みまくって千鳥足のところを警察に連行され、辿りついた交番にボーナス袋が届けてあった、そんなノリスケの幸福な無頼に乾杯!
the esquires
the headstones
floyd dakil four
the playboys of edinburgh
finnicum
the excels
the reasons why
the cicadelics
the countdown5
the lynx
the warlocks
the barons
the trolls
the sweetarts
sherwoods
「friction/friction(1980)」
五月蝿い、使うのが甚だ苦痛な、でも使わなければならないほど重すぎる掃除機の音を家人が鳴り立てるのを堪えながらフリクションを聴いているしそうせざるをえない午後。こういう音楽は爽快な晴れ間で聴くよりも、湿りのため重低音に凄味が増す車内スピーカーで雨の中運転しながら聴くのがいいが今はそれはままならず、この音楽に没入できない気の抜けた明るさの中で掃除機に攻められながら聴いている。この王道なきロック史で挙げる音楽は巷間に流布したきお奨め音源というわけでもなく、己の主張を統帥するための手札でもなく、徒然に手に取った音、ただそれだけであった。紡錘筋を鷲掴みされてブンブン弾かれる。久しぶりに手に取るとペーパージャケットの表面に黴が、枯れていた。音は、削ぎ落としたというよりも引き締まった、無駄の無い攻撃性。その攻撃性の述語を、人の頭諸共断ち切る具合だった。しかしこれよりも凄まじいロックというのはごまんとある、と感じた。先ほど、流産した胎児の拳が十一面観音の頭部のように硬く集結した糞を肛門を傷つけながら少量絞り終えたばかりだった。
まことに脱力させる、シャレ乙な単語を拾遺。地方局の昼の情報バラエティ番組と、破綻しかけたデパートの服売り場で見かけた言葉。
オシャンティな午後のひととき
ナイティ:寝間着、パジャマの意味
夏支度、その前の梅雨備え。冬布団を干して仕舞い、夏布団を干して迎える。物干しに使うベランダの手すりには赤虫が徘徊する。それをふき取って布団を干して引き上げる際に布団の上を赤虫がうごめいているのでいちいち弾き飛ばしていると潰れて白いシーツに赤い汁が付く。赤虫をコロコロで除去する。幾らでも日々磨滅する心の脳みそのつるつるに何の取っ掛かりも無く風さえ吹き過ぎる茶番に何時まで付き合えば気が済むのか、どんよりと頭が悪くなる…頭がおかしくなりそうなのはアナと雪の女王の歌…英語、否、アメリカ語特有の、発情猫のように汚く厚かましく伸びる声の押し付けに、ほとほと嫌気が差し、反吐を催す…最早、物欲や消費への励行によってはごまかし切れぬほど事態は深刻の度を深める家政状況…ッパパパパパッ、と、ガラス片が全身に容赦なく突き立つ、それも、摂氏五千度の熱線で瞬時に焼かれて吹き飛んだ皮膚の下の肉が爛れて剥き出しの、過敏極まりなく赤熱して水膨れした肉の表面へ…もう、今となっては…あらゆる政治的国際的を含む片鱗を示唆する些細な情報であってさえも、このように生皮剥がされたアツアツの肉面にガラス片が突き立つようなキツイ苦痛と、納まりつかぬ憤りと恐怖に吾を失いそうになるのだから、あらゆるニュース番組や報道番組は禁物な状況であった…常に古くて新しい生存剥き出しの資源争奪戦へと形振り構わぬ後進資本主義国の伝統的帝国主義化、黒船ならぬ赤船の横行(松岡正剛)、伝統的ブロック経済化による確執の激化、領土、領海強奪にかかる暴力の既成事実化による済し崩し的肯定と、弱体化した先進諸国の諦めと日和見、環境問題の無視がむしろかっこよい潔さとされる倒錯美学、原発建設においてはまず安全よりも安定した電力確保を重視するとする公言(トルコの首相)、棘のようにチラ見しただけなので正確な情報の受け取りはできていない可能性があるが対馬の神社の絵馬に韓国人が反日落書きして悪びれる様子も無い人間の無様な劣化、食糧争奪、人口、覇権、財政危機、経済破綻、そして金持ち強者優遇貧乏弱者からの重税搾り取り、生存権破壊、アメリカ富裕層が突っ走るアナルコ・キャピタリズム、そうした富裕層とは隔離された99%の貧困の身分的再生産、見掛け倒しの理屈武装で保身に躍起なネット情報ばかりが独り歩きする暴走の些細の積み重ね、目の前に居る人間の顔と事後的に積み重ねられる達成事実以上に信頼というものを得ることが出来ぬのも分からずに本質的に信頼性から事実無根である情報やデータにばかり中毒依存しては徒に事態を激化させる、顔を見ることを忘れて、という目的から遠ざかる保身的愚昧の専横、困った人(国)がいたら助けてやるお互い様の思いやりが流通する土壌は壊死、啓蒙思想の腐敗、現代の啓蒙民主主義=古代ギリシャの五百人僭主時代、クローズアップ現代とかうっかり視聴してしまうと、加えて箇条書きで垂れ流されるニュース原稿の数々でさえも、その全てが、痛覚神経剥き出しの小生の心の襞に突き食ってかかり、全てが己への暗雲と黙示録的断罪と逮捕状を通告するのだから、耐えられない、えげつない、蓮っ葉な言い方すれば気持ちが「ビンビン」に怒張しており、気が狂いそうだ…多数決剥き出しにおいては、主権の発動など、数少ない投票機会以外にほぼ無く、とりわけ自分の票が生きた事がほぼ無い(自分が投票した候補者が当選した事がほぼ無い)小生であってみれば選挙が終われば白紙委任でもされたが如きに好き勝手やりまくる政権に対して全くの無力、間接民主主義という言葉の露悪的なまでの自己撞着をぎりぎりと思い(代議的に間接した途端民主主義は寡頭制へとすり替わる…)、選出された途端、その人間は人間性ゆえに何をしでかすか分からぬのでありよって代議制をとった途端民主主義という呼称は欺瞞に陥るこの常識をシニカルに受け入れるしか能が無く…且つ、何らかの急進的な、あるいは緩やかな社会運動を起こして制度変革を目指すといっても自分にそのような組織立った才覚があるはずも無く自分にできる事を自分が出来る範囲で精一杯やり遂げるのみ、だから政権にやられっ放しなのも自分の責任として致し方ないとはいえ腑に落ちぬ熾火が消えぬ…それを甘えだと糾弾する理屈もあろうが、人の信念をこき下ろす理屈は蛆虫のごとく幾らでも湧いて出るものだ…決めて、断て=決断(ヤンキース黒田)それでも民主主義という幻想を錦の御旗に仕立てるコマーシャルを何度でも何度でも強制的に見させられ…直接民主主義ならどうだ、従来ならばそれは専従政治市民と労働奴隷という階級の固定化を前提せざるを得ないから一笑に付されようが今ならインターネットのビッグデータとやらを活用して…とここまで書いておいて自分でもその賢しげな愚昧に反吐を催すのであり…間接だろうが直接だろうが多数決が民主主義の実相ならば人間個人にとって結局絶対王政と何ら変わらない…人間一般など存在しないのだから。