愛に走って
歌;山口百恵 作詞;千家和也 作曲;三木たかし 編曲;萩田光雄
今更百恵論にどっぷり嵌まるつもりはないにしてもふと思い出して改めて聴いてみるといいに決まっており…小生は「百恵伝説Ⅱ」と云う5枚組CDを所持しており、此れは其の内の2枚目のCD全21曲の7番目の所収されている楽曲である…具体的には、初期の青春路線が成熟期に入ったが宇崎・阿木時代に突入する直前の時代の楽曲と思っていい。裏も深みも無いピンピンの素っ気無いキーボードの主旋律を呼び水としてこれまた素っ気無く歌い出される此の歌は…大ヒットした有名楽曲でもなければ、百恵楽曲の中で時折噴出する異常な実験精神の発露があるわけでもない、淡淡とした楽曲でありながら寧ろそれゆえこそに歌の本筋が顕わになって…従来からして若さゆえの肉感の中に冷めた切れ味を忍ばす諦念に溢れていたのが此のあたりで既に若さゆえの肉感すら潔く捨て去って、うっかり触ればすぱっと気付かず切れているくらいピンと張り詰めた冷めた鋭利さの声だけで歌の勝負をしている、そうした試みの手始めの捨て曲のような気負い無さだからこそ…冷め切った狂気を剥き出しにしている…歌詞内容からして夢遊病じみているが当然此の歌唱は心理学的説明で事を収束させない人間のあからさまな本質を飾り無く歌うのであって…見えない糸の先を、どこか覚めながらも無闇に手探りする「悲しい行い」の必死な自分へ翻る恐れが殊更に自己を深めて…如何にも切れやすい糸だけを紡いで生きていく人生の危うさ…本物の寂しさと怯えを生きている人間模様だから、パジャマのままで、靴も履かず素足で夜の街に、愛を求めずただひたむきに愛に翻弄されて、恐らく「あなた」には全く理解できない次元の「愛」に走ってしまうのだろう…研ぎ澄まされた神経は人間や世界に対して過剰に敏感であるゆえに、電話の声の寂しい響きは、気のせいだけでは決して済まされない、妄執にも似た決然たる構成力に翻弄されるのだろう…真面目に聴いているとおかしくなる…そんな実態を、試みに素っ気無く引き絞ってみた声に既に宿ってしまった琥珀色の艶を晒して、死と発情に分かれる分岐点の一歩手前に抑制された含みを備えた控えめに上ずった声で切切と歌われては。その声は血糊のようにくも膜下出血のように脳裏に焼き付いて離れないほど美しい…冒頭の、控え目なキーボードのピンピンピンピン云うイントロは…病院の心拍モニターの音にも聴こえる…臨終を経験した魂の歌の降臨かと思えば、たまに挿入される女声コーラスが天界からの其れにも聴こえる…もう、全てが終わっている。百恵は菩薩なのか、と云う、いわゆる百恵菩薩論が本気で紛糾した往時を忍ぶ。
パジャマのままで走ってきたの 暗闇の中
あなたを追って
電話の声の 寂しい響き 気のせいだけで すまされなかったの
ほんとの気持ちが聴きたいの ひとりで何処かへ行かないで
うまいことばが見つからなくて ただ泣くばかり
何かにわたし 怯えているの
あなたの愛が掴みきれないから
素足にあたる小石が痛い 青ざめた頬
あなたの前に
自分が何を しているかさえ 分からないほど こころが乱れるの
何にも考え 浮かばない 悲しい行い 責めないで
握りこぶしに 力を込めて ただ震えてる
何かをわたし 恐れているの
あなたの愛が掴みきれないから
うまいことばが見つからなくて ただ泣くばかり
何かにわたし 怯えているの
あなたの愛が掴みきれないから
人々のスピードについて行けない侘びた心持だけは一層、枯れた牡丹の花みたいに咲き崩れる小汚い雨も降る…魚は不味い、お惣菜は良く云えば独創的だが概して不味い、遠くに出掛けられない近所のお年寄りに高額で低品質の品物を売り付けてはいたが其れなりに其の界隈では需要を満たしていた小さなスーパーが閉店となる。今日の鑑定団で倉敷市住の82歳の御老体が60年近く嗜んでいるという生け花が凄かった…やられた、と思った…庭の蘇鉄の幹をぶった切って平たい花器の剣山にどかんと毛むくじゃらの化け物のようなものを鎮座させ、其の周囲を蘇鉄の獰猛な古代臭ぷんぷんの葉であしらうと云う豪快な作行きであり、只者ではない感じがした。その辺の針葉樹や広葉樹なら何てことなかろうが、そうした一般の樹木とは科とか属とかが全く異なるから切断したらどうなるのか分かったものではない自愛の蘇鉄の幹を、「己の花」のために切ってしまうと云う蛮勇たるや…推して知るべし。暮鴉は「ぼあ」と読む。
棕櫚の頂暮鴉むら立ちぬ店仕舞
春まだ遠く
サンダース(少数知識層,多数貧困層)<トランプ(少数富裕層,多数貧困層)
こうしてみると結局、知識(政治的理念=基本的人権)vs金(賃金を遥かに上回って雪だるま式に増殖する資本の暴走、政治への介入、癒着等々)の問題として抽出されるのか…選挙において、投票権を持つアメリカ市民の良識がぎりぎりのところで試されるし、無論、此の国とて対岸の火事ではない。サンダースvsトランプだと反共の歴史が深いアメリカではトランプ有利だろうから、社会主義反動への票の流入を少しは防いで票を取り込めるだろうヒラリーの方が、トランプに勝つには有利だとも思われるが…。ヒラリーの方がトランプよりはまし、と云う判断で…。そうならない程、アメリカ国内も切迫しているのだろう。と、ここで、予備選でヒラリーの連勝が報道された。
