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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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隠岐の旅 第二回

何か心ゆきが梗塞した、先端の麻痺したこの感覚この心のもどかしさが…浅い呼吸しか出来ず、深く吸えない息苦しさもまた、閊える。赤茶く錆びついた抜き身の日本刀を往来でぶんぶん振り回したくなるどころか心の内ではとうに腹巻一つで寒空の下、殺伐とした心情が夜道を運転すると、アスファルトと空力抵抗に挟まれてますます研ぎ澄まされる感覚の切っ先は硬く脆い…素通りする経験、目星つけたはぐらかし、空しい発作、息が浅い。長続きはしない。文化は土地の意志であろうか。文化は土地の生命体であろうか。あらゆる事物の「出入り」を仮説的に規定する「膜」…内部と外部を穏便につなぐ細胞膜のような…この状態の出入りの抵抗を中とするならば、この出入り抵抗力が極大なのが壁、出入り抵抗力が極小なのが道、となろう…。道、膜、壁。イラつき、衝動、不発、鎮火。煤。関ジャニの顔とか、殺されそうになってでも二度と見たくはない。いつのまにか赤瀬川原平氏が亡くなられていた。ネオダダや路上観察の嚆矢としての活動は元より、小説家、尾辻克彦としての作品も愛読していただけに、改めてこれまでの業績を顕彰したいものです。「父が消えた」、「雪野」、「贋金つかい」など、折に触れての味読玩読に耐えうる、いずれも傑作です。盟友秋山祐徳太子氏は彼の死をどのように捉えているのか他人の慮りなど排すべきなれど、鎮痛御察し致しますれば。厭厭ながら目当ての商品があるから行かざるを得なかったメガモールは祝日景気で超満員どこもかしこも三世代ぞろぞろ、中には小奇麗なメガモールの内装には場違いな、山谷か西成風情で何故かそこらでズボンを脱ぎ出し縞模様のパンツ剥き出しの翁の出現という望まぬ多様性もありながら(望んでいるが)、更には、奥まったトイレ地帯の中では最もメイン通路に近いからか車椅子用トイレに駆け込んだ火急らしき熟年氏が取る物とりあえずズボンを脱いで洋式便座に座ったものの扉を閉め忘れ、しかし身障者用のトイレ個室だから広くて便座に座ったままでは扉に手が届かない、しかしながら不幸な事にちょっとやそっとでおさまりはしない己の脱糞の長続きで身動き出来ないから己の脱糞を、モールに集う老若男女に公開する破目になっている馬鹿げた椿事の最中で半ば自嘲気味にその熟年氏は脱糞を途切れなくしながら「誰か閉めてくれよ」とブツクサ呟くがきまりが悪く不貞腐れた表情を示す当の本人が脱糞中とあっては誰もが見て見ぬふり聴いて聴こえぬふり、遣る瀬無い公開脱糞は今しばらく続くのだった。午後2時過ぎても食い物屋は長蛇の列、そんな中で大抵空いている(創価)学会系列の饂飩屋に、やり場の無い怒りを籠めつつ入店し食っているとエンドレスで流されるBGMはこの国の童謡…幼児退行の孤老を集めた介護施設の末期状態のような童謡垂れ流し饂飩屋に毎度の事ながら辟易、此方も早々痴呆に成りかねぬ、と、胸糞悪くて想起したのは、ついさっき、テレビで、三丁目の夕日的な昭和懐かし高度経済成長での暮らしの悲喜こもごも懐古趣味番組を見ていたらまた痴呆になりそうな気分になったからであった。西岸良平氏には何の罪も無いが…。ひた迫り冷めやらぬ不安が己の肺と心臓を冷たく握り締め潰しにかかる…気忙しい浅い呼吸と潰れそうな動悸を伴う刺々しさを鎮めるには今週の鑑定団二本立てをじんわり思い返す事くらいしかなく…(省略)それでも今朝はなぜか、汚水をたっぷり含んだ雑巾がきっちり搾り切れたように、眠気がすっきり切れた目覚めという僥倖を得たのであった…濃い目のウヰスキーの水割りの御蔭かしらん。

 ※写真など掲載されていますがなにぶんネットデジタル社会の事ゆえ、それが事実であった事の証明にはならぬ事云うまでもありません。

※分かりやすく云いますと、以下の、これから書かれる事は全て虚構です。

さて、旅の続きである。隠岐諸島は島根沖北方60kmほどの距離、太古の氷河期では本土と地続きだったが今は暖かい対馬海流が横切る日本海の離島である。大別して島前と島後。島前は、地図を一瞥して了解されるようにこの地の地形形成を担ったカルデラ火山を彷彿とさせる具合に三つの島がかつての火口をぐるりと廻るように大方円弧状に配置されている。知夫里島、西ノ島、中ノ島である。島後には殊更島名は当てられず専ら島後、もしくは行政区名として隠岐の島町と呼ばれる。地質と地形の見所は専ら火成岩質とその断崖絶壁の威容に終始し植生にも珍種の多岐に洩れぬ。産業は離島の宿命にして自給自足は余儀無く、沿海の豊富な魚介のみならず自活のための耕作、加えて牧畜が盛んであり近年では隠岐牛としてブランド化の波にも乗る。観光業の実態についてはこれから自ずと詳らかにされるであろう。政治的にはいずれも古来より、対馬や五島列島、佐渡などと並び、大陸から日本本土へ渡る文化文物の中継地にして要衝の地であった。王権樹立後は国府、別府を供え国分寺のみならず島固有の神話的事情に基づいて諸諸の神社仏閣と伝統芸能祭祀を抱える古刹銀座の態を示しており、政治的には流刑の地に供される。殊に隠岐諸島には貴族内部での政変や新興武家勢力との抗争に敗れた天皇上皇の類の遠流先として貴種流離譚、地元に残る伝説や遺物、痕跡に事欠かない。此度の旅の目的を先行で云ってしまうと、主として二つである。一つは、古代史原初の産業革命にして隠岐諸島産の黒曜石を入手する事。もう一つは中世最後の突破者後醍醐天皇の史跡を廻り往時を現地で考察する事、である。そのように目的が設定された小生の内的事情についてはおいおい詳述されるだろう。


宿までの道のり

船酔いによる嘔吐を堪える堪え難い苦痛をついに耐え忍んだ小生がまず上陸したのは島前、西ノ島の別府港である。ちなみに日本各地に所在する「別府」という地名は、律令制時代に遡れば「郡」の役所が置かれた処の意味である。その上位の「国」(出雲国、因幡国、等)の役所は「国府」となろう。島後の隠岐高校の修学旅行生とはお別れできたが、忌忌しく思っていた団塊団体旅行もフェリーから別府港に降り立ったのに臍を噛む思いがしつつ、何かしら全身が搾り取られたへろへろ感で港を出る午後5時過ぎ、近隣の商店はさっさと閉店、団体客はさっさと送迎バスに突入した後は、どうにもざっくばらんとした寂しい静けさ、入り組んだ湾内のちゃぽちゃぽした波音のみで人気は無い。軍嚢から、予めプリントアウトした地図を取り出し、当日の宿を目指して海沿いを歩く…民宿と旅館の中間クラスの建物の質らしき旅館に到着。外観内装の木造くたびれ具合からして築40年以上はありそう、たまたま玄関に居合わせたらしき、この旅館を家族経営している家族の一員のジャージ姿で寛ぐ娘に部屋を案内してもらう…トイレは各部屋にあるだけ上々、風呂は共同である。往時の煙草臭が饐えてきつくて肺病病みの客だったらかなり堪えるだろう和式トイレである。一泊二食の予約である。一時間後に夕飯を呼びに来ると云う。部屋の内装を観察する…月並みな表現だが、「日本の原風景」という言葉を主題としたくなるしつらいである。即座に目に付いたのは、ごりごりに主張する床柱の根元にこびり付く血痕と思しき飛沫の痕跡である…触ってみると蝋状に固着して容易には払拭しきれぬ…


床の間の蝋状の血糊

思うに…ほとんどとち狂って過剰なくらいにかまびすしい社会状況としての「日本礼讃」という昨今の異様…テレビをつければ寝ても冷めても日本礼讃、白人に日本を誉めてもらう番組続出、日本よいとこ、日本のおもてなし、日本人は礼儀正しい、日本人は世界でこんなに頑張ってる、日本の技術は凄い、日本人の気配り、ジャパンブランド、マッサン…総じて、最早事態が此処まで至ると、常軌を逸しているとしか思えぬキチガイ沙汰である…あげつらわれる個々の事例を否定するつもりも無いし事実もあるのだろうが少なくとも数年前にはこうした翼賛現象は無かったのは確かだ、そうすると、社会の底流での何かしらの変化がこうした現象となって歪に現れていると考えるのが自然だろう…過剰なまでの自国礼讃は暗に他国への蔑みと不信と恐れを前提にしたもの(遅れてきた帝国主義、武力で脅して隣国から欲しいものを強奪するゴロツキ国家中国)、その帰結は独善的で偏執的で狭量で冷静な思慮を排除するいきり立ったナショナリズムと異物排除の統帥的自滅である。その歴史の前例は戦時中の、大逆事件、治安維持法、プロレタリア文学検束後の、「近代の超克」座談会を分水嶺として一挙に傾斜した「日本浪漫派」の勃興を思えば済む話であり、…世相の統帥状況の指標として「日本礼讃」ほど顕著なものはあるまい。マスコミの耳目を引き付ける少量の上澄みの泡立ちに過ぎぬ日本礼賛の事例などはいずれその深層の流れたる大部分の日本人の実相に溶け去るだろう…少なくとも小生の知る現在の日本人とは…組織内での立ち回りに汲々する者どもは天皇制に見習って責任不在の玉虫詣で、組織の既得権に預かれぬ下層階級は経済から吹く変化の風を忌み嫌い大勢を見ずして己の小さな職制に引き篭もる旧態依然の頑迷固陋の怠惰癖、自然の中での人間の振る舞いには意志しか存しない事を忘れ、いかな先端技術であれ所詮技術の根幹は人間の野生の勘、強烈な意志に優るものはない(ここではその詳論は省くが)、その本質を忘れ徒な標準化明文化を頭ごなしに進める結果、いざという時、の技術的羅針盤を示せる野生の勘=意志が働くはずもない官僚的プレゼン上手技術者が育つばかりでいざって時にはものの役には立たぬ、これが現実だ。ちょうど今、民放では中国への悪口映像番組、その裏返しでNHKでは日本礼賛「ジャパンブランド」番組やっているよ。そつなくまとめたプレゼン上手の事例紹介如きに現実は存在しない「ジャパンブランド」、上から目線で他国の人を小馬鹿にする映像垂れ流しにも現実は存在しない「世界衝撃映像」。


旅館の床の間

少なくとも小生が知る現代の下層の、即ち多数派の日本人は…とりわけ日本の「おもてなし」とやらの先兵に率先するのは日本「旅館」なのだろうが…しかし、現実を見よ。無論、一流の、「加賀百万石」みたいな三ツ星旅館はそうした「おもてなし」の見本の具に供されるのだろうが…この国の地方の端々に棲息する民宿だとか家族経営の旅館だとかの実態は…盛んに吹聴される「おもてなし」などといった建前が無効の、剥き出しの実態こそが点在するのである。まあ、要するに、これが人間の当たり前の自然の姿とも取れるが…そんなに「やる気」はない、おもてなしおもてなししてない、がつがつしてない、なりゆきまかせに古びてゆくが客が来れば昨日と同じ今日の飯を出す、といった手合いなのである。こうした気付きは何も小生を初として帰するものではない、それこそ先日亡くなった赤瀬川原平/尾辻克彦氏の超芸術トマソンや都築響一氏の「珍日本紀行」「tokyo style」などによって紋切り型の日本文化の底流で庶民に根付くこの国の怠惰で居心地の良くそしてずぼらで愉快な生活実態という異議申し立ての烽火が挙げられたのであり…(省略)