偶発事故により事態は一挙に決壊、自分一人で味噌汁作るのとは違う、自分一人ではどうにもならない大きい情勢に一挙に巻き込まれ翻弄される可能性だけがぐんぐん上がっている。
不思議な事に、国民国家の意識なく各々の領主がそれぞれのやり方でやっていた封建制の方が現代よりも遥かに民主主義的に見えてしまうのはなぜか…自分という人間は如何なる政体だろうと、自分が少数派だろうと多数派だろうと…まずもって救われやしないし救いをふんだんに拒否する性(サーガ)であった事を思い起こせ、隙間だらけの心に迷いが生じて、さもしい、分別の無い後悔に自分が持って行かれそうになったら、ベーコンの画集を開くとよい…グンッ、と、すぐさま此岸に引き戻してくれる…光が真っ黒に燃えるねじれてぶち切れた荒野(あらの)へと…何にしても人の信念をこき下ろす難癖など蛆虫のごとく幾らでも湧いて出る、勝手に騒いだ世間が世間を騒がせたと吹聴して生贄を叩く様は湧き出た蛆虫が餌にありつきながら餌に毒つく恩を仇で返す所業、これ以上付き合ってられない。
舞台や映画やドラマでの女優や歌手としては今一歩何かが足りず、モデルは卒業した状況での活路を、強力な事務所の揺るぎない戦略によって確立された、「CM女優」という新しい分野。商品と自分自身をわずか15秒間だけ輝かせることが出来る、という才能(=容姿)の発見。CM女優という立ち位置をいまだ意識できぬ古い視聴者から、映画やドラマ界では活躍できぬのにCMに出まくるのは何の権利や実力があっての事だと苦情が殺到しようとも、しつこく起用し続けた事務所は、もう、この「CM女優」という新需要の確立を、盤石にしている。これもまた、我々は受け入れるしかない、さもなくばテレビを燃やすしかない。
・上戸 彩…先駆者
・武井 咲
・剛力 彩芽
・佐々木 希
結局、流通媒体を抑えた者が権勢を振るう…卸問屋とか電力会社とかネットとか人事部とか、そしてその流通媒体の様式によって、その、流通される内容(クリエイターの方々が吹聴するところの「コンテンツ」とやら)が規定される可能性が大きく、ぎたぎたしく口惜しさがこみ上げる…書物、という形態も電子データへと解体される未来予想図は着実なのだろう、そうするとそうした流通様式に率先しておもねた内容のものが時代に合った新作物として誉められ、好ましく気軽に受容され、幅を効かす…その作物のそうした有り様が新しさの新発明の栄誉に浴するのを指を加えて見ろというのか…書物の、たとえば初版本収集に見られる物としての愛好癖がタブレット普及によって一掃されるのは爽快かもしれない、書物のモノ性が払拭されて純然たるデータとしての内容のみが競われる世界への突入…悪くはないが、文学芸の行く末はこの際どうでもよいが、ただ、電子媒体による流通が如何に張り巡らされ芸術様式が変容を余儀なくされようとも、残るものは残るだろう…それは、人間が人間の真ん前で引き起こしてくる、最も原始的な様式…例えば演劇であり、音楽ライブという方法は。ネットやテレビでの受容方法とは一線を期して、肉迫する体験をもたらすこの、古代から続く直接様式の格別が抹消される事はないし、そうなっては本当に終わりだ。現在では防音壁に隔離された小部屋に甘んじているとはいえ…ドームや武道館やアリーナや夏フェスなどは自治体主催の無意味祭り(国民体育大会、ヒロシマフラワーフェステバル、フランス革命時のロペスピエール主催の最高存在祭り)にまで公共的に磨滅しきっている。この直接様式の肝は、受け手が演者の繰り出す表現を調整・制御できぬ屹立した暴力性も要因の一つだろう。テレビやネットは受け手が音量や画像の大きさなど調節できるというのもあって。しかしそれよりもこの直接様式の肝は、やはり、受け手の眼前の人間が表現を繰り出す、という方法が露わにする、人間というのはいつなにをしでかすかわかったもんじゃない、という根源の体験であった。面倒なので「表現」という言い方を不躾にやけくそ気味に使ってしまった。「根源、ただそれだけだ。」と、草野心平の詩を評して、高村光太郎が述べたのを思い出した。
そして開かれる目に光を放射するものが開かれる ヘルダーリン「ランダウエル」
reck:vocals,bass,synthesizer on no thrill *guitar solo on crazy dream *rhythm guitar on out
tsunematsu masatoshi:all guitar except*
chiko hige:drums,alto sax on cycle dance & out
「はっぴいえんど/風をあつめて」
蕪村が好きで好きでしょうがない…詩も俳句も絵も…どっしりと軽い。スマホやそれに類する端末をいじって、そのいじる事が出来ることに得意になってる感が露骨な小学生などみると腹が立ってくる…ああしたものがどのように作られどういった原理で動いているのか分かりもせず、分かっていると自負しているにしてもウィキペディアを斜め読みして分かった気になってる、自分の考えで自然法則と事を構えながら自然をよく観察して仕組みを仮設して試行錯誤を繰り返して手を汚して物を作った事が無いくせにスマホのアプリに徒に操られて道具に使われていい気になるが如きは…。