顕彰 高畑和夫
鴉やかましく…居座った電線から賀ー賀ー切迫感なく、喉の運動とばかりに無駄に喚き続け…風は薄ら寒く煽るが日差しに優しさが加わって気付けばオープン戦…先発福井3回無失点、二番手のルーキー岡田も堂の入ったストレート中心の配球で危な気なく巨人打線を打ちとって…今の処は天敵菅野から3点先取…エルドレッドの先制ソロホームランが効いて…いずれにせよのんびりした沖縄でのデイゲームでは何やらアフロなポリリズムが応援席からドロドロ流れ続けており…開幕間近だと云うのに大瀬羅が肘に違和感を覚えてドクターチェック中…そして小生は膝に違和感を覚えて足萎えの危機勃発…2/7付けの長文記事を胡坐をかいて集中執筆したのが祟ったのか…少なくとも其の時点が発端となって左膝に痛みを覚えており左膝をかばって今度は右膝も痛いと云う悪循環…関節部分が激痛ほどではないが何とはなしに痛む…しかし歩けない程ではない、寧ろ歩いた方が膝周りの筋骨が温まってホグレ、痛みが緩和されて気持ちいいくらいで…素人の浅知恵の報いなのか…体重と体力維持のため日々の仕事の隙間を縫って自転車で近所の長大な昇り坂をこぎ切る、と云う運動(此れを一回すると200~300g痩せると云うデータを自分で取った。心臓と肺がハーハー云う適度な有酸素運動の気持ちよさを知る)に数年前から励んだために過度に膝関節に負荷が掛かって骨と骨のクッションの軟骨が磨り減ってしまったのかという懸念に怯え…そう思うと何か、関節の隙間にガラス片が差し込まれ、歩く拍子に其れがズキンと割れるような嫌な痛みに刹那襲われたり、膝の筋骨がガチっと噛み合わず心許無いようなこともあったが一旦自転車操業を止め、ゆっくり歩くと言う地道な運動に心を込めて取り組んだり蒲団の上で体重を掛けずに膝回りの運動をしているといわゆる軟骨磨耗による関節痛と言うよりも関節周りの、骨と筋肉を結ぶ筋を痛めた感じに思えて…軟骨磨耗なら歩く度にツォンツォン痛かろうが、小生の場合、歩くと寧ろ痛みは緩和されている気がするから、従って、逃れがたい老いによる肉体の衰えと気温低下と慢性的な運動不足によって筋肉がガチガチに固まっているために膝回りの筋に集中的に過度な負荷が掛かり、其の筋を断続的に痛めてしまった、その事が、2/7の長時間の執筆胡坐によって決定的に顕在化された、という見立てではあるが…だからと言って、歩けない事はないが漠然と存在する膝の痛みは未だに消失していない現実から云えば、整形外科の意見を仰ぐのも一つの手なのだろうか、しかし上記の状況からして、其の程度でまだ若いのに大袈裟にも病院まで来て…と云わんばかりの顔で運動しろと云われるのがオチのような気もして逡巡、いずれにしても体力への自信喪失は一旦は精神の覇気を一挙に失墜させる…しかし一度喪失してしまえば精神の方はまた持ち直すのだろうが、見える景色は別物。悪い予感がして窓を開けると強風に煽られて物干し竿から洗濯物が落下…ベランダの、小汚い埃砂まみれになって…不貞腐れて再度洗濯機に放り込む…細君は実家に帰る。
そんな訳で今回は今までやり残していた、あまり考えなくても出来る事をこなすだけにする…其れは、小生が尊敬して止まぬ男、「高畑和夫」の言行録を簡易ながらまとめて、顕彰する事である。写真撮って切り張りしただけで終わる仕事だから此の場を借りて済ませたいと思って…云わずと知れた、F先生のあまたある作品群の中でも異色のキャラクター構成を見せてくれた傑作「エスパー魔美」の主要人物である。時局対応に向けて此れからやらねばならん事が山積する中、まずは此れを手始めにしたく…。それはそうとアニヲタやラノベ業界では「中二病」と云うものがあるらしいが…魔美も高畑も中学二年生である。中二病などと吹聴して其のキャラに甘えて引き篭もる幼稚な暇があったら、高畑氏の言行録を心に刻んで猛省されたい。
まずは此れ。説明は要らないだろうが…この簡潔極まりない、迷いのない現状肯定がかっこいい。男、かくあるべし。
魔美「高畑さん!あなた少しおなかが出てるんじゃない!?」
高畑「でてる。」
人間の何たるかを、人間どうしの関係の何たるかを肝で知っている高畑の真骨頂。魔美のみならず小生も…泣いた。男、かくあるべし。
魔美「じゃ、高畑さんは犯人はあたしじゃないと?」
高畑「あたりまえだろ!」
魔美「あらゆるしょうこが不利なのに?それでもあたしをしんじてくれるの!?」
高畑「理くつじゃないんだよ、人をしんじるってことは。」
此れは確か「サマードッグ」という、人間の身勝手さを告発した切ない話…故あって野犬に襲われて半死状態の人に自分の血をテレポーテーションで輸血したために貧血の魔美共々山小屋に逃げ込んだものの、野犬(元飼い犬。避暑地の別荘で愛玩されていたが夏が過ぎたために、都会で飼えない其の飼い主たちが山に捨てた犬が野犬化)たちの突入は時間の問題、此のままでは二人とも食い殺されるので魔美が最後の力を振り絞って高畑だけでもテレポーテーションで移動させようとする処で高畑は魔美から仁丹(説明は要るまい)を取り上げ、野犬の群れの中に討って出るのであった…男、かくあるべし。
高畑「まあ見ててよ。生まれてはじめてぼくは死にものぐるいになるぞ。」