宿の玄関先…マッサージ機、卓球台、甲冑、鷲の置物、提灯、魚拓、木魚、演歌歌手ポスター…近くのソファには宿を経営する家族の娘がジャージで夜半までだらだら寛ぐ。

それはさておき、部屋の床の間をつぶさに観察する。「この国の現在の原風景」がある。6畳和室の床の間に、こうした旅館にありがちにも、まず、テレビがどかっと設置されている。加えて、有料赤電話、貴重品用の金庫。そして、プリント地の一富士二鷹三なすびの掛軸にゴミ箱、最近では遺品系リサイクルショップで埃を被るが落ちの、粗雑な造りの謎の置物、という風情。数寄文化発祥の室町期に成立した書院造の床の間が、いわゆる上流文化の最たるものが…時が流れて、庶民の成り行きまかせに至って、テレビを置かれるは金庫を置かれるはのやりたい放題、この無神経、この節操の無さ、この生活優先感覚、この雑多感、この出鱈目、この面白さ。床の間に唐物飾って悦に入っていた足利義政公などが見たらさぞや驚愕するしつらいであろう。小生が案内された時には、薄く、湿った蒲団が既にしいてあった。観光旅館や一流旅館のように、客が飯ないしは風呂の間に仲居さんが蒲団をひく、といったおもてなしは此処にはない。合成樹脂製茶櫃に仕込まれた茶道具で煎茶を啜りつつ甘く煮た昆布のような菓子を食みながら(常滑焼の急須は思いの他使い込まれて艶を出している)、かような鑑賞していると、飯の支度が出来た事を知らせる館内放送がかかる。従業員が知らせに来るのかと思っていたが、思わぬ効率化に驚くも、特に悪い気はしない。そんなもんだろと思っている。あちこちからどたどたと階下に下りる木造の音が聴こえる。急須の湯きりが悪く、碗に注ぐ際に零れた煎茶液で座卓はべちゃべちゃ。

大広間の座敷に入ると…厚かましさと人懐っこさを混同した押しの強さが売りらしき、田舎の婦人服店にあるような独特な感性の派手な婦人服を着た女将(妻兼母親)から差配されるままに席に着く。正面の、床の間を大ぶりにしたようなステージを正面にして、横長机一つにつき客二人が横に並んで座るようになっている。そうした横長机が合計6つほどある。客はだから12人ほどである。皆、早々と備え付けの浴衣に着替えているが、…小生以外の客層は皆、老いた男の一人旅、といった風情である。翁や熟年男たちが黙って俯いて食っている。正面の巨大テレビの音量は不様にデカイ。いきなり見知らぬ他人と袖擦れ合うほど横並びに座らされたために、変な緊張感が会場いっぱいに漂う中、女将が何かしら張り切っている感が悪目立ちしている。料理は、もう逐一覚えていないが各人に、固形燃料つきの小鍋が二基(厳密には一つは白身魚と茸と白菜を醤油ベースで煮る小鍋、もう一つは豚肉とレタスを敷き詰めた蒸し器)設えられたのを中心に、小振りの鰈の焼物、刺身(貝多し)、味噌汁、牡蠣フライ、香の物といった取り合わせである。女将に生ビールを頼む。腹は激減り、まずは腹に飯を入れたい小生は飯を探しにあたりを見回すと、広間の中央に業務用の大型炊飯器が。飯はセルフのようだった。鰈の焼物の身は干物のようにかちかちに固く、何とか箸を刺す無作法に甘んじて身を毟った所で身はあまりない、それほどの小物の鰈であった。名物と知らされたイカの刺身はおろし生姜で頂くが、身は真っ白でねっとりと口内に張り付き、本土の、魚介のレベルが低い地域とさほど変わらない。透明で、細切りした断面の角がピンピンに立つ新鮮なイカの刺身を期待したが旬でなかったのなら致し方ないと思う。船酔いの影響で体が万全でないためかその他の料理もさほど美味しくは感じられなかったのは残念であるが、満腹にはなった。貝類の刺身だけはコリコリに旨かった。酒だけは無闇に旨く、補修中の設備のナットを増し締めするようにグッグッとビールを喉に流し込むが…と、かように小生が内省を深めていた所へ、同じ横長机の、小生の隣の、浴衣の、団塊世代の熟年男氏が、他人との間の沈黙の気まずさに耐えかねたのか、小生に話しかけてきたのである。

気付くと、周りの客も、酒が入ったせいか、隣人との会話を始めているささやかな賑わいを呈していた。しかしその頃の小生は己の内省を研ぎ澄ませながら、正面の、「この国の原風景」の最たるものとの邂逅と、がっぷり四つに組んで、他愛無いとはいえそれなりに思索を研いでいたのであるから、正直いって、話しかけられるのが煩わしかった。先方がしきりに、小生がどこからきたのか、明日はどうするのか、といった、通り一遍の質問をする度に、小生は一言で済ませ、会話の種火を悉く鎮火せしめつつ本土から持ち込んだ小生の荒んだ魂、やり場の無い憤りが尖鋭化した果てに心の中で唾棄した言葉とは…小生の身勝手な妄想も含まれるが「おい、いい加減、僕に構うな、じゃれるな糞おやじ、てめえの生温い旅情に僕を巻き込むんじゃねえ、定年後の自分探しと僕の切迫した問題意識を一緒くたにするんじゃねえよ、いい年こいて己のなすべきこともわからねえのか、定年ごときにうろたえて自分探しに四苦八苦、隠岐くんだりまで自慰しに来たとはみっともねえったらありゃしねえ、ボケかてめえは」といった、西村賢太風の口調の悪罵の絶叫であって…

大広間の床の間

そうまでして小生がその時に夢中になっていたのは…往時の繁栄を忍ばせる大広間の正面の床の間形式のステージ的小上がりに…まずは馬鹿でかいデジタルテレビ大音量、そしてこれも往時を忍ばせる巨大な、今では使われやしないカラオケセット、そして郷土特産の巨大凧と、欅(けやき)の刳り物の大盆(今だと10万円は下らないだろう)、どす暗い恨みをひっそり滲ませる般若の面や、おどろおどろしい緑釉と灰釉がどろああっと流し掛け競う、突起がごつごつした異常なる花器、焼き締め壺に百合の投入れ、鼓、書の掛け軸といった取り合わせであって…この無造作趣に激しく興をそそられ、目が釘付けになっていたのである。


大広間の床脇

床脇の風情も荒々しくてよい。この大広間を埋める分には足りぬかも知れぬが今となっては過剰に多い座椅子をどどどっと重ね置きするのは、激しい大地変動による断層の褶曲を思わせるし、その背後の違い棚や地袋の上には動かない置時計や五円玉の宝船、布袋様の木彫に、なんちゃって円空仏、獰猛民芸急須、などの激しい無造作趣があるのである。堪能したのであった。熟年氏より早く飯を切り上げ、温泉ではないがボイラーで沸かした湯を常時流し掛けの共同風呂は運よく小生一人でのびのび疲れた四肢を伸ばし、家では見られぬから貴重な衛星放送の鉄道ものを満喫したあと、眠りについたのである。わずか一日で、思えば遠くにきたもんだ、と浸る間も無くくったり昏睡する。明日は西ノ島の景勝第一、国賀海岸を廻るだろう。


朝、宿の窓から…捨て置かれたポンプ系設備。奥に見えるのが港。天気はよさそうだ。

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隠岐の旅 第一回

もう年の瀬、暮れも押し迫り…年末気分で正月まではやる気無い消化試合の態だからして…嘘か真か知らねども、虚実皮膜のあわいを縫って、隠岐の旅路に誘い誘われ一人旅、これから綴られる紀行文、元より過去のものとも未来のものともつかぬ創作虚構の懸念免れぬ類である事読者方々におかれては固く肝に銘じて頂きたく存上候由、酒にほぐれた深秋の調べに言祝ぎ言祝ぎ九十九折。出し抜け捏造の旅行記此処に有り。結局行きもしなかった可能性が殆どの隠岐諸島への旅日誌はそれこそ奥の細道の虚構性をも上回る作り話にさもあらん。

※写真など掲載されていますがなにぶんネットデジタル社会の事ゆえ、それが事実であった事の証明にはならぬ事云うまでもありません。

※分かりやすく云いますと、以下の、これから書かれる事は全て虚構です。

某月某日、午前6時10分起床。積年の期待と不安による意識の紅潮により例によって寝つけず…浅怠い頭痛に容赦無く切り込んで毎度のことながら癪に障るデジタル時計の目覚まし電子音がピピピピッと鳴る、その冒頭のピの半分程の間合いで時計を叩き付けて徹底的に黙らせ、目覚まし能力を解除せしめる。腹は激減り、朝食用に前日買い込んだコンビニおむすび3ヶを貪りつつ、小生と同格に寝起きの悪いパソコンを立ち上げ…旅装束整え終わる頃ようやくパソコンがこちらのいう事を効き始める…毎日6時半に公表される事も事前の調べで承知しているので、少し待って6時40分に隠岐汽船のHPを開き…今日の運行状況を確認するのであった。周辺海域の波の高さは4~5m、高速船は全便欠航、しかし小生が乗船予定の、境港発のフェリー「しらしま」は予定通り通常運行との事。折悪しく、前日から低気圧と前線が西からせり上がり風雨が強まっていたため、出航が危ぶまれたが現時点では予定変更を余儀なくさせる情報は無かった。万が一船が出ないならばその日は松江に投宿し、次の日松江の七類港から再度隠岐諸島への上陸を試みる予定であったが、もしそうなった場合、その日中に隠岐に到着して宿泊予定であった宿をキャンセルせざるを得なくなり、これも離島特有の事情に乗ずる一種の儲け口なのか知らんが多大なキャンセル料をふんだくられる事になるのであった。しかし現時点では計画通りに進めるしかない。旅先で買うと高いので予め酒屋で調達済みの、税込で1本62円の激安500mlペットボトル茶を3本仕込んだリュックサックは軍嚢のように重く両肩に食い込むのに既にして途方にくれながら…なぜならば日程が過ぎるほどに荷が減って軽くなる可能性があるならまだしも、大抵の自分の旅の場合、旅が進むにつれてこの軍嚢が荷重を増すのは分かりきっていることなのだから。数日分の下着と時刻表と常備薬と髭剃りと耳かきとピンセットくらいしか入ってないのに何故こんなに重いのか分からない。げっそり項垂れて無表情の、塗り壁のような通勤客が吸い込まれたり吐き出されたりする経済の呼吸の合間を縫うようにして最寄駅から某国鉄駅に下車、その駅の新幹線口横のホテル付近に高速バスのバス停がある…無性に気が逸った報いでバスの出発時刻までまだ30分ほどある…天気は悪い。垂れ込めた雨雲がもりもり下腹を見せ、氷雨混じりの風がパラパラ横殴りに吹き付けてくる寒さ…雨風凌ぐため一旦駅の休憩室に戻ると熟年団体客が屯していた。活きのいい40台女性の旅行会社の添乗員に切符渡されたり点呼受けたりワイワイしたり、朝8時前に集合するだけで既に疲弊した老夫婦(うっかり手から滑り落ちたペットボトル茶が隣の椅子の下まで転がったがそれを拾う元気も無い…)の気の毒な沈黙などもある団体客のもたついた動きの間隙をぬって椅子を確保し、薄いから今回の旅の友として持参した老子を読む…如何な雑踏でも思いの外集中できる老子の新たな効用に北叟笑んでいるとバスの時間だ。バスが少し遅れ、雨の日は決まって大渋滞する駅前だから朝っぱらからやきもきしていると程なくバスに乗れた。米子行きの高速バスである。予約席に着いて軍嚢を、隣の空席に置くと、途端に激しい眠気に襲われた…。こうした職種の社会的意義は別として、小生は朝が弱いので、苦役の通勤列車風景から、漁業、酪農などの、やたらと朝早い職業への憎悪を想起し、個人的に新たにしながら…。