衛星放送を見ることが出来ない貧困層が見る地上波は再放送だらけで充分と莫迦にしているのか地上波のNHKは再放送だらけなのだが、出土した、弥生時代の木製祭器を、現代の木工系人間国宝三人が、当時の道具(これも現代の名工の鍛冶師が再現)を使って再現に挑戦するETVスペシャルをまた再放送していた。内容は熟知しているのに再度、最後まで視聴してしまった午前1時。この番組については小生のエッセイ「白菜の終わり」に書いているので、再放送を再視聴しても感想は変化しないが…また、心が熱くなった、否、篤くなった。二千年前の名も無き工人の、実に理にかなって手間を惜しまず丁寧かつ工夫に富んだ真摯な仕事ぶりを、人間国宝たちが困難を極めた再現作業を通してまさに手と心で以って痛感し、篤き涙を流すというシーン…弥生時代の木工製品でさえもどうせ作れやしないガキどもがスマホいじっていい気になっているのを見ると、糞忌忌しくなって来る。
インタラクティヴアートやメディアアート、たとえばプロジェクションマッピングなぞ、建築物にプロジェクターで映像をテンポよく器用に映写して人心を公的に驚かすだけの…本当に下らないと思う。アンテナ立ってる、エッジの効いたクリエイター先生が如何に高度なアルゴリズムを駆使しようともやってる事はくだらない子供だましであり、大人の鑑賞に耐えるものではない。あんなものは、フランシス・ベーコンの三幅対の如き真の芸術に比べたら、恥ずかしくて自刃すべき屑の如き代物だ。
山岡&雄山の福島での鼻血問題は19日のスピリッツを待つしかないが、ここで留意すべきは、自民党の憲法改正草案では、「公の利益に反する恐れのある表現は認めない」としている、即ち山岡の鼻血といった表現は、自民党が目論む憲法では公然と弾圧の対象となること、である。以前にも書いたが、自民党憲法の下では表現の自由は無い、という事である。繰り返すが表現の自由とは、既存の公の利益という存在を批判すること=反する事そのものだからだ。総理、閣僚そろい踏みでの今回の対応はその前哨戦だ、と見ていい。
集団的自衛権の憲法解釈は、相も変わらずだが、憲法9条という神学論争を改めて公表した不毛に過ぎない。神学とは神の実在という神聖不可侵の前提を壊さずに、どうにも神の不在を信じるしかない現実の事例を、あくまでも神の存在で以って説明しようとするロジックの工芸品である。憲法9条という明文が意味する処を壊さずに、如何に9条の意味とはどう考えても異なる事案を、飽くまでも9条の意味に添うように解釈しようとする神学答弁の虚構はもう、今更、そもそも自衛隊や日米安保でも効力を持ってしまっているのだから、今更また言い訳がましい神学論争する集団的自衛権に、目新しさは無いが、そうした常態化もまた承認構造への便乗へと託つのに一役買っているのだろう。日米安保という、9条から神学的承認された、9条の衛星的神学を否定する気が無いなら、9条の神学的衛星の日米安保の神学的衛星の集団的自衛権行使もまた神学的に承認される、という…もう、何にも新しくは無いが、…いう事は無い。批判するなら日米安保をイシュー(問題)にすべきだが情勢から云ってどうせそれをしないならば自動的に集団的自衛権はイシューになりはしない。だが、問題というのはいつの時代でも、有り触れた、馴れてしまっている、思考停止のこの大勢この岩盤そのものである。
国家や資本側による労働環境の悪化=搾取化もまた顕在化鮮明化している…幾たびも繰り返されてきたし資本主義体制の必然であるのは分かりきったことであるのに…労組軽侮の論調が国家=資本から一方的に吹聴されようとも…結局どうにかできるのは労組しかないというのは歴史のみならず、歴史的に資本と闘い続け、今ではそこそこ恵まれた労働環境を得ている現在の大企業の製造業における労組存在を見れば分かることだ。食品、衣料、ITその他新進企業などは労組を作らぬことを採用条件にする手口など…これもまた昔からある手口だが…ブラック企業などと呼称するとさも現代的な問題に聴こえるが全くそんなことはない、産業革命期から根強く昔からある問題だろう…そもそもそんなのは労働三権を明記した憲法違反であって、しかしいまだに昔ながらの悪質な方法が効いてしまうという実情は、自分の知りたい事を自分の範囲内でしか知りえないコンビニエンスな検索情報を貪るばかりで、無制限に乱雑極まりない過去の人間の蓄積した知識の大海を自ら遊泳して獲得した知恵をおざなりにした若年層自身の怠惰によるツケともいえる。ようするに馬鹿にされているのだ、馬鹿にされていることにも気づいていないことも馬鹿にされて思う存分、昔ながらの資本の原理から搾り取られている。もっと詳しいことを云えば、ポール・ラフォルグ(マルクスの娘婿)がかつて提唱した「怠ける権利」という概念が布石となってくるのだが…これもまた長くなるので次稿に譲る。
昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。
先にあったことは記憶に残っていない。
これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
…旧約聖書 伝道者の書
旧約の伝道者の書の一節だが、この一節はたいしたことないがこの伝道者の書、これほどに震撼すべき書物を小生は知らない。
ルソーが述べている、近代代議制の限界は、単なる現実であるし、それについて小生は超克の必要を訴えるのではないが、肝に銘じるために挙げておく。
他人の自由を犠牲にする事無しには自由を保つことができず、市民が完全に自由でありうるためには、奴隷は極端に奴隷的でなければならぬ、という不幸な状況がある。それがスパルタの状況であった。諸君のような近代人は奴隷を全くもたないけれども、諸君自身が奴隷なのだ。諸君は、諸君の自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ。…(中略)…それはともかく、人民は、代表者をもつや否や、もはや自由ではなくなる。…ルソー「社会契約論」