白眉「学園暗黒地帯」赤太郎VS高畑…此の話について述べると本当にきりがないから詳論は省くが…今時局において最早他人事ではない、切実に困難な政治状況における生き様…男、かくあるべし。
魔美「そんなにしてまで…なぜ、たたかわなくちゃいけないの?」
高畑「言論の自由のためさ。力ずくで他人の口をふさごうとするなんて、ぜったいにゆるせない!!」
重要なので補足として、此の後、言論の自由を守るために己の身の危険もかえりみない高畑の行動が理解できない魔美が、父の佐倉十郎氏と対話する処も抜粋…うまく写真が撮れていない箇所は文字で補った。冷静に考えると、ヌードのポーズをとるの中二の娘が、それを描く父親と言論の自由について対話すると云う、常軌を逸した場面ではあるが其処にはあえて目をつぶって頂きたい。
十郎「ゲンロンのジユウ?ほんとに大じなものかって?ずいぶんあたりまえのこときくんだな。」
十郎「なぜって?そう…たとえば昔の日本にはそれがなかった。その結果があの悲惨な戦争だ。軍や政府は、自分らの方針に反対する者を片っ端からおしつぶした。逮捕、ごう問、時には死刑。」
十郎「一億の国民は目かくしされたまま、戦争の渦にまきこまれていったんだ。だれでも、どんな意見でもしゃべれる自由…これは民主主義の基本なんだよ。」
魔美「じゃ、ときにはそれをまもるために、命をかけることもあるわけね。」
十郎「必要ならね。」
ここでまず発見し、疑問を持たなければならないのは、十郎氏の発言では、色々と主義主張を腹蔵しているので其れを自由に発現させるために言論の自由を欲している民衆、と云う存在と、そうした民衆を抑圧する体制、と云う二つの存在が、互いに独立に存在している、と言う前提である。民衆を抑圧する体制というのはよくあることとして、此処で持つべき疑問とは、果たして「言論の自由」を心底欲している民衆というのは存在するのか、存在するとして其の人たちが本当に多数派を形成しうるのか、「言論の自由」を欲している人間はごく少数に過ぎず、そうした人間は民主的多数派としての権能を有する「民衆」を形成しえないのではないのか、ということである。
そもそも言論の自由を欲するまでに、己の中に、政治や体制や自然、宗教等々についての己の主義主張を樹立しえている人間が果たしてどの程度存在するのか。云ってしまえばとりわけ此の国においてはそんな人間はごく限られた少数なのではないのか。「民衆」は、何かしら現状に対して反対の意見を持つ少数者を妬み嫉みや憎悪などの独特の封建的嗅覚で嗅ぎつけては率先してそうした少数者をいわゆる村八分にしたり、元より反対者弾圧を本能とする政治権力に率先して売り渡したりて嘲笑的に悦に入り、更にはそうした体制順応する自分ら大衆を肯定してくれる地元のファシズム扇動家(在郷軍人など)の入れ知恵に付け上がっては全体主義傾向の主体となっていったのではないのか…といった相互依存関係があったのではないか。其処では体制が発端とも民衆が発端とも云えないような、民衆と体制が入り混じって政治的且つ心理的力学の有象無象が働いた結果が、小生が事あるごとに鮮明にしたがる、日本における純正全体主義の姿なのではないか。小生が「荒み宣言」で書いた「大衆という実存」なのではなかろうか…
ともあれ、日本=純正全体主義を説き明かす前に、まずは、イタリアのファシストとドイツのナチズム、そして日本の純正全体主義の三態には決定的に差異があると云う仮説の下に、それぞれの歴史的政治的実態を説き明かさなければならない…
まず以って注視したいのは、イタリアのファシストは、当然対外戦争による政権の弱体化もあろうが、少なくとも国内発のリベラル左派によるパルチザンによって、即ちイタリア国民自身によって打倒されていると言う歴史的事実であろう。日独は結局外国の武力によってでしか、それらの体制を打倒できなかった事も合わせて重要である、今時局を生き抜く上で第二次大戦を教訓にするならば。
無論、此の3国それぞれ状況が違うのでそれらをいちいち勘案しなければならないのであるが…。上記のような違いが日独伊である以上、近現代や未来の独裁制や全体主義を十把一絡げにファシズム、ファッショ、ファシストで片付けるのはおかしいばかりか、歴史の様態を見え難くさせるだろう。要するに、過去にも書いたが独裁制と全体主義は違う、と言う峻別は必要だと考えている。掻い摘むと独裁制は、其の中心に権力が極限まで集中すると独裁者のみ自由でその他一切の多数者が抑圧されると言う極限が作り出された途端、唯一人の独裁者vsその他多数派という構図が形成され、独裁者は孤立無援となってその他多数派によって圧潰されると言う政治動力学で記述されるだろう。此の反転現象は独裁者の強度(体制設計の緻密、独裁者の資質…)が多数派よりも相対的に弱まった時にも起こるだろう。(実際には、独裁者は、そうならないように巧みに近臣に気を使う、即ち権力を分散委譲することで保身を図る…)