正午前には米子駅に到着か。故あって幾度か訪問した事があるが、どことなく店舗や人心が荒廃した雰囲気が否めない街である。また空腹に襲来されるも、港の状況を知りたいがため境港線に飛び乗る。乗客の殆どは熟年女性、時折子を抱えた若い女性とその母親と思しき組み合わせである…米子から境港まで45分程の行程だが駅数は半端無い程多く、少し行っては停車する印象である…なぜか、こんなもんなのか団体客の高齢者でぎゅうぎゅう、立ち客びっしりの列車内で…小生うっかり優先座席に座ったためか何となく周囲の爺婆から非難がましい目線を浴びつつ、軍嚢を膝の上に載せて荷重に耐える拷問に耐え忍びながら、これ見よがしに隣の婆が「若いお前が席を譲らぬのが諸悪の根源」という言外の悪罵を添えながら無理やり隙間を作って、立ってつり革に縋る同じ団体客の爺に座らせようとするとその狭すぎる隙間を見て爺は「運動のためだから」と丁重に断ると、近くに、今時珍しく襷掛けの抱っこひもでほっぺが真っ赤な乳飲み子を背負いながら両手に白菜丸ごとや大根といった重量級野菜や肉をパンパンに詰め込んだビニール袋を計4つ、さらに鞄やらおもちゃやら兎に角荷物が多すぎるほっぺが真っ赤な豊満の女性が「もうすぐ降りますから」と爺に席を譲る、といった場面があったにも関わらず小生は優先座席を譲る事は決してしない、なぜならば座席に座る事へのこだわりが人一倍強いという自負、何が何でも座るという意志は生半可なもんじゃないという強烈な意志で以て座っているのであって殴られて負ける事でもない限り譲る気はしない、それにこの重すぎる軍嚢…小生は軍嚢を、他人が土足する床や地面に直置きするのは我慢ならない最低限の潔癖ラインがあって、網棚は天井すれすれ過ぎてこの肥大化した軍嚢は押し込めない、しかし立って背負うのはこの汗牛充棟では無理、立つとしたら前で手で持ってぶら下げるしかないがそれは手が千切れるほど辛い、だから座って膝の上に載せるのがこの場合のベストなのであって、といった並々ならぬ手前勝手な意志があるから高齢者団体客の譲れ圧力如きに屈する事はなかったのである。あつぼったい曇天、びょうびょう風に吹かれる、沿線の葱畑を眺める…。

蠅眠る婆の乳首に布ごしに

背高の毛並みは悪し泡立ち草

ようやっと境港駅に午後1時半頃到着。小雨なれど風はドッフドッフ吹き付けて強い。隣接の港ターミナルに行くと、予定通りフェリーは出航するようだった。波がちゃぽちゃぽした瀬戸内の観光フェリーなぞでは書かされる事はなかったが、隠岐汽船では切符を買う際に氏名や連絡先をきっちり書かされる…万が一の時のためなのだろう、と、後で痛感する事になる。最安2等席の切符を買うと、2時25分の出航までまだ40分ほど時間があるので昼餉に。とは言え悠長に出来る時間は無いので同じターミナル1階で営む回転寿司屋に直行した。すると、小生の動きに釣られたのか熟年団体客の一部がどっと回転寿司屋に流れ込み…言わんこっちゃない悪夢が再編されたのである。境港、という事で俄然ネタの新鮮さへの期待が膨らむが団体客が席を決めるのにワイワイもたついている間に二皿ほど食すに、さほどでもない感じで…基本的に小生が棲息する、魚介が不味い地域とさほど変わらぬ印象で少しがっかり、しかし境港だから少し足を延ばした処にある回転寿司屋はきっと美味しいのであろう、と、諸事情を勘案して致し方ないこの状況を腹に納めている矢先の事…空腹で猛り狂った団塊団体客らは、目ざとくその店の、各座席に設置されたタッチパネル方式を利用し始め、激しく注文を始めたのである…たちどころにコンベアを廻っている寿司は消費しつくされ、廻っていないからタッチパネルでどしどし注文を繰り出すものだからタッチパネルの注文をこなすのに店側は必死でコンベアには寿司は流れない、だから、これまでコンベアで廻っていた寿司を食する、回転寿司のマナーを順守する善良な客までもがタッチパネルで注文を始め、客は店員=人間の状況をじかに観察しながら注文するという古き良き気遣いがタッチパネル方式によって破壊されているのだから、店側は注文をこなせず、今度はタッチパネルで注文してもいつまでたっても品が届かぬという悪循環に陥ったのである。「廻る寿司屋の廻らない営業実態」という、回転寿司の本道を忘れタッチパネルなどという、客の食欲を無軌道にのさばらせる、客に媚びた設備を導入した自業自得の結果ながら、笑えぬ悲劇をまたしても目の当たりにした小生…そうやって客に「食い潰されて」しまった激マズ系回転寿司屋を幾つも知っている小生…生魚ばかり食べて少し揚げ物を、と思ってタッチパネルでカニクリームコロッケを注文するも、15分くらい待った挙句、店員が来て「申し訳ございませんがカニクリームコロッケは時間がかかるのですが」「あとどれくらい?」「10分くらい」、と、注文をキャンセルしてほしげな応対ぶりだったので、時間も無い事だし、キャンセルしたのであった。タッチパネルで「寿司ランチセット」などという、手の込んだものを6人分注文したらしき団塊団体客らが「船の時間があるので早くしてくださいよ」と焦燥露わに店員に声を荒げ、この時点でランチセットをキャンセルすべきか、ならば替わりの寿司はすぐ来るのか云々と客、店員共々揉めに揉めている荒んだ恐慌状態を背中で聴きながら、小生は会計を済ます。「狂ってるよ」と、内心、吐き捨てながら…。団体客らが、所詮それ自体は「架空の寿司」に過ぎないタッチパネルの小奇麗な寿司画像に目を奪われているのを尻目に、回転している寿司を食うという回転寿司の大道を尊ぶ小生が、今その時に眼前に廻っている現実の寿司ときっちり向き合い、平らげたのが、タッチパネル恐慌の呼び水になったかもしれぬが、小生のみが責を負うものではない事は云うに及ばず。

小生が今まで乗った中では一番大きい部類だろう…ひと目では見渡せない程巨大な隠岐汽船フェリー「しらしま」は、境港14:25発、隠岐諸島西ノ島別府港17:00着、それから隠岐諸島島後の西郷港に18:30着の航路である。小生は別府港で降りる予定である。船の中腹の穴に港の2Fから伸びる通路が挿入され…二等席に案内されると大きく3つに区分されたフロアーで、それぞれに絨毯が敷き詰めてあるのみ、雑魚寝席である。しかしながら、右翼側は讀賣旅行社の団塊団体客の予約席でびっしり、左翼側は隠岐高校の修学旅行生80人の帰りと思しき予約席でびっしりとなっており、一般客は中央の雑魚寝フロアーに居るしかない。折からの強風高波で隠岐諸島行き高速船は運行中止だったからであろう、高速船に乗る予定だった乗客もこのフェリーに一筋の希望を見出して流入しており、且つ、両翼は件の予約席で一杯だから、中央フロアもまた乗客でぎちぎち詰めでごった返しであり、文字通り肌を寄せ合いながらとなる。一般客の客層は男性老人の一人旅ばかり、ちらほらスーツ姿のビジネスマンが散見される。後で分かった事だが旅慣れた人は雑魚寝席に着くや否や素早く壁際に陣取り、数の限られた備え付けの毛布と四角いスポンジ枕を速攻ゲットして四肢を伸ばして仰向けになる姿勢を取っていた…他人の目を気にせずおおっぴらに仰向けに寝るのに躊躇した一人旅のおっさんどもと小生は胡坐で座ってテレビを見るが、湾を出てしばらくするとテレビ電波を受信出来なくなり、そして厳しい現実に遭遇する事になる。外海に出た途端、船の揺れ方が尋常でない程耐え難い激しさであったのだ。パシパシ堅そうな雨粒が叩き付け、波頭が白く牙を剝き、悪意や虐待、執着のままに暴力的に揺すられる揺り籠のような激しい横揺れの様は、窓枠内の景色が、全面、海になったり曇天の空になったりする事で恐れを増す。進行方向の揺れはジェットコースター並みの高低差でふわっと体が浮いたかと思うとドーンドーンという、船底に海面が叩き付けられる音と共に確かな重力を個々の客の人体に叩き付けられる。10トンほどの漁船の話ではない。2300トン級の大型フェリーにしてこの揺れであるから、同じ角度で揺れたとしてもその角運動のモーメントの大きさは計り知れよう。はじめのうちは揺れる度に物珍しさの感嘆の声を上げていた団体客や高校生らだったが次第に剥き出しの恐怖の叫びになり更に時間が経つと幾ら叫んだところで詮無く体力を消耗するだけで揺れはおさまりはしない諦めの重苦しい無言が広がり更なる段階だと、所々から…堪えるような呻き声や、荒げる呼吸、嘔吐の予兆であるアクビ音がか細く聴こえるのだった…そう、ほぼ乗客全員に船酔いが始まったのだ。そうすると、胡坐で座っていると頭がぐらぐらして船酔いを増長させるのに体が気付いたのかもう座ってられなくなり、既に人体でぎっちりのフロアに己の体をクサビのように打ち込んで無理矢理横臥するスペースを創出する必要が生ずる。激しい船酔いによる嘔吐感と目眩で天井がぐるぐる回るように見え始めた小生の上半身が思わず土嚢のようにどっさり倒れて仰向けになったその頭はおっさんの股間と爺さんの尻に挟まれている…脚が伸ばせずにいた処を、見かねた、旅慣れた壁際の中年女性が声をかけてくれてスペースを空けてくれたので脚を伸ばせた…客室フロアは、誰しも歴史の教科書で見たことがあるだろう、奴隷船に積み込まれた黒人奴隷の船内配置図のように身動きできぬ汗牛充棟、マッチ箱の中のマッチ棒状態である。おさまるどころか激しさを増す船体の揺れ、客室下に結構大きいトラックを何台も積み込んでいたし、縁起悪い事に修学旅行生も同乗しているから隣国の惨劇を髣髴させて余りある、積み荷のトラックの固定具が外れて片方に寄ったらば転覆は必定…死にたくない、こんな冷たい海で溺死とは死んでも死にきれぬ…と切実に思う中、ついに…フロアのあちこちから、吐瀉物を嘔吐する声とも音ともつかぬものが聴こえてくるようになる…首を挙げて見やると…新参団塊団体客や団塊男一人旅は云うに及ばず、この船に馴れているはずの隠岐高校の修学旅行生の男子女子の一部までもが、嘔吐している。女子は皆、スカートの下に体操服のジャージズボンを履いている。雑魚寝フェリーでの正装とお見受けする。

「オゴッ、オゴッ、ゲエーッ(オロロロロロ…)」ベジャッベジャジャジャジャ。「ゥオエッ、オオッ、カハッ、カハットハッ(ゲロロロロ…)」ジャベジャベジャベべべ。「」は嘔吐時に人から絞り出される声、()内は嘔吐音である。そして見てしまったのは…横臥した老婆が涙目で嘔吐するその、ミミズ色の吐瀉物を、…両の掌で受け止める老人の姿という地獄絵図。咄嗟の事だったのだろう、バスの座席にあるような袋などありはしないから、老婆の夫は、糟糠の愛妻の、ホカホカで湯気立つミミズ色の吐瀉物を、湧水を掬うようにして受け止めていたのであった…例の、「寿司ランチセット」の未消化物の成れの果てかもしれない吐瀉物。腹ばいの老人は床に両肘をついて老婆の口元で掌を丸めてゲロてんこ盛り、止まらない吐瀉物を絨毯に溢れ出させながら、激しい船の揺れで身動きもとれず、船酔いで皆ぐったりしている中手を差し伸べられる乗客は皆無、途方に暮れる老人でしかない状況なのであった…すると、示現したのであった。涙目で吐き続ける老婆の腰の辺りから冬虫夏草のように怨霊のようなものがすっくと伸び上がったのを…赤熱した焼け爛れた腕のように老婆の腰辺りから立ち上がった怨霊の頭にあたる握り拳に残像する悲しみと忿怒の阿修羅表情の奥で、涙がこぼれるのを必死にこらえる涙目の怨霊が小生の肉を噛むように小生の神経中枢に直接送電して真正面から喝して大音声で誦するに…「地獄ぞ…この世は地獄ぞ…この世は地獄ぞ…」と…小生とて念仏でも唱えて成仏させてあげたかったが、小生にしても各方面からむせ返る吐瀉物の饐えた臭いが更なる吐き気を誘発するのをこらえ、船の揺れの度に喉元に何度も黄色く酸っぱい液がせり上がるのを辛うじて飲み下すムカつきとの苦闘の最中の地獄絵図であった…そして…時刻表を枕にして体を仰向けにして、船の巨大な揺れと体の感じる揺れをなるべく一体化させる心頭滅却によって多少は船酔いが軽減する事に気づいた小生は地獄絵図から目を背けるようにして老子の岩波文庫を顔に掛けて光を遮断し集中に徹するしかないのであった…とはいってもこのままでは時間の問題、もう…吐くしかないのか、と、たまたまコンビニで何かを買って運よくゲットしていたビニール袋を口元に当てて、苦しみにうるんだ目を白黒させつつ、えずき寸前の荒い呼吸をしていると…不意に波が穏やかになり、揺れが小さくなったのである…隠岐諸島の湾内に入ったのだ。露骨なまでの安堵のため息がそこかしこから漏れ…フェリー「しらしま」は無事、定刻に隠岐諸島西ノ島の別府港に入港を果たしたのである。吐かずに済んでよかった。船員各位に敬意と感謝をここに表する次第。団体客と修学旅行生がいたから、通常だったら欠航する波の高さなのに無理矢理出航したのではないか、という疑念は拭えぬが結果オーライ。