もう、云ってしまうべきなのか。昨今の内政および外交全ての問題の根底を…云い惜しむ余裕など最早ないのだろう、あと一年後から小生が執筆を開始する創作文書においてこそそれはきっちり告発されるはずだからずっと我慢しているのだが…先に云ってしまおう。19世紀と20世紀の世界は、18世紀の西洋の啓蒙思想の遺産を食って生きてきた…21世紀になって最早…西洋啓蒙思想(基本的人権、人間の尊厳、etc…)がその効力を失墜しているのだ、少なくとも非ヨーロッパ圏においては、と。啓蒙思想とは何なのか、を歴史的思想的に追究すれば、現在の状況=時局は全て手に取るようによく分かる。この難局を乗り切るには…結局私達が私達自身で新たな啓蒙思想を創出せねばならぬ…それは啓蒙思想と呼ばれないにしても…そうしたありようがそもそも啓蒙思想なのだ、ということがあまりにも現在、忘却されている…今回は此処までに留めよう。
あらためて原曲をきちんと、音の房を掻き分ける具合にその陰陽の綾を聞き取る機会を得ずして綴ろうとしている…「はっぴいえんど」の「風をあつめて」について…だから隔靴掻痒のもどかしさは否めないにしても、漫然と垂れ流すテレビから、風をあつめてが聴こえたがそれは、21世紀になってよくありがちの、往年の邦楽やJポップをボッサノヴァないしはニューソウル調に、シャレ乙な感じにアレンジを施したそれではあり泡沫の憤怒が火花を散らす刹那もありつつむなしい大勢の流れに押し流されるしかないそれでもまた怒りが…シャレ乙な、例えばカリモクのソファなどナチュラルでオーガニックな趣向でしつらえたカフェなどでしばしば遭遇する世界観…それでも、件の、糞不味い珈琲と腐ったダシ汁の臭気が充満するフォーク崩れ親父の、ごてごてとつまらん伊万里の金襴手の皿など飾り立ててそこかしこに汗と油で湿った埃が堆積して総じて不潔な、昔からやってる純喫茶の劣悪よりはこの際ロハスカフェのリラックス感と緩やかなコミュニティ感を控え目に出すがそれゆえに情報巧者なあざとさが拭えぬオーガニックカフェの方が幾分ましなのだと思えど…返す返すも腐ったダシ汁純喫茶への憎悪は徒に煮えくり返るが…はっぴいえんどやユーミンなどの楽曲をシャレ乙ボッサ調に塗り替えてシャレ乙カフェの空気感の演出に供するそうした感性への批判をここで展開するつもりはなく(京都のバンドくるりの功罪?)、「風をあつめて」のシャレ乙バージョンをふと耳にして多少のいらつきを超えつつ自分として思い起こしているのは直接的に、原曲の、はっぴいえんどの風をあつめて、ではあった。十数年前…ロックという音楽の探求を、小生が負うべき音楽全般研究の一貫として始めた頃…当時入手しづらかったエクスペリメンタルないしはコンクレート、フィールドワークや音響系音楽などは、各種の実験音楽雑誌(私家版)に載っている気骨あるレーベルやレコード屋さんに手紙を書いてカタログを郵送してもらい、そこから満を持してこちらで選んで手紙で注文、先方から代金の総額と振込先を明記した手紙を受け取り次第入金して目当ての音源を郵送してもらう、ということをしていたが、ロック研究においてはそこまで流通が厳しくないと踏んでまずはレンタル屋で片っ端から基本的な音源のCDを借りて個人的に楽しむためにテープに録音、という方法を取っていた。その一貫としてはっぴいえんども、テープに採っていたから、はっぴいえんどのCDやLPは所持していない。
天袋に仕舞っていた小生収集のテープ群から埃塗れになって探し当てたのがこれだ。収録曲の配列を見る限り「風街ろまん」や「(通称)ゆでめん」といったオリジナルアルバムではない、それらの寄せ集めのベスト版のCDをテープに複製したもののようだ。しかし、このテープをかけてみると、中からはザッパ&マザーズのフィルモアイーストやアナザーバンドフロムLAが脂っこく聴こえて来てむさ苦しい事この上なかった。恐らくはっぴいえんどのテープの上にザッパを上書き録音したようだ。したがって、風をあつめてのオリジナル音源を確認すること能わず。ユーチューブといった方法も承知しているが、それは違うと依怙地になっている。だから、専ら記憶に頼るしかない。そう…文庫でいえば岩波文庫なのだろうか…「真理は万人によって求められる事を自ら欲し…」で始まる岩波茂雄の発刊の辞、これは三木清が代筆したものであるのは人口に膾炙するが…そんなことは御構い無しに、納屋に仕舞いっぱなしの古い壷の底に澱む歴史の古層の空気が…ボフォッとげっぷするふてぶてしさが熱く濃い塊のようで…この場で古式ゆかしい日本語ロック論争に参戦するつもりはないが…黒く湿った呼吸が初めて日の光を浴びた音楽がのっしのっしと。どっかどっかと、騒ぎ立てとは技の組み立てが異なる、物の音のような生音感がエレキを通して、暮らしている。朝日を浴びては夕日に目を掠めている生活。小生が悩んでいるのはこの音楽の、音楽的立ち位置などではない、そんなものはどうでもよい、寧ろはっぴぃえんどが澱んでいた、納屋の暗がりの古い壷が何なのか、である。山陰の地で荒みの祖神スサノオとバトルした八岐大蛇が大いに呑んで呑まれて呑んだ酒、機嫌よく八回も首を切られたこの酒を入れた甕は備前焼だった、と「伊部焼通史」(鳥山信次著、昭和十二年六月五日発行)に記され痛快なのだが、はっぴいえんどは何焼の壷なのか、に苦悩している…やはり古備前なのか、と思う次第…メジャーなのに譲らぬ所は決して譲らぬ手際が寡黙ながら確実に切れており、誤魔化しを許さぬ気質がある…丹波の獰猛ではないし、常滑、信楽、越前系の分かりやすい陽性なポップスとは、この頃のはっぴぃえんどはまだ隔絶していた(常滑~信楽~越前焼の大らかな伝播、汎用性、自由度はGSであろう、もっといえば常滑焼はタイガース、信楽焼はスパイダース、越前焼はジャックス?ゴールデン・カップス?)