其れに対して、純正全体主義の権力には原理的には中心がない。あったとしても見かけのカラクリが誠に巧妙であり…此の場合は多数派が一つの思想を主体的に樹立する、あるいは無思想、あるいは抑圧への過敏を磨耗させた封建的諦念と言う状況だから矛盾も抑圧も多数派内部には存在せず、矛盾や抑圧は有思想の少数者が受け持ちつつ、多数派から排除されて済まされるから、多数派は外圧がない限りは磐石な政治静力学、政治晶析学で記述される。独裁制のような、権力の集中による爆縮、超新星爆発のような体制崩壊が自力では起こらない。(笙野頼子の小説「水晶内制度」という事か)上記の独裁制は、どちらかと言うと古代~近世のアジアの専制君主の像に近いが…実際には、これらの、独裁制と純正全体主義の解明には、「体制」「制度」といった複合概念が要する…左派への「反動」といった側面もあるし…「資本」の問題も…実態は複雑怪奇ながら…ざっくりした青写真はこうだ。
イタリア ファシスト…権力の中心としての独裁者(以下、中心と略す)の強度が比較的弱い。体制的にわきの甘い独裁制に近いか。従って多数派による巻き返しが可能だったのか。
ドイツ ナチズム…中心の強度も強く、其の強度の高い中心が核となって民衆=多数者が主体的に一つの思想を樹立するに及んで主体的に共有が進み全体化が進む…従って一旦体制が固まるとどうしようもない。独裁全体主義、あるいは主体的全体主義か。
日本 純正全体主義…民衆と峻別される特異な中心としての主体的独裁者は皆無。主体的な意志を持った中心は空っぽ。天皇制、統帥と輔弼と言う帝国憲法のカラクリ…多数派と対立しうる独裁者=意志者不在で、多数派の中にも意志や主体が不在のまま各個人のその場凌ぎの本能的保身が駆動力となって全体が均一化した、全体主義傾向に資する行動に対してだけは主体的な純正全体主義。言論の自由が無くても誰も困っていない民衆という実存。自発的な言論封殺…「自粛」
こうしてみると小生個人の、イタリアファシストに関する不勉強が露わになって…勉強しなければなるまい。更に云うならば共産主義型全体主義や文革も考察対象にせねば…。書きすぎて肘が痛くなってきた。デヴィッド・ボウイ…ベルリンの壁の向こう側にもロックを届けたあなたと云う人は…。それはさておき、小生とて、「民衆と云う実存」と云う規定に拘泥する気はない…此れは本当に絶望的な概念規定であり、絶望的だからこそ超克を要請されるから実存ではあるが、あと半年、参院選挙までに民衆レベルで超克出来るかと云うと不可能であるからだ…ならどうするか、方法論も念頭にはあるが今日は割愛する。当面、小生がやらねばならないことは…①今時局における全体主義の補完傾向を、かつての軍国主義分析を参照に改めて洗い出して現状分析し、歴史的政治的要因と、其の対策を明白にした理論を打ち立てる…更には、②全体主義扇動家が繰り出す、リベラルを罵倒するためのよくある文句(「そんなに嫌なら日本から出て行け」といった類)に対して簡潔に的を射た回答を出して相手を突き崩すための、ストリートや広場で使えるQ&A集を作成する。イワシの甘露煮を電子レンジしたら爆裂…其の後始末で、楽しみにしていた真田丸を半分見そびれる…毎度楽しく視聴しています。
岩国ロックカントリー1/30
ロケットオーケストラ…具体的にどんな音であったのか今となっては殆ど思い出せない…毒にも薬にもならぬ重 湯あるいは葛湯と云った風情でロックと云う音楽をこれから聴く上で其れなりに胃を温めてくれた気がする…
めがほんず(山口)…前回聴いた時同様、黒い 篤い涙がつーと出る思いで…聴衆の皆が俄然、他人事ではない、当事者の顔に変わる…音楽上の危うさに自身を晒したハードロックが始まって…最 期は六角形になって死ぬようなメタルの様式美からは力ずくで免れるハード=困難な音塊を叩き込まれるうちに耳道が横にすぽっと外れて脳がぱか っと宙に浮く至高の瞬間もありながら…此度に限っては悪ノリが過ぎたのか、いわゆる土佐のヨサコイ音頭や北海道のよさこいソーラン、みたいな 、エグザイル部族の源流である悪ノリに堕したリズムの瞬間は聴き捨てならなかった…それは音列としては単調さを旨としたリズムをあえて恥も外 聞も無く晒す潔いガラの悪さをキメた、ドギツく、えげつないリズムであり、そのままだとハードロックと云う刃渡りの如き危うい線を渡り切りう るものだったが、其のガラの悪さと云う傾き(かぶき)がさじ加減を一歩間違えると、前述のよさこいソーランみたいな悪い意味での下劣に堕する のであって…若気の至りとやらでのやんちゃの矯正過程に使役されるダンスとして、体制内で許容範囲内のやんちゃをやらかす地元志向のマイルド ヤンキーが、ひどく統制的で頭は絶対的に悪いおっさんの指導でしおらしく練習を積まされた挙句に地元の、殆ど文化的に無価値無意味な浅薄フェ ステバルへの出場を目的として…其の結果としての踊りは、およそ人間の精神を身体性において鋭く問い得るような創意工夫が一切皆無な振り付け の、無闇に安っぽい動きを一生懸命全員で揃えようとするだけの其の意味を主体的に問う事が予め禁じられている中心が一つの統制的稚戯に等しい 、と云う、よさこいソーランが表出する諸々の下劣に、めがほんずが刹那、堕していたのであった…其れはめがほんずがハードロックと云う危うい 「境地」に身を置いている故に堕しやすい勇気ある不利のためではあったと認めながらも、そうなってしまった原因をあえて問うならば其れはさじ 加減を誤った聴衆への媚びの結果と考えられ…聴衆に自分らの音楽への同調を強要する色目が一線を越えたが故の結果であったかもしれない。単な るミスかもしれない。