別府港に入港した「しらしま」

天地に仁あらず。聖人に仁あらず。 老子

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「cafe jacques/international(1978)esca7851」



修造の基地外耳美田(きちがいじみた←万葉風)テニス教室のテレビ光景は黙殺するとして御嶽山での捜索中止を決めた捜索隊員(自衛隊、消防、警察の混成部隊)へのひとまずの手向けに、地元の幼児が歌を歌って捧げ、隊員が涙する、というこれまた気違いじみた光景が繰り広げられて反吐が出る。特に自衛隊員は、徴兵されたわけでもない志願兵であり、己の意志で好き好んで国家や国民のために己の命を捨てる事を率先する人間であり、そのために莫大な血税を投入して日頃は生産関係免除で訓練と称して遊ばせてもらっている連中である。訓練中に死ぬこともある危険性などここではどうでもよい。遊びといっているのはここでは生産に何の寄与もしない故に経済的に無意味な活動という意味である。軍事産業や、それの基盤となる思想として、軍事力が国家間における牽制効果という安全保障に寄与し、ひいては健全な経済活動にも一役買うといった言説もここでは妄想として切り捨てる。要するに有事の際に国民の捨て石となって国民の生命と財産を救うのが彼らの純然たる「仕事」であり、本人らもそれを承知で務めているのであり、そのために国民は莫大な税金を投入しているという一種の社会契約関係が成立している以上、彼らが災害現場の危険区域において行方不明者の「捜索」活動をしているのを見て、国民は、わざわざ涙を流して感謝したり子供に歌を捧げさせる必要など微塵もないのである。彼らがその辺の百姓で無報酬で危険をかえりみず捜索しているというのであるならその純然たる親切に対して涙流して感謝してもよかろうが、事情は先述の通り、地位とそれに見合った報酬に基づいて仕事しているだけなのだから本来、勇敢な無償の行為に対するような感情的な感謝などいらない。むしろ、火山灰に足を取られるだの雨が降って土石流の危険がどうのと理由をつけては捜索が遅々として進まず冠雪が来て、不明者を残したまま捜索打ち切りとなった体たらくや、隊員の一部には火山性ガスや酸素の薄さによる体調不良で役に立たなかった者も発生したという、日頃の訓練の内容を疑問視すべき軟弱ぶり、軍としての練度の低さをこそ非難すべきである。感謝するにしても、野菜を作った農家の人にお金を渡して野菜を買う時に一言「ありがとう」という時ぐらいの、限りなく日常の挨拶に近いレベルでの御礼が妥当であり、国民の、自衛隊への感謝の念が選挙権の無い子供を使って表明される現象などは明らかに過剰な、この国の行く末を暗示する薄気味悪い傾倒である。唯一、この「過剰な感謝」に価値があると考えるならば、国防に命を捧げた者らの命と、守られるべき自分ら国民の命の価値の分別もつかない国民性だからして、隊員の命を大事にしない、即ち、隊員が危険な事をするのにたんまり感謝しないという事が、そのうち、国家が国民自らの命も大事にしない事の前例というか布石になりうるから、その可能性を予め潰すためにもここは「過剰な感謝」を持ち上げておくべし、という論法があるくらいである。だから本来ならば、集団的自衛権に関する国会質疑などでよく言われるような、「自衛隊員に死者が出る可能性はあるのか」などといった懸念は、自衛隊員と国民の命を混同した迷妄であり、問題にすらならない事なのである。自らの意志で望んでいるのだから自衛隊員は死んでもよい、しかし国民は死んではいけないというか死ぬつもりはない、というごく当たり前の分別が何よりも肝要である。ここでは公式に流通する建前だけを問題にしているので、死ぬ覚悟はないし死ぬつもりもないが軍事数奇が嵩じて入隊したといった人間の自由意志は、問題にしていない。

しゃっくりを窒息で止め野分前

喉がらむ風邪と漬け丼月の蝕

いつまで経っても収まりがつかぬ内心の荒れ模様…嫌らしい隷属への無理強いがドメスティックに内政化されて拘束して来るものへの憎悪の静電火花がちらちらと発作し、堪え切れぬ癇癪へと内的に切望する薄暗さが煮え滾る夕べ…英国の不思議隙間産業的バンド、カフェ・ジャックス…先週の「悪趣味の系譜」の行列式に、「AOR」という分野を挙げておくのを失念していたが、



そうした既成の文脈の組み合わせをここで再現することはむしろこのバンドが醸す音楽性を放逐する事になるのだろう。ザ・バンドやリトルフィートの重厚なコクを巧緻な電化処理によって、上っ面の装飾でなく楽曲構造的にぎっちりプログレ化しつつポップスの転結をいやらしいほど自然にわきまえており、近未来の路地裏に取り残された臭み系純喫茶モダンポップである。時折醇乎たる分厚い叙情をドハアと分厚い毛深い胸板から滲み出してくる歌の流れが目玉と鼓膜の裏から噴出する…。ライナーを確認するとこのアルバムに参加したメンバー数、そして取扱い楽器数が多すぎてとてもじゃないが書写出来ない。実際の音は、簡素とまではいかなくとも適材適所よくまとまっており、音数や楽器数の多さを感じさせない作りである。それにつけても、こうした、およそロックという音楽のあらゆる問題意識をすべて受け止めて正面突破しようとした誠実な産物であるモダンポップ/モダンロックが何故か一般的には、奇想のひねくれ音楽として聴取される矮小化に忸怩たる心の熾火冷めやらぬも、解釈抜きにこの不思議な誠実に対して、今でも、小生はドキドキ翻弄される。関ヶ原で徳川本陣を掠めて敵中突破して薩摩に無事帰還した島津の不逞を想っては胸のドキドキが収まらないこの暑い感覚…。

この大事な時に…この期に及んで払拭できぬ気ぶっせいの憂さを晴らさんとした過度の飲酒によってまたしても口内炎を再発した兆しが…下唇裏の両端の定位置にまた…分かっちゃいるけど止み難い毒素チップスの爆喰いの報いがいぎたないまでの正確さで押し迫る…何を食っても患部に浸みて激痛が人生の楽しみの全てを根底から突き崩してくる…今さら服用したとて何の効果もない事は分かってはいても気休めにまたウヰスキーでビタミン剤を服用する惨めも再発。不透明な蛍光イエローの排尿も再発。チャイコの6番の悲愴を…ささくれ立つ表層の神経に浴びたからとて苛立ちは炎症するばかりで無暗に急く。思えばこのチャイコフスキーの6番の楽曲構成の出鱈目さといったら実に痛快で、まるで抹香鯨の胴体をぶった切って浜辺に不法投棄でもしたかのような賑やかな非尋常であるから聴いた事のない方は一聴していただきたい。NHKスペシャルの、昔の白黒フィルムに色を付ける企画で看過できなかったシーンは、60年安保闘争で国会議事堂前でデモる群衆の中で翻る赤旗から離れた処で黒旗がわずかながら散見できた事のみならず、関東大震災の映像で、「萬朝報」(黒岩涙香、幸徳秋水、堺枯川、内村鑑三…)の文字を白ペンキで大書したトラックが一瞬、通り過ぎた事である。

馬鹿犬がまた吠える…NHK「シャキーン」の金曜日バージョンは…(と、ここで、書く気が失墜したのでこの話題は次回に回すことに)

来週は所用につき休載します。次回は11月2日です。

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「moon riders/animal index(1985)pcca-00296」

 
イスラエル王アハブ「武装しようとする者は武装を解く者のように誇ってはならない」『列王記』

ブルーツス「法律は強いが、もっと強いのはいやおうなしの勢いだ」『ファウスト』

メフィストフェレス「ブドウの汁はどんなに馬鹿げた泡を立てようとも、しまいにはやっぱりブドウ酒になるんだ」『ファウスト』

メフィストフェレス「自由の権利のための戦いとは称するものの、よく見れば、奴隷対奴隷の戦いに他ならない」『ファウスト』

魔女エリヒト「自分の内心を支配できぬ者ほど、とかく隣人の意志を自分の高慢な心のままに支配したがるものです」『ファウスト』

ファウスト「わしは無感覚になって幸福になろうとは思わぬ」『ファウスト』

内村鑑三「単独の幸福」(1921年1月2日 漫筆)

ヒロン「結局弟子たちは教育されなかったかのようにめいめい自分の流儀でやってゆくものだ」『ファウスト』

天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎかくる見ゆ 『万葉集』

ファウスト「自由な土地に自由な民と共に立ちたい。その時は、瞬間に向かってこう言ってよいだろう。とどまれ、おまえは美しい!と」『ファウスト』

吾が屋戸の夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも
吾屋戸之暮影草乃白露之消蟹本名所念鴨 『万葉集』

若い者の前では、つとめて、新時代への理解を示そうとしながら、しかも、その物の見方の、どうにもならない頑迷さにおいて、宛然一個のドン・キホーテだったのは悲惨なことであった。…(中略)…してみれば彼自らも、伯父と同様、新しい時代精神の予感だけは持ちながら、結局、古い時代思潮から一歩も出られない滑稽な存在となるのでないか。 中島敦『斗南先生』

妬みこそは神慮よりも慈悲に富む、私たちの歩みの先導者であるのに、どんな治療学もどんな倫理学も、妬みの齎す恩恵を礼賛したためしが無いとは、奇っ怪な話ではないか。…(中略)…おのれの悪徳を大切に養うこともあえてせず、なんびとと張り合うこともあえてしない結果、我が身の手前側に留まり、万人の下位に立つみじめな人間に、あわれみを垂れてやろうではないか。 E.M.シオラン『暴君学校』

 
悪趣味の系譜を求める行列式。変数はテクノ、モダン、ポップ、y、サイケ、ガレージ、パンク、プログレである。yはロックの函数である。「行列」の演算については高校数学を参照されたい。

重力による空間の歪み、あるいは量子における時空=次元の不確定性などという現代物理学の概念は空間という概念形式を知らぬ浅学なる物理学者の戯言に過ぎぬ、そもそも歪みという認識があるのはその歪みを相対的に表象せしめる絶対空間を前提としており、空間を議論するならばこの絶対空間を主題にしない限り何の意味も無い、歪んだ空間などというものはこの絶対空間の中に存在する一表象に過ぎない…と昂然と古式ゆかしく執念していたのが…この、鈴木慶一の傑作の一つ、「悲しいしらせ」を聴取すると…時空の歪みと不整の脈動という量子的振る舞いが、この日常の、ニュートン力学世界にも先取りされる幻惑を体験できるから不思議である。「悲しいしらせ」は「アニマルインデックス」所収である。今宵は、この、「悲しいしらせ」についてだけ述べる。先週のヒカシューに引き続き、今回挙げたムーンライダーズも本来ならば「悪趣味の系譜」の布石であることをとうに忘れていた。上記に、「悪趣味の系譜」を路頭に迷わせる行列式を示しておく。行列中のyはバンドの固有性にしてロックの有り様そのものであるが、いずれにせよyの中に未知数xがいつまでも解答されはせぬ仕掛けというか事実に即した表現を施してある。ムーンライダーズの鈴木慶一氏は、同時代の、はっぴいえんど細野晴臣氏やYMO坂本龍一氏と互角の才能を開花させた。

まずは、「悲しいしらせ」の歌詞を写そう。日本語であるから。

悲しいしらせ     鈴木慶一 作詞作曲

一度だけならまだがまんもするが
こう何度も ウソをつかれちゃかなわねえ
海辺に連れてってよ ねえ兄貴
気分を変えたいんだ そして
馬鹿でまぬけな このボンクラ頭 波に洗おう