…古瀬戸釉のような舶来憧憬はフラワートラヴェリンバンドか、はたまた和製プログレ系の四人囃子か、と…一体何を云っているのか、自分でも頭がおかしくなったのかと思う。こうなると、ならば唐津焼はどのロックバンドに相当するのか、萩は?益子は?、と、焼物を主としてロックバンドを語る奇怪な牽強付会に陥る…しかしあながち間違ってはいないと、北叟笑んでもいるのだが…とはいえ、はっぴいえんどに古備前を思うのはあながち間違いじゃないにしても、さらなる可能性を突き詰めるならば、珠洲焼も見落としてはならぬと自戒するのだった。能登半島の突端で、これまた独自に連綿と、途絶えながらも今に至る孤児の如き、須恵器の生きた化石、青備前の典雅を詰るが如き、野卑にざらついて青黒い還元焼成一筋という稀有。そう思うと、そうした一面もないわけでもないが、はっぴいえんどを珠洲焼一つに収斂するのは無理があろう…やはり備前だ。
裁判が結審していない以上、推定無罪の原理を尊重するが、シャブ&アスカ(チャゲ氏に失礼この上ないが、あまりに秀逸なので週刊文春でのえげつないこの表現を踏襲させて頂きたく)。yah yah yahの冒頭は予言的だった。細君が揶揄的に気付いたので、それをここに記す。飛鳥氏は、「その気に」なってしまったのか。こうなると全てが揶揄に聴こえる。創作するミュージシャンの苦悩を慮るも、シャブは幻覚妄想で殺人に発展するから取り締まりはやむなし。此度の騒動が、彼の才能と人人に対する認知度の再燃の好機になることを願う。say yesやyah yah yahよりは、love songやはじまりはいつも雨、に、何ともユニークな音の連なりがあった。頼りにすべきはチャゲ氏しかいない。
必ず手に入れたいものは
誰にも知られたくない
百ある甘そうな話なら
一度は触れてみたいさ
勇気だ愛だと騒ぎ立てずに
その気になればいい
日曜日の昼間、何でも鑑定団二本立てをぶっ続けで視聴してしまった退廃に苦しむ小生であってみれば、陶芸家夫婦による骨董屋殺人事件が、身につまされる。堺雅人氏が次の次のNHK大河ドラマの主演真田幸村に抜擢されたとの由、この不幸を悲しむ。当代一の俳優堺雅人氏は、「へうげもの」の主人公古田織部役でこそ、その都度創意あふれる演技で「へうげもの」世界に匹敵するであろうし織部を演じることで堺氏自身も新境地をひらくというものを…三谷氏脚本の真田物というのも、「新撰組!」を過去にやっているのだから予測がついて、新味に欠ける…そんな、先の見通しの無いドラマで堺氏のキャリアに汚れが付くのを黙ってみては居られぬ…加えて、幸村を堺氏がやるということは、へうげものを大河ドラマで堺氏がやる可能性が払底されたことを意味するのだからその絶望たるや。
「旅の思い出 家⇒小倉⇒東峰村⇒小倉⇒大分⇒宮崎⇒鹿児島⇒熊本⇒小倉⇒家」
宮崎市平和台公園 皇紀二千六百年記念 八紘一宇の塔
日南海岸(サンメッセ日南)遮るものなき太平洋
シーガイア近くの植物園にて 謎の花
大越キャスター似の男衆に先導される花魁
もう終わったのに、また、宮崎への旅支度を始めかねない、まだ現実を受け入れられぬ危うい心。一旅終わればまたぞろ心旅づいてそわそわ支度しとうなる疼き、一つの終わりを心なしか紛らわそうとするも払拭出来ぬ虚ろな一抹は否めず…浮ついた悲しみに立夏、日増しに強うなる光に耐え難い鬱屈の影は濃くなるばかりに、逃れられはせぬ日常が淡淡と続くのであろうか…早くも色褪せつつある旅の思い出の断片を思い出すままに綴らんとする気概も消尽の嵐に飲まれようとするが、鼓動を失った、ミイラ化した遺骸で以ってでさえも綴らねば気がすまぬ、枯れて枯れて魅力をとことん殺いだ屑の如きでさえも残さずには居られぬ文草、飛び立てば速攻で離散霧消する宿命であってさえも…底の底まで見透かされた明るい気落ちのままに浮沈する片鱗の思い出にしばし…求めずして得られたお招きに便乗して己の立案なる計画も重ねつつ、福岡は東峰村での小石原焼民陶村祭を経由後、宮崎漫遊、鹿児島経由で帰路に着くという九州大陸一周の旅程であった。うたかたの記憶廻り、時の流れが澱んだ中での浅はかな目移りのままに…
どうせアマテラス系だからかつて一応現地調査してきた伊勢みたいに御高くとまってんじゃないの、鼻持ちならないんじゃないの、と半ば先入観で危惧しつつ期待は抑制していた宮崎の神域は…風土は…遮らない平原の広々した大作りのそちこちに点在する楠の巨木が一本あるだけで鎮守の森レベルに鬱蒼と古格、そして街道筋に居並ぶ椰子の木は神殿の列柱のようでいながら椰子の木気質の、のっぽりした能天気で柔らかい雰囲気に遥か高みで生温かい風に揺られており、そんな気分に包まれると、たとえ日没になろうとも漆黒の闇の深刻程遠く、ぎたぎたしい時局放談に興じる殺伐とした集中がほんわりほだされて…郷土の名物料理に舌鼓、百年の孤独に乾杯するあまりプチマコンド村気分、切迫する時局と政治、思想と芸術への悪態が氷解する南風の土地柄なのは、衰えが隠せぬ小生の荒みであれば、太刀打ちできないのは致し方なかった。伊勢神宮では威嚇的に直線的な教条的な杉の巨木が、まるで要人警護のように、とりあえず全ての参拝者を犯罪予備軍に見なす傲慢権力の証しなのに対し、東征なした神武を祭神に祀る宮崎神宮はぐねぐねおおらかに幾多も分かれては大地と虚空に枝を張る楠の巨木。どこまでも参拝者に優しい受けとめである照葉樹林文化。国家神道の神話的虚像を、その虚像の本来的脆弱ゆえに何が何でも護持せんとする依怙地のかたくなさがアマテラス=伊勢であり、記紀神話の一節の実在と想像のあわいながらもまだ大和王権樹立以前の一部族の長レベルであった、生々しい人間の息吹も想像に難くない神武=宮崎、などと想像はいくらでも飛躍する。ホテルに向かうタクシーの運転手氏も赤かぶ刑事中村梅雀のような柔和な風貌で、決してこちらから口をきかぬ小生発の沈黙に耐えかねて、といった、小賢しい空気読みなどとは違って、押し付けがましくなく、ほとんど車内ラジオの音声のように自分を消して柔らかく話題をふって来るのが心地好く、車からは鼻にかかった男の艶声がネオン街の作法を歌うムード歌謡、当たり障り無い話題は駅前の閑散から、中心部の繁華街の栄えの指摘、であって、兎に角感じがいい。