そしてめがほんずの此度の結果とは好対照をなしつついわゆる「対称性」から見事に逸れていったのがジゲンオルガンなのであった…つまりめがほ んずと好対照をなすとは云いつつも例えばその逆であるとか延長上にある等とは云えないと云う意味であって…しかし、此れから書く事が、今まで 数回聴いて来た中で今回いきなり達成されたものでもなく、やっている事は此れまでと変わらない質ではあったとしか云いようがないが…其れでも 何故今回に限って此処まで描写するかと云うと…ある時期からジゲンオルガンの音は、此れまでと質を落とさないから何処が変質したのか部分とし て挙げる事は出来ないにしても、演奏の一定程度の上達に比例して先鋭性が薄まって聴こえ…ロックにおいては高貴と同義である其の下手物的音楽性が、表層的親しみを以て聴衆から其れなりに受け入れられる状況(別に悪い事ではない)への弛緩した安住に浴して…ステージをそつなくこなす雰囲気が小生には微かに感じられたのであった…無論其れは小生の主観的やっかみと云われれば反論は出来ないにしても…しかし此度のステージでは、何か憑き物が落ち たかのように…先鋭性が蘇ったと云える…その要因を年齢や時間経過に帰するのは安易に過ぎると思えど…推察するに状況への馴れに対してある時 期から飽きが嵩じた惰性への自覚が、聴衆を含めた状況を突き放す距離感を生んで、その距離感の中で、其れでもバンドを続けてしまう、しかし先 の事は分からない五里霧中の業のようなものを気負い無く生活化した時に、少し想像とは外れた、浮足立っているのか地に足がついているのか見当 がつかない先鋭性を齎したのではないかと深読みする。
それは兎も角相変わらず「教育されざる音」が維持されている、良い意味で「どこに出しても恥ずかしい音」、自己を晒して憚らぬ音を文字通り臆 面もなく晒す演奏であって…其れは無論、最低限の技量習得への鍛錬のおかげもありながら…利休の言を恃めばついに此処まで至ったのかと思う一 方で感慨が無量なほどの度肝を抜かれた訳でもない、此れまでの経緯を思い返せば当然の帰結とも思いつつしかし事が此処まで至るにはむしろ超人 的な努力の賜物と云うよりも生活と同化して根差したが故の間延びした意志の持続が遂に意志としての突出を摩耗させるほど生活化した創作の表出 が自然となっていると云う現実的で驚異的な努力にまで推察が及んだ次第でもあった…元よりジゲンオルガンの音楽性をロック史芸術史的観点から 聴いた論点は過去のブログでざっくり書いているので其処で布石に用いた各種概念で以て改めてジゲンオルガンの音楽を説明し収容する事は此処で はもう繰り返す必要も遂になくなってしまって結果物としての演奏が遥か彼方に逸脱しつつあるあらましに添えたらいいと思う…飴色のようなベー スも、透けた羽衣もあられもない弁財天が抱える琵琶にも見える空華が…落語のとぼけた惨めと義太夫のリアリズムがふざけて一緒くたになった情 けない諧謔が誠に脆い滑稽を堂々と踏ん張る自由自在な音の繰り出しは何処までも軽みに達して、いったい何処まで昇天するのかハラハラさせつつ、思わず目を覆った指の隙間から其の成り行きを見届けずにはおれない…天衣無縫と云えば聴こえは良いが要は意味不明の泣き叫び笑いで真面目に付き合うと気が狂うであろうステージングは全く常軌を逸しており…寄る年波に乗って押し寄せる、泣くに泣けない、笑うに笑えない生活苦、人生苦を押し黙ってやり過ごすしかない庶民の声無き泣き叫びを嗤って代弁してくれる猿楽…それでいて鯖の骨で頸動脈を一突きする暗殺者のような油断 のならない音の先鋭さ(ビャービャー足蹴にされるキーボード)があって地に足の着いた演奏力を物語る、畳の上で飛行の夢を見ていた後のバツの悪さ…天地に引き裂かれた存在こそ人間と云う狂気そのものである艶笑話をふざけて真面 目な泣き叫びで以て通信してくれる火宅の人=芸能者である事も伝えて一体どこまで軽くなるのか。音圧頼みの武力的大声ではない、空間を超越し て聴く人の脳に入った途端一挙に解放されて暴発する精巧な起爆装置の歌でもあった…はずれたタガの先行きを心配しさえもする優しさも溢れて…何をどうあがこうとも駄目なんだと現実を泣き笑いで晒す絶望的希望であった。
そうした事態と同時進行で先述の「恥ずかしい音」を真っ先に表出するのは楽曲中に時折垣間見える、ごく僅かなリズムの亀裂、断裂、断絶、ずれであって…人間の何たるかを知らない衆愚の、およそ政治的一般論のプログラム内でしか物を思わない人達ならば此のずれをすかさず冷やかしの対象にあげつら っては己の優越を誇るという貧相を演じるのだろうが…聴衆の大勢がそうした惨めな貧相に傾く一つ手前ぎりぎりで其のずれを収めている天然とも 批評とも分からぬさらけ出しだから、此の恥ずかしさが人間の本源に根差す恥の興業になり得ている…図形化すれば楕円であって中心は二つあると云う のはロックにおいては猶更二項対立ではなく原初的な差異の始まりとしてのずれであって…そもそもメンバーが二人居れば、一つの楽曲を 二人で別々の楽器で演奏するのだから何らかの断絶やずれが生じるのが当たり前の現実である。しかし此のずれに向き合う事が嘲笑的にも肯定的に も狂気とされる不可解を認めなければならない。惑星や彗星が楕円軌道を描けば、素粒子の確率論的振る舞いも楕円が関係するらしいし、男女、主 客、…それは兎も角、此のずれをどちらか一方に肩入れすればもう片方がずれの容疑者に丁稚上げられるが元より一方に肩入れする必然性や原理は 皆無である以上、そのドラムとベースのずれは開放された出入口となって過去のブログで小生が書いたロック史の根源が往来する可能性を召喚する から…端的に政治的一般論を相対化し切り崩すための緒戦にはなり得る… 話は変わるが過去のブログを読むと本当にろくなことが書いていない現実に辟易する。