つまずいて大切なバラの茎折った
血迷って はいたツバは飲みこめねえ
天使を連れてきてよ ねえ兄貴
気分を戻したいんだ そして
馬鹿でまぬけな このボンクラ頭 神に捧げよう

君は天国を知らないまま 暮らしてく
君は地獄を知らないまま 暮らしてく
悲しい知らせがあるよ 今日 ボクが死んだ

一寸だけ助けてよ ねえ兄貴
も一度会いたいんだ そして
馬鹿でまぬけな このボンクラ頭 滝に打たれよう

君は天国を知らないまま 暮らしてく
君は地獄を知らないまま 暮らしてく
悲しい知らせがあるよ 今日 ボクが死んだなんて

生きてるのか 死んでるのか わからない気持ち ※
(※繰り返し)

80年代後半から90年代にかけて持て囃された内向性(=碇シンジ、「等身大の自分」byミスチルetc…)は、2000年代の今となっては、時間をかけない侮蔑の一瞥によって事済まされる、相手に値せぬ「ぬるま湯」視されるが落ちだろう…「生きてるのか死んでるのか、わからない気持ち」などと歌っていたら、今日においては「じゃ、すぐ死ね」と、すぐさま撃ち殺されるのが、現在の荒みである。人間の機微とか裏表を勘案する余裕など抹殺されているのだ。「君は天国を知らないまま暮らしてく、君は地獄を知らないまま暮らしてく」などと歌っていたら、強大な体制によって、すぐさま「地獄」に落とされる手続きが取られるだろう。当たり前と思っている生活のかき割りが叩き壊され、剥き出しの市場闘争原理による搾取と苦役と重税と隷属と権利剥奪が待っているだろう。従って、現在ではこんな歌は「通用しない」とも論評できはするがしかし…「ぬるま湯」レッテルによって「内省」が承認されない状況で、それでも内省に拘泥するならば死を覚悟した命がけの思想たるを要求される、思想にとっては望むところでもあるのだろう。時代は変わる。思想は変わらない。不動である処の思想に、時代がくっついたり離れたりするならばそうさせておけばいい。

音は…厚みを増した朝霧の不整脈…心臓が燃えて焦げ縮まる苦しい瞬間の断末魔における僅かな動悸が、電化された見通しの無い音壁と激しい歪みのファジー音像、目くるめく転調の自在で以て、ぽつ然とした不安をきょとんと、ある種の馬鹿犬のように醸してくる…煽られる不安の誇示的厚かましさと異なり、持病の如き憔悴の盆踊りがここに。こうした音楽はその特質としての点在性の達成として「ペットサウンズ」「スマイリースマイル」の「影響」を忌避した隔世の勃発である事も特筆に値する。聴けば聴くほど頭が腰砕けになるだろう。因みに、ライナーに記述されてなくて兎に角うろ覚えだが、この楽曲は元ボクサーの喜劇役者たこ八郎の死(泥酔して海水浴の挙句の心臓麻痺)を悼むものであったと思う。

なお、以下の、たこ八郎へのタモリの告別は、一見すると、調子に乗って「内省」を追撃する「時代」側の荒んだ言説に思えるかもしれないが全然そうではなくて、不動の「思想」としての、ルサンチマンを排した言葉=荒みである事は余談ながら付記しておきたい。「荒み」が、現状の勢い(=時代)と、現状への意志(=思想)の両義を意味する引き裂かれた概念であることは、拙筆なる「荒み宣言」において詳述している。

タモリ「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない。」

moon riders

keiichi suzuki
tohru okada
masahiro takekawa
tetsuro kashibuchi
hirofumi suzuki
ryomei shirai

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「ヒカシュー/ヒカシュー+2(1980, 1989)toct-10049」



地元に何百年と伝わる神楽や能などは爆撃や誤爆で破壊されたらすっきりするだろうと、心の苛立ちが括目する。無気力編はヒカシュー。狂言師のような深イイ声の真面目が残酷なグロテスクを突拍子もなく飄々と謳い上げる哄笑の根底的なフザケ、一抹の毒、…災害報道でさんざん見せつけられる上にこんな約束事にいちいち欺瞞を指摘する馬鹿正直なども端から無言の嘲弄の戒めに雁字搦めだから表面上無批判に事が垂れ流される真面目くさった嘘くさい顰め顔(女子アナ、評論家)に比べ…場違いな不謹慎にこそ真実に護衛されない剥き出しの誠を感ずる。テレ東で引っ張り蛸の希代の漫画家蛭子さんしかり…人間や生き物が未来永劫いくらでも繰り出す、裸の王様=理屈とは関係ないピンピンに生きのいい電子音の、楽しげな死の音がこの上なく快い。人の気に障る不敵な面構えの同じ顔の男たちが横一列で影の無い真正面から、両腕を丸めてぶんぶん調子に乗りながらこんな事を歌いながら不連続的に非情にも迫ってくるだろう…。不逞テクノポップの苦み走った精華だ。

「幼虫の危機」

たのしいな 幼虫が死ぬなんて
たのしいな 昆虫も死ぬなんて

たのしいな 動物が死ぬなんて
たのしいな 人間も死ぬなんて

宗教や思想や芸術がのたまうあらゆる種類の人生訓の大筋はもううんざりするほどよく分かった。皆同じことを主張しているに過ぎない。要するに生存を無自覚に信奉する人間や生き物がわんさか繰り出す理屈に執着せずに、降り掛かる火の粉を命がけで振り払って死を覚悟して楽しく動くのが徳、ということだと。中島敦の「悟浄出世」や「悟浄歎異」を一読すればもう、事足りるだろう。西遊記を見事に翻案して近代の意識を表出した佳作である。ドストエフスキーの長編を読むまでも無い事だ。芸術の価値が人生の無価値と等しいならばオンの字だろう。外界での客観的な無価値認定だろうと、内発的な価値の湧出の無さだろうと、どちらでも同じことだ。

プレゼン上手が売りの少壮社会学者どもは社会を科学する学者たりえていない。彼らは、彼らが分析、解釈していると思い込んでいる社会現象の一部に過ぎない。

はしりの時雨…暗雲垂れ込めて、いつもは室内の蓄熱が酷くて暑ぼったいこの賃貸物件でさえも涼しく感じると、心境も展望の無い落胆へと無暗に落ち込むとはいえ、青空が明け透けなほどの真夏であっても憔悴した気落ちは深まるばかりなのであって、いつだって低調である。そんな最中にあって、ある企みを立案中であったところ、大勢に影響ない程度であるが一部予定がままならぬ止むを得ない事情が起こり、むしろほっとしている…それ自体は純然と残念な事ではあったけれども、その事とは別に、計画などというものがスムーズにうまくいく事などどうかしている、うまくいく方が気味悪くて恐ろしい、肝心な処で取り返しのつかぬ悲惨事の前兆のようで恐ろしい、ならば事前に、ままならぬ事が小出しにでも起きていた方がまだまし、しかし事前の小出しがむしろ「うまくいっている」形ならばそれはそれで最終局面で全てがおかしくなる悲惨事への予兆なのかしらん、と、ずんずん疑心暗鬼が跳梁跋扈する。斉天大聖孫悟空を見習って屈託無く生きていきたい。

今、現在の、あられもない欲望は衷心から、正直な商売をしている郷土料理系居酒屋でとことん飲むこと…牛すじ煮込み、湯豆腐、地魚の刺身盛り合わせ、焼き鳥盛り合わせと郷土の鮓などを迷いなく注文してからまず生ビールをジョッキ三杯ぐいぐい、あらかた飲み食いしてほとぼりが冷めた後、静かに…烏賊の沖漬けと共に日本酒(純米吟醸)、冷やで行きたいところだが老いによる悪酔いしやすさを顧みて、熱燗…。

作詞:巻上公一
作曲:巻上公一、山下康、海琳正道

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「half japanese/loud and horribble(1980?)dc270 」

 

もはや掛け値無しの無気力編に突入した感あり。既に記憶や日々の思索からはじかれて捨て置かれているその辺の音源をまさぐる状況、これも…何なのか。ロック史的出自や文脈などどうでもよい、きれいに開かれた無邪気のままに聴きたいと素朴に願う浅ましさに逡巡、辟易、階上の掃除機音と二つ隣の馬鹿犬の無駄吠え、季節の変わり目に吹き止まぬ風に年から年中嬲られ続けて折に触れて小生をイラつかせる風鈴の三つ巴が来襲するが、囲碁と競馬を無音で無言で眺めながら、午前の将棋の感想戦に思いを馳せる。生ごみ発生と共に馳せ参じるブヨ十数匹がトレーに滴る鳥肉の血合いの旨汁を無我夢中で舐めまわしている時を見計らって即座にゴミ袋の口を結ぶと、半透明のごみ袋の中で、閉じ込められたブヨが慌てふためく。来週の火曜日にはそのまま焼却炉の火炎地獄で成仏するに違いない。

ゴミに生まれゴミにありつきゴミに生きゴミと燃やされゴミとして死ぬ

厭離穢土欣求浄土。山川草木悉皆成仏。この事は以前にも書いた根多である。それを性懲り無く繰り返した。他人事ではないからであった。笠間で震度3。潤沢な親収入と高価なお抱え箔付け教師に恵まれた小奇麗な顔した若き音楽家たちの一夏のオーケストラ佐渡裕指揮。見るに堪えない醜女、醜男が徹底的に排除された絵面…清潔ゆえに薄汚い階級社会の片鱗…そんな連中にショスタコーヴィッチの何が分かるのか、ずれにずれて一周回って正常に見えるが首が360°回るのっぺらぼうの化け物が大手を振って街や会場を闊歩する、「絆」とか「おもてなし」とか「日本の技術」とか「日本人は誠実」だとかの妄想を幾らでも吹聴しながら…それに対してカウンター絶叫すればすぐさま鈍器で殴り倒されてゴミ捨て場送りにされそうな予感。目ざとい制度、それにもまして、それの醸成に一役買うべく率先して露払いに努めるプレゼン気違いの追従少壮社会学者どもが、言語固有のレッテル効果、社会科学以前に己が使う言葉への批評精神が端から幼いだけに、うまい事言い当てる悦びにまんまと夢中になる幼稚な言葉遊びに興じているだけなのに、その夢中が齎す言語の暴力を無自覚に蔓延させたのを見計らって先述の目ざとい制度が合意形成へと一網打尽されたのが民意とやら、そうした民意からの摘発とつるし上げが言論と世論データに還元された暁にはまずは前段階としてピンポイントで重税攻撃してくるのになす術がない時、ない時、ない時、追い詰められた時、やらざるを得なくなる予感に苛まれる。宛先の無い怒りが腹痛のように自分自身に襲いかかり、目つきだけは陰険に鋭くなる。

爽快な秋晴れが続く中、計画を緻密に立てれば立てるほど当日不意に駄目になりそうだし、かといって立てないなら立てないで当日にっちもさっちも行かないのは目に見えている。晴れが続くが当日暴風雨だと全ての計画がおじゃんになるから今の内にできればガス抜きという意味で少しくらい雨が降って欲しいとすら懇願する不安症。体言止めに行き先無し。

ベープ目に沁みて秋の蚊脚長し

二枚のLPあるいはEPのアルバムをCDで一つにカップリングしたもの。half japanese とか1/2 japaneseと表記される事が多いバンドだ。気の抜けたゴム風船を蹴り上げ続ける不毛な幼児的偏執性、険悪性を露わに、色の無い音をガラクタ、鉄屑の類へと還元させる。肉と瓦礫と命とリズムと歴史が、それぞれ固有の機能を喪失した上で、等価に打ち捨てられる消費のゴミ溜めを提唱した80年代パンクの爛熟仇花…それさえも嫌らしい自意識臭がするのは隔世の感として致し方無いのだろう。上手に枯れ切った尾崎放哉の句からは臭わないが、世捨て人を気取れば気取るほど厚ぼったい自意識の装飾から脱皮できぬ種田山頭火の句(=苦)からはプンプン臭う、あれだ。あんまり人の事は云えないけれども…。