山口と広島に共通する下劣なヤンキー気質に日頃うんざりしている身には、宮崎の人当たりの柔らかさが心地いいのである。あのヤンキー気質とは、誰の同意を得たわけでもない独自のルールを、階級的=肉体的弱者であると持ち前の嗅覚で嗅ぎ付けた他人に有無を言わさず押し付けてくる、偏執的理屈っぽさである。「おまえガンつけただろ」→「おまえが先にガンつけたからおまえが悪いからおまえはおれに謝れ」→「謝らないなら謝らないおまえが悪いのだからおれはおまえをぶん殴る。それはおまえの責任だからな」といった、暴力を背景にした因縁→謝罪要求、という、ヤンキーの中でだけは筋が通っているねちっこい理屈である。暴力の威を借りながらも、異様に理屈っぽく、自分は理屈的には間違っていないということを執拗に表明するのである、それはあたかも、非連続的に暴力を行使する事への臆病を隠蔽するのに必死なために。こうした連中の下劣ぶりはこうした理屈の押し付けばかりでなく、同じ構造で暴力を背景に理屈を押し付けてくる階級的強者(国家、産業、資本)に対しては尻尾振って媚びへつらう、という有様である。要するに山口、広島のヤンキー気質は国家権力の犬に過ぎないし、実際、見かけ倒しのツッパリ外観の主張とは逆に、体制への異議といった思想的気概などさらさらなく、時期が来ればその持ち前のヤンキー気質で、餌のように嗅ぎ付けた職制の中でそこそこ上り詰めて階級再生産(弱いものイジメ)に努めている体たらくである。
男の体格
背が低い、ガタイが小さい←山口県のヤンキー男<広島のヤンキー男<岡山の男→背が高い、ガタイが大きい
目には青葉。宮崎市から車で30~40分ほどか、滞在二日目、西都市に向かう。西都原古墳群とそこに敷設された西都原考古博物館が凄かった。広がる畑のあちこちの小山は全て古墳、形式以前に多様に試された古代の創意の跡…いかつい石版の外壁の西都原考古博物館…興味深い土器の形態と、装飾に堕する以前の切実な呪的必然が薫る恐ろしい紋様、鏃、しゃれこうべその他の出土品展示が齎す古代からの啓示もさることながら、それらに添えられた、というか主となった、パネル解説の文言が…強弱の効いたプログレッシブなフォント選択もあいまって、学術研究の解説内におさまるつもりなど毛頭無いとばかりに、文言創案者の、古代史研究を通した中での確かな人間洞察に基づく現代への力強いメッセージが迸り、見る者に叩きつけてくる。育ちのいい学術研究から、人間への主張が野蛮なくらいはみ出してくる。学問とは現在を生きる人間への問いでなくてなんであろう、古代史研究であれば尚更、といった気概が、熱いのである。展示の先先で、人間とは何か、どこから来たのか、どこへ行くのか、といった根源的問いを真正面から突きつけて来る真摯を確かにこちらも受け止めざるを得ないような、単なるパネル解説を超越しきった、熱いメッセージなのである。その一説を写真に撮ってここに正確に紹介したかったが圧倒されて撮影を忘れたので、知りたい方は、直に、西都原古墳群に行っていただきたい。うろ覚えを辿って文意だけでも伝えてもいいが、やはり、あの文章そのままでないと、あのパネル筆者の人間理解の確かさ(異常さ?)、は伝わらないと思うから。だって、パネルの冒頭に、何の前置きも無しに、「異貌である。」などと、独自の言葉を叩きつけてくる飛ばしぶりなのであるから。
山時鳥、初鰹。宮崎滞在一日目、宮崎では何をさておいても訪れなければならぬ軍国遺構、平和台公園の八紘一宇の塔をきっちり見学する。GHQの命令ですぐさま爆破されていてもおかしくなかったこの塔の来歴は別途調べていただきたいが注目すべきはやはりこの独特の建築様式である。表に「八紘一宇」、裏に「皇紀二千六百年」と、深く刻まれている。曲線をなるべく排し、しかし直線の組み合わせがモダンな切れ味を流行することもなく、強いてあげればロシア・アヴァンギャルドやイタリア未来派、たとえばタトーリンとかそういった様式に近いのかもしれぬが(ファッショやナチス革命で称揚された未来派/ファシズム芸術と、ロシア革命を牽引したロシア・アヴァンギャルド芸術の親和性、類似性についてはイーゴリ・ゴロムシトク著「全体主義芸術」に詳しい)このいかつい石造塔は宮崎の風土に晒されて湿った風雨に少し角が取れて地被類もはびこり、往年のアンコールワットのような蒸した趣きも醸している。戦争終結をしらずそのまま数十年も東南アジアのジャングルで一人、皇軍戦争を続けて、ついに発見されて帰還命令を受理した横井さんとか小野寺さん、といった、戦後復興に浮かれる当時の日本人にしてみれば後ろめたい、不気味極まりない存在に近いのかもしれない。そして、一党独裁の、中心を基点とするファシズムやスターリニズムと違って、中心なき総体としての有り様であった日本軍国主義はまさに言葉の正確な意味において「全体主義」の理想形なのであるとしたら、それを標榜するこの石塔が、安易に未来派やロシア・アヴァンギャルド芸術に似る筈も無いのである。異貌である。としかいいようのない。小生はこれを、日本軍国様式、と名づける。この八紘一宇の塔に近い雰囲気を、小生はこの国の国会議事堂に嗅ぎ付ける。あれも本当に異常な建築である。薄気味悪く、確かな発信源から他を圧する分かりやすい煌びやかさなど皆無ながら、路傍のような洗練の無さがむしろぬぼうと、まさに民衆の底から湧き上がった不気味な化け物の如き草の根の圧制の象徴…なのである。国会議事堂の建設年代などこの際どうでもよい、国会議事堂も八紘一宇の塔も、日本軍国様式建築であるとここに認定する。八紘一宇の塔は過去の遺物ですむかもしれぬが今も政治の表舞台である国会議事堂でさえも軍国様式建築であるという事の意味は、改めて留意した方がよい。ちなみに小生は日本軍国主義下での戦争画の復刻版を収集しているが、それとあわせて、ゴロムシトク氏には、日本軍国主義様式建築の考察も、彼の全体主義芸術論に加えて欲しかった。