そして此のずれの効能に相乗して音楽を本格するのはダンダダンダダンと云うドラムの打音であって、なまじ音楽的良識のある人だと耳を背けたく なるほどえげつなく、どぎつく、本質だ本質だ唯本質だとばかりに巷間の生温い美学を蹴散らして己の中のみを発芽した直接性を露わにしたのであ った…太鼓はこう叩くべきだという決然たる意志に基づく此の直接性は、眼前の太鼓を叩くと云う現実が眼前の敵を叩くという現実に直結している と云う事である。しかも音楽を内面化しやすい政治的武力や威力に其の音を転嫁しない、飽くまでも眼前の太鼓を叩く事こそが即ち音楽 であると云う現実を全うするからこそ眼前の敵を叩き得るロックの先鋭なのである。此れは、所詮音楽の中に踏み止まるしかないという差別意識を 内包した上から目線を想定した社会的諦念隷属などではない。目の前に太鼓があり、太鼓とは即自的に何の関わりも無い自分が居て、其の自分が其 の太鼓を叩く事こそがまず狂気であり、其の狂気が、眼前の敵を叩くと云う我ならざる狂気と直結すると云う狂気であって、此の狂気は社会生活に 支障をきたすような、言うなれば社会との対称性に回収されるような「ありふれた狂気」ではなく、殆ど日常生活そのものである狂気と云える。本質だ本質だと叩いているからと云って、いわゆる、タイトに削ぎ落とされた無駄の無いドラムの音と云った品のいいものではなく、むしろ語弊を恐 れず云えば「無駄でしかないドラムの音」であって、賑やかな野生の音である。野性と云ってもアフリカンな、人間と自然との文化的安逸関係が前提ではなく、近代特有の、守ってくれるものがない、剥き出しの、「精神の野生」である…従って常軌を逸していると云わざるを得ない。ロックは 近代の産物であるゆえに…。ジゲンオルガンでは簡素に侘びた二畳敷きのようなドラムセッティングからして、あれこれの小太鼓や金物の類を小気味よく叩き分けるといったさもしい目移りを予め自らに禁止する意志が剥き出しで、ノリのいい裏拍を巧みに繰り出すそつのなさに端から無頓着、そ れこそ眼前の太鼓への執拗且つ残忍な虐待=事件であるかのような、即物的な、酸鼻に堪えぬえげつなさであるが、精神の野生は至って明るく、屈託無く開け ている飄逸であって…そう、誰でも無差別に此の精神の野生に呼び込まんとする開かれた笑い…だからこそ、心胆寒からしめるに足るのである。太古の記憶に浸された肉体の野性を呼び込むから安心してノれる裏のリズムに頓着せず、徒に前歯を剝き出す表のリズムに開き直るから不安で致し方ない精神の野性である…ガレージパンクの心であった。他バ ンドのドラムが、リズムの精確や裏拍の巧さや手数の多さ、滑らかさ等と云った幼稚な美意識(そろっている=きれい)に汲々しながらそうした公認の美意識を逃げ口上にして自己保身に瞞着する小奇麗にまとまっているのが、ジゲンオルガンを聴くと改めて批判の俎上に上るだろう。一生懸命 ドラムを叩いているように見えて音量は思ったほどでもなかったのは小生の耳がおかしくなっているのかもしれないがドラマーが太鼓を叩く事でド ラマーが太鼓に叩かれる、やり返されると云う惨劇の滑稽の為せる技なのかもしれない。しかし、此の滑稽を笑う者はすかさず次のように問われてもいる事も自戒せねばなるまい…「ならば君は一体何を叩いていると云うのだね」…太鼓を叩く者こそが太鼓に叩かれるのであって、太鼓も叩けぬ者が一体何を叩けるというのか、眼前の太鼓と向き合えない者が一体何と向き合えると云うのか、人間か、社会か、太鼓も叩けずに社会と通用していると夢想する得意顔のどちらが滑稽なのか。こうした一連の現実の露呈が、眼前の敵(=無自覚な自分や他者、社会諸々に通用する言説…)を叩く、の謂いでもあろう。いずれにせよ楽器が居て私が居て私が楽器を弾くと媒介ならざ る狂気が日常の振幅に共鳴する…其の倍音を増幅するロック演者は猶更ささやかなる狂気に過敏でなければなるまい。これから一体どうなるのか、 未来が気になるからもっと聴きたくなる、開き切った、あるいは開き直った限界が出発点になる音であった。漱石が渇望する処の「非人情」の音楽であった。