白鳳31回目優勝。大横綱。横綱就任当初は横審が強要する「横綱の品格」「いったん相手を受け止めてから相手を倒す」というのを真に受けてしまったために負けが込む時期もあったが、その呪縛を断ち切り、立ち合いの踏み切りが形振り構わず鋭すぎる時期もあったがそれも通り過ぎ、最近はニュートラルな取り組みで確実にまわしを取って投げるか寄り切る横綱相撲である。

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「modest mouse/sadsappysucker(1995)cpcd004」



ここ数年の今頃だったら10月末まで一晩中エアコンつけてないと部屋に籠った熱気で死ぬくらいだったが今年はまだ9月中旬の時点でエアコン要らず、虫の音がさやかに聞こえる。ずっと己にとって重苦しく、時に睡眠を妨げるほど抱え込んでいた懸案の、難儀な交渉事を、一見、軟着陸に落ち付けたか…まずは、第1段階突破おめでとう。しかしまだ完遂したわけじゃないので油断は禁物、事を為すにあたっては、ざっぱり些末を切り捨てて如何なる犠牲を払ってでも目的遂行のために、地道に、着実に、静かに、そして徹底的に、じっくり、ゆっくり、腰を据えて、事を、じわり、じわり、と、進めなければならないのだ。NHK日本戦後サブカルチャー史…忌忌しく思いながらきっちり視聴してしまう自分はもうどうしようもないが…エヴァについて生半可な「理解」を示したりしたら承知せんぞ、と、何の力の背景も無く凄んでいたがこちらが立腹するほどでもない表層的な論評に留まっていたのでひとまず安心する貧相な自分に嫌気すらささぬやけくそな気分ではあった。心臓病の特集のテレビ見ていると心臓がどきどきして、意識してしまったら自律神経が狂って止まるんじゃないかと怯える。そういえば小生の胃に生息するポリープは人間ドッグの度に「健康な胃にできるポリープですよ」と、良性扱いされて数年くらい放置されているが良性ポリープがいつしか「悪性」へと変質することはないのだろうか…良性だろうが何だろうが禍の芽は若いうちに摘んでおくべきなのか、同じ病院だとまた放置されそうだから病院を変えるべきなのか、億劫さがのしかかりつつ、ポリープの事が急に不安の種になり、酒が進まぬ。

華岡青洲の妻 ~ 碇ユイ(旧姓 綾波ユイ)…夫の、およそ常軌を逸した目的のために自分の身命を捧ぐ妻の系譜

どういう出自のバンドなのか、皆目分からぬ。なぜこれがここにあるのか記憶にないが兎に角部屋の隅に投げてあった代物を、ふと、再生装置にセットする。何の因果か僥倖化かはたまた陥穽か、賑やかしい夏フェスというものの出演が急遽決まった、まだ首筋が幼い、WASP家庭の軟弱大学生バンド風情…生産体制の地獄をいまだ己の生身で苦しみぬいたことのないながらも専ら知識と情報の中で純粋培養させただけはある、それなりの、厚みはないが薄刃なりに切れ味は鋭い先鋭を内にきらめかせつつ…彼らをしてもほとんど記憶に刻まれることのない、ファッションサイケ、インダストリアルサイケ風情の夏フェスが終わってしまった後の、人糞や空き缶、引き裂かれた衣服などが散乱するダダっ広い草原の片隅で車座、三々五々退却する客の流れとは別に、未練がましくフェスのほとぼりの落ち穂拾い、草原のそちこちで若者の集まりが即興演奏に興じるのか。巨大精巧な運営組織から電源も切られてかたなしのエレキ楽器の頼りない生音を、寛いだ雰囲気で気ままに爪弾くうちに…スカスカの、風通しのいい音楽が草いきれの残滓をさらうようにして、次第に燃え上がる一瞬が、ギタギタしいギターの捨て鉢なかき鳴らしから取りこぼされて、掠れるばかりの絶叫が、少し現場を離れたらば空気にのまれて聞こえなくなるあえなさ。いまだ人生の未経験に閉じ込められた、幼稚ながらも霜柱の結晶で大人の首筋を狙うくらいのイノセンスで無力な創意があった。長続きするまい、それでよいのであるが…。終わらないピクニック、その明るい暢気さを失わないおぞましさ。90年代の乾いた絶望が、図らずも、サイケデリアのマグマ溜まりへと通じる噴火口となりうるのか。

john wickhart:bass, guitar
dann gallucci:guitar
jereniah green:drums
issac brock:voice, guitar and oher instruments

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stand up against myselfなれど…

近所の愛玩系馬鹿犬の無駄吠えがキャンキャンキャンキャン朝から晩まで断続的に止まず、一旦気にし出すとコメカミにボルト打ち込まれる具合にガンガン疼痛に苦しむ…以前、堪忍袋の緒が切れてその発生源の家に怒鳴り込んだ事があったが改善は見られず…しかし、先日偶然、その家の家人とばったり遭遇した折、家人から再度軽めの謝罪があった後、その後の経過を聞かれたが、不意を突かれて先手を打って直接言われると怒りがぽしゃって、結局人がいいのか間抜けなのか咄嗟に「最近はいい感じです」などと答えてしまい、…今頃になって、「まったく改善されてませんよ」とガツンと言ってやるべきだったと後悔するが…改善と云っても生来愚昧な飼い犬だから人のいう事など聞くはずもなく、無駄吠え認知症犬に限ってよその飼い手がつくとは思えぬ、なれば保健所のガス室送りが、アドルフから言われるまでもなく「最終的解決」なのだろう…そこまで今の飼い主が断行するとも思えず、解決にはこちらかあちらが逃散するしかない絶望の淵が居丈高に聳える。要は金か。金がない下層民だから苦しみが続くのか。

今日はもう、まとまりのある理屈の伽藍を捏ね上げるつもりはない…メモランダムの断章を刻むことにする。いい加減記憶から解放されたがっている無数の言葉が頭蓋に充満して熱運動著しく赤熱、寝つけない午前四時…目蓋閉じれども目蓋の裏の闇のかなたに焦点を結んで寝ながらにして瞳孔開きっぱなし、意識がシャットダウンしない…仕方ないから枕頭の盆燈籠を点灯して読書…ちなみに盆燈籠にはスイッチが無いから、直接コンセントに差し込まなければならないが、暗闇の中であの二つの細長い穴に差し込むのは結構難儀だった…そういえば、新約でも旧約でも「つぶやく」ことを何かと非難していたのを思い出した。かといって聖書世界では、神に向かって直接物申す事が許されているのではないのだが…当世ではツイッターが流行である。

戸川純/ゲルニカ ⇒ 椎名林檎/東京事変 …擬古主義の系譜

秋晴れの三連休、細君が家を飛び出し上方へ旅に出た…鬼の居ぬ間の何とやらで、蘭学関係の文献や明王朝末期の白話物語集などを腕が千切れるほどしこたま買い込む…安売り全集本のばら売りだから値段あたりの重量推して測るべし。日差しは残暑だが涼しさを増した風が吹き続けて気持ちいいのでつらつら、安穏と、将棋や競馬を無音で見ながら執筆している…独酌の余韻を楽しむべくアニメと韓国ドラマと日本のドラマとハリウッドしかないレンタル屋でDVDを借りる…先々週と先週、テレビの金曜ロードショーで視聴したので内容は熟知しているので漫然と呑みながら肴にできるとタカをくくって…エヴァの最新の劇場版「破」と「Q」を。ついでに、これも過去にアニメ、漫画ともに見たことあるが「AKIRA」も。

「破」と「Q」のエンディングテーマソングが宇多田ヒカルだった…宇多田ヒカルの歌は何かしら「業」を背負っているから聴きごたえがある…エヴァの「セカイ」観とも合っているのだろう、下らない事を云ったが…兎も角その点で、JUJUだとか小柳何某などとは雲泥の差で一線を画する。SEKAI NO OWARIってか、もうほんと死ぬほど下らない、ディズニーランドに監禁された閉所恐怖で狂い死ねってか。ふざけんな。井上日昭と血盟団が現在もご存命ならば政財界の要人ではなくエグザイルを標的にするだろう。自民党がゆるキャラや萌えキャラをわさわさ駆使しながらまるで何でもない事のように事態の重要度を誤魔化すべく軽く宥めすかすような、あるいは献血キャンペーンでの萌えキャラ登用のようなボランティア-な感覚の甘言で「あなたの人権、わたしにくださいっ!」「もう、人権なんて要らないよねっ!」的なセリフで萌えキャラ攻勢を仕掛け、人民も、むしろそれがいい事なんだ、国家の云う事にいちいち目くじら立てて反対するなんてなんかかっこ悪い、子供じゃないんだから、と思い込んで宥和される悪夢が正夢になる悪夢。(萌え専門じゃないのでうまいキャッチコピーを思いつかなかった)

物語を読み解く=現在を読み解く

小生如きがエヴァについて云ってもせいぜい巷間で論評されるレベルを超える事は出来そうにないので無駄とは思いつつ、キャラがそれぞれの思想を体現しているのはドストエフ数奇ーのカラマーゾフの兄弟を想起させたので整理がてらやっておく。いくらつまらん事だと思っていても、吐き出さない事には小生が睡眠障害起こすから。専ら自分のためです。書いて、きれいさっぱり忘れるため。

エヴァ「Q」について

定義:内面性=外界、環境、状況との差異ないしは齟齬による思案の横溢
   社会性=①内的動機を外的動機に合わせる努力~②内的動機と外的動機との総合的一致、の範囲における種々の仕草

メガネっ娘の新キャラ→社会性②。生まれながらにして内面性ゼロ。傍観者的斜に構えつつ、それは内面的自我を防御する姿勢ではない。専ら社会性の範囲内で世事俗事を面白いか面白くないかで消費するタイプ。その、面白いか面白くないかの判断にも内面性ゼロ。恐らく、2010年以降の現代社会が最も提唱し、採用したがる人材タイプ。(このタイプ以外はばっさり切り捨てる殺伐とした荒野=2010年代以降)

アスカ→内面性の嵐に苛まれた過去を、いろいろあって克服し、今は社会性①のレベル。新キャラと協力して任務遂行することで社会性の向上をアピール。

シンジ→いまだに内面性の嵐の渦中。「Q」にあっては、「遅れてきた(迷える)90年代」その差異と齟齬によって物語の主体的駆動力となる。そうした状況を抱えながら、内面性と社会性との間を揺らぐ。

カヲル君→内面性を全肯定してくれる、社会性における特異点=希望。

綾波レイ→内面も社会性も無い、順応も反抗も去勢された、虚ろな器へと回帰したが、わずかに、接触不良による僥倖のように、内面性への回路が芽生えつつある。

物語の委細に踏み込むつもりもないが…「この世界には生きる意味も価値も何もない、一瞬の幸せはあるかもしれぬが基本ただ苦しいだけ、それでも、僕たちは生きていく」みたいな、今時の小学生以上を含めてもう世界中の人間が分かり切った、凡庸な物語をいったいどれだけ飽きもせず繰り返すのだろうか。

希望とは常に自身の手によって殺される。

舌を噛み千切りたくなるほど茶会したいが客の絶無には如何ともし難く…己の創意に走らず、素直に道具の滋味を味わうだけの寛いだ雰囲気の茶会を欲す…ままならぬので毎日、麦茶を絶やさないようにしている麦茶人に徹する。

昼寝が終わった馬鹿犬がやおら吠え始める…寝るか、吠えるかしかないのか、忌忌しい事この上ない。

結局ここまで与太話を長引かせたのも、記憶にないからであった…そして、もう、とうに終わってしまったこと、わざわざ振り返る必要などそもそも欲していない、その現場の一瞬にしか意義の無いライブなのであるから。破壊された残骸を、記憶の墓標に。書いていて何のやる気も出ない…

岩国ロックカントリー 2014年8月30日
「stand up against myself」

the polarizers→演奏技術はともかく、その音楽の業はまだまだ学園祭レベルであった。さらなる精進を乞う。業を背負う切迫感など結果として消尽してもよいが一度は通過する必要があるのかもしれない。生温かった。