柔らかい宮崎の風にほだされて酒食に和む初夏の淡い夕暮れ…宮崎市内の飲み屋街の発達ぶりはまことに好ましく、風雲急を告げて午後4時半頃から始めた。一軒目は郷土料理をおさえた正統個室系居酒屋、名物チキン南蛮(もも肉)の甘味と酸味の諧調よろしくタルタル、地鶏の炭火焼は、塩胡椒に頼らず、直火によって肉にまぶされた炭の苦味が鶏肉の確かな旨味を甘く引き出して噛めば噛むほど旨し、風土ゆえに焼酎ばかりで日本酒は無かったが、たとえ地元で産せずとも他所の日本酒を置けばいいものをそれをあえてせぬ、という郷土料理への凛としたこだわりに筋が通った店であり、よかった。あまりのうまさと気分のよさに日も暮れぬ内から鱈腹飲んで食ってしまい、言葉の大敵満足へ…腹ごなしに…初夏を先取りする花魁道中見物、そしてフルーツ大野…極楽とか天国というのは洋の東西を問わずどこか抽象的で説得力の無い捉え方が多いが(地獄はその逆)、フルーツ大野は、まさに具体的な天国、といってもよい。マンゴーパフェ、マンゴーアイスを食す…この世の物とは思えぬ絶佳。ハワイや沖縄などのトロピカルとは趣が異なる、どうにも宮崎としかいいようのない優しい柔らかい妙境である。それでいて西都原考古博物館のように、人間精神と歴史への芯の通った洞察も揺ぎ無く示すのであるからたまったもんじゃない。商店街の古格ある喫茶店で休憩…外観の調度品の古格に騙されて入店すると腐ったダシ汁の臭いに満ちた喚起の悪さ&糞不味い珈琲、下らんフォークソング親父バンドのメンバーらしきマスターのおっさんが常連のおっさんとビール飲んでダベリに夢中でこちらに気付かず、という組み合わせの劣悪純喫茶店に何度も騙されたことのある小生であるが、店名を失念したがこちらは…空気もよく、店内も清潔に整えられ…接客、珈琲共によし、皆と琥珀色の時を過ごす。小生は珍しい水出し珈琲を注文。ザラメは数粒、カップの底に落とすのみで混ぜてはならぬ、を信条としている。イベント会場で祭りの後の上気した名残りを少し味わった後、日暮れの冷えもあってアイリッシュバーに潜り込む。黒ビールと4種のチーズピザを所望…イエスの往年のヒット曲などがかかり、いささかのんびりたゆたい過ぎていた精神が刹那、括目する。
ともあれ宮崎の空気にほだされ過ぎた…もっと話す事はあるのではなかったかと反省は少しあるが、あまりがっつく歳でもなかろう…と、老いが忍び寄る。普段は時局に対してぎりぎりした怒気に憤死せんばかりに言語化した殺伐したイラつきを抱えているのだが…旅先での不粋を厭うばかりに、いや、それとは関係なく、要するに、暖かく穏やかにゆったりと、心がほぐれ、ほだされたから致し方なし。マンゴーパフェみたいな具体的な天国が存在するのだから。順番が前後したが洋酒天国、という店名のウヰスキーをのませるバーでも寛いだのであった。ここでもまた、琥珀色の時を上質に過ごしたのであった…。スコッチ三杯、ストレートの至福。
此度の旅の汚点になるほどではないが誤算だったのは宿泊先として小生が予約したスーパーホテル宮崎である。コスト削減を目的とした、露骨なサービスのサボりを、「ロハスなホテルですから」などという美辞なる言い訳を各所に張り出して誤魔化してくる傲慢な態度…安いならまだ我慢するがあの値段でこの低劣サービス内容は噴飯ものであった。まず、あの値段で、激せま。便所一体型の風呂場は待庵の床の間ほどの狭さで何するにも壁に手足をどかどか打ち付ける。室内に異常な濃い臭気が充満しており、それをホテルも分かってか空気清浄機が設置してあるが、入室した時の悪印象は最後まで拭えぬ。朝のバイキングは残飯の寄せ集め風。漆喰でも塗るつもりなのか、フノリみたいにべったりしたスクランブルエッグ…ねちゃつくミートボール…「ロハスですから余分な食材は調達するつもりはさらさらないから遅く来て料理がなくなっていても新たに作り足すことはしませんよ、且つ食いっぱぐれても朝食代は戻しませんので悪しからず。なにぶんロハスですから」という、ムカつく但し書きが大書された朝食会場。ロハスって何だ。調べてやった。ライフスタイル オブ ヘルス アンド サステイナビリティ。健康で持続可能な生活様式。えげつないケチをいうのではない。
五月の快晴、日南海岸の奇岩景勝「鬼の洗濯板」を眼下に眺めながらサンメッセ日南に。船舶の少ない大洋を一望する丘に並ぶ日本製モアイ像…イースター島のモアイ像利権とうまい事癒着した日本の実践的宗教思想家(京都一燈園系)が創建した不思議施設である。わけあって、此度の旅の主要目的であった椰子の木の構造が分かるような写真撮影をつぶさに敢行し、目的を達する。
宮崎に辿りつく前、小倉から日田彦山線を20駅ほど南下、最寄駅彦山駅から無料シャトルバスに乗って着いた東峰村にて小石原焼民陶祭りに参戦していた。なぜ小石原か、というと、ここには、民陶の小石原焼と、茶陶の高取焼の宗家が共存しており、一か所で民陶と茶陶の両方の旨みが楽しめる按配だからだ。そこでの出来事をいちいち列挙する余裕はないが一つ象徴的な出来事として、小石原焼中央展示場の出口に一羽の鳩が轢死していたのであった。この国の民の、古代から続く、焼物に対して余裕なく凶暴なまでの強欲の、悲しい犠牲者なのであった。展示場前の道路は焼物祭りに殺到する殺気立つ民衆の車で大渋滞である。そんな車に、何も知らぬ一羽の鳩が、無残にも轢き殺されたのだ。自分もその一人とは言え…狂ってる。そう、つくづく思う。闇市での物資を詰め込んだように重すぎるほど小石原焼&高取焼の獲物をリュックに詰め込んで肩が千切れんばかり、大陸からの引き揚げ船に間一髪で乗り込むような切迫した困難を幾つも乗り越え、辛くも彦山駅から小倉に戻って一分の遅れが命取りになる特急の乗り継ぎミッションコンプリート…特急ソニックと特急日輪を乗り継ぎ…長すぎる苦行の日豊本線…宮崎着21:19であった。