メガホンズ(東京)…大人の汚さを言葉で直情的に訴えるにしても其の音楽性がいわゆる大文字のROCK SCHOOLをそつなく卒業したが如き、即ち「大人の 汚さ」が積み上げてきた保守性に甘んじているために主張の先鋭性が台無しになっているのは否めなかった…即ち、「どこに出しても恥ずかしくない音」、誰が聴いても上手いと思わせる、音楽への疑念を清潔に払拭した音であった。しかし思想の純粋性はよいとして大人 の汚さ云々と云う、政治状況の複雑性を意識的に捨象した単純な主張の有効性への疑念に起因する方法論上の小異に拘泥して、時局に対峙するため の大同を見誤る余裕はいくら無責任な聴衆にも許されない、それくらい時局は翼賛体制に向けて進んでいる事を思えばこそ…ジゲンオルガンとは対照的にドラムの音は、涼しい顔で次次と様々な太鼓を撫で触るような優しいバチ捌きでいながらそれぞれの音がしっかりした爆音となって粒立って ノリよくリズムが裏走るのは一体どういう仕掛けなのか、と思った。アムロのいじけた内向的反抗や、カミーユの無軌道な支離滅裂を学ばれたし。 しかしながら結果として、とっても上手な演奏ではあった…飼い馴らされたロックスクールの枠組みから出ていない、無自覚に教育された音ながら ロックスクール卒業の音自体も流通に資する以上それなりのコクを備えているため味わい深かった。しかし、これからどうなるのか、その先が気に なる音ではなかった。
ちなみに岩国らしく黒人さんの御客も聴きに来ており…小生は彼が如何なる反応を示すか注視していたが…めがほんずやメガホンズにはノリノリで楽しんでいるように見受けられたがジゲンオルガン に対してはポカンとして何が起こっているのか理解できない感を表情に出しておられた。ライブ終了後歓談…その後、行きつけの居酒屋が炎上したとのことで別の居酒屋たぬ吉へ…茄子の俊郎、磯の松原、といった雅な品書きに脱帽…忘れ得ぬ店となり…酔いどれた福の神が、出された親子丼をぐちゃくしゃにこぼして眠りこけるどうしようもなさなので店主に追い出される 午前2時の一幕…ホテルへ帰る千鳥足…酔っ払った米兵たちがあちこちで大声を上げる荒んだ岩国の夜はもうすぐ明ける。
低調はこうべを垂れて…
さまざまな連関を思えば徒にきつく縛り合うのみで事態は複雑なまま既成事実だけが権力化する自堕落の許容を強要されるのは一旦棚に上げるとして…それにしてもおよそ人間にとって最も重要な尊厳や人権、権利といったものが蹂躙される過程で、そうした事態が、まるで取るに足らぬ事であるかのような、そうした事に異議を立てる事がまるで詰まらぬ事にいちいち目くじら立てていると見なされる事がいつの間にか大勢・体制を占めてしまっているようなそれこそ深刻な事態が現実となりつつある薄気味悪さに毎日気が狂いそうだ…躍起になって異議を唱えていると、何故こんな事でそんなに怒っているのか分からないとばかりのぽかんとしたアホ面を示されて幼稚な宥和に利用される集団アイドル歌謡のアニメ声で巧みに宥めすかされながら、抵抗の動きなんかダサい、おとなしく死刑台に登る事こそが絆を大事にする日本人の在り方だとばかりに…こうした深刻な事態がその後齎すであろう歴史的過程について、論理的段階で以て自ら予め一段、また一段と推論を進めていく、という単純な思考過程すらもままならない意志の薄弱の方がむしろ大勢・体制を占めるという…その場限りの刺激に消費される一発ネタばかりしか摂取できずろくに文章も読めない、政治的意味での文盲がほとんどの国民…まかり間違って自分が政治的理由で国家から死刑にされる時は最期の最期まで見苦しくとことん抵抗するつもりである…
漫然とテレビニュースを見ていると…シールズも参加している安保反対シンポジウムで思想家柄谷行人氏が講演…彼自身の言葉は其のニュースで報じられなかったがアナウンサーが要約するには…GHQからの押しつけ憲法であっても日本人は9条を守って自分らの物としてきた、戦争が可能になる今回の安保法制に反対するという主張…いわゆる従来の護憲派の意見に留まるものであった…彼が本当はどんな事を語ったのか、小生はその場にいないしニュースでも封じられているため分からないが…各論の相違は兎も角として其の思想の水準において此の国における最高の知性の一人である柄谷氏が安保反対護憲系運動にささやかながら実質的に参加しているのを見て…不謹慎ながら…戦艦大和の最期、を連想したのであった。戦争末期、米軍による沖縄陥落間近で制空権制海権も失い資源も底をついて最早無駄と知りながら連合艦隊最強を謳って建造された此のものの温存など許されようも無く出撃させるしかなかった戦艦大和と、其の最期に至る全ての事情に通底する悲壮感、を先取り、連想してしまったのであった…資本と市場と云う、人間が社会に導入した「人工の自然」の成り行きに従属する被虐趣味に付け込む政治の相乗と、それら以外に立脚しうる人間独自の思想とでも云うべきものの全面的放棄を無自覚に盛り上げるポピュリズム右翼が嘲笑的に一方的に規定するリベラル勢力、などといった規定に収容されるはずもない、もっと出鱈目に広大野蛮高潔なる知性の本源の最中に身を置いて仕事をする柄谷氏を、リベラル勢力の戦艦大和、などに矮小化するつもりは小生とて毛頭皆無であるにしても…時局は、もう、旧態既成リベラルとの混同を懸念する余裕すらないほど、つまり柄谷氏が旧態既成リベラルと混同されることを気に掛ける余裕もなく旧態既成リベラルの集会に公式に参加せざるを得ない程に、深刻の度を増している、ということで…無力で無為な軍歌漂う悲壮感に依存するにはまだ早いと小生とて思いたい。小生の、上記の直観は浅はかだったと思いたい。しかし…
アニメ夜話か…
年頭の殺伐
元旦…一瞥するだにいつまで続くか一抹の不安は意地悪くよぎる座卓のおせち料理の華やぎを前に所在なく手に取った新聞を眺めるとすかさずえげつなく身も蓋も無い現実を見せつける一行に遭遇すれば陰惨な薄ら寒さを禁じ得ず(以上、1/3記述。中断)
以下、1/10記述。
頂き物の…美作落合は西口屋の舟形羊羹が旨過ぎる…羊羹を前にしてまず億劫なのは一竿の切り分け作業なのだが西口屋の舟形羊羹は予め一口サイズ、しかも包み紙を折り畳んだ舟形に羊羹を流し込んでいる工夫が憎らしく…包み紙を開けば其のまま手を汚す事無く中味を食せる心遣いも去る事ながら表面はカリリと歯応えする砂糖の結晶が意表を衝くのも間もなく(表面の風情はそれこそ…白い砂糖結晶と黒い羊羹がざんぐり混ざったまま固まっており…さながら…温かい光に溶けつつある雪と泥が生で混じった春先のあめゆじゅとてちてけんじゃ)、しっとりした羊羹の深海が船底までどっしり重厚でいながら甘味は飽くまでもホロロロしている爽快だから味わい飽きない…心憎い菓子であるゆえ此処に絶賛したい。本来ならば日曜夕刻に向けて如何ともし難く嵩じる、乳牛を有刺鉄線でギチギチに締め縛りたいような無性にむしゃくしゃする殺伐のままに冒頭するはずが…ぎり絞られる空腹に耐え兼ねて一個、舟形羊羹を頂いたものだから刹那とは言え凝り固まった殺伐は氷解したのであった…其の氷解ののままに思い出ずるは…年末…御年配の方方の熱気で慌ただしいホームセンター付設の精米機小屋にて目撃したのは小屋から出られず困り顔の熟年女性の顔と、小屋前に待ち構える数十匹の雀たち、と云う構図…雀たちは能天気にチュンチュラしながら玄米を精米した後に出て来る何らかのおこぼれを目ざとく狙っているらしいという、挑戦的なのが微笑ましい暖冬の図なのであった…劇的ビフォーアフターの面白さの枢要は何と云ってもビフォーの、庶民の住まいの救い難い惨状の赤裸々、とりわけ基礎部分の常軌を逸した、想像を超えた駄目さ、なのであるが今回のビフォーアフターでは基礎部分が割愛されているのか拍子抜けである…それは兎も角形振り構わず堪え難く茶会を開きたい、と云う抑圧し難い欲動に突き上げられ…グツングツンと欲望の動悸の溶岩が粘っこい抑圧の膜を噴き貫き揚がって…一瞬垣間見たに過ぎないにも関わらず宮大工タンジ氏の仕事ぶりには溜息が出る…何よりも刃物がよく切れている…木工には何よりも刃物の切れが先立ち、刃物には研ぎと砥石が先立って…木と鉄の石を束ねる人間の業…同世代の人が社会的地位の中でしっかり成果を出しているのを最近よく目にする度に薄ら寒い、煙草の火を心臓にジュッと押し付けられたような焦燥を禁じえない落魄を感ずる…政治や世間のことを小賢しくとやかく云いせっつくのが空しくなる…愚劣極まる政治状況を腑分けする言説に浮つきながらとことんまみれるのが己の性分だとしても明日からこそ、きっちり自分の為すべき事に正しくひたむきに対峙したい年頭の辞。生活苦、人生苦に根差した殺伐したむしゃくしゃをおめおめと言い訳にする惨めに甘んじている場合ではない。と云っている端からまたぞろ胸からむしゃくしゃがこみ上げてイラツキが滅茶苦茶に握り締める何物も持たずに血を固くしながら胸に突き上げて来る…
唐突ですが小生の日本焼物紀行に遊びに来てくれたシメジ氏、この場を借りて御礼申し上げます。
ビフォーアフター見ていたらうっかり真田丸を見そびれてしまった。初回はどうせ詰まらない子役がはびこるから視るに値しないだろうと思いながら慌てて最後の5分を視るともう堺氏が出演しており後悔しきりである…当代一の俳優堺氏が真田幸村を演じ、当然同時代人として信長、秀吉、家康のド派手な桃山三役が出揃うのだから面白くないわけがないだろうが…脇を固める役者陣の薄さが気にかかるが兎に角初回から子役を出しゃばらせないのは英断である。再度イラツキが嵩じたのは遅れて来た専制帝国主義国家のロシアと中国の所業は当面続くとして問題のアメリカ…まともな政治理念=基本的人権を保持した穏健オバマ氏の次の大統領が共和党の不動産成金トランプ氏如きになればあの御仁には政治理念=基本的人権と云う意識は皆無で金の原理しか知らないのだろうからロシアや中国にとっては寧ろ御しやすい愚昧大統領となろう…まかり間違ってポピュリズム大衆の近視眼的愚劣、目先の利益と間近な脅威に思慮なく浮足立つ愚昧が彼を大統領に押し上げた暁には中国やロシアからあの手この手で国債やら投資やらで金漬けにされ、アメリカは対外政策に消極的な静観主義を決め込む…そうなればたとえ消極的な意味であってもロシア‐中国‐アメリカと云う超大国による「悪の枢軸」が形成され、日米同盟が形骸化した時、尖閣を廻って此の国としても国防にあたって腹を括らざるを得ない時が近々に到来するだろう…そうした外来の危機の趨勢に乗じて付け込むように此の国の純正全体主義もまた国家=企業などあらゆるレベルで補完に近似するだろう…各地でナショナリズムと領土、民族紛争のキリがなくなるであろう…此の見解が取りこし苦労に済む事を祈る…次の土曜日の再放送でこそ、糞面白そうな真田丸を何としても視聴したい。堺氏が小さい肩幅を前後に振ってしかめ面して出て来るだけで目が釘付けになる…息が浅い…どぎつく頭が冴えて今夜も眠れそうにない…
今年の行楽計画
花見
月見
極侘びの茶会を開く、寛いだ雰囲気で…
京都の古本市で和本を入手(本草学、園芸関係)
奈良旅行(橿原考古学博物館で研究紀要、発掘報告書を入手、その他…)
来年は小生独自の創意の様式で鏡餅を我が家にも設えたい。