Surf Vortex→非常に体幹のしっかりしたロック。速過ぎてゆっくりに見え、聴こえるくらい。湖上の白鳥の羽ばたきが優雅に見えるように。よいロック。

ジゲンオルガン→以前詳述した事もあるのでここで繰り返す事はない。これまでのロックの歴史をたとえるならば、半導体でいえば相対的に負の電荷が足りない局所の、「不在の流れ」とでもいうべき正孔型の電流に近いということを、小生は「王道なきロック史」と名付けここに展開しているが…つまり、ロック黎明期の音源を素直に聴いて演奏すれば自ずとそうなるであろうロックの「王道」=ガレージパンク~ハードロックの道筋、がある時点から「不在」となり、その不在がロックの系譜をなしているという現状分析を「王道なきロック史」といっており…そうした現状にあって彼らは、素直に、自由電子の流れを電流となす、「ロックの王道=凡庸」を地で行っている…屈託なく、地に足のつかぬ…これは先述の現状からすれば稀有である。しかしだからと言って体幹鍛えて間違いのない音を、その練度への自負と共に放出するのではなく、およそ定評ある芸がいつまでたっても板につかない不安定さを安定的に出している、という、奇怪を「へたうま」的表現へと開き直って収斂させない処に「筋」の通った美意識ないしは先鋭的尖りが聞こえはする、その匙加減は妙境を呈している。その筋とは畢竟、過去の音源を誠実に聴き続けた結果培われた率直であろう。いくら重低音を大音量で出そうとも音の本質が軽いのは上記に起因する音楽性としかいいようがない。なぜ軽いのか。その理由としてGS云々と影響関係をあげつらってもそうした御託はロックの本然とは関係ないとあえて一蹴しておく。
以下に挙げる2バンド(LIE-DOWN、めがほんず)は、音の内面的重さを爆音によって吹っ飛ばして軽くする力技(=核分裂)であるが、ジゲンオルガンはもともと内面性の薄い、軽い音を、爆音にすることで地上付近に留まるくらいの重さに調整しようとする力技(=核融合)である。核分裂と核融合、どちらが技術的に難しいかはよく知られているだろう。ただし、小生の耳がバカになったのか、今回は単純に少々怨霊が音量が足りなかった気がする。よいロック。

註:音の内面的重さ、あるいは軽さとは何か。詳述すればきりがないが、ここでは、人間を支配する習慣的な考え方の持続性即ち強制性が強固=重い、刹那的=軽いという意味でもよい。これは、信仰と自我と呪術といった概念でないと説明できないが、ただライブを聴いただけでそんな概念を援用するのは烏滸がましいとは思っている。

LIE-DOWN→記憶中枢が断線するほど爆音過ぎて本当に記憶に残っていない。だから本当は何も言えないのであるが、とにかく、荒んでいて、よいロック。客は客でそれぞれのやり方で聴いているのになにか客の態度を統制しようとする煽りがあって、嫌だった。座ってると怒られそうだったので、怒られると反撃するのが面倒なので致し方なく立って聴いたが、むしろそれへの自己嫌悪で、惨めな感情は残った。そうした煽りにも怯えずに泰然としていられるよう精進したいものだ。

めがほんず→爆音過ぎて本当に記憶に残っていない。だから本当は何も言えないのであるが、とにかく、荒んでいて、よいロック。

くだくだ書き殴ったが、一度吹き飛んだ記憶の残滓から、静かな部屋で純粋培養させた言葉の屑にさして意味があるとは思っていない。否、違う、記憶に残っていたのを一瞬で忘れた、のでさえなく、もともと記憶にさえも残っていないのである。だから、上述全て、捏造のそしりは免れないかもしれない。「よいロック」などという、ばかげた符丁を添付しているが、もう本当に、気持ちいいとか、昂揚した、とか、殺意を増した、とか、一切の傍観的感想が高速演奏とはち切れた絶叫とドスを利かせて突き上げてくる荒れたビートと音圧の殺伐によって吹っ飛んでしまっているのだから、どうしろというのか。小賢しくそれぞれの音楽性を分析するなど馬鹿馬鹿しいと思っている。今さら本物のロックに「至誠」の二字を冠する必要もあるまい。しかし、最後の2つのバンドは、低音のうなりとうねりが基本的には落ち着くというか、心地よかった。あと、最後の二つのバンドでは、第一次世界大戦の塹壕戦で精神を病んだ人の、常軌を逸した人間の動きの記録映像というのをすこぶる再現していた。みな、それぞれ、違う、それぞれに、よい、としか、云えない。記憶に残らない、ということが、要らぬ言説を寄せ付けぬ条件であるから、ロックのあるべき姿だと思う。そういう意味では、オープニングのバンド以外の4バンドはいずれも至宝である。我々聴衆こそはこうした至宝のバンドを贔屓しなければならぬのであり、聴衆が日々の生活の中で試される出番である。この度岩国ロックカントリーに聴きに来た方々の一人一人の命は、エグザイルを聴く千人ぶんの命よりも価値がある、一騎当千だと信じたい。生温い希望的観測なれど…。

来週はおでん作るぞ。

メイトーのかぼちゃプリンは絶品。

冷蔵庫の中で木綿豆腐一丁腐っていた。一緒に封入された水にとろみがつき、豆腐表面が糸を引く。捨てた。

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自民党憲法改正草案に反対する緊急声明 骨子

喀血のようにして、吐瀉物のようにして、いちどきに、まとまりなく下記の声明をぶちまけてしまった…たかだが一冊の新書の中の数行が小生の逆鱗に触れたのである。こんなにも月が美しい日曜日。

一体に事態がここまで窮迫しているとは思ってもみなかった…中国韓国が日本の昨今の右傾化、国粋主義、軍国主義復権を批判する声明を出す度に「そんなものあるか。またでっち上げで日本をこき下ろす事で国内事情の国益を謀るのか、そんな薄汚いデマを捏造するのはやめろ、いい加減、不満があるなら中日間、韓日間の政治担当者=当事者らが腹蔵無くとことん話し合え、それをせず首脳会談を拒否してばかりいる中韓の発言はもう純然たる日本への悪意と侮辱としか思えないぞ」と内心憤っていた…しかし…間違っていた。隣国の指摘の方が最早この国の内情と顛末を言い表すのに遥かに的を射ているのだ、と、ここにきて思い至った…頭に血が上って、最近は他にも色々とクリエイティブな事績に少なからず遭遇し意識が暴走して悶悶熱く眠れぬ夜、岩国=ロックカントリーでの奇蹟や、故あってレンタルして視聴したエヴァンゲリオンの1997年の劇場版二本立て(deth/(true)2 air/まごころを君に…)のえぐい法悦表現主義のクリエイティヴ絶頂…綾波ィッ…綾波ィッ…もう、「綾波」という字面の形で心臓が動悸を打つ心電図…それに加えて、三週連続で金曜ロードショウで最新のエヴァ劇場版も初見し、クリエイティヴィティを満喫した混乱もあり、そして…長年服用し続けても効いてるんだかどうなのか分かりゃしない漢方薬のような古典乃至は古文ばっかり精読している身には些か劇薬過ぎたのだろう…個人的に抱える深刻状況を更に誘発し兼ねない情報を聴いた時には本当に心臓に穴が開いたかのように胸の奥から血流が薔薇のような放射状にジターッと浸み広がる熱く苦しい感情に襲われ、それは兎も角として同じように心臓に穴が開いたように赤熱した動悸が放射されてしまったのは、故あって本屋で時間つぶしている時に何となくたまにはいいかと思って買ってしまった薄っぺらい新書本で、「リベラルじゃだめですか?」(香山リカ 著)を一晩で読了したのが、古典古文と比べて辞書的意味が全て分かる日本語で書かれているから、文意の吸収が速攻過ぎてあまりに効き過ぎる特効薬だったのか、感情は乱れに乱れ、意識はシャットダウンせず徒に暴走しては頭蓋の内壁に繰り返し激突しては糞襤褸の血塗れになる不様な養殖マグロのように不穏なのであった。

政府自民党の憲法改正草案…以前にもその草案中の表現の自由の項について言及、批判を加えた事がある。その内容は繰り返さないが要するに自民党は表現の自由を徹底的に弾圧する、というその内容への批判だった。しかしその当時小生は、自民党の中のとりわけ頭が悪い連中がうっかりミスでたまたま表現の自由についてはそれを弾圧する文意を書いてしまったのだろう、言葉の意味が如何に理解されるかを考慮せぬ愚昧だから、と、タカをくくっていた。しかし、そうではなかった…くも膜下出血の前兆のように感情がぐらぐら頭真っ白、煮え滾り激昂冷めやらぬ憤激に苛まれた… 政府自民党は…全く以て明証的に自覚的に現行憲法の根底を叩き壊して新たな、というか旧態の国家主義国家の創設を目論んでいるのが明白となっていた…そう、ちょび髭伍長のアドルフがその著書「マイン・カンプ」において己が成すべき事を全て赤裸々に明示していたのと同じように…ひぃふっ、と、…突如…くも膜下出血の血汐が引いて行くように熱狂が解れ跡形もなくなった後の無残な低調の心情に飲み込まれながらも物を書くにはやはりこうした底辺から舐め上げるが如き構えの方が安定を増す気がする…何の話だったか…そう…自民党は極めて自覚的且つ組織的に、本気で、憲法の中枢である基本的人権の項の根幹の思想的部分を壊滅させるつもりだ。国民主権を抹殺して国家主権へと挿げ替えようとしている。国民主権は現行の日本国憲法のみならず国連憲章を始め欧米その他の多くの諸国の近代憲法で自明とされてきていたことだが、それを、あっさりと、明白に、やめようというのである。しかも、その改悪を、それとは国民に気づかせない巧妙な組織的手筈で静かに、しかし着実に行おうとしているのは必至だ。絶妙なタイミングと馴れた手綱裁きでマスコミや公安、警察、司法、財界と結託しながら秘密裏にいつのまにか世論構築し絶対的に実行する覚悟であることが、自民党憲法草案を垣間見れば一目瞭然なのである。…自民党草案によれば、国民に主権があるのではない、あくまでも国家に主権があるのであって、国民は国家の奴隷であり、国家が要求する奉仕、責任、義務を果たす国民だけが、国家から、ご褒美=餌として、極めて制限された基本的人権が与えられる、というのを明記している。引用が遅れたがこういうことだ。(「リベラルじゃだめですか?」の孫引き)

自民党 日本国憲法改正草案 添付 Q&A集

Q14 

「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務についてどのような方針で規定したのですか。

答え

(前略)権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。(後略)

自民党 片山さつき参議院議員のツイッタ―から

「国民が、権利は天から賦与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権説をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆で考えるような前文にしました!」

正気なのか。天賦人権説とは、人権が天から与えられた、即ち人間の社会関係から起因するシガラミとは無関係に、専ら人間そのものの意志のみによって生成したとする説である。この天賦人権説を否定して、公共の福祉とは別の価値観で作動する国家の恣意が人権を規定/規制する国賦人権説を取るというのか。国の歴史、文化、伝統などという曖昧な概念によって人権が規定されるという事は、そうした概念を意味づける国家の恣意が人権を規制するということと同じ意味である。そもそも憲法とは国家の上位にあって国家権力を規制し国民の主権と人権を保障するものであり、法治国家の謂いである。そうした憲法を国家の恣意の下に置こうとする事は法治国家たるを捨てるに等しい。国家が必ずしも国民に悪を成す必然は無いが善を成す必然も無い。そうした状況で、国家の恣意が国民の諸権利を蹂躙しうる可能性を憲法に仕組むという事はその時点で看過すべからざる人権侵害である。政権与党中枢から公開された文書に、このような、人間の尊厳を徹底的に踏みにじる言説が罷り通っていることへの驚愕と戦慄。こんな重大な事を、「~前文にしてみました!」などという軽い調子で済ます無神経にぞっとする。 人間は…自分らに突きつけられたあまりに深刻な事態、というものに直面した時、それをまともに受け止めた場合の恐怖と混乱を恐れて、それを見なかったことに、あるいは過小評価して失笑に付す欺瞞的皮肉的服従へと走りがちだが(いや、まさかこんなこと、本気じゃないんでしょう?的な。ナチスのユダヤ人絶滅政策を思い返せ。いくらアドルフが絶叫演説しようとも、実行に移されるまでは、誰も本気にしてなかった)、こんなのが公開されていて何故いまだに政権の支持率は安泰なのか…この状況の深刻さは小生でさえいまだ信じ難い、もう、手遅れなのかも…とすら悲観してしまう…。