宮崎市のシーガイア近くの植物園にも連れて行って頂く。何から何まで重ね重ね感謝。ここで珍植物の貴重な資料写真を十分なほど撮影できて思わぬ収穫であり、有難い。しかしこの宮崎市においてさえも…メガショッピングモールのイオンの魔の手が。どこまでこの国を駄目にする気なんだイオンは…(イオン批判は長くなるので別稿に譲る)イオンの駐車場に入りたがる民衆の車による、忌忌しいイオン渋滞に嵌って、帰りの特急霧島に遅れるのではと内心焦らされるが、間に合った。古墳群と博物館に感化された帰りの昼食で宮崎名物「きっちょううどん」。漫然と汁を吸ってふやけたのではない、確かな意志を以て麺の配合と処方を工夫して麺を柔らかく仕上げた喉越しの優しさ、澄んだダシ、雪の如く白い天かすの清らかさ。コシ一辺倒の讃岐うどん覇権への穏やかな叛旗。
宮崎から特急霧島で鹿児島中央まで、そこからは九州新幹線と山陽新幹線を乗り継いで帰路に就く。特急霧島の車窓から見える桜島の雄大。堪能したJR九州は、鉄道での旅を楽しむ、という積極的姿勢に溢れているが、博多からの山陽新幹線が関門海峡を抜けた途端に気付いたのは…通勤列車あるいは出張列車へと、一気に疲労しきった、つまらない灰色の、うなだれた客がぎゅうぎゅう詰めの、トンネルだらけの新幹線、である。鬱屈した現実がのしかかる。先は真っ暗。
ウクライナ、南シナ海、そして尖閣…海外の各地で悪い歯車が一つずつ一つずつ噛みあっていき…事態は確実に悪化の方向へと舵をきりつつある外患は、翻って国内での、資本と国家への従属を強いる搾取と統制化を自明のものとして突き進める内憂を容赦なく完遂するであろう…そうした国家=資本による弾圧行動は直接的に異物に目を付けるであろう…「暗い時代」全然人ごとじゃないし、過去の話ではない。そういう時代を生きるという事を、小生は今、専ら小生自身のみの責任として受け止めようとすらしている。時代の流れに逆らう個人の無力が切実に露わになってくる。八紘一宇の塔も、古代から戦争と殺戮を続けてきた人間の生き様を見つめる西都原考古博物館での人間への激しい訴えも、実際の処、全く過去の遺物ではないのだ。むしろ今、この時局においてこそ正直に対峙すべき主題である。
会談での大筋合意内容
刺身は醤油を、納豆は葱を味わうためのものと心得よ。
こんな句を見つけた。辺見京子句集「黒薩摩」所収(昭和五十三年七月十日 発行)
西都原 三句
野火の果てうちかさなりて古墳群
犬ふぐり古墳のしめり持ち歩く
猪買ひに来て日向路の野火に遇ふ
5月11日掲載予定を、予定を繰り上げて5月9日にアップデートします。次回は5月18日です。
来週休載のみならず今回までも
浮きながら消ぬる泡ともなりななむ流れてとだに頼まれぬ身は 紀友則
ゆり直せゆり直せ 桑原桑原
ゆり直せゆり直せ 桑原桑原 道成寺 喜多流
来週は故あって何も書けないのでうまくいけば次回は5月11日です。
「liszt/late piano works(1980)phcp-9610」
ホバリング雀受け止め蓬原
土俵際で持ちこたえようと策を打ってきたつもりだったが、無駄だった、つまり風邪ひいた。喉が激烈に痛い。思想にも飽いた。そのうち日本中がメガショッピングモールのイオンとエグザイルに支配される、既にされている。イオンがやって来たらその町は兎に角駄目になることを心するがよい。小生もその一人だ、イオンに入り浸りだ。家の中はイオンのPB商品ばっかりだ。安いからだ…糞だ。悟空「クリリンの事か…クリリンの事かぁッ!」あるいはベジータ「超えてやる…超えてやるぞぉッ!」の気持ちと勢いで、「付け込みやがって…付け込みやがってッ!」と声なき絶叫する小生。貧困層からプチブルまであらゆる階級に網羅的に付け込んでくるイオン。くそ不味いお惣菜と腐りかけの海産物を毎度陳列しながら地の利だけで集客するたいして安くもない小規模地元スーパーか(交通手段の無いお年寄りが主たるターゲット)、エグザイル=イオン連合の二択に挟まれて憤死しそうだ。怒りすぎてもうこちらの心が滅多打ちに壊れたから寄る辺ない心の煙の揺らめき程度の御線香心境でしかないが園遊会に招かれたエグザイルが陛下に対して「親孝行できてうれしい」などと言上、平成の御代において天皇の赤子(せきし)たることを公言する臣民ぶりに及んでも、もう、なるべく何とも思わないよう、自分に手加減している…突っ込んで追求したら頭がおかしくなりそうだから。それに、こちらが何を云おうともどうせエグザイルはジムに籠ってエアロバイクをこぎまくって非労働筋肉トレーニングに励んでいるだけなのだから。
しかしそれでも、ガブリエル・ガルシア・マルケスの死を悼む。ある意味小ざっぱりした陽性の権力と人間のべらぼうぶりが混然と丁丁発止渡り合う賑やかな彼の世界は、圧制が不動の氷河のように静的に勝るゆえにピンポイントで精確に異物を摘発してくるこの国においてはユートピア小説のようでもあった。ユートピアだからといって、芸術を憂さ晴らしに堕するかどうかは読み手の気概次第ではあるが…。
時間もなく、それでも、書く分量を、原点に戻って減らしながら、細々と、続けるのか。それに対して何の見返りもないのははなから承知している。虚無への供物を気取る余裕すら荒みきって台無しになっている。点線からただの点へ…ほとんど途切れがちな心を僅かでも繋ぎ止める詮無い試みは自ずと最底辺の仕草にしかならなくて、さしあたって、これを聴いた、という事しか、書けない、という事から、再出発を図るものとする。それ以上の事は、もう、今は、書けない…それは、これも既に形骸化した常套句として、終わりの始まりに漸近するしかないのだとしても…リストの、晩年のピアノ曲を、修行しながら、聴いた、風からも捨てられた、桜の終わりと共にとりえのない、春の盛りの曇り空。巡礼の年である。
幸田露伴が戯曲「名和長年」という脚本を書いていたそうだが、だれか上演してくれないか。露伴らしい、慧眼なるテーマチョイスである。
ピアノ:アルフレッド・ブレンデル