上記草案の考え方の否定すべき処を改めて明記する必要など本来ないはずなのだが…全く前提が狂っている、しかも堂々と狂っているから意志が弱い人にとっては正しいのかと思わせてしまうほど、要は、人を殺しても罪になりません、と憲法草案で宣言しているのと同義なくらい、本当に笑えない、気違い沙汰だ。 何故ならこの草案の文言は、国家の統帥の名の下に人間性を破壊するものだからだ。そもそも国家とは概念ないしは機能に過ぎず、そんなものは実在しない。国家とは、あくまでも国民それぞれの幸福追求を達成するための概念あるいは機能に過ぎない。国民の下に国家が存在するのが正しいのであって、だから国家が国民の上位に来るのは根本的に誤っている。せいぜい自民党がいう国家とはGDPだの貿易収支だの出生率だのといった棒グラフや国土の絵図といった、人間の抽象の産物に過ぎないのだろう。さらに、愛国心、郷土愛などという独りよがりで不可解な観念の妄信を国家と云っているのであろう。後者は論外として、本来、そうした棒グラフや絵図を、数ある手法の中の一つの指針として、国民の幸福のために活用するものである。更に云えば、本来、国民の生活のビッグデータから得られたそうした棒グラフは単なる国民の積算値あるいは平均値に過ぎないのであって、個々の人間は一般論と平均値で生きているのではない、それぞれ固有の人生を生きているのであるからグラフが上がり下がりしようが個々の人間にとっては何の関係もない無効であるばかりか、個々の人間の人生を棒グラフの予測値に向けて統制させようとする人間弾圧である。棒グラフは抽象物であり、データである。データは常に、特定の少数の人間の解釈、とりわけそのデータの信頼性を背後で保証する権威的人間共同体からの解釈と承認を得て初めて意味を付与される。そして、ここで言う特定の、ごく少数の解釈者こそが、国家という隠れ蓑の背後で甘い汁を吸う一部の特権階級であり、要するに国民が国家の奴隷になるという事は一枚皮をはいで見たらば国民がこの少数の特権階級の奴隷になるという、民主制の暈を来た古色蒼然の専制独裁なのである。甘い汁というのは、恐らく、国民が国家に奉仕するというスペクタクルショーを安全な高い場所から独占的に楽しめるという自分中心的な倒錯的思想的悦楽と、そうした専制の旨みとしてもたらされる税収やそうした専制と当然ながら結託する市場経済からの進物としての利権であり、この甘い汁にあずかれるのは、国会議員と治安系公務員(司法も含む)、財界と天皇である。そういうシナリオが見え見えである。

だいたい、国民の権利が共同体の歴史、伝統、文化から徐々に生成された、というのは一体どこの歴史をいうのか。そんな事実は歴史上存在しないし、自民党の、悪びれないほど露骨な虚構である。伝統や文化から人権は生成されやしない。人権は専ら、伝統や文化といった惰性の現状肯定からは生成され得ず、現状に反し現状を変革しようとする意志ある人間の思想の産物である。基本的人権はブルジョア革命の過程において非連続的に生成し、一方的に宣言されて生成したものであり、共同体の慣習から無意識に連続的に醸成されたものではない。そこに至る様々な経緯の蓋然性は説明されるだろうがだからといってその説明で決定的な生成を明らかにすることは不可能であり、少なくとも生成という一点をとってみれば絶対的に非連続的非線形であり、まさに人間の意志の樹立といえる事こそが、西欧の、革命たる所以である。ルソーなどの個人が紡いだ思想がその萌芽をばらまいた、人間の人間たる思想の樹立である。他の諸国は日本も含めてその啓蒙思想の結果だけを受動的に導入したに過ぎない。基本的人権があらゆる理屈からのこき下ろしを排除する、理屈無しに人間の人間たるを保証する人間の意志であり近代の人間そのものなのである。そうした成果を頭ごなしに否定する野蛮な言説に負けることは出来ない。人権が国家の歴史、文化、伝統の理屈によって規定される時、人間は国家の、そしてその背後にいる合法的既得特権階級の思うがままの奴隷に成る事を強いられる。人権が国家の理屈や恣意で左右されるならばそこには最早、思想・信条の自由も表現の自由も抹殺されるだろう。思想や信条というべきものは国家の恣意への批判以外に有り得ないからだ。帝国憲法の顛末を見るべくも無く、憲法によって、装いも新たな治安維持法や国家総動員法が合憲になるだろう。これはもう…断じて許される文言ではない。

今ここで慌てふためいて反論に打って出なければ一体いつ人間を「取り戻す」のか。事態が成立に向けて「熟成」してしまってはもう成立したも同然であり、手遅れであり、如何なる反対論も抹殺されるのは目に見えている。反撃反論するのは、本当に今しかない、どうすればいいのかぱっとは思い浮かばないが反論の論陣を張るなどの実力行使するならば今しかないのである。

結局…基本的人権の啓蒙思想はまさに全く寄る辺ない人間の意志に依拠するものだから、意志と云うものをもたない人間が多数派を占める国家であるならばそれが瓦解するのは時間の問題だった、という事に尽きる、という絶望状況を直視しなければならない。そこに人間の意志は無く、主義でもイデオロギーでも何でもない惰性に過ぎない資本主義と市場原理に惰性で流され盲信、追従する多数派…上記の憲法草案の文言自体に問題があるのは当然だが、問題の本質はもっと根深い。民意を汲み取り先取りすることに長けた政権与党が作成した草案なのである…大多数の国民が、あの文言を一笑に付し、否定し去る状況というのか空気というのか、兎も角そういう状況であれば取り合えずあの文言の卑劣のみを批判しさえすれば事足りるのである。本当の問題は…あの憲法草案が、国民投票で承認されかねない、という一抹の不安を否定できる状況に無いことである。通過する可能性が、事ここに至って、時局として生じ始めたのである。文言を孫引きした新書…表層的な現状分析ばかりでなぜ今リベラルが瀕死なのか、の根底を探るには至っていないが現状分析としてリベラル勢力が弱小化しており、その挽回を図るのが極めて絶望的なほど、国家主義的「空気」が濃厚なのである。国家主義、惰性主義が多数派を占める現状日本なのである。あの手この手でどうあがいても今の日本ではリベラル勢力の復権が困難になっているという状況分析はよく分かった。ただし、なぜそうなったか、は、この新書では突っ込みきれていなかったが、小生の私見だと理由は単純である。安倍首相が日銀政策によって円高是正に成功した、という、数値ではっきりと示せる成果を出した、この一点に全ては起因するといっていい。円高是正→円安化への成功が、一挙にこの国の空気を変えた。アドルフをはじめ、ファシストはいつの世でも経済政策がうまいのだ。経済さえうまくやれば、「満足する民衆=時代の空気」の力を借りて、他の政策へのリベラルな異論の封殺など一気に片が付く。

自民党のやり方としては、現状を政策で以て憲法の精神に合わせて合憲にさせるという立憲主義とは真逆に、憲法を現状という既成事実に合わせる企みである。そして、これは陰謀説めくがあながち昨今の状況を見ると間違っていないと思われるが、政府が法整備に先立って懇意のマスコミなどに情報をリークすることで現状からの反応を見ながら情報を小出しにして現状を法に合うように成型加工した後に、その既成事実=民意をより盤石に固めるための総仕上げとして法案成立させる、という最悪の手法である。情報化社会とやらの実情は此れである。特定秘密保護法案、生活保護法改悪、派遣労働者法改悪、配偶者控除廃止の動き…。自衛隊は軍隊であるのは既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。日米安保は集団的自衛権行使という既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。そして最終的には…多数派の国民は意志を持たず思想・信条の自由も表現の自由も必要としていない、さっさと奴隷に成りたがっているのが既成事実なのだから憲法もそれに合わせる。即ち国民から、少数者が口やかましく言い張る基本的人権を憲法から剥奪する。そういうシナリオである。さらっと書いてしまったが、そう、結局…日本人の中では既に、思想・信条の自由や表現の自由、言論の自由が必要だ、と考える人間はごく少数なのである。そして、唯我独尊生存欲求⇒金儲け⇒市場原理の惰性に汚染された多数決民主主義において少数者の権利保護という観点は消失する、というか保護しなければならないという、人間の、ある種惰性に反する意志を樹立することが出来やしない、意志薄弱の多数派からすればそうした保護政策をリストラするのが必然なのである。かつて吉本隆明の転向論から想起して小生の「荒み宣言」にも書いた事だが、食うに困り空襲に怯えども基本的人権など無くても困りやしない、それなりにぬくぬくと狡猾に戦時中を生き延びていったのが、「大衆という実存」なのであった。

もっと言えば、国家の背後で甘い汁吸う特権階級、と云う風に最終原因を前述で措定したが、それさえも本当は虚構に過ぎない。安倍氏、石破氏を政権から引きずり落とせば事態の悪化が防げる、というものではないのである。しかしだからといって、安部氏、石破氏などという政治家個人を眼中に置かぬ超然主義はただ隷属を待つのと同じである。彼らとて、彼らに協力する数多の権益団体とて、その行動原理の主体は…煙に巻かれている…それこそ、…戦時中によく云われた、開戦前夜の「空気」みたいなもので…その空気がある一線で絶頂に達した時、状況は一挙に傾斜する。小生は何も自民党の政策に片っ端から反対と云っているのではない。政策によっては悪くないのもあろう…しかし、この憲法改正案だけは断じて許す訳にはいかない。という事は、最終的にこの憲法改正草案を成立させるために少しずつ外堀を埋めるが如き、政権与党の、実に巧みな、隠密裏の、「空気作り」「既成事実化」の煽動工作の一つ一つを丹念に発見しては過敏に反応しなければならないだろう。この改正草案が国会に提出された時、それは、国民投票も含めて「この草案が成立する」という確信を政府与党が得た時である…成立させるための地ならしに、今の与党なら余念はないだろう…今はその地ならしが少しずつ、それとは気づかずに行われていると見るべきだろう…口の軽い麻生氏が「ワイマール憲法をいつの間にか無効にしたナチスの手法から学ぶべきだ」と発言したように。

それと、多数派と少数派、という乱暴な民衆規定のせいで、少数派にとっての上記のような絶望状況が論理的に免れないのではないかという懐疑もあるかもしれない。だが…最早…認識とは常に人間の主体的な構成によるものといえど、いくらスマートな社会科学モデルがマイルドな共同体モデルを提起しようともそれが、ここで言われているレベルでの現状認識(存在論から問われるガチの認識論の対象ではない、ごく通俗的な共通認識…)の変更を余儀なくされるとはどうしても思えない。たとえばエグザイルや関ジャニのような下劣音楽の下に数万人集まるのに対し、8/30岩国での、これ以上突き詰めようもないほど最高至宝の音楽の下には数十人しかいない、というあられもない現実に対し、多数派、少数派という規定をしており、芸術においてのその意味は別稿を割くとして、とかく政治においてはこの規定この現実の持つ意味は甚大としか言いようのないのである。多数決だから。

時局はこれほどまでに深刻化しているとは、本当に知らなかった。その打開は、正直言って絶望的である。最早、状勢を楽観視することは慎まなければならない。戦前戦中の事件と、現在目に余る時事との共通符号を数え上げればきりがないかもしれない。それほど切迫している。最近の、とち狂ったように増え続ける、日本礼賛テレビ番組なども本当に気持ち悪い(日本の文化は素晴らしい。日本人は礼儀正しい。日本の技術は凄い、…)…国連脱退前夜に「日本人はなぜ偉いか」的な著作喧伝が溢れかえり極めつけに理論づけた日本ロマン派の勃興という事実…この絶望状況の時局、如何に生きるべきか。ガチで直面すべき時はとっくに訪れた。そのことを、8/30の、岩国ロックカントリーでの出来事を通して、涙ぐましくも、ぎりぎり、論じたいと思う。演奏が終わってしまえばその音楽は終わってしまう…記憶の中の音楽など、あの現場での現実に比べたら遺骨のようなもの…まるで無かった事にされるかのように…しかし、終わらせはしまい、限りなくゼロに近い文筆の微力で以て刻印すべし…次回、再びstand up against myself!

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今週休載のお知らせ

晩夏の候…今週は所用につき繁忙のため休載いたします。一週間ほど思索を寝かせるためもあって… 次回は9月7日です。

